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黒い海



静かな水音を立てながら、船は夜の黒い海をゆっくりと進む。
深く、まるで墨のような黒。うっかりしていると、吸い
こまれていってしまいそうだ。
太陽のあるうちに見える透明な水色の海は一体、誰がどこに隠してしまったのだろう。
ダガーはゆっくりと船首のほうに歩いた。
星の出ていない空は、まるで自分の心が映ったかのようにひどく青ざめて見えた。
彼女の育ての母、アレクサンドリアの元女王のブラネは、クジャの手によって亡き者となってしまった。
船はアレクサンドリアへと向かっている。
アレクサンドリアについたら、ダガーは間違うことなく女王に地位に立つことになるだろう。
彼女はおびえていた。
音もなく吹いてきた風が、長く黒い髪をなびかせる。
急に息苦しくなって、ダガーは胸いっぱいに息を吸いこんだ。
だが、海で湿気を含んだ空気は息苦しさを解消してはくれなかった。
彼女は両手の拳を握り締めた。
なんの心の準備もないままに、女王にされてしまう恐怖に。
育ての親が目の前で息絶えていった哀愁に。
それでも、肺の底を突き上げてくるような、吐き気にも似た圧迫感からは逃れることが出来ない。
そのとき、ダガーの背後でぎし、と床が鳴いた。


「起きてたんだ。」
ダガーが甲板に出ていることはわかっていたが、ジタンはあえて驚いたような声色で言った。
しかし、彼の言葉は流れ去っていく潮風にかき消されてしまったのだろうか。
彼女が振り返ることはなかった。
本当は、聞こえているのかもしれない。
ただ、彼女は怒っているのかもしれない。
近づくことが出来なかった。
縁に手をかけて、進行方向をじっと見ているダガーの背中には見えない壁があった。
彼女の見据える方向にはなにがあるというのだろう。
船は向かう、アレクサンドリアへ。
では、彼女の心は、どこへ向かうのであろうか。
女王ガーネット?
ジタンはふぅっと息を軽く吐き出してゆっくりとダガーの隣に歩み寄った。
空との境目がわからなくなってしまった海に目を落とすと、わずかな光の加減で穏やかな波を見分けることが出来る。
「怒ってる?」
極めて短くジタンは尋ねた。
視線をまっすぐにしたままのダガーの横顔を盗み見るようにして。
でも、彼女の表情は海と同じように夜の影に覆われてよくわからなかった。
「そういう風に見えるの?」
返事が返ってきて安心した。
もしかすると、ダガーはなにも答えてくれないかもしれない、と思っていたから。
だが、言葉につまった。
何とか会話をつなごうと口を開けては見たものの、声は出てこなかった。
「怒ってなんかいないわ」
質問に答える必要がなくなって、ジタンは再度安心した。
でも、
ダガーは一度も彼の顔を振りかえることはなかった。身動きをすることがなかった。
決して動くことのない、石像のように。
波が船底を叩く不規則な音が響く。
夜風が冷たい。すっかり冷えてしまった背中に悪寒が走る。
だからといって、船室に戻るわけにはいかなかった。
ダガーをひとり残していくのが、なんとなく恐かったのだ。このままでは、彼女が消えてしまいそうな気がして。
「こわいの」
「え?」
そのとき、ひときわ強い風が吹いて、ジタンにはダガーの言葉が聞き取れなかった。
彼女は大事なことを言ったのだろうか、という不安だけが残る。
突然、ただ闇に包まれた先をまっすぐ見つめていたダガーの頭ががくん、とうなだれて、その視線が船の下の海に落ちた。
か細い肩が僅かにふるえている。
「ダガー?」
思わず、名前を呼んでしまって後悔した。
声をかけてはならなかった。
ジタンは女の子の口説き方を知っていても泣いているときのなぐさめかたまではしらない。
海と、空と、同じ黒色の瞳からこぼれ落ちた雫が木の床にしみをつくった。
「・・・えっと・・・・」
気の利いた言葉、でてこない。
彼が得意とするジョークも、口説き文句も、この空気の中では通用しない。
和ませることのできない空気がまた一段と冷たくなる。
ジタンのほうに向き直ったダガーが、やっと顔を上げた。 潤んだ瞳が赤い。
「・・・ダガー・・・・?」
ダガーの小さな両の手が、きゅっとジタンの服を掴んだ。彼女はそのままそっとジタンの胸に額を押し当てた。
ダガーのすすり泣きが次第に激しい嗚咽に変わっていく。


『人に弱さを見せてはなりません。王女らしく、いつも自信を持って行動しなさい。』
優しかった頃の母が口癖のようによく言っていた言葉がダガーの中に蘇る。
王女らしくとは、どういうことなのだろう。
当時、自由なおてんば娘だった幼いガーネットは毎晩ベッドに入り、眠りに入るまで必死に考えていた。しかし、答えは出てこなかった。
それは、何年もたった今でも同じ。具体的な答えなど、見つかってはいない。
それでも、『人に弱みを見せるな』という母の言葉は彼女の中に根強く残っている。
だから、人に涙を見せるのは、かなりの抵抗があったはずなのに。
なぜか、
助けが欲しかったのだ。優しく差し伸べてくれる手が、女王になるのが恐いと嘆く自分を慰めてくれる存在が、欲しかった。
今は、
今だけは。


ただ「こわい」と震えているダガーが、本当に消えそうに見えた。
ジタンはそっとおびえるその肩を抱きしめた。
彼女の涙で濡れた胸元が冷たい。
いや、冷たいのは、涙のせいだけではないのかもしれない。
ダガーの体は冷えていた。
たぶんジタンが、いないと気づいたときよりもずっと前に彼女は甲板に出ていたのだろう。
もっと早く気づいてあげればよかったものを。
「こわい、こわいよ・・・」
その涙はとどまることを知らない。
船上で聞こえる波の音は、海岸で聞くのとは違うとよくいわれる。
不安げで、淋しげな音色は遠い。
まるで、幼い子供を母が寝かせるときのように、ジタンは規則的にダガーの背中を軽くたたいた。
夜空にすすり泣きが吸いこまれて消える。
相変わらず、月も星さえも、顔をだしはしない。
腕の中の少女が、せめて心行くまで泣けるように、ジタンは少女が泣き止むまで何もいわないことにした。
そして、その時は唐突に訪れた。
「ごめんなさい」
冷たく感情のこもらない声がそう言って、ダガーが服を掴んでいる手を離した。ジタンもそっと身を離した。
「落ち着いた?」
顔を上げずに彼女はコクリと頷いた。
「ごめんなさい」
もう一度、くぐもった声でつぶやくと、彼女はくるりとジタンに背を向けた。船室からは重たげなオレンジ色の光が漏れていて、その光で彼女の後姿が長く影をひいている。
黒い、艶やかな髪は夜闇に溶けて、静かに揺れる。
「ダガー」
声は彼女を呼び止めた。
時は止まる。
「呼んでいいから。泣きたくなったら、またオレを呼んでいいから。」
波が打つ音。星のない空。
「一人で頑張らなくていい。オレ達のこと、忘れないで。仲間だからね?」
ジタンは待った。
彼女が何か言ってくれるのを。
だが、
「ありがとうございます。私は大丈夫です。感謝しています」
傷心の王女は、俯き加減に、そして顔が見えない程度に、わずかに振り向いただけだった。


声は、ダガーに届いただろうか?

他人行儀な言葉は、彼の耳に冷たく痛く響いただけだった。
海の香りを沢山含んだ冷たい風は、近未来の女王の心を冷やしただけだった。
もう、戻ることの出来ない海路を。
惨劇の起こった大陸をあとにして。
船は、静かに、ゆっくりと進む。

Fin.



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