冗談の部屋


タキの歴史

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 タキというゲームがいつごろ歴史に登場したのか、それは予想外に古い。 メソポタミアの遺跡から出土した石版には、楔形文字でタキという文字が読み取れるものがあり、おそらくこれがタキの最初の形であると思われている。 タキを現在のルールに完成させたのは、ローマ時代の歴史家、タキトゥス(縦120-BC55頃)であると言われ、タキという名前はタキトゥスが自分の名前を冠したものという説がある。 そしてこの時をもってタキの発生とする歴史学者も少なくない。 しかし、メソポタミアの石板を見る限りその説には無理がある。 おそらくタキトゥスの方が、ゲームから自分の名前をつけたものと解するのが正しいであろう。 ローマ市の中心部、フォロ・ロマーノの丘に残るタキトゥスの神殿は2本の柱の上に十字架を乗せた形をしており、これは+2カードをデザインしたものと考えられている。 当時はまだ十字架が宗教的な意味合いを持っていなかったことからものこのローマ数字の2の上にある十の記号は加算記号以外の何物でもない、と歴史学者達は考えている。 ローマからギリシャに渡ったタキは、アテネの知識階級の間でももてはやされた。 彼らはそのスピーディーさをこよなく愛したといわれ、現在のギリシャ語のタキ(fαZt,=早い)という言葉の語源となっている。 中世にはタキは貴族のゲームとして流行した。 彼らはタキをファミリーゲームでなく、論理と技術の思考型ゲームと見てプレイしていたようである。 タクティクス(戦略)という言葉の語源がタキであることは、ほとんど知られていない。

 タキは日本には中国を経て伝わったと考えられている。 中国には宗の時代に伝わったと見られ、その時代の遺跡からタキのスコアシートと見られる竹が発見されている。 名称には多岐という漢字が当てられているが、これは選択肢が数多くあることから付けられたものと思われる。 実際の音は中国にタキを伝えたペルシャの別名タキ(turkey)からきており、カステラ同様タキ国のゲームという意味で使われていたのである。 当時の中国でタキは金品を賭して行なわれていたようで、凝りすぎて財産を失うようなことも珍しくなかったらしい。 当時の主要な財産が羊であったことから「多岐亡羊」という言葉が生まれ、現在まで残っている。

 日本に伝播した正確な年代はわかっていないが、室町時いたことが明らかになっている。 この時代,タキは盛んに遊ぱれていたようで、奥義の書ともいえる「タキの白糸」が著されている。 また各地の寺社ではしばしば「タキ技能」と呼ばれるタキの技を競う大会が開かれていたようである。 この催しは、前座として行なわれた舞だけが現在に残っている。 また戦国時代には、タキは武将たちの陣中の遊ぴとして流行したが、 中でも甲斐の武田信玄はこのタキを非常に好んだらしく彼の旗印「割菱」はタキのチェンジカードをデザインしたものといわれている。

 江戸時代に入ってもタキは遊び続けられた。 兵庫県の滴翠美術館に収められている「あかのたき」は現存する日本最古のタキカードで、17世紀初め頃のものと言われている。 タキの文字がなく、滝の絵が使われていることは当時、タキが文字の読めない層にまで浸透していたことを示すものとして責重な資料である。 長崎市の出島資料館にも1枚のタキカードが収められている。 江戸のかるた職人三池住貞次の手によるカードである。 先の「あかのたき」から百年ほど後に作られたこのカードには実に興味深い話がある。 時は折しもキリスト教禁止令の最中であった。 タキカードば+2の+を十字架と誤解され、禁制の対象となった。 タキカードは没収され、町の至る所で燃やされたと言う「タキ人」という言葉はここから生まれたのである。 しかし、庶民のタキをしたいという思いは強く、その意に応えるべく秘かにタキカードを作り続けた三池住貞次は捕らえられ磔刑になったと伝えられている。 キリスト教信者たちも+2の+を十字架と考えたため、何組かのタキカードが長崎一帯に運ばれて遊び継がれた。 当時、キリスト教信者の問で「江戸のタキを長崎で打つ」という言葉が流行したと言われている。 長崎藩が寛容であったこともあって、タキはまたたく間に長崎中に広まった。 この頃長崎に住んでいた医師フォン・シーボルトもタキを愛好した一人であった。 特に彼の妻は熱狂的なタキのファンで、会う人ごとにタキを勧めたため、周囲から「おタキさん」と呼ばれて親しまれたと言う。 しかしその長崎でも隠れキリシタン狩りは激しさを増し、タキも禁止されることとなった。 そしてぽとんどのタキカードは焼かれてしまったのであった。 残ったもののうち,あるものは山中に逃げた隠れキリシタンの手によって熊本県の人吉地方に持ち込まれ、十字架を外して「うんすんカルタ」と姿を変えて現在も生き続けている。 またあるものは娼婦や商人の手を通じて出島に運び込まれたのである。 しかし現存しているのは、資料館にある1枚しかない。

 明治時代になって禁教令も解かれると、タキは復活した。 が、大衆に知られるには至らなかった。 九州の山間部で細々と遊び継がれていたタキを世に広めたのは一人の作曲家だった。 大分県の竹田に生まれ,幼い質からタキをして育った彼は、タキを広めようと自らタキ廉太郎と名乗り 「向上のタキjという曲を作って普及に努めた。
 昭和の初期には日本第一号の歌手、佐藤千夜子が、鳥倉千代子の「からたち日記」の原曲「からたき日記」を吹き込んだ。 このレコードは当時としては破格の1万5千枚を売り上げ戦前に一度だけ行なわれたレコード大賞を受賞している。 またそのため「カラタキ」という言葉が流行し、この年の流行語大賞を受賞したと言われている。 この影響を受けて、北原白秋も「からたきの花」という詩を発表している。

  からたき日記

こころでタキと 叫んでも
口では言えず ただあのカード
小さな札をかたむけた ああ
あの手はむだ むだと場札に赤い ほのかな
  からたき からたき からたきのカード

 だが太平洋戦争のため,タキカードを含めてすべての資料が焼けてしまったのである。 このため日本におけるタキはここで絶滅してしまったのである。 しかし戦後30年を経て,再びタキは日本の歴史に顔を出すことになる。 日本のゲーム会社がイスラエルにあったタキを輸入したのである。 このイスラエルにあった夕キこそ、200年前、長崎の出島から才ランダ人によってヨーロッパに運ばれたものに他ならないのである。
 こうしてタキは再び日本の地を踏むこととなった。 しかし、しばらくの間は他のゲームに埋もれ、日の目を見ないでいた。 そのタキを発掘したのは高橋浩徳であった。 彼は一目見てタキの歴史と重みを感じ取り、直ちにボードウォーク・コミュニティーのメインゲームとして採用したのであった。 そして、瀧慶治との出会いにより、タキの運命は急速に上昇していく。 1988年4月、第1回タキ大会が開催された。 このとき、日本におけるタキの地位が固まったと言って良いだろう。 それから5年を経た今年、そのタキ大会は第10回を迎える。 日本のタキは大きな節目を迎えたと言って良いだろう。 この成長に当会が大きく貢献していることは誇りである。
 現在、タキは30か国語に訳され、世界80カ国でプレイされているという。 今世紀末にはオリンピックの正式種目となるという話もあり、また世界大会の噂も出ている。 今タキはさらに飛翔のときを迎えようとしているのである。 その場に居合わせられる我々はなんと幸運であることか。


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