評価  ☆☆☆
感動   ☆☆
                         面白さ ☆☆☆

えんの松原   伊藤 遊      福音館書店  2001.5.1 初版

お話


 13歳の音羽は内裏の温明殿で女装で下働きをしている少年であった。
 ある日,殿舎のなかで人の気配がするので禁断の場所に入り、帝位継承者、東宮の憲平親王に出会う。二人はお互いに惹かれるものを感じる。
 憲平親王は夜毎に寝所に現れる怨霊に苦しめられ、宮中のものは皆、親王は怨霊に取り殺されるのではないかと思っていた。
 音羽は以前飼っていた雀の風貴を探しに行ったとき、えんの松原で不気味な烏と怨霊に出会う。
 東宮は日一日と衰弱し、祈祷師の阿闇梨の力も及ばない。
 音羽はえんの松原に出かけて、東宮に取り付いた怨霊は阿闇梨の祈祷によって生まれるはずだったもう一人の憲平、女の子の霊だということを知る。
 音羽は憲平といっしょにえんの松原に出かけ、もう一人の少女、憲平の霊を抱くことによって少女の霊は天に帰り、憲平は怨霊から解放される。


評価・感想

 今、流行の平安時代の陰陽師、阿部清明と同じ平安の貴族と怨霊を描いた作品である。
 歴史ものであるが(東宮はのちの実在の冷泉天皇)当時、信じられていた怨霊を実在のものとして描いていることでファンタジーになっているというべきであろうか。
 当時の権謀渦巻く宮中にあって菅原道真の例にもあるように、陥れられ恨みを持つものは数多く、疫病、飢饉、都の荒廃など人々は怨霊のせいにするものは数多くあった。
 
 まず、文体について。
 格調高いしっかりとした語り口で、当時の宮中の様子、女官、役人などの日常の行動、役割り、建物の様子など細部にわたってきちんと書かれている。並々ならぬ筆力というべきだろう。
 しかし、不満もある。細部まで丁寧に書かれているようで全体像がほとんどつかめない。
 建物の配置、その形、宮中の人の動き、都の様子、などほとんどイメージできないのだ。
 温明殿の一部、東宮の寝所、それに隣接する形で、うっそうと茂る木々で闇をつくっているえんの松原、この閉じられた狭い世界での出来事が克明に描かれていく。
 怨霊が跋扈する様子に、リアリティを与えるための工夫であるかもしれないが、この時代を知らない子ども達が読む物語としてはどうだろうか。
 私は閉ざされた宇宙船の中で人間を喰らい尽くそうとする宇宙生命体を描いた映画「エイリアン」を思い出した。
 怨霊は天に消え、エイリアンは宇宙空間に消えた。
 
 次はテーマについて
 作者は番小屋の望楼から、俯瞰することによって明るく輝く宮中と、それに隣接した、深い闇に閉ざされたえんの松原を対比させている。片方は勝者の世界、片方は破れて怨念だけがうごめく闇の世界である。
 この世界について作者は
「だれかが、自分の思いを通せば、だれかの思いが通らない」 367P
と、書いている。従って、押しのけられたものたちが死後怨霊となってこの世に仇をなす。と、なるわけだ。
 しかし、憲平親王に取り付いた怨霊は祈祷によって憲平が男に生まれたため、生まれてくるはずだった女の子の霊ということになっている。
 これは作者の計算違いではないか。
 これがもう一人の自分といえるだろうか。また、このフィクションの世界の中でさえ、リアリティを持って読者を納得させることができるのだろうか。
 最後に、音羽と憲平はこのような会話を交わす。
「怨霊のいない世というのは、本当にいい世の中なんだろうか」 381P
「うまくやるやつがいて、そのあおりを食うものがいる。その仕組みが変わらない限り怨霊がいなくなるとは思えない。それなのに怨霊がいなくなったら、それはいないのではなく、だれにも見えなくなっただけじゃあないか」 381P
 怨霊を抱きしめる、理解し、同情してやることによって怨霊は消える。
 そして、えんの松原の木を切らずに闇の世界を残す。
 二人の少年、憲平は怨霊が消え、自分で体を動かすことの心地よさを知り宮中へ帰る。音羽は少年の姿にかえり、保護者の伴内侍と田舎で百姓をするために出発する。
 これが物語の結末である。
 
 私の感想としては「怨霊を見えるようにしておくために、えんの松原を残す」のではなく、どうして怨霊を作らない仕組みをつくっていこうという発想にならなかったのかふしぎである。特に、憲平は東宮であり、いずれ帝位を継ぐという設定になっているにもかかわらず。
 バブル崩壊後の今の社会を見て、そのような改革は不可能であり、たとえ言ったところで、しらけるだけ、お題目に過ぎないというのが作者の本音であろうか。
 あるいはそれを考えさせるのがそもそも作者の意図したことだろうか。
 子ども達に読ませる児童文学としては疑問が残るというのが私の結論である。
 少なくとも、感動する場面は全くなかったといってよい。