1960年代、スチューデント・フェスティバルと学生音楽活動を二分したといって良い「オール・ユー・ジュビリー(ALL・U・JUBILEE)」の創設・運営者であり、また自らも「オザーク・マウンテニアーズ(OZRK・MOUNTAINEERS)」を率いて活動している東理夫氏の著書「湘南」から、当時の若者がブルー・グラスミュージックにのめり込んでいったきっかけなどをご紹介します。

湘 南

東 理夫

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 1960年代後半、世界はフォークソング・ブームのただ中にあった。心情を素直に吐露する歌やベトナム戦争に反対する曲が、あの時代の若くやわらかな心に深くしみこんでいった。その一方の教祖のような存在が、ピート・シーガーだった。反戦フォークシンガーの大家である彼は、確か労音に呼ばれてやってきたのではないかと思う。
 秋の一日、上野文化会館の小さな会議室で彼の講演があり、マス・メディアや音楽関係者、熱心なファンたちが集まった。ぼくもその一人だった。話も半ば、ぼくたち日本のフォーク・ミュージシャンがアメリカの曲ばかりやっていることを知った彼は、なぜ日本の曲をやらないかと聞いた。日本民謡という素晴らしい音楽があるのに、なぜそれをやらないのか、と詰問口調で、むしろ難ずるような口ぶりだった。
 アメリカ人はアメリカの民謡(フォーク)をやっている。日本人は日本の民謡(フォーク)をやるべきだ。
 もっともな論理だったが、ぼくに限っては無理な注文だった。ぼく自身はアメリカのフォーク・ミュージックが好きで、日本の民謡をどうにかしたいと思っていたわけではなかったからだ。いや、世界の他の国のどの民謡でさえ、やりたくはなかった。ただアメリカのフォークソングが好きなのであり、そのフォークの歌い手の一人であるピート・シーガーが好きなだけだった。
 それでも彼の忠告に従い、ぼくは何度か日本民謡を取り上げようと試みた。だがどれもほとんど失敗だった。
 日本語で歌うフォークがぼちぼち出始めていた頃で、いずみたくと永六輔が新しい日本の歌を作り始めていた頃だった。アングラと呼ばれる反戦フォークも、そろそろ芽生えていたかもしれない。あの頃、高石ともやは、スターになっていただろうか…。
 少なくともぼくは、外国の音楽を聞いて育ってきた。ことにアメリカの音楽の洗礼を受け、それに首までつかり、それだけをカッコいいと思い、心をわきたたせ、そしてやすらぎ、そういう曲を自分でも歌いたいとギターを手にしたのだった。日本の民謡はぼくにとっては、ベトナムや中国、バリのガムラン音楽やチベットのホーミーのように遠い存在だった。
 だがピート・シーガーの言葉で、ぼくのアイデンティティそのものを揺り動かされるような気持ちになった。自分はアメリカ人なのだからアメリカの曲をやる。きみらは日本人なんだから…。ならアメリカ音楽好きな日本人はどうしたらいいのか…。
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 初めてギターを手にしたのは、高校一年の時だった。購ったのは町の楽器屋で、黒く塗られたFホールのピック・ギターだった。カントリーをやるのなら、なぜ丸穴(ラウンドホール)のギターを購わなかったのかと思うが、おそらくはその頃大流行していたロックンロールのスターたち、「ロック・アラウンド・ザ・クロック」のビル・ヘイリーや「ビーバップ・ア・ルーラ」のジーン・ヴィンセントたちが弾いていたのが、Fホールのエレキ・ギターだったからにちがいない。
 あの頃のエレキ・ギターは、ジャズのリズム・ギターに電気を通したチャーリー・クリスチャン型が多く、レス・ポールのようにセミ・アコースティック型は特殊だった。だからぼくも、エレキ・ギターはやらないにしても、あの派手やかで、いかにもプロ好みのシェイプを持ったギブソン型のピック・ギターを選んだのだと思う。
 ぼくのもまた、ギブソンだった。ただし、GIBSONのBがVになった、ギヴソンだった。いくらで購ったか覚えていない。けれどネックが太くて往生したことは、今もはっきり覚えている。その頃のぼくは、一方で模型飛行機に熱中していた。まだプラスティック・モデルも無い頃で、ほとんどが木を削ってのソリッド・モデルだったから、ネックを細くすることなど半ばお手のものだった。今だったら、音のバランスやらネックの強度やらを考えてそんなことやりはしないけれど、その時は一生懸命だった。切り出しとガラス片とサンドペーパーを使って、ようやく握りやすくした。
 今では、そのギターがどこへ行ったのか、まったく覚えていない。誰かに貸し、そのままになってしまったのだろうと思う。その後二台、三台と腕が上がるにつれ購った。それらもまた最後の一本を残してすべて手許にない。どうやらぼくは、楽器において一夫一婦主義らしい。ギターが二本あるとどちらもおろそかになってしまうようなところがある。ネクタイは一度に二本購うなという説がある。どちらかがより気に入ってしまって、もう一本の方をあまりかまいつけなくなるからだという。まさかギターは二本同時に購わないけれど、二本持っているとどちらかに力が入るというのはわかる。そして両方ともわけへだてなく弾いてやろうとすると、なんとなくどちらもおろそかになってしまうのだ。まったく、自分でも不思議でしょうがない。
 カントリー・ミュージックを好きになったのは、小学校の高学年の時だった。それまで朝から晩までかかっていてBGMのようだったWVTR(進駐軍放送)にがぜん心ひかれたのは、一人の歌手の死を伝えるニュースと彼を追悼して一日中流した彼のヒット曲の数々によってだった。それがカントリー・ミュージックをポピュラー音楽に進出させた不世出のシンガー・ソングライター、ハンク・ウィリアムスだった。それから彼のファンになった。彼の曲を歌いたくてギター を買い、そのために必要なコードを覚えたのだった。
 高校に入ってから、一挙に何もかもがはじまったような気がする。時代はロカビリー・ブームだった。日劇の周囲を取り巻いた連中のぼくも一人だった。バンドを組んだのはギターを買うと同時で、いや、バンドを組みたいがためにギターを買ったといった方があたっている。
 なぜそんな大それたことを考えたかというと、その頃進駐軍関係者の子息たちのレコードが出たことも原因だった。ぼくらとほとんど同じ年齢の彼らは「トウィンクル・トウィンクル・リトル・スター」をアレンジした「ホエア・アー・ユー・リトル・スター」をEP盤に吹き込んで売り出した。それがいかにも素人臭くて、もしかしたらぼくたちにもできるのではないかと思えたのだった。そのバンドの名前はとっくに忘れてしまったけれど、その曲はいまだに口ずさむこと ができる。
 そうやってぼくの音楽づけの青春時代が始まった。よく練習した。ぼくの家でだったり、メンバーの家でだったりまちまちだったけれど、よく泊まりがけでやっていたことを考えると、いったいいつ勉強していたのかと、遅まきもいいところだけど心配になってくる。
 練習が終わって、そのまま車で湘南へ出かけていくことがよくあった。第三京浜も横浜新道も、とても洒落たハイウェイだった。そこを走ると、自分が最先端を行く若者のように思えた。
 ぼくらの音楽は、ブルーグラス・ミュージックと呼ばれるものだ。カントリー・ミュージックの一種だけれど、もっとプリミティヴでオーセンティックな演奏法と演奏態度を持っている。使う楽器はバンジョー、フラット・マンドリン、フィドル(ヴァイオリン)、それにベースとギターの五つが基本で、ぼくらはフィドルのかわりにスティール・ギターの前身ともいうべきスライド・ギター<ドブロ>を使っていた。
 もともとは移民たちのとどまったアメリカ大陸東部の山岳地帯アパラチア地方で生まれ育った古式豊かな音楽なのだが、ビル・モンローというケンタッキー生まれの男がジャズ・コンボ・バンドの編成と形式を真似て近代化し、1945年に作り上げた。モンローの生まれ故郷のニックネイムにちなんで、ブルーグラス・ミュージックと呼ばれている。
 それは若い連中が熱中するに足る面白い音楽だ。腕が上達すればするほど即興演奏(インプロヴィゼイション)やくずし(フェイク)を多用するスリルあふれる点や、どの楽器もアンプやスピーカーを使わないので音は自然のまま短く切れてしまうために、必然的にテンポは早くなり、そのドライブ感に満ちた曲調が若い血をたぎらせるのである。なるほどカントリー・ミュージックの一種ではあるだろうけれど、カントリーほどショー化せず、むしろ知性に訴える要素が強く、モダン・ジャズとよく似た趣もあって、今も大学生たちの間で根強い人気があるというのもうなずけないではない。
 ぼくらは大学の軽音楽部に所属していなかったから、自分たちのステージは自分たちの手で確保しなければならなかった。あの時代、演奏できるところとはそうたくさんなかった。そう上手でないことも、ハンディ・キャップだった。出演させてくれるところを探してうろうろする日がつづいた。
 一番簡単に演奏をさせてくれたのは、療養所だった。患者たちの慰問ということで、どれほどの病院、療養所、ホームなどを廻ったろう。予想外のリクエストをしてくれるのは結核の療養所で、みんなラジオを聞くことが多く、そのうちこの手の音楽の名前を覚えるのだということだった。反応がなかったのは精神病院で、それは仕方なかったと思う。逆に拍手が多かったのは、知恵遅れの子供たちの施設だった。カントリーだのブルーグラスだのに関係なく、楽しくいい曲であれば、そしてぼくらが一生懸命やれば、喜んでくれた。
 そうやっているうちに、少しずつ腕もあがって、あちこから演奏依頼がくるようになった。大学の一年生の頃だろうか。高校から大学にかけて、ダンパーと称するダンスパーティーを開くことが盛んだった。会場を借り、バンドを雇い、パーティー券を印刷して仲間に売りつける。手っ取り早く確実な金儲けだった。あれは集団見合いだったなと、今になって笑ってしまう。
 ぼくらはそのダンス・バンドとして呼ばれた。カントリーやブルーグラスで踊るのは難しかろうが、若い男女は気にもしていないようだった。ツイストなんかまだ上陸しておらず、モンキーもサーフィンも影さえなかった。
 フルバンドかジャズ・コンボと交替で、何曲かずつ演奏する。バンドが入れ替わる時ワルツの曲で受け渡すので、たいがいは「テネシー・ワルツ」で交替した。ぼくらの演奏では踊りにくかったのはすぐに分かった。それまで組み合っていたカップルが一組離れ、二組離れして、ホールはやがて閑散としていった。それでも嫌がられずパーティーに呼ばれ続けたのは、きっと壁にもたれての、ご歓談、の時間によかったからだろうと思う。今も結婚式で、「ここらでご歓談ください」という司会者の言葉を聞くと、頬がゆるんでくる。
 あの時代、湘南海岸の音楽的縄張りは慶応であって、ぼくらの学校は房総の海岸だった。連中は葉山にキャンプストアがあり、ぼくらのは館山だった。広告研究会が企業から金をもらい、広告や経営やらの実習をするという体のいい宣伝媒体で、何度かちょっとモダンな海の家のステージに呼ばれて演奏した。けれど学校とは縁の薄いフリーのバンドだったから、もっぱら湘南に出かけていった。
 よく葉山で合宿をした。ひと夏一軒の家を借りた。入れ替わり立ち替わりいろんな友達が泊まりにきていて、あの費用はどこから出ていたのだろうと不思議に思う。
 夜になるとギターを持って砂浜に行った。近所の、やはり家を借りている女の子たちもきていた。ぼくはどちらかというと、音楽係だった。二人一組、砂浜に寝転んで星空を眺めている連中を横目に、なんだかいつも「砂に書いたラブレター」を歌っていたような気がしてしようがない。
 大学の卒業が間近になり、ぼくはその頃人気絶頂だったジミー時田とマウンテン・プレイボーイズのバンドに入った。メンバーの一人がプロになって、ぼくらのバンドも終わりに近づいていた。それぞれが就職に頭を悩ましてもいた。
 ぼくらのバンドは湘南とともにあった。バンドの活動が緩慢になると同時に、湘南へ行く回数も減り、バンドが消滅すると湘南からも遠ざかっていった。プロのバンドが忙しくなっていったぼくは、また別の道を歩きはじめていた。
 フォークソングが流行りだし、また湘南が大きく目の前にあらわれてきた。フォークソングのコンテストが、茅ヶ崎や逗子の浜辺で開かれもした。葉山マリーナのプールサイドでコンテストがあり、そのころぼくは審査員で行ったりした。テレビ神奈川(TVK)が開局してフォークの番組がレギュラーで放送され、ぼくはそのスタッフの一人としてよく湘南にも出かけていった。
 ぼくの音楽は、いつも湘南と結びついている。今も湘南の海を見ながら車を走らせると、吹く風の中にあの頃の曲が聞こえてくるようだ。
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「湘南」早川書房 1993年10月31日初版発行。著者 東 理夫(ひがしみちお)文 佐藤秀明(さとう ひであき)写真、より抜粋。
東 理夫(ひがし・みちお)
1941年生まれ。作家。ブルーグラス音楽演奏家。ザ・オザーク・マウンテニアーズを編成し、 学生によるカントリー・ブルーグラスを主としたコンサート団体「オール・ユー・ジュビリー」を創設、運営。テネシー州名誉市民の称号を持つ。「夜もブルースを唄う」「君のブルースが聞こえる」「湘南海岸探偵事務所-センチメンタル シティー ララバイ」」「南青山探偵事務所」「春風はブルーグラスにのって」「アメリカは歌うー歌に秘められた、アメリカの謎」など。ミステリー、音楽、料理の造詣が深く多数の著書・翻訳がある。