不登校問題の制度原因とその解決
解決の鍵は、教育基本法第十条の実現


   目次

はじめに
提言

T 不登校問題の現状と原因
1 子と親の窮状
2 不登校の現象的原因
 (1) 小学校低学年 6〜9歳の発達段階の研究不足
 (2) 小学校高学年 信頼できる友人や教師を見つけられない
 (3) 中学校   人の欠点を見つけることが基調
 (4) 高校     カリキュラムの硬直、自主的活動の不足
3 不登校の制度的原因
 (1) 提供される教育が狭すぎる
 (2) 多様性の欠如
 (3) 憲法解釈が狭い

U 不登校が解決しない理由
国民に対する民主主義原則の欠如
 (1) 民意反映の道が閉ざされている
 (2) 教育委員会制度が機能していない
 (3) 自律的回復システムの欠如
2 学校と教員の自主性欠如
 (1) 教育に政治が持ち込まれた不幸
  (a) 戦後復興体制が定着したまま
  (b) 文部省vs日教組は冷戦構造の反映
  (c) 教育界独特の風土
 (2) 服務倫理と教育者倫理の相克
 (3) この体制では人格教育ができない
3 転換に失敗した日本
 (1) 70年代が転機であった
 (2) 教育を法律や規則では運営できない
 (3) 発展途上国タイプからの転換を

V 不登校問題解決のための方針
1 子どもの保護の具体策
 (1) 教員は上長でなく被教育者に責任を取る
 (2) 学校に行かない権利を保障しないと危険
 (3) 子どもの権利条約、オンブズマン制度
2 多様な私立学校の意義
 (1) 公立学校と多様な私学は補完関係
 (2) 多様化した米国
3 教育を創る二つの原動力
4 学校が自律的に運営される意義
 (1) 現場にいない人間が指揮する弊害
 (2) ヒエラルキー形成は間違い
 (3) 誰のための教育か
 (4) 義務教育は民主社会の維持が目的
5 国民に対する直接責任
6 教育委員会の活性化
 (1) 昭和31年の短慮
 (2) 学校の運営責任は学校が負う
7 国際条約との整合性が必要
 (1) 『教育への権利』が国際的に確立している
 (2) 個人及び団体が教育機関を設置・運営する自由
8 教育基本法と「国民に対する直接責任」
 (1) 第10条から「全体」を削除
 (2) 問題点は教育基本法にあるのではない
 (3) 現状は、個人も集団も育たない
 (4) 教育基本法は深くて柔軟である
9 基本法制に必要な原理

W 不登校問題解決の見通し

X 結語






 
はじめに

 戦前の教育は、国家と政治に操られました。それを反省して、戦後は、教育を政治と官僚の横暴から切り離しました。

 しかし、すべてを文部省主導で行ったため、官僚制の別の弊害に陥りました。教育システム全体が、規則どうりに行われることが最優先され、落ち度を怖れるだけのお役所仕事になっていきました。美しい言葉だけが語られ、現実との食い違いには眼がつぶられました。
 学校が融通の利かない世界になり、先生たちの言うこととすることがまるで違うようになりました。これは、教育にとって致命的でした。

 もっとも大きな問題は、不登校問題となって現れました。

 不登校問題は、人々の考えや行動に深く染み込んだものが原因になっています。それは、固定した教育観に由来します。現在の人たちが現在の枠の中でやっている限り、教育方法をいくら変更しても表面的な改革に終わります。

 解決の鍵は教育基本法第10条にあります。条文の「不当な支配」が国家主義と官僚制を意味することは、制定時に自明のことでした。
 教育基本法第10条を再評価すべきです。教育は、教育が官僚支配によるお役所仕事から脱し、自律性を回復することで、今日の教育問題のほとんどは解決に向かいます。学校設置の自由化は、教育全体を改善します。教育の方法と内容を規定することをやめ、人々を信頼して自律に任せることが重要です。
 教育は、恐怖の上に築かれてはなりません。


 
T 不登校問題の現状と原因

(要旨) 不登校が人々を苦しめるのは、制度の不備が原因である。現在、多くの人が憲法26条の保障する「教育を受ける権利」を侵されている。

1 子と親の窮状

 ・多くの児童生徒にとって学校が利用不可能になっていることを認識すべきである。
 ・管理当事者が、唯一の苦情受付窓口となっていることは、妥当ではない。


 教育は、まず第一に子どもと、その代理人である親に対して責任を取るべきものであります。しかしながら、現状ではそれが、はなはだ不十分です。
 不登校の場合の、子どもと親の追いつめられた状況は言語を絶します。親にとっては、子どもの教育の道がすべて閉ざされ、将来の希望がすべて失われる状態です。学校関係者は「それでは、なぜ来させないのだ。本来は、来なければいけないのだ」というような発想が多いのですが、実態は、そのような生やさしいものではありません。

 学校や教育委員会と相談することは、親がまっさきに試す方法です。しかし、多くはそれでどうにもならず、民間の機関や互助グループに頼ります。学校や教育委員会が親と子から実状を聴取する能力には、かなりの問題があります。学校や教育委員会は、管理当事者なので、親からの問題提起をすぐに自らにたいする責任追及や不満と受け取ってしまい、第3者的な見方ができません。父兄の側に多くの怒りと怨恨が存在しますが、制度がそれを具体的希望にと変えていくことはできません。管理当事者が、唯一の苦情受付窓口となっていることは、妥当ではありません。行政の他の領域ならば、第三者機関が存在するのが当たり前ですが、教育にはそのようなものがありません。

 不登校を現象としてまとめると、「その子にとって用意された教育は、その子にとってあまりに苦痛が大きく、利用不可能だった」と言えます。
 客観的に「その教育が利用不可能であった」と捉える視点が必要です。
 

2 不登校の現象的原因

 子どもと家庭に原因を探している限り解決しない

 不登校の原因を探すと、まことに多岐に渡り、簡単に言えるものではありません。しかし、家庭のみが原因と言えるのは、1割程度と思われます。不登校は、『与えられた教育では子どもが利用不能であった』、という現象であり、教育方法そのものを含めて客観的に研究すべきです。本人と家庭と社会にだけ原因を探していることが、不登校問題の解決を送らせ、また不登校家庭からの学校に対する不信を引き起こしています。
 
 (1) 小学校低学年

  6〜9歳の発達段階の研究が不十分

 小学校低学年の不登校の多くは、教育方法そのものに原因があります。子どもの実状と教育方法が合わないため、子どもが学校になじめず、防衛的または攻撃的になり、親の所に逃げ込む現象です。「親離れができていない」「わがまま」と捉えられがちですが、それは結果を見ているにすぎません。
 6〜9歳の発達段階の研究が不十分です。
 この年齢はもっとも人間味を必要とする年齢です。社会の変化と子どもたちの変化があったことは事実ですが、問題は教育者がそれにどう対応するかであって、うまくいかないことを社会変化のせいにすることではありません。学校は、学校における原因をまず探すべきです。
 
 
(2) 小学校高学年

  信頼できる教師、友人を見つけられない現象

 多くは、子どもが信頼できる教員、信頼できる友人を見つけられない現象です。小学校の教員管理、生徒管理のやり方に淵源を持ちます。
 個性や成育環境に由来する行動のかたよりを持つ子供が多いことも事実ですが、これに対応することこそ、教育に求められているものです。現状では、問題を持つとされる子どもが先生に叱られ、友達につまはじきにされるため、本人がいっそう攻撃的・防御的になり、信頼できる人間関係ができないという悪循環を繰り返します。逆に、教員が教室内のモラルを樹ち立てることをいっさい放棄することもあります。その場合、教室内が弱肉強食の世界になることがしばしばです。
 教室内でなにが起こっているか、責任問題を抜きにして、誠実な研究が必要です。また、対応法が準備されたとしても、教員がマニュアルどおりに行動するだけでは、子どもの信頼を得ることができません。小学生年齢の子どもたちは、直感的、感情的に出来事を捉え、機械的に扱われることを嫌います。教員が自由な人格を保っていることが重要です。
 教員は管理機構の末端に位置し、多くの命令、前例、マニュアルに支配されています。多くの教員は「学校に来させ、授業をわからせる」だけで精一杯です。
 
 
(3) 中学校

 人の欠点を見つけることが人間関係の基調になっている

 中学生年齢になると、家庭の影響力は小さくなっていて、中学生の不登校のほとんどは学校生活に主原因を持ちます。中学校の不登校現象は、その多くが、教師による人権無視か、生徒同士の人権蹂躙に発するものです。中学校の多くは、生徒を常に「何かを達成したか、しないか」と捉えていて、生徒が学ぶ主体であることを忘れています。
 中学生は、自我が芽生え、自主性が伸びる大事な年齢です。それにもかかわらず、全教育課程のなかでもっとも強制的な教育が行われているのが現実です。そのため、自主性の伸びない生徒、反抗的な生徒をたくさん生み出しています。
 人の欠点を見つけては矯正しようとすることが、教師─生徒、生徒─生徒、の人間関係の基調になっていて、生徒たちが防御的、あるいは攻撃的になっています。これが、ひどくなるといじめあるいは村八分になります。いじめや村八分の多くは、教師の立場では、発見不可能なものです。いじめは、いくらでも陰湿で発見困難なものになることができます。統計の数字を信用することはできません。
 中学校が校則を中心として統制型の社会を作っていることが、中学生の公的意識を発生させることを妨げています。公的意識は、他者を認識し、他者と共存することから生まれてくるものであり、ルールはそこから自主的に作られるべきものです。現状は、生徒に任せない→生徒が無責任になる→管理を強化する→いっそう生徒が無責任になる、という悪循環を繰り返しています。
 問題がないとき、教師は、人を大事にすることをすばらしい言葉で説きますが、なにか問題があったときの対応行動は、生徒への責任転嫁、強権的指導、が多くなります。この言行不一致が生徒からの不信感を呼びます。問題があったときの人権に基づく対処法が、研究、確立されていないため思われます。
 
 中学生の多くは、不適切な教育により、実感を言葉にする力を欠いており、自らの状態に対し「やる気がでない」「ムカつく」「かったるい」等の把握しかできません。中学生から、不登校の原因となった出来事を見つけるのは、たいへん困難な仕事です。これは、小学生についても同様です。

 
 
(4) 高校

 カリキュラムが硬直。自主的活動の不足。

 高校の中退は、カリキュラムと学力の問題が大きくなります。志願によって生徒を集めたにも関わらず、授業についていけない生徒が多数発生しています。自主的活動が少ないため、友人ができにくいことも、原因の中心です。自主的に活動することが重要な年代ですが、授業をこなすことに、ほとんどのエネルギーを費やさざるをえない状況が続いています。高校も基本は統制型社会であり、公的なものを発生させる機会が少なく、安心できる人間関係ができにくくなっています。
 高校生の年齢になりますと、自分の考えを語れるようになるので、中退・不登校の原因は、本人に聞けばわかります。しかし「雰囲気が合わなかった」と語られるものは、より深く検討されるべきす。管理・運営の問題を根本に持つことが多いです。


 
3 不登校の制度的原因

 (要旨)単一の学校教育法型教育を全員に強制することは、実状に合わない。
 
 
(1) 提供される教育が狭すぎる

 教育が子どもに合わないと、まったく教育の道を閉ざされる

 不登校は制度的な問題です。これは、家庭での教育が認められている国や新たな学校の設置が自由な国では、不登校問題が生じていないことを考えれば、これは歴然としています。
 日本の場合、義務教育に単一のものだけが提供され、かつそれが強制されています。教育が子どもが合わない場合、まったく教育の道が閉ざされてしまいます。
 仮に、単一の教育が強制されているのでなければ、子どもが学校に合わなかったとしても「じゃあ、うちにいさせようか」「他にうちの子に合ったところはないだろうか」のような問題となるだけであり、大きな苦しみとはなりません。
 不登校問題に対する学校や教育行政側の努力を認めることにやぶさかではありませんが、現状の教育制度の枠の中で解決できるケースは、最善で2〜3割程度と認識しています。家庭の心構えを説き、教員に使命感を呼び覚まし研修させる程度では、根本的解決はおぼつきません。

 まったく白紙から制度を検討できるなら、すなわち、子ども一人一人に対する最善を探す自由があり、学校設置の自由があるならば、不登校問題の8割がたは解決できる問題です。残りについても、なんらかの援助の手を差し伸べることは、可能であると考えます。
 広く、歴史や世界に例を求めれば、教育はきわめて多様なものであり、日本の教育はきわめて特殊なものです。文部科学省と教育委員会は、全世界的な国際比較を怠っています。
 保護者の求めるものも、多様化しています。例えば、「ゆとり」を求める親と「学力」を求める親が、同じクラスにいる場合、どちらの方針を採っても、我慢するしかない人たちが現れます。これは、簡単な解決が難しい問題ですが、教育の多様化と選択の自由が解決の基本です。

 
 
(2) 多様性の欠如

 公立校に合わないとき受け皿がない

 教育が多様なものであり、比較の対象があったなら、公立学校の不合理は容易に認識されたでしょう。比較の対象となるのは、どこの国でも私学の役割です。
 世界にはさまざまな教育が存在します。広く認知されているものだけでも、シュタイナー教育、モンテッソーリ教育、フリースクールなどがあります。これらを担うのは、私学であるのが普通です。公立学校の教育に合わない児童生徒が生じた場合、多様な私学がこれを受け止めることができます。また、設立容易な私学の制度があれば、すみやかに新しい教育が起こってきたでしょう。
 しかし、日本は私学も学校教育法の下にあって、カリキュラムは同一であり、校内管理も規定されています。公立校と私学の違いは、きわめて小さなものです。本来、私学の教育内容や校内人事構成は自由に任されるものです。多様性によって全体に活気を吹き込み、多様なニーズに応えるのが、私学の役割です。
 私学も学校教育法の下に入れられて教育方法の自由を持たないのは、制度発足時に
 ・米国軍政部は、日本軍国主義の復活を怖れた
 ・文部省は、社会主義者が教育を行うことを怖れた
ためです。戦前の教育しか知らなかった人たちは、教育と洗脳のイメージが強く結びついていて、教育の自由を許すことができませんでした。不幸なことに、日本の私学制度は、当初から私学本来の存在理由を発揮することができませんでした。

 
 
(3) 憲法解釈が狭い

 保護者が教育の義務を果たせない状況

 憲法第26条はすべての国民に「教育を受ける権利」を保障しています。自分に合った教育に出会うことのできない子どもが一人でも存在することは、憲法に違反した状態であります。
 また憲法第26条第2項の「子女に教育を受けさせる義務」が、従来、国が提供する学校に子どもを行かせる義務と解釈されていたことが、大きな悲劇を生み出しました。国が提供する教育が合わない子どもがたくさん居ても、子どもを学校に適応させようとする努力だけがなされ、解決を見出すことができませんでした。
 第2項は、子女が受け入れることのできる教育を保護者が確保する義務と理解されるべきです。この実現のためには次の2点が制度的に確立されることが必要です。

・学校に対する子どもと親の意見表明権と運営参加権が制度的に確立される。

・教育方法の自由を持った教育機関設置がきわめて容易である。親が教育を選択する権利がある。

 この2点が確立されなければ、子どもに教育が合わないときに対応することができません。この2点なしに、憲法26条第1項の「すべての国民の教育を受ける権利」および第2項「子女に教育を受けさせる義務」を実現することは、不可能なことです。
 現状は「出席していれば教育を受けていて、出席していなければ教育を受けていない」という判断がなされますが、これは、きわめて官庁的な区分の仕方にすぎず、教育の実態とかけ離れています。国民が求めているのは、子どもも親も受け入れることのできる教育です。
 現状の教育の形態を限定しているのは「学校教育法」であり、憲法と教育基本法からは、もっとさまざまな教育の形態を想定することができます。

 
U 不登校が解決しない理由 

 児童生徒が学校に行けなくなる、あるいは学校を嫌う現象の原因は、他にもたくさんあります。また、不登校問題にかぎらず、学校には学級崩壊、いじめ、学力問題など、多くの問題があり、いずれも解決されないままです。
 根本的問題は、これほどもたくさんの問題を、なぜ教育制度が抱え込むようになったかです。明らかに、教育制度全体が自律的問題発見、自律的回復の能力を欠いています。その原因は、

・児童・生徒および保護者の意見を反映する正式制度がどこにもなく、実状と意見の把握が恣意的に行われている。

・現場を知らない人たちが多くを法律と規則で決めて、学校と教員の自主性が奪われている

の2点です。

 
1 国民に対する民主主義原則の欠如

(要旨) 教育は一般行政と分離しているから、教育システムの内部に被教育者側の意見を反映する制度が必要である。
 
 (1) 民意反映の道が閉ざされている

 教育現場は、自主的な問題発見能力に乏しい。

 教育が一般行政に属していたなら、今日の教育問題は、議会では大騒ぎになり、たくさんの市長が引責辞任したり、リコールされたりしたでしょう。解決が見えるまで、試行錯誤が繰り返されるでしょう。
 現実には、なにが起ころうと、学校は多くの規則に規定された通りのことを毎年繰り返します。
 学校評議会設置を決めても、それを校長の諮問機関にしています。諮問機関が容易に「聞きたいことだけを聞く」御用機関と化すことは、多くの実例で明らかです。
 教育行政のどこにも、民意反映の道がありません。教員─学校─教育委員会─文部科学省の線の中のどこにも、選挙で選ばれる役職はありません。直接参加の道もありません。
 教育は一般行政と分離されているので、首長を通じての行政措置の道も閉ざされています。国法である学校教育法があるために、地方条例で独自の動きをすることもできません。
 国民からの意思表明は、学校、教育委員会、文部省に対する意見具申しか道がありません。それに対する聴取と対応は、はなはだ恣意的であります。これは民主主義の原則にそわないものです。単に原則上の問題ではなく、実際に苦しむ人間をたくさん出しました。
 教育が政治の利害の影響を避けるために、一般行政と分離されています。このこと自体は適切です。しかし、一般行政と分離されているが故に、教育システム内部に被教育者の立場を反映させる制度が必要です。

 教育の管理責任を負う人たちは、「私たちが、十分に意見を受け止めますから、みなさんの意向は反映されます」と言います。これは、全体主義国家でも旧社会主義国家でも言われた論理です。この言葉によって、民意が反映されるとしてはなりません。一般行政と同様の制度を作るべきです。
 教育を受ける側にも、直接参加、選挙などの道を作って、当局側と拮抗させないかぎり、民主主義の社会に住んでいるとは申せません。

 
 (2) 教育委員会制度が機能していない

 このままでは、「教育の一般行政からの分離」の大原則が崩れるであろう。

 昭和31年に、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」によって、教育委員の公選制が廃止されて以来、選挙で選ばれる役職はどこにもありませんし、親からの要望に対する対応義務も、まったく法制化されていません。
 住民との接点になるべき教育委員会制度が不備で、親たちの声が、現場に反映されません。被教育者側の意見を反映する仕事は、本来は、教育委員会に課せられた仕事でした。しかしこの仕事において、教育委員会は実質的に機能していません。教育委員会は、法制的に、学校の管理責任を負わされる当事者になっていて、被教育者の意見に対して中立ではありません。この原因は2点あります。

・長年にわたって、文部省の指導・助言は教育委員会に対して命令に相当する働きをしていたため、それに沿った慣行・前例が確立してる。
・学校教育法施行規則による規制があるため、教育委員会が決められることがあまりに少ない。

 現状ですでに、自治体のほうが民意を適切に反映させる動きをしています。教育改革は、自治体主導で動き出しています。財政逼迫が予想される今日、このままですと遠からず、教育委員会は無用のものとして廃止されることが考えられます。それによって「教育の一般行政との分離」の大原則が損なわれます。早急に、教育委員公選、生徒と親の学校運営への直接参加など、民意反映の道を開き、「教育の一般行政との分離」の原則を守るべきです。

 
 (3) 自律的回復システムの欠如

 上意下達のみが法制化されているため、自律回復の機能がない

 自律回復システムの欠如の例ですが、不登校問題に対し、問題が認識されるまで十年余、中教審なり文部省から一応の対策が出て現場に降りてくるまでさらに数年かかりました。子どもはすでに大人になっています。それまで、現場は対応のしようがなく、「無理にでも来させようとする努力」を重ね、子どもも教員も傷を大きくしていきました。問題の指摘は、主として民間からなされました。
 文部省の、不登校容認通達により、子どもの追いつめられかたは、軽くなりました。子どもが非難されることが減少したためです。しかしながら、不登校は、依然として増加を続けています。これは、単一の教育を強制するという枠組みをはずさないためです。
 法制度を調べますと、上意下達のシステムのみが法制化されていることがわかります。これは、現場の逸脱を防ぐことに効果がありますが、現場の自主性を損ないやすい体系です。現場の知恵と判断を活かしにくいです。この体系は、方針と実状が乖離しやすいものです。

 
2 学校と教員の自主性欠如

 (1) 教育に政治が持ち込まれた不幸

 世界でも稀な中央集権体制

  (a) 戦後復興体制が定着したまま

 戦後教育は、焼け跡からの復興と、六・三制施行によって始まりました。昭和22年の六・三制発足時に、教育委員会の成立が間に合わなかったため、文部省が学校運営のすべてを指導する体制で、すべてが始まりました。戦後の教育は、戦前のように勅令と恣意によらず、法定主義をとりましたので、文部省による指揮体制には法律が必要でした。そのためにできたのが「学校教育法」です。文部省が指導にあたれるように、学校教育法と学校教育法施行規則は、世界でも稀に見る、中央集権的な法律体系になりました。戦後復興が成し遂げられたのちも、この体系は維持されたままです。
 表面的には、教育委員会が地方ごとに設置されていることによって、地方分権が為されているとされていますが、実質的には、学校教育法と、それに付随する政令、省令、通達による、中央集権体制が教育を維持してきました。

  (b) 文部省vs日教組は冷戦構造の反映

 その後、冷戦構造を反映し、教育の場で、文部省対日教組の不幸な闘いが熾烈なものとなりました。文部省は、教育委員会に対する指導・助言体制を強めて実質的に傘下に置き、人事管理を中心として逸脱を防ごうとしました。学校教育法と学校教育法施行規則は、この闘いの手段として使われました。
 この過程で、教師が公務員として、上長の指示に服することが強調されました。一般公務員と同様の、管理ラインを校内に作り上げ、教員を服従させました。学校教育法と学校教育法施行規則は、教育公務員を一般公務員と同様に詳細な管理規則の元に置きました。そのために、学校は子どもと親に対する責任より、上長に対する責任を優先させます。上品な表現ではありませんが、世間でよく言われる風評を紹介します。
 「上の言うなりの人ばかりが出世し、子どものことをわかっている先生がやめていく」

  (c) 教育界独特の風土

 この支配構造はあまり意識化されていません。教育界に意見対立を避ける文化的風土があるため、多くの場合、教員側が上長や規則と対立する前に自主規制します。それにより教育独特の世界ができあがりました。多くの教育関係者は、自らの行動が規則と慣習の狭い枠内にあることを理解していません。役職が上がるほどに、画一化が顕著です。意見を自由に述べる風土がなく、その行動は、真理追究的であるより、上下関係を意識した政治的なものです。
 長年の習慣により、学校、教員の平均的判断力レベルは低いものです。そのために起こる問題を解決しようと、管理者側はいっそうの管理強化を図るので、判断力はいっそう低下し、悪循環が生じています。


 (2) 服務倫理と教育者倫理の相克

 教員の倫理が分裂していて、生徒と親の信頼を得られない

 教員の管理は、教員を、二つの倫理の間で引き裂きました。服務倫理と教育者倫理です。
 教育は、大人と子どもの人間関係そのものであります。そこで優先するのは、良心とその場の人間関係による、教育者倫理です。これは、子どもを理解して、状況に応じた行動を取ることを要請します。その原理は、人間尊重です。教員の人間的尊厳が尊重されないかぎり、教員が子どもの尊厳を尊重することはできません。教員を規則と指示で統制すれば、その理念が高邁であったとしても、教員はただの調教師になってしまいます。
 教員は、長大な管理ラインの末端の労働者ですが、意識だけは全人的教育者です。
 教員たちは、子どもに授業を強制する調教師と、愛情あふれる人格者の双方をこなさなければなりません。この分裂は、教育者としては、致命的なものになります。言動と行動の不一致が多くなり、生徒と父兄の信頼を得られないのです。生徒、父兄側からの教員不信はここに集中しています。不登校の大きな原因の一つがここにあります。
 道徳的・倫理的内容をどのように指示しようと、教員たちを道徳的・倫理的にすることはできません。道徳・倫理は、真に自発的なものであるときだけ、意味を持つものです。管理ラインが道徳・倫理を維持しようとすると、道徳・倫理は規則と化します。本来内面のものに属する道徳・倫理を規則的のようなものにすることは、個々の教員の道徳・倫理の退廃をもたらします。これは、学校が生徒と父兄の信頼を得られない、重要な原因になっています。
 一般的に先生たちは、公務員としてはあまりに無規律であり、教育者としてはあまりに杓子定規です。これは、個人の資質の問題ではなく、制度として生じたことです。

 (3) この体制では人格教育ができない

 生産企業と学校は、根本原理が異なっている

 企業において、社長─専務─担当重役─部長─課長─係長─職員、というようなラインを作ると逸脱行動は減り、秩序ができたかに見えます。しかし、これは現場職員が命令に服するだけになり、依存的になり、無責任になったということでもあります。企業においても、長大なラインを形成することの弊害は認識され、別な構成がためされています。
 物やサービスを生産する経済企業と、人間育成を目指す教育は、根本的な原理が違います。前者はマニュアル化して生産物の質を一定にすることか重要です。後者は、人格関係が基本であり、マニュアル化は必要最小限にとどめられるべきです。そうでないと、教師がロボット的になり生徒をモノのように扱ってしまいます。
 現在、学校に企業や一般行政のような管理体制を持ち込むことで、教育問題の解決が図られていますが、これは、教育の原理を見誤っています。特に、人格教育を行う上で、一般的な管理体制は、大きな障害になります。人格教育を行うためには、教師自身が恐怖や野心にとらわれていないことが重要です。ヒエラルキーによる管理体制は、洗練された方法で、人の恐怖と野心に訴えて行動を変えさせるものです。教育の原理ではありません。
 わずかな逸脱行動を防ぐために、教員の自主性と人格を根本的に損なってしまうような組織構成と法体系は俎上に乗せられるべきであります。教員が自主性を失っていることは、文部省対日教組の対立の中で、文部省・教育委員会側が教員に対する管理システムの強化政策をとり続けたものが、そのまま残ったものです。政治が教育に持ち込まれた結果だと言わざるを得ません。最近、企業的組織原理を導入する動きが盛んですが、それは、いっそうの悪循環を引き起こします。
 教員の一般公務員化の進行と、不登校の生徒数の増加は、共に70年代に本格的になっています。

3 転換に失敗した日本

 戦後体制がまだ続いている。

 (1) 70年代が転機であった。

 「個性尊重」は、組織原理と行動様式から見直さないと実現不能

 すべての学校を、学校教育法の基準の元におき、教育水準を高めることは、戦後には意味を持ちました。しかし、社会が豊かになったことにつれ、弊害が大きくなりました。個性や創造性が不足しているという声は、各所から高まりました。1970年代には教育制度は変更されて、学校教育法による単一統制は、多様な教育と、個人の尊重に切り替えられなければなりませんでした。1970年前後に出された中教審答申は、このことを認識していますが、具体的な施策としては制度に手を着けず、戦後の継続が承認されました。
 諸先進国においても、70年の学生騒乱のあと、教育制度の根本的改革が進み、30年前とでは、まったく違う様相を見せています。日本では、学生騒乱を鎮圧したあと、一般公務員や企業における管理システムを学校に導入することで、いっそう教師と学生に対する管理を強めました。その結果を、われわれは今、不登校問題、いじめ、学級崩壊という形で、目の当たりにしています。
 「個性尊重」は長く教育の方針として掲げられていますが、実効が挙がりません。個性尊重は、被教育者の権利擁護の制度を作り、学校を自治的なものにし、それに伴った人間尊重倫理を発生させないと、実現できません。


 (2) 教育を法律や規則では運営できない

 教育はそもそも、社会における文化現象である

 日本では、教員の一般公務員化が進行しました。管理統制色の強い機構を通じてのみ改革を行おうとしているため、多数の不登校、いじめ、落ちこぼれを解決できない状態が続いています。脱落者を多く出すことや、組織内のいじめは、管理統制が強い組織に特有の現象です。
 いっぽう、全く倫理が確立されていないため、弱肉強食の世界となる教室が数多く生じる現象も起きています。これは、管理不在のためととられがちですが、実状は管理統制が強いことに生徒または教員が反発して起こることです。学校問題の解決は、学校、教員、生徒、親による自律的問題解決の道を確立していくことでなければなりません。学校と職員だけて解決を図ろうとする限り、解決が困難です。現実を的確に見ることが必要です。
 教育は人間同士の共感、尊敬、愛情に基づくものであり、そのもっとも重要な部分は、規則で運営することがきわめて難しい領域です。教育が、方法や内容においてまで官僚制の指揮下に置かれること自体に無理があります。教育は高度の自律性にまかされるべき領域です。教育の方法・内容の変更は、文化的伝播によるべきです。
 教育が取り扱う領域は、教科の多くは学問・思想、スポーツは文化、音楽・美術などは芸術、生徒指導は思想・良心の領域に属します。いずれも、憲法が自由を宣言している領域です。


 (3) 発展途上国タイプからの転換を

 教育内容が国家主導で規定されるのは、発展途上国と全体主義国家に特有の現象です。日本は、発展途上国タイプから先進国タイプに教育を切り替える必要があります。発展途上国と先進国で教育に求められる解決課題の違いを表にします。

先進国の問題       発展途上国の問題

精神的貧困         経済的貧困

画一化            地域主義、部族主義の対立

生徒の自主性の喪失   団体行動の困難

実体験不足 知識、技術の不足

 戦後タイプからの変換が遅れていることは、自律性が重要な経済の領域についても言えます。経済でも、自律への転換ができずに、現在の大不況と財政難を生み出しています。
 多くの先進国では、多様な民間の教育を助成する行政によって、親が教育の義務を果たすことを助けています。教育の目的は、社会そのものに内蔵されているとする考え方が主流です。
 国家運営の教育のみが義務教育だとする考え方は、東アジアに特有の現象です。その多くは、日本の制度を真似たものです。国家運営の教育のみが義務教育だとしたことが、不登校問題の直接の原因です。



V 不登校問題解決のための方針

1 子どもの保護の具体策


 (1) 教員は上長でなく被教育者に責任を取る

 教育は親の委託によって成立している

 教室内の実態は、子どもにしか分かりません。どのような監察体制を作ろうとも、教員がそれを欺くことは容易です。また、子どもが教師に抑圧されている場合、子どものことを良く知る親だけが、それを見抜くことができます。教師の逸脱行動の防止は、管理機構を強化することによるのではなく、生徒と親の発言権を制度化することで為されるべきです。
 教育は、もともと親の委託によって成立しているものです。国民主権の原則を、教育においても確立すべきです。現在は、発言権が制度化されていないために、発言が攻撃的なものになる傾向があります。これを、発言権を与えない理由にしてはなりません。むしろ、発言権が必要である理由になります。正当に発言権を持てば、「親が学校を信頼して教育を委託する」という本来の姿ができてきます。
 田中耕太郎氏も「教育基本法の理論」において、自然権として親に教育権があるとし、教育は親の委託によって成立することを主張しています。


 (2) 学校に行かない権利を保障しないと危険

 自殺や精神障害まで生み出している

 教育じたいは義務であったとしても、個々の学校に対しては、子どもが行かない権利を保障すべきであります。そうでないと、極限まで追いつめられる子どもが出てきます。不登校現象は、自殺者と重大な精神障害をも生み出しました。多数の実例がありますが、おおくは、心理学的問題としてのみ処理されました。たいへんな悲劇であります。
 自殺や精神的障害は、本人の個性や意志も関係していますので、不登校のみが原因であることが完璧に立証されることはまずありません。しかしそれは、学校と教育行政側に責任がないことを立証することにはなりません。同様の例は過労死の労災認定が挙げられます。不登校に起因する自殺や精神障害は、過労死の労災認定と同様に、それが主たる原因で合ったことが立証されれば、学校と教育行政側に責任が問われるべきものです。親や子どもの権利保障をしないまま、就学を強制している現行法律体系は、はなはだしい人権無視を行っています。
 学校に行かない権利は、「事情があるときは」と付すなどすれば、教育の義務と両立させることができます。

 (3) 子どもの権利条約、オンブズマン制度

 人権保護こそが教育行政の仕事

 子どもの権利条約の第12〜17条および第28、29条は、特に学校教育に関連するものです。具体的に国内法に反映されるべきです。これで、特に中学校・高校は飛躍的に改善されます。
 教員による体罰、精神的追いつめ、未熟な犯人探しによるぬれぎぬ、などが教育界に横行しています。これらは、犯罪や業務上過失傷害と同等です。これらが不登校の原因であることが多いことは、不登校生徒援助に当たる人たちには周知の事実です。管理者は、教員の責任を追及すると自らにも管理責任が及ぶため、その追及に手心を加えています。教員同士の身内意識も働いています。民間や、被教育者側からの追求に対して、学校・教育委員会側は「自分の責任ではない」ことを立証することに懸命です。自分のことだけを考え、責任者的態度に欠けます。職員に通達を出したり、訓示することを対策であるとはみなせません。児童・生徒がいったん教員の人格を疑えば、教育はもう不可能になることを銘記すべきです。
 人権問題の対応を管理当事者にまかせることは不適切です。オンブズマン制度をはじめとして、管理当事者以外の第三者機関が、子どもの人権保護のため学校に関与しなければなりません。体罰、子どもへの精神的傷害に対しては、該当教員の解雇処分を原則とすべきです。これは、不適格教員の排除に、もっとも有効な方策です。事実認定が公正に行われることは前提とします。
 子どもの保護は、もっと深く研究されるべきです。追いつめられた子どもたちは、混乱状態にいて状況を把握できず、窮状を訴えることすらできません。子どもには表現力が乏しいことを認識すべきです。子どもの保護には、現在の枠組みを越えて入念な専門的研究を注ぐべきです。
 社会正義の実現は国家と法律の仕事です。子どもの人権保護は国家が為すべき仕事です。


2 多様な私立学校の意義

 公立学校だけでは、ニーズに応えきれない

 (1) 公立学校と多様な私学は補完関係

 教育は、いつの時代でも、多数者が参加する標準的な教育と、その周辺にあって、多様な試みをする教育とが存在します。これは、現在の日本においてすら、行われていることです。国民一人一人に対して、直接に責任を負うなら、多様な教育がどうしても必要です。簡単に設立でき、自由に運営される多様な私立学校がないと、多様なニーズに応えることができません。
 公立学校はどうしても最も確立された教育法、最も多数者に向いた教育法を採用します。公立学校は多数者を抱えていますので、最大公約数的なものに焦点を合わせざるを得ません。これは当然のことです。しかし、教育法の進歩、社会の変化、人々の考え方の変化は、常に起こっています。それを敏感に反映させる、多様な私立学校が多数必要です。そこで確立された教育法が、標準的なものに取り入れられていく役割を果たします。
 多くの国において、多くの私立学校が、利潤追求の手段ではなく、公立学校を補完するものとして存在します。これは、さまざまな立場の親や子どもの必要に応えるために自然発生するものです。現在の日本で、不登校問題に対して草の根フリースクールの果たしている役割が、それにあたります。公的機関ではできない対応を、民間が自発的に果たしています。
 いっぽう、公立学校の網の目が張り巡らされていることは、教育への権利を保障するのにどうしても必要です。公立学校と多様な私学は補完関係にあります。


 (2) 多様化した米国

 民意反映による復元力が働く

 米国では、60年代に、公教育に対する不満が噴出し、多様な教育を認める方向に制度が動きました。多種の私立学校、チャータースクールを生み出しました。学校のみが教育を行うものではないという考え方が生まれ、ホームスクールが広がり、認可されました。米国連邦国勢調査局の調査は1999年から2000年の時点で、チャータースクールの在籍生徒数は全米で約50万人、ホームスクーラーは67万人を報告しています。
 米国の教育はきわめて多様です。日本でどのような理想を持つ人であっても、米国でそれが実現されているのを見つけることができます。私立学校を中心として、先進的な試みをする学校が多くあり、それをモデルに、公立学校に実践が広がっていきます。
 米国の教育は、開拓地において民間発生した教育が起源です。文部科学省に相当する官庁は存在せず、各州の教育委員会が最高責任者です。米国の教育行政においては民権が強いことが特徴です。米国の教育すべてがすばらしかったわけではなく、過去に幾多の問題を起こしていますが、重要なことは、米国の教育は自律的復元力が働いてきて、全体として柔軟なシステムを保っていることです。弊害が出るような極端まで行くと、必ず戻ってきます。住民の声を反映させる制度が、それを可能にしてきました。
 多くの先進国で、教育行政は、教育の直接運営だけでなく、民間での自律的教育運動を支援することを仕事としています。これは、多くの先進国でなされていることであり、教育をすべて公的カリキュラムの統制下に置くこと自体が、すでにまれなことになっています。北欧諸国の例は、とくに参考になります。


3 教育を創る二つの原動力

 親の「わが子可愛さ」と教師の高邁な理想

 新しい教育を作る主体を考えます。現在の教育の責任者は教育委員会です。ここに実質的な権限をもっと委譲することも考えられますが、それでもまだ、国民に対して、官僚機構を通じて、間接的に責任を負っているにすぎません。
 教育委員を選挙制度に戻すことも考えられます。それは、現状改善のためには大いに役に立ちます。しかし、根本的解決にはなりません。教育委員会制度がうまく運用されている米国でも、教育委員会による官僚機構の弊害は大きな問題になりました。

 教育を作り上げる原動力は、親の「わが子可愛さ」と教師の高邁な理想にあります。この二つは強大な力であります。この二つに基づかないかぎり、教育の基盤は薄弱であり、外見は立派でも内実は貧弱な教育ができあがります。
 新しい教育を作り上げるのは、親と教員の主導によるべきです。
 中央集権的に一律な学校網を作り、単一カリキュラムの教育を普及させることは、国の発展途上で、一度だけあればいいことです。その後は、弊害が大きくなります。親の教育を選ぶ権利、教師が教育を作り上げる自由、民間の学校設立の自由は、制度的に保障されなければなりません。
 自由であると、素晴らしいものも生まれますが、間違いも生じるのは当然です。しかし、それを怖れて統制すべきではありません。教育の良否を判定するのは、国民自身です。学校に対する意見表明権と、学校からの離脱の自由を保障することが、最善の逸脱防止策です。
 生徒に自己責任を求めるならば、学校自らが自己責任の原則の元に運営されていなければなりません。


4 学校が自律的に運営される意義

 現場の自律によってモラルが維持される

 (1) 現場にいない人間が指揮する弊害

 学校は自治が基本

 よい学校は、教職員、保護者、児童生徒がいずれも十分な発言力を持った上で調和し、協力関係を築いています。学校は自治的に運営されることが、その目的にかなっています。教育の基盤は生徒と教師の人格関係にあります。これを、現場を離れた人間が指揮することは不適切です。教育は、私的な人間関係に淵源を持ちます。生徒が先生を好きか嫌いか、尊敬できるかできないかが教育の決定的な要因になることでも、それは明らかです。公立学校といえども、独自の校風、伝統を持つべきです。
 教員は、カリキュラムユーザーであるより、カリキュラムメーカーであることが基本です。それが、生徒の個性を尊重することの具体的実践です。
 教育現場は、言葉一つ、態度一つが大きな影響を及ばす世界です。その場の雰囲気、その場の人間関係、その学校の事情を考慮することなしに、実際の行動を決めることはできません。教員が自律的に行動できなければ、高い教育水準を維持できません。現場にいない人間は、たとえ元教員であったとしても、教育を指揮すべきではありません。求めに応じてアドバイスすることを基本とすべきです。
 教授の方法と内容は、法律によらず、参照として出されるべきです。現在の教育内容の詳細を規定しているのは「学校教育法施行規則」です。「学校教育法施行規則」は法律に準じるという判決が出されたこともあるので、法律的にはたらき、現場における実状無視をもたらします。日本の教育文化は高い水準にあり、現在でも、一般の書物や研究活動によって、教育水準の維持が自発的に行われています。教育は自律に任せることが可能です。


 (2) ヒエラルキー形成は間違い

 教育における55年体制を終焉させ、校内のヒエラルキー形成による管理強化をやめるべきです。教育は、教員─生徒の関係がすべてです。教員が、昇進や競争を職務の動機にしてはいけません。教員が生徒を前にすることによって生じる責任意識が、すべてを支配すべきです。学校組織は、実際に生徒と接している教員の校内地位を高め、教員同士の平等な同僚関係を基本として構成されるべきです。大学教授の学内地位が参考になります。初等教育の優れた教員は、「社会の宝」といってよい存在であり、大学教授以上の尊敬を受けるべきです。
 教員の心理的報酬は、生徒と接する中で得られるものだけであるべきです。子どもの成長に立ち会うことは、人間の味わうことのできる、もっとも崇高な喜びの一つです。


 (3) 誰のための教育か

 教育は、子どもと親に責任を負って行われるものです。これは、医療が患者に対して責任を負って行われるのと同じ原理です。教育水準を維持するのは、生徒と親の仕事です。上部機関による管理で教育水準を維持しようとすると、実状無視の弊害が多発します。教室で何が行われているか、児童生徒以上に知っている者はいません。
 教育は、そもそも、親の委任によって発生するものであり、社会における文化現象の一つです。教育を国家戦略に役立てようとする国は、現代でも、数は多くありません。教育を社会の自律にまかせる先進国は、多数あります。
 子どもと親の権利が制度的に保障されることで、教育は本来の姿を取り戻します。


 (4) 義務教育は民主社会の維持が目的

 教育は歴史的に見れば、本来が私的な人格関係であり、社会に自然発生する文化現象です。その教育を国家単位で義務とするのは、民主社会の維持が目的です。人々が高い教養と判断力と表現力を持っていないかぎり、民主社会の運営は可能です。高い人格を備えた人々が、時々の政治と社会を創り出すのであり、政治が特定の人間像を教育に求めてはなりません。教育は、政治に優先します。教育の目的と方法は、教育哲学と教育者の人格によって担われるものであり、政治や法律によって規定すべきではありません。
 教育を国家戦略の手段とすることは、かえって国家の先細りを招きます。特定の分野の知識・技能が時代によって必要とされることは事実ですが、それは高校以上の段階で、個人の自発性を十分に尊重した上で自律的に行われるべきことです。児童・生徒を人材とみなし成績第一主義を採ること自体が、人間尊重の精神に反しています。それは、教育が独自性を失って、政治や産業界の考え方に蚕食された結果です。
 個人尊重を、理念においても行動においても実現することが、人々の生活を幸福にし、結果的には国の繁栄をもたらします。


5 国民に対する直接責任

 代議制では不十分。もっと直接に責任をとるべき

 教育を受ける側からの意見の反映という原則はどうしても必要です。現在の学校は、教育を受ける立場からの意見が敏感に反映できませんと、問題の所在がわからないのです。誰から見ても苦しんでいることがわかる人間が多数出て、はじめて問題に気づくことになります。しかも、教育は内面的なものですので、外からはわからない苦しみがたくさん存在します。
 公的サービスの受け手にも権限を与えて行政側と拮抗させることは、他のすべての行政領域でうまく運営されています。一般行政は、すべてこの形で行われています。教育だけが、「主権在民」「地方自治」の大原則に取り残されています。「教育の専門性」と「民意反映」は両立するものであります。
 被教育者側の意見を反映させる方法ですが、教育は、一人一人の子どもが非常に大事です。親の関心が「わが子」にあるのは当然のことです。教育を受ける側の参加は、代議制よりも、子どもと親の直接的なものが中心にならなければいけません。「個性尊重」は、子ども一人一人の立場を制度的に強めることによらなければ、言葉だけで終わります。
 教育基本法第10条が、教育は「直接に責任を負って」行われるとしています。これは、自治体首長を通じても、代議士を通じても、教育委員会を通じても、適切な教育には不十分であり、直接参加、直接対応が中心にならなければならないことを意味します。


6 教育委員会の活性化

 (1) 昭和31年の短慮

 教育の地方自治、教育の一般行政との分離は、教育委員会が機能することで果たされるべきものとされていました。旧教育委員会法は、それをはっきりと意識しています。
 しかし、昭和31年の「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」によって、教育委員会は、実質的に機能しなくなり、文部省の指導・助言体制が確立して、教育委員会はその支所と化しました。
 この改正により、教育のあらゆる段階から、被教育者の意志を取り入れる制度がなくなりました。教育の実質的責任者(文部省)と、形式的責任者(教育委員会)が分離したため、責任の所在がどこにあるのかわからなくなりました。問題が起こったときに、どちらも責任をとろうとしないのです。教育委員会は、あまりに弱体化し、教育行政を担うことができなくなりました。この改正は、左翼排除だけに眼が行き、教育行政全体を見失った短慮と言わざるをえません。
 現在、教育委員会が民意反映の機能を果たさないため、自治体が教育改革に乗り出し、有効に機能しています。しかし、これは将来における、教育予算や人事の利権化、短期的で無責任な政策、政治的介入の怖れがあります。教育の一般行政からの分離を護るため、教育委員会の活性化を図るべきです。


 (2) 学校の運営責任は学校が負う

 いっぽう、学校教育法施行規則がはずれた場合、教育委員会は、予算、人事、指揮権のすべてを握り、その権限は学校に対してきわめて強力になります。文部科学省も助言以上のことはできません。これは、現場の自主性を損なうと思われます。教育委員会に現場出身の者が多く居たとしても、教育委員会はすでに現場ではないことを認識すべきです。教育委員会は、学校に対する指揮者ではなく、援助者です。
 教育委員会と学校の間に責任体制の切断を入れ、学校を自治的なものとすることが望まれます。学校内の運営責任は、すべて学校が負うようにすることが重要です。
 現場に任せられない → 現場が規則に従うだけになる → いっそう任せられない
 この悪循環を断ち切るべきです。これで、学校がより責任を取るようになります。現在のように教育委員会も学校の管理責任を負いますと、結果を怖れたり、手柄を立てようとして、現場を知らない者が学校に不当な介入をします。本来の意味の指導・助言が行われるべきです。
 教育委員の任命制、公選制のどちらがよいかは、米国の実状の入念な調査が必要です。一長一短があります。いずれにせよ、学校評議会等で直接参加に道を開くことが重要です。


7 国際条約との整合性が必要

 (1) 『教育への権利』が国際的に確立している

 基本法制を考えるとき、どうしても必要になるのが、国際条約との整合性です。
 国際人権諸条約は、いずれも、教育基本法と学校教育法(1947)より後にでてきていますので、当然、教育基本法にも学校教育法にも反映されていません。しかし、批准した条約に合わせて国内法を整備する必要があります。
 世界人権宣言、社会権規約、子どもの権利条約は、いずれも教育に対する基本的人権を「教育への権利」という概念にまとめています。これは、教育を受ける側の権利です。「教育への権利」は、教育の主体が被教育者側にあり、自分に合った教育を受けられることとしています。「教育への権利」は、教育を選択する自由と、個人や団体による学校設置の自由を含みます。憲法第26条第1項の「教育を受ける権利」は、この「教育への権利」を意味していると理解されるべきです。


 (2) 個人及び団体が教育機関を設置・運営する自由

 「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」(社会権規約)第13条は、親が公立学校以外の教育を選択する権利を保障しています。また、個人及び団体が教育機関を設置し管理する自由を定めています。
 このことの実現のみが、不登校問題を根本的に解決します。
 社会権規約第13条の実現によって、一人一人にあった教育を真剣に模索することが、現実に可能になるからです。具体的には、公立学校に行かない自由を認め、私立学校の設立を容易にすることであります。これがあれば、どのような問題が起こっても、市民社会が自律的に解決してゆきます。このときはじめて、公立学校が真剣な模索を始めるでありましょう。
 個人及び団体が教育機関を設置し管理する自由は、現在の法制と一致しません。憲法とは解釈で整合させることができますが、教育基本法第6条第1項の学校設置者の規定とは、矛盾します。

【現条文】 法律に定める学校は、公の性質を持つものであって、国又は地方公共団体の外、法律に定める法人のみが、これを設置することができる

 この条文は次のように改正されるべきです。

【改正案】 法律に定める学校は、公の性質をもつものであって、国又は地方公共団体の外、法律の定めにより個人又は団体が、これを設置することができる。

 なお、中央教育審議会中間報告による教育基本法改正案は、いずれも中央集権的な改革を図るもので、弊害が大きいと思われますから、反対です。

 児童の権利に関する条約についても、綿密に整合性を調べる必要があります。


8 教育基本法と「国民に対する直接責任」

 (1) 第10条から「全体」を削除

 教育基本法第10条に、教育は「国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」とあります。この条文が弱いために、現在の事態を途中で食い止めることができませんでした。条文の問題点は、国民「全体」です。これがあるために、「全体を一人に合わせることはできない。一人一人には対応しきれない」の風潮を生みました。
 教育基本法第10条第1項から「全体」を削除し、「国民に対し直接に責任を負って行われるべきものである」とすることを提言します。

【現条文】教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである

【改正案】教育は、不当な支配に服することなく、国民に対し直接に責任を負って行われるべきものである


 (2) 問題点は教育基本法にあるのではない

 中教審中間報告の改正案には反対です。問題点は現システムにあり、教育基本法にはありません。教育基本法から現システムに働きかけようとすることは、現システムのいっそうの硬直化を招きます。本稿の主張は、改正賛成意見の一つではないことを、強く主張します。 学校教育法を疑わずに、まず教育基本法改正を考えることは、筋道が違います。問題をたくさん持っているのは、学校教育法です。
 教育は、多くの人が関係する具体的な行動ですので、実行すると予想外のことがたくさん起きます。改革にあたっては、常にモデルケースを先行させなければ危険です。本稿の、多様な教育の設立を自由化せよとの論も、大局的には、常にモデルケースが先行するシステムを作ることの主張です。
 教育基本法の改正には、全国民的な議論がまずなされなければなりません。教育は子どもを持つすべての人に関係しています。一日中央教育審議会が厳重な警備によらなければ開けないこと自体から、なにかがおかしいことに気づくべきです。国が教育内容に関与すること自体が、国民を賛成者と反対者に分裂させます。それでは、国は、国民全体に対して責任を取ることができません。
 中央が優れた方針を出し、官僚機構がそれを実行し、国民の不満が解消するという図式が幻想にすぎないことを指摘します。国民がもっと関わらないと、解決は不能です。
 本稿は、モデルケースが先行し、全国民的議論がなされることを前提として、教育基本法の改正がされることを主張します。
 教育にとって、官僚機構の主導そのものが問題です。また、どのような教育方針であろうと、それが一律に行われるなら困る人が出ることを認識すべきです。これからの教育行政は、国家主導タイプから、国民の主体性を重んじることにより、諸先進国のように多様性タイプの教育行政に移行しなければなりません。
 中教審による改正案よりは、現行法の方が柔軟で、いろいろな対応が可能です。他の改正の推進に利用されるなら、本稿の教育基本法改正案が実行されないことを求めます。


 (3) 現状は、個人も集団も育たない

 日本の憲法全体が個人の尊厳という基盤の上に成り立っています。しかし、個人主義の行き過ぎを心配する人たちが、教育に集団主義の影響を強く及ぼしてきました。いっぽう教育は個人主義の影響も強く受けています。
 そのため、現在の教育は、個人も育たない、集団も育たない、という最悪の中途半端な状態にあります。しかし、日本国の憲法は成熟した個人による民主主義運営を定め、実際の社会もそのように構成されています。個人として生きることは、必然的に、自分で責任を取り、社会と調和することにたどり着きます。個人主義の弊害が強く現れるのは、教育に競争が持ち込まれたときです。
 いっぽう、集団への忠誠もまた、大事な徳目の一つです。それを求める人たちが否定されるべきではありません。教育を多様化して、忠誠を中心とする私立学校も設立可能にすべきです。すべての教育機関に同一の理念を求めることは、すでに不可能です。


 (4) 教育基本法は深くて柔軟である

 教育基本法は、米国の占領下にありながら、田中耕太郎氏(東大法学部教授、文部省学校教育局長、文部大臣、最高裁判所長官、国際司法裁判所判事)の主導により日本側が自主的に制定したものです。その深さと柔軟性は、アメリカ側の思想を上回る水準にあります。入念な国際比較や歴史研究と、全国民的議論を経ずに改廃すべきではありません。
 一人一人に完璧に対応することはもちろん不可能ですが、そのことは誰でも知っています。誰でも、実行可能な最善を求めているだけです。しかし、原則が確立されていることは、とても重要です。教育基本法の条文にあれば、新しい法や制度を作れます。
 「国民に対し直接に責任を負って」とする変更は、教師・学校側の、生徒と親に対する対応義務を生じます。また、学校運営に対する生徒と親の参加を制度化することが必要になります。
 教育基本法制定の推進者である文相田中耕太郎は、教育基本法第10条に関して「教育は一般行政のように官僚機構を通じて、間接的に責任を負うのでは不十分である」と述べています。このことに私は、全面的に賛成です。父兄の要望に対して学校が対応・説明義務を負うこと、学校評議会のようなものを作り、父兄代表と生徒代表を、権限をもった形で参加させることが適切です。



9 基本法制に必要な原理

 日本の教育制度の根幹となる原理であり、実行されているにもかかわらず、はっきりと条文化されていないものが二つあります。
 ・地方自治
 ・教育の一般行政との分離
 この2点は、極めて重要な原則であるにもかかわらず、憲法にも教育基本法にも盛り込まれていません。これは、戦後教育法制の欠陥であります。
 さらに
 ・学校自治
は、高い教育水準を保つために、どうしても必要な原則です。
 いじめ、不登校等の頻発を反省し
 ・児童生徒の人権保護
も基本法制に必要です。子どもの人権保護は、大人以上の配慮を要します。
 これらは、憲法あるいは教育基本法が改正されるときには、盛り込まれるべき条項です。

 現在は教育改革が始まった段階であります。今後10年程度の経過を見定めたうえで、基本法制の改正に着手するのが適切です。憲法と教育基本法はそれを許すだけの柔軟性を持っています。現在、改正しようとすると、いままでの発想の延長上のものしかできません。


W 不登校問題解決の見通し

 不登校問題に関して、民間がかなりの成果を挙げているのは、「不登校」という枠組みからはずれ、制約がなく、まったく白紙から、生徒だけをよく見て対応することが可能なためです。児童・生徒が「この人は自分を人間として見ている。自分を変えようとはしていない」と安心するとき、はじめて道が拓かれます。
 文部省、学校、教師側には、すでに確立された教育観と、行動様式があるため、現在のシステムの中で解決できるケースは、最善で全体の2〜3割程度と思われます。

 「不登校の子どもたちが行く場所」として教育機関を作りますと、子どもたちは「不登校」のレッテルを貼られ続けます。「不登校」は、行政上の区分にすぎません。その教育機関が「収容所」と見なされる危険があります。また、学校にいけない子どもたちがこんどは、新しい教育機関に「行かされる」ことになり、いっそうの悲劇を生み出します。これは、不登校問題の解決になりません。
 不登校問題を解決するには、通常の学校のほかに正統とされる教育機関が存在し、子どもがそれを自由意志で選ぶことが必要です。

 次のような教育機関は、不登校問題を有効に解決することができます。

1 義務教育の一つであることが法的に認証されている

2 学校教育法の規制の外にあり、教育の方法と内容の自由がある

3 教育者が、子どもと親にのみ責任を負い、他の指揮を受けない

4 「不登校生徒」のみの学校ではないこと

5 設立が容易。ただし、長期存続を可能にするため助成が必要。親の負担では維持が困難である。

 不登校問題の解決は、次のような経過を予想しています。
1 学校教育法によらない民間の私学の設立を容易にする。別な法律で自律性を保障した上で、教育委員会の所轄とするのが最善であるが、これは時間を要するので、事情に応じてよい。
  この私学の中に、教育観を一新したものが現れる。従来の教育を受け入れることのできなかった児童生徒が、これを受け入れる。現在もこれは進行しつつあるが、進行は遅い。その理由は、
  ・父兄の間で公立校への就学義務が固定観念になっていて、他の機関の利用を怖れ  る。
  ・父兄の経済的負担が大きく、一部の者しか利用できない。
 ことである。法的認証と経済的助成が始まれば、急速に進行する。
2 そのような民間私学が次々と設立される。しかし、教師養成、施設充実に手間取るので、多数の児童生徒を受け入れるには至らない。教育主体は生徒であること、義務教育は単一ではないという考え方、人間尊重倫理の具体化が広まってくる。
3 公教育の一部に、不登校問題の核心を理解した学校が現れる。核心は人間関係にある
4 公教育のかなりの学校が、児童生徒に対する理解を深め、人権問題と教育法を改善する。ただし、人的要素が強いので、他を模倣するだけで簡単にうまくいくものではなく、時間を要する。

 これは、最低でも10年を要する事業になります。ある教育機関が、すべての不登校児童生徒に適するということはあり得ませんので、多様な教育機関が少しずつ吸収していくことによって解決されていきます。不登校問題は、人間の心の機微に触れた部分が重要になりますので、校舎を造ったり、法律を作ることで簡単に解決するものではありません。学校の自律的運営が、最大の要点になります。

X 結語

 戦後教育もまた、政治の影響を強く受けています。文部省対日教組の対立が制度の硬直化を招いたこと、産業界からの要請に応えすぎて、教育が狭い”人材養成”になったこと、が大きな問題です。将来的には、司法制度にならって教育を政治の手がいっさい届かないところに移すべきです。

 官僚制による教育運営の弊害が大きいことは、教育行政が不要であることを意味するわけではありません。教育は、法律による保護と予算と人権擁護がなければ、存続が難しいものです。

 教育において、行政当局、教員、生徒、親の四者の適切なバランスがとれたとき、すべての人は協調的に活動することを始めます。いずれかの発言権が不足したり過剰だったりすると、四者のいずれかが攻撃的になったり無気力になったりします。

 教育の再生は、かんたんに手が届くところにあります。
文部科学省が、人々の善意と能力を信用するとき、教育再生が始まります。

 教育のもう一つの大きな病弊は、受験競争と点数主義です。これは、法制に由来するものではありません。法制や規則によって解決を図ると、教育の自律性を侵し、さまざまな弊害が予想されます。受験競争と点数主義の問題は、教育哲学・教育実践の問題として、法制とは別の次元から解決が図られるべきです。



【参考資料】
 多くの資料を参考にしましたが、次の2冊に特に多くを負います。本稿の趣旨は教育基本法の生みの親である田中耕太郎氏の啓発によるところが大です。氏の識見は卓抜なものであり、今の時代も照らします。
「昭和戦後史 教育のあゆみ」 読売新聞戦後史班編 読売新聞社 1982 
「教育基本法の理論」 田中耕太郎著 有斐閣 1961