なんのためのテストか
 (信濃毎日新聞2003年12月1日朝刊 「コンパス」欄)


 私の私塾に来ていた、ある生徒のことである。
 彼が、中学2年生のときのことだった。「もうすぐテストなんだけど、数学がわかんねえ」と教科書を持ってきた。
 彼は、まじめで善良で、いい笑顔をしている。とくにハメをはずすこともないし、とくに才能をきらめかせることもない。勉強には劣等感を持っている。
 そうひどい成績でもないのだが、「オレって、アタマ悪いから」と彼はよく言う。
 中学校の成績付けシステム全体が教育上の大問題をはらんでいる。教育は、「その子の発達に何が必要か」から出発すべきであり、一律基準をどれだけ達成したかは、ごく補助的なものだ。
 などと、私はぶつぶつ言うものの、現実に、成績が悪いと本人の立場がつらくなることは知っている。生徒に点数を求められれば、できるだけのことをする。
 彼に問題を解いてもらう。学校の授業からは、なにも修得していない。
 きちんとステップを踏んで教えれば、彼はわかる。私は、教科書にない部分を補い、本質をはずしている応用問題を入念に避け、「自分で解ける。これでいいのだ」という感覚を掴んでもらう。彼もできる気になってくる。
 試験前には、「まあ、基本は大丈夫だな」というところに来る。60点くらい取るだろう。
 ところが、試験が終わって、彼が浮かぬ顔で見せてくれた答案は、40点台である。だいたい基本はわかっているのだが、ぼろぼろとミスをして、点になっていない。たぶん、テストの時の雰囲気に呑まれてしまったのだと思う。
 私が「大丈夫だよ、きみはちゃんとわかっているよ。ほら、こことここがちゃんとできているじゃないか」と言っても、「オレって勉強だめだあ」に逆もどりする。それもそうだ、言葉より点数のほうが重みがある。
 なんのためにテストをやっているのだ、と思う。テストの点が悪いので「できない」と思いこみ、ますます学ばなくなる子どもたちがたくさんいる。その数は「できる」子たちと同数か、それ以上だ。
 このまま彼が大人になれば、仕事と家庭を大事にし、特に野心や才能をきらめかせることもなく、町の片隅で生きていくだろう。われわれの社会は、実は、そういう人たちで維持されているのではないだろうか。それが、劣等感を持つようになるのは、どこか間違っている。
 義務教育は、民主社会を維持するために生じている。民主社会を成り立たせるには、人々に、ある程度の知識・教養と、他者の意見を聴き、自分の意見を言う力が必要だ。なによりも、お互いを尊重することが必要だ。
 しかし、試験と成績で追い立ててるのは、「きみ自身の野心や恐怖を最優先させなさい」と言っているわけだから、若者を利己的な方向に追いやるだろう。
 「思いやり」「公共心」などの言葉を、教育関係者からよく聞く。
「まず、試験や内申で生徒を脅すことをやめてからの話しだよなあ」
と私は思う。