変えよう!日本の学校システム  
         ――教育に競争はいらない    古山明男著
平凡社 1680円(税込)

目次

第1部 行き詰まった日本の教育

 不登校は制度公害

 入試制度の一人歩き

 個性尊重の教育はできるのか

第2部 中央集権無責任体制

 中央集権にして無責任

 手足をもがれた教育委員会

 院政体制を敷く文部科学省

 教師の自主性が発揮されない学校

 意見を言えない保護者・住民

 「教育基本法の精神」の精神

第3部 成熟社会のための教育システム

 学校を作る自由

 イギリス型かフィンランド型か

 教育費全面無償への道

 教育主権在民の確立を



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本文より抜粋

日本の教育行政システムでは、どこが責任を負って判断し対応するのか、きちんと決まっていない。責任者は、学校なのか、教育委員会なのか。はたまた、自治体なのか、文科省なのか。 (中央集権にして無責任)


日本の教育は、自分たちで問題を見つけて自分たちで解決するシステムができていないのである。問題点がなかなか見つからないし、見つかったときは社会問題になるほどである。 (まえがき)


もし、アメリカやヨーロッパで日本の不登校問題と同じようなことが起こったらどうなるだろうか。たちまち、民間に新しい学校がたくさんできて、子どもたちを吸収していくだろう。新しい教育運動がたくさん起こるだろう。公立学校の改革運動も起こるだろう。訴訟が頻発するであろう。このような柔軟な動きがすぐに起こるから、問題が小さいうちに解決されていくのである。 (制度が違う国では発生しない)


 『地教行法』は『教育基本法』第10条に違反している。教育が国民に対して責任を取る道を閉ざしたのだから、明確な違反である。その視点が確立していたら、日本の教育がここまで追い詰められることはなかったであろう。 (田中耕太郎と教育権独立構想)


親や住民が求めているのは、上司や旗の前に直立する先生ではなく、子どもにちゃんと向かい合ってくれる先生である。 (学校自治)


教育の発展のためには、クリエイティブな教育者が、賛同する教師と父母・生徒を集めて学校を作れることが、とても大事である。これは、クリエイティブな企業ができていくのと同じである。はじめから方向が一致する人間が集まっているから、よいと思ったことをどんどんやれる。 (学校を作る自由)


ゆとり教育が言われる。個性を重視した教育が言われる。しかし、小中高校でゆとりがない最大の理由は競争入試制度があるためである。入試制度を手つかずのままにして、ゆとり教育を言っても、しようがないではないか。 (まえがき


競争をさせると三層構造ができるものである。こなせている上位層、はい上がろうと頑張る中位層、「どうでもいいよ」の下位層である。競争による三層構造の中では、下位者は信じられないくらい低い成績を出す。 (個性尊重の教育はできるのか)


子どもを互いに競争させて学力向上をはかるなんて、安上がりな手抜き教育だと思う。かならずツケが回ってくる。 (経済の構造転換と教育費無償)


学校は、巨大なピラミッド型行政組織の末端である。だから、公立学校には、さまざまな仕事が降ってきて、うず高く積もっていく。 (降り積もる職務)


学校の質の向上は、利用者側からの意見反映システムと、教師へのサポートシステムをいかに作るかの問題である。これら二つを作らずに、役所からの指揮に一元化していたのが、失敗だった。 (教師に的確なサポートを)


指示を出す側が無責任になる構造的な理由がある。指示を出す側は、文科省でも教育委員会でも、任期があって役職についている人たちである。任期内に実績を作ろうとする。あるいは、「無策ではない」という証明をしなければならない。しかし任期が終わってからもフォローすることはやらない。 (降り積もる職務)


「教育基本法」は、官庁が教育を指揮するために作られた法律ではない。まったくその逆であって、教育が、政治、宗教、官庁などから独立できる法的基盤を作ろうとしたのである。 (なんのための『教育基本法』)


日本の教育界は、精神論・抽象論による指導・助言が多い。その根本原因は、現場を知らない者が、教育を指揮することにある。 (精神論が多いわけ)


戦後の六・三・三制教育を普及させたときに、後で大きな弊害を引き起こすものが入り込んでいる。……学校マニュアルにすぎないものを、法律や省令にしてしまうことである。 (学校マニュアル法令化の弊害)


教育界で改革をやろうとすると、よってたかって修正を受け、原案の長所までも失った妥協案ができやすい。 (現場を知らない者同士の妥協案)


現場は文科省の顔色を見るしかないし、文科省は現場に任せるしかないのである。 (変化に対応できない理由)


アメリカで、六〇年代から教育委員会と学校の官僚的体質に対する批判が噴出し、大変化が起こっている。ヨーロッパ諸国で、七〇年頃から、より被教育者を尊重する教育への大転換が起こっている。……日本は、だいたい三〇年の惰眠をむさぼったと考えればいい。 (30年の遅れ)


「私は、不登校問題は制度公害だってよく言うんです。自分に合った教育を提供されないまま、学校に行くことを強制され、行かないことを陰に陽に非難され、追い詰められた子どもたちがたくさん出たんです。新しい教育が柔軟に生まれてくる構造がないんです。これは制度の問題なんです」 (制度が違う国では発生しない)

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