現在ではゲームといえばコンピューターゲームのことと言って良いでしょう。 ボードゲームとは敵対関係にあるように言う人もいますが、 コンピュータゲームの登場によってボードゲームが大きな影響を受けたことを考えれば、 その動向は無視できないものです。
そのコンピューターゲームはどのように生まれ、変わってきたのか、 ファミコンの出現までをここに紹介してみましょう。
1944年
アラン・チュリングが真空管式電子計算機を作りました。1946年
ENIACが作られました。1949年
ケンブリッジ大のコンピューター、EDSACで、3目並べプログラムが作られました。チック・タック・トゥというゲームです。
この頃はディスプレイの解像度が低いため、高度なゲームはできませんでした。 しかし、画面無しでも結果を計算するだけのものはあったはずです。 データを入力し、結果は印刷でも、ゲームは成り立ったのです。1950年
アラン・チュリングがチェス・プログラムを作りました。1952年
ニューヨーク、ブルックヘイブン研究所のウィリアム・ヒギンボーサムがコンピュータゲームを作りました。 彼は研究所の見学者が硬い説明を聞いてうんざりしているのを気の毒に思い、 何か面白いことができたら見学者も楽しんでもらえるだろうとゲームを考えたそうです。 作ったのは直径5cm程のオシロスコープ上で遊べるテニスゲーム。 人間がリアルタイムで操作し、画面上で遊べるという点では、世界最初といって良いでしょう。 もちろんこれは商業化されたわけでもなく、名前もつけられないままとなりました。 歴史的には世界最初のコンピュータゲームということになっています。 しかし前述したように、画面を使わないものであれば、もっと前からありました。1958年
始めてチェスプログラムが人間に勝ちました。 相手はそれまでチェスをしたことがなく、一時間前にルールを教えられた人間でしたが、それでも快挙だったと思います。 研究者たちは、いつか世界チャンピオンに勝てる日が来るかもしれないと思ったのでしょうか。1960年
タイトーが大阪の近鉄上六駅前に初めて本格的な大型アミューズメント施設を開設しました。 まだビデオゲームは無く、射撃ゲームやピンボール等でした。1961年
TX−0というコンピュータ上で動く、「迷路のネズミ」というソフトが発表されました。 迷路の中を探索し、出口を見つけるもので、動作中人間は手出しをできません。 ゲームはゲームでも、プログラムの出来を競うゲームという感じがします。1962年
マサチューセツ工科大学(MIT)のスティーブ・ラッセルがDEC社のミニコン、 PDP−1上で動くゲームを開発しました。 「スペース・ウォー」という名前で、宇宙船が撃ち合うものでした。1963年
日本で第1回アミューズメントマシンショーが開かれました。1967年
家庭用ゲーム機の試作機、ブラウンボックス(BRAUNBOX)が作られました。 しかし発売には至りませんでした。1971年
ノーラン・ブッシュネルが宇宙で宇宙船が打ち合うゲーム「コンピュータ・スペース」を開発しました。 ノッチング社が発売し、世界最初のアーケードゲームとなりましたが、操作が難解で流行りませんでした。 ノーラン・ブッシュネルはノッチングを退社し、友人とアタリ社を創りました。 彼は囲碁の有段者で、あと一つで敵の石を取れる状態の用語「当たり」から名前を採ったのでし。
東京の新宿に初の本格的メダルゲーム場「ゲームファンタジア・ミラノ」が開設されました。1972年
ノーラン・ブッシュネルのアタリ社が世界最初の大衆向けアーケードゲームを発表しました。 テニスゲームの「ポン」です。 画面の両端にパドルが表示され、コントローラーを操作することによってこれが上下し、飛び交う球を打ち合うゲームです。 ポンと言う名前はパドルが球を打つときの音と、ピンポンのポンから採ったそうです。 ポンは15万台を出荷、大ヒットとなりました。
同年、アメリカ、マグナボックス社が世界最初の家庭用ゲーム機、オデッセイ(ODYSSEY)を発売しました。1973年
「ポン」を真似たゲームが発売された。セガの「ポントロン」、ナムコの「エレポン」である。1974年
世界最初のロール・プレイング・ゲーム。「ダンジョンズ・アンド・ドラゴンズ」が発売されました。 ファンタジーゲーム、テーブルトークゲームというジャンルがこのゲームによって生み出されました。 MITS社が世界初の個人用コンピュータ、「アルテア(Altair)」を発売しました。 ビル・ゲイツが作ったBASIC言語を搭載し大ヒットしました。1975年
アタリ社が「ポン」の家庭用ゲーム機版を発売しましたた。
またタイトーがアーケードゲーム「ガンファイト」をアメリカで発売しました。 西部を舞台に2人のガンマンが撃ち合うゲームで、日本製のゲームがアメリカで発売された第一号です。1976年
アタリ社が「ブレイクアウト」を発表しました。俗に言うブロック崩しゲームで、ポン同様、類似ゲームが多数生み出されました。 作ったのはスティーブ・ジョブスとスティーブ・ウォズニアックの2人組。 2人はアップルコンピュータ社を作り、個人用コンピュータ「アップルII」を発売しました。 高額ではありましたが、本格的に個人用コンピュータの時代に突入したと言えるでしょう。
ノーラン・ブッシュネルは、このアタリ社をワーナー社に売却し大金を手にします。
また、フェアチャイルド社が家庭用ゲーム機「チャンネルF」を発売しました。 世界最初のカートリッジ式ゲーム機で、ソフトだけを別に買い足せるようになったわけです。
同年、日本ではNECが日本発の組み立て式ワンボードマイコン、TK−80を発売しました。 東芝はEX−5という個人用コンピュータを発売しました。 当時はパソコンではなくマイコンと言っていました。マイは”私の”ではなく、”マイクロ”の略です。 組立式のため、完成できない人も多かったようです。1977年
任天堂が家庭用ゲーム機「TV−GAME15」を発売しました。 テレビテニス等15種類のゲームができるというものでしたが、テニスにゴールをつけたサッカー、 一人でするスカッシュ、パドルを2枚並べたダブルスなど、若干の変化をつけただけでした。
アタリ社が家庭用ゲーム機「VCS(Video Computer System)」を発売しました。 タンディ・ラジオ・シャック社が個人用コンピュータ、「TRS−80」を発売しました。 キーボードとディスプレイがついていたが、当時としては珍しいことだったのです。
パソコン雑誌、アスキーが創刊しました。 第2号では名作ゲーム「スタートレック」のプログラムを掲載しました。 遊びたい人はそれを自分の機械に打ち込んだのです。1978年
アーケードでは任天堂のオセロが発売されました。 電子ゲームのボードゲーム第一号でしょう。 また、タイトーが発売した「スペースインベーダー」が大ヒットし、街にこのゲームのためのゲームセンターが続々オープンしました。 パチンコ屋がつぶれてインベーダー屋に模様替えする等のことも起こりました。 ゲーム機は喫茶店にも進出し、店頭に「インベーダーあります」等の看板も見受けられました。 百円玉を積み上げて熱中する人間が出るなど社会現象になりました。
アメリカでは家庭用ゲーム機であるアタリ社の「ATARI400」、マグナボックス社の 「オデッセイ2」が発売、個人用コンピュータとして、コモドール社の「PET2001」などが発売されました。
その他アーケードでは潜水艦を爆雷で攻撃するセガの「デプスボム」がヒット。 アタリの「フットボール」が発売されました。世界初のトラックボールを搭載したゲームでした。1979年
アーケードでは車を走らせ、妨害者にぶつからないようにすべてのコースを走るセガの 「ヘッドオン」、インベーダーの攻撃を多彩にしたタイトーの「ギャラクシアン」がヒットしました。 電気音響の「平安京エイリアン」は、東大生が作ったということが話題になりました。
個人用コンピュータはNECの「PC−8001」、シャープの「MZ−80」、富士通の 「FM8」が発売され、国内も本格的なパソコン時代に突入していきました。1980年
アーケードではパックマンがヒット。 アメリカでは日本以上の大ヒットとなりました。 家庭用では任天堂が「コンピュータTVゲーム」を発売しました。1981年
アーケードゲーム機としてサンリツが麻雀ゲーム機「ジャンピュ−ター」を発売しました。 テーブルゲームは時間がかかり、ゲームセンター向きではありませんでしたが、 「ジャンピューター」は上がった点数が時間に反映される方式で大ヒット、 ゲームセンターに大人を呼び込む大きな元となりました。
同年、エポック社がカートリッジ式の家庭用ゲーム機「カセットビジョン」を発売。 タカトクは携帯用ゲーム機「カード&デジタル」を発売しました。1982年
NECが安価なパソコンである「PC−6001」を発売しました。 「パピコン」の愛称で10万円を切る価格で発売され、普及に弾みをつけました。1983年
アーケードではナムコの「ゼビウス」がヒットしました。 アクションゲームだがストーリー性を持たせ、後のゲームに大きな影響を与えました。 麻雀では初の脱衣麻雀である「雀豪ナイト」が発売され、ますます大人を惹きつけることとなりました。 家庭用ではアタリが「ATARI2800」別名VCS(ビデオコンピュータシステム) を発売しましたが、この年発売されたもう一つのゲーム機に天下を奪われることとなりました。 任天堂の「ファミリーコンピューター」でした。