れいぞうこのなつやすみ  
       村上しいこ作  長谷川義史絵

              2006.6.9  PHP研究所
















『れいぞうこのなつやすみ』を読む
 
 本作の<おもしろさ>は「しゃべくり漫才」のそれになる。テンポのある、スピーディな語り口(「いれてるや ないけ」と言う大阪弁には違和感あり)の「おもしろさ」だろう。そのテンポに追われて物語のストーリーがどこかへ飛んでし
まう。以下にストーリを追いかけてみる。
 ある日、冷蔵庫が故障する。(日常性?)「たからくじに、ストッキング。あな
いなもん、いれてるから、れいぞうこ、おこったんや」
(この庶民感覚がおかしい。)
 そして、冷蔵庫がしゃべりはじめる。プールへ行きたいという。冷蔵庫は女の子だった。(このあたりの発想はおもしろいが、ストーリーに十分に生かされていない。)
 入口の係りのおじさんが冷蔵庫の入場を許可するかどうかを「そうだん」に行ってる(皮肉?)間に一家は入場敢行。
 冷蔵庫が、泳げない「ぼく」をいじめる「いじめっこ」を追いかけて「たべてしまった」。 冷蔵庫からでてきた「いじめっこ」は「オバケ!」と叫んで逃げて行った。その間になんと、ぼくは「およいでいた」。
 家に戻った冷蔵庫は「ひやけが、いたい」と言う。
 その夜、冷蔵庫の寝言を聞いた。「やっぱり なつは、プールや・・・」。
 三日目に「いつもの しずかな れいぞうこに もどった。」
 冷蔵庫の後ろに残っている「しっぽ」をひっぱれば「れいぞこは、また しゃ
べりだすはず。」
「およげるように なった おかえしに、こんどは ぼくが、れいぞうこに、なにか おしえて あげたいな。/たのしいこと、たくさん。」(「また別の機会に登場するか」)
 パワーあふれる「ぼくたち一家」と冷蔵庫の「掛け合い漫才」的おかしさを
長谷川の挿絵が一層増幅してくれる。
「読み物」の<おもしろさ>はあるが、とりたてての<新しさ>はない。
 これが今の読者に迎えられる幼年物語なのか。
 諸子の感想にまた期待したい。
2010・2・20
 大藤 幹夫

上方まんざい

 家電の中でも、長い間見るテレビでもだれも見ないときや夜ねるときは消す。エアコンも、冬でも部屋にだれ持てなければ消す。
 しかし、れいぞうこは24時間、1分1秒たりとも止まらずに動いている。「これでだいじょうぶなのかな」と誰しも思ったことがあるに違いない。
 そのれいぞうこがストライキを起こして「自分もたまには休んでプールに行きたい」という。
 なかなか取り上げた素材がよかったと思う。子どももほんとうにそうだなと共感しそうだ。
 だから、冷蔵庫に目、鼻、口ができたり、尻尾が生えてしゃべったり動き出しても違和感が少ない。
 また、このとうちゃんとかあちゃんのかけ合いが面白い。大阪弁の漫才の何ともいえない面白さが如実に出ている。また、その言葉の中身が等身大である。(ストッキングや宝くじを冷蔵庫に入れるなど)大木こだま、ひびきの漫才に出てくる大阪のおばちゃんそのものである。
 冷蔵庫は女の子であるというのも意表をついていた。これも大阪的発想だからグロにならないで、おもろいという範疇ですんでいる。
 プールへ行ったり、いたずらっ子を食べてしまうというのはそれほど新しい発想でもないが子どもの読者には楽しんで読める部分だろう。
 少し、はちゃめちゃな一部大人の感覚も混入したナンセンス童話だが、エンタメ系の幼年童話としてこのような作品もあっても良いのではないか。
 作者が大阪生まれではないので大阪弁の一部に少し疑問があるところもあった。
(信原和夫)

『れいぞうこのなつやすみ』(村上しいこ)

 
 なんともまあ元気のいい本であること。一昔前に今東光原作勝新太郎主演で、八尾を舞台にした人気映画があったが、その映画を観る思いがした。その映画は「あほんだら!」「どついたろか」といった威勢がいいというか、眉をしかめるセリフがある一方、温かい下町人情が印象に残る。この「れいぞうこのなつやすみ」もそれに近い。
 ところでこの「れいぞうこのなつやすみ」から関西弁(正確には大阪ことばに近い)を抜いて共通語に変えたら、おそらくおもしろさはなくなるだろう。人や世間の本質にせまる笑いとばしではない現今の関西系TVお笑い番組みたいになるに違いない。
 冷蔵庫を擬人化、しかも女にみたてるとうアイデアはおもしろいから、もう一歩つっこんで批判精神がほしい。長谷川の絵は生命力にあふれるだけにこのペアの今後を期待したい。
(向川幹雄)

ナンセンスな幼年向け児童文学『れいぞうこのなつやすみ』

 作者は、1969年三重県生まれの41歳(2010年)。2004年『かめきちのおまかせ自由研究』(岩崎書店)で第37回日本児童文学者協会新人賞を受賞し、2006年『れいぞうこのなつやすみ』(PHP研究所)で第17回ひろすけ童話賞を受ける。
『れいぞうこのなつやすみ』は、ひろすけの名を冠した文学賞を受賞しているが、作品は、廣介童話とは正反対のナンセンス童話である。幼年向け児童文学でナンセンスの佳作は、少ないように思うが、この作品は、ナンセンス作品として最後までちゃんと読めた。
 冒頭は、「いちばん はじめに、はっけんしたのは、おとうちゃんだった。」。小説の書き出しである。ふつうなら、たとえば、「夏のある日、最初におとうちゃんが冷蔵庫の秘密を発見した。」などと書くところ。いきなり、何事かと緊迫感をもって読者をむりやり引きずりこむ書き方である。いわゆるツカミの巧みさは、かなり読者を意識している。 気持を描かない。省略して行動で示すのが、文章の特徴の一つだろうか。冷蔵庫が冷えてないときいて、「慌てて」僕は走る、と読者はイメージする。「慌てて」と書いてあるわけでもないのに、読者がそう思うのは、おとうちゃんの台詞「なんにもひえてないで」からすぐに、「ぼくは、はしった。」と続くからである。「慌てて」を読者自らにイメージさせることで、読者を絵空事の世界に参加させ、リアリティを感じさせるのが、村上のナンセンスを読ませるテクニックのひとつである。

 おとうちゃんは、いらんもん入れるから冷蔵庫が怒ったという。ふざけて言ったのかもしれないが、正鵠を射ている。これに対し、おかあちゃんは、きわめて現実的で、「じゅみょうなんや、ぼろいんや」(14頁)とこれも、正しいことをいう。おとうちゃんのいうことも、おかあちゃんのいうことも、どちらも正しい。女性は現実的で、男性はロマンチスト(少なくとも現実から離れた考え方ができる)とまでいうのもどうかと思うが、といって全くそんなことを思わないではない。同一次元で、二人は正しいとはいえないにしても、冷蔵庫が冷えない理由としては、どちらも正しい。おかあちゃんの正しさしか認めない人間に、おとうちゃんのいうことも正しいと主張するために、このナンセンス童話がある。
 おかあちゃんは、冷蔵庫を化物とみたとき、食べんといて、食べるのはこの人だけにとおとうちゃんを指す。ユーモアなのか、本気なのかと、考えてはいけない。考えると面白くなくなる。おかあちゃんは、自分と子どもの安全を考える点で、本能的なのである。見栄や形式よりも実質をとる関西(大阪?)の発想がうかがえる。「なんでわしやねん」というおとうちゃんもまた同様である。
 冷蔵庫が夏休みをとってプールへ行ってみたい、という展開は、なかなか予想できない。この意外性が、作品の要である。さらに、冷蔵庫の声は、子どもの声でもあり、読者の共感をよぶところが、成功している理由でもある。
 ほかにも魅力はある。「れいぞう子」だから女の子だ、と洒落のめすところである。大阪の(関西の?)洒落言葉は、昔から知られている。さらに、おかあちゃんの水着が小さくてはいらないはずが、ちょうどよかったというオチ。このへんは、手垢のついたお笑いのギャクで新鮮さに欠ける。
 冷蔵庫の肩をもつおかあちゃん。冷蔵庫は、家族の一員であり、家族のためにプールの係員に反撃する。冷蔵庫も、およげないぼくが、いじめっこにプールに落とされると、いじめっこをパックンと食べてしまう。
 冷蔵庫が日焼けで、働きはじめるのを3日まってくれというと、おかあちゃんは認めるのも、家族としての配慮だろう。ロボットに名前を付ける日本人の感性から生まれたような話。機械は人間に奉仕だけするものではなく、時には、対等の扱いをするようなものとして感じられる。あちこちに神様の存在を感じてきた日本人の感性がバックにあるだろう。
 それにしても、この話を、関西弁ではなく、共通語で書くことは可能なのだろうか。
(藤本芳則)

;れいぞうこのなつやすみ

 
生まれも育ちも河内人間のわたしが、 幼いときに聞いていた言葉がとびかっています。 今現在、こんな言葉遣いはめったにみられません。 ところどころで破調のある河内弁ですけれど、よくこなれています。 この言葉でしか表現できなかった物語なのか、は疑問です。 読者サービスがわたしににはひっかかりました。 お母ちゃんが下着のカタログをみている、なんて、 必要なのでしょうか? 夏の楽しみのいちばんは夏休み、と一回であてるのにも? ここは昔話様に三回くらい問答してみたらなどと思いました。 はちゃめちゃ元気なお話でした。 浜田広介童話賞受賞、には違和感があります。 ちょっと驚きでした。 絵はまるまる、花まるの合格です。 (村上 裕子)