戦後日本 私学の自由が狭い理由      2008/11/28

 戦後日本の教育制度改革に大きく関わった人物として、ゴードン・T・ボウルズというアメリカ人がいる。
 日本で生まれ、ハイスクール時代まで日本で育った。1920年代の中頃2年間、第一高等学校で英語を教えた。日本語は日本人以上。ハーバード大学で文化人類学を教えていたが、戦時中に対日占領政策の立案に携わるようになる。

 ボウルズは、日本を占領した軍政下の教育政策立案にたずさわり、1945年春から「降伏後の日本帝国の軍政・軍国主義を廃止し、そして民主主義的進行を強化する諸方策・教育制度」を執筆し、9月に提出する。

その中に

D私立学校の拡大と政府統制の地方分権化
 私立教育機関の数は、継続的に増加されるべきであり、政府統制は、縮小されるべきであり、また、おそらく地方分権化されるべきである。軍政は、広範な多様性をもった私立教育機関を奨励するよう努力すべきである。その私立教育機関の目標は、新しい教育方法、教材の実験を行い、そして、自由主義的そして国際的な精神をもった指導者を生み出す教育を促進することである。

という部分がある。
 つまり、多様な私立教育機関が、多様な教育を生み出し、教育開発のパイオニアとなることを想定している。

 ボウルズはその後1946年春に、日本に教育使節団の一員としてやっ来る。この教育使節団は、その後の日本の教育改革の骨格を作っている。使節団には、日本にも日本教育にも精通した人間がボウルズ以外にいないので、ボウルズは、実務面での中心人物である。ボウルズは、使節団報告書すべてに目を通しチェック。さらに二ヶ月日本に滞在し報告書の具体的実施に関してCIE教育課に助言している。

 ところが、その後実際にできた学校教育法(1947)は、私学に対して、大きな制約を加えた。
1 学校の設立者を、国、地方公共団体、学校法人に限定して、私人・団体による自由な設立を困難なものにした。
2 私学も、学校教育法の傘の下に入れた。学校教育法は、教育の目的と教科まで定めているため、私学のカリキュラムも文部大臣の管轄下に入った。検定教科書の使用を決められた。校内の役職と運営方法にまで法律が介入している。
3 私立学校法(1949)は、設立や管理に関したことを定めるのみで、教育法と教科の自由に言及しない。

 これでは、私学の意義が失われるではないか、という議論がなぜ巻き起こらなかったのか不思議に思っている。学校教育法は、戦前に比べれば画期的なものだったので、その問題点が当時は浮き上がらなかったものと思われる。

 学校教育法は、1947年2月になって4月からの六・三制施行がきまり、法的基盤を作るためにかろうじて間に合わせたものである。専門家たちの委員会による検討も、国会での検討もほとんど経ないまま、文部官僚(のちに、タカ派で知られる内藤誉三郎)のほぼ原案通りに、成立する。教育基本法がかなりの練り上げを経ているのに比べ、文部省の視点しかない法律であると言える。

 この学校教育法の成立によって、日本の私学の教育内容は、公立学校と同じ制約が加えられることになった。別な教育法の探求は、法の目を盗んで、草の根的に細々となされることになる。