イラストレーター・日暮修一  Syuichi  Higurashi   one's  Personality 日暮修一ワールド・バナー

ビッグな顔 ビッグな顔・画材
  ビッグな顔を描いて35年
  「ラピタ」誌の表紙画を10年
  イラストレーター日暮修一
  『ヒグラシ・ワンダーワールド
     日暮修一の世界展
      '06.4.29〜5.28
 松戸市文化ホール+アートスポット
   ビッグな顔・琴欧州
      ビッグな顔・最近号
ビッグな顔
   ビッグな顔のスタート
ビッグな顔・王監督
   WBCで世界一になった王 貞治氏
        73,76,77,83各年掲載


         <ビッグな顔>1994・小学館・刊より
ビッグな顔・長島氏
長島茂雄氏も72,74,78,80,82,92,93の各年に掲載された

  ☆<ラピタ>表紙画ものがたり 
ホッカイドー 運転室 アームチェア
    ホッカイド〜
 犬がいたので十六年間は不可能だった長旅が解禁された。
第一弾は北海道グランドツーリング。主題は「真っ直ぐ!」
 この場所は道東、斜里町近く、それこそ絵に描いたような直線が伸びた広域農道。
ハンドル、アクセル固定状態でトロトロ走って、それでも追い越すクルマまったく無し。
すれ違ったのは耕耘機一台。
 一時間近く真っ直ぐ走って、突き当たりを直角に折れる。
そこからまた地平線まで真っ直ぐ。 そんな地方道をロードマップで探しまくって、走った走った八日間。
角を曲がるたびにヒャッホー!
  いや〜、良かったなぁ。
               1998.11



 運転室全面展望ビデオ  
 秋田内陸縦貫鉄道に乗った。
吹雪の角館を出発して間もなく、乗客は私たち二人だけとなった。
終着の鷹巣まで、ホワイトアウトに近い前面展望を満喫した。
爾来、「運転室前面展望ビデオ」に嵌った。
 初めて買った500系新幹線、新大阪→博多間2時間17分ノーカット・テープには驚いた。
時速300km/hは殆どスペースワープ気分だった。
かなり目が疲れる。
途中まで頑張って観ていた広島で一泊ということにして、続きは翌日に持ち越した。
 本日は「しおかぜ1号」で岡山から川之江あたりまで行こうと思っている。
 「戸閉め良し、発車、
     出発進行、定時…」
              2000.2
 アームチェア・トラベル
 ロスを出発して数日後。グランドキャニオンの土産物店でビューマスターのステレオ観光写真を発見した。
中学生の頃、なけなしの小遣いを注ぎ込んでは、アメリカ観光気分に浸っていた代物だったからだ。
今でも売っていたんだ!。
気分はすっかり高揚してしまい、以降東に向かう長距離バスが停まる所では、ご当地モノ探しが最優先課題となってしまった。お陰でニューヨークへ着いた頃には、可成りの円盤蒐集に成功していた。
ウチに戻ったら、一杯やりながらこのビュアーを覗いて、長かった旅の余韻をゆっくりと楽しみたい。
            2001.3

日暮修一 日暮修一 日暮修一
日暮修一 日暮修一
日暮修一 ヒグラシ・どら焼
ライカ
       夜な夜なライカ

  30を過ぎて突如天啓が下った
かのように「」F を買おう!」が来た。
いつの間にか、あれ程遠かったライ
カとの距離が縮まっていたのに気付
いたのだ。
 ここからライカとそのアクセサリー
蒐集の深みにスポンと嵌り込んでし
まい、ひたすら中古カメラ店を徘徊
する日々が始まったのだ。
 他のカメラのことなど頭の中から
吹っ飛んでいた。
 じきにM3も戦列に加わって、
広がり増殖する物件をガラスケース
に並べ、置き替えては夜毎ひとりほ
くそ笑むといった、何やら気色の悪い
状況が永く続くこととなったのだ。
           2003.2







    ラピタ表紙画

☆手作り橇

 子供時代、
冬の遊びは江戸川堤の竹ぞりと決まっていた。
町内のガキ共が自慢の竹ぞりを持ち寄って
赤入水門周辺の土手を滑りまくるのだ。

 堂ノ口橋際の竹屋から、
割り竹を短く切り分けて貰い、
焚き火で炙って反りをつけミカン箱を
取り付けただけの至ってシンプルなものだった。
 当時、年末近くには何処のウチでもミカンの箱買いをしていたが、その空き箱が
早く欲しくて、みんな顔が黄色くなる程必死でミカンを食べた。
箱は二丁目の坂田屋果実店のものが良しとされ、子供たちの間でなぜか評価が
高かった記憶があるのだが・・・。

  なんでこんな事、ハッキリ覚えているのだろうか。



☆ラジオ

 自分専用のラジオを持てたのは中学一年の時。まだ民放はなかった。
アメ横の露店で、ホコリを被ったベークライト製のフィリップス、オールウエーブが
一台売れ残っていた。
 持ち合わせの小遣いで買えたのだから、驚くほど安かった筈だ。
実際に聞こえるのは中波だけだった。
  のめり込んだのは進駐軍放送から流れてくるジャズだった。
ここでジャズの面白さを刷り込まれ、そのまんま今に至っている訳だ。

  あの頃いったい何時間くらい眠っていたのだろう。
明け方4時半頃から良いジャズ番組があったのだ。必ずそれを聴いていたのだ。



☆Uコン・カー

 昔、Uコンが流行った。クルマや飛行機模型にワイヤーを取り付け、その端を持って
グルグル回転させるだけという、至って素朴なエンジン模型だ。
近所のお兄さんがUコンを始めたとの情報が入るや、中部小校庭へ走った。
当時のエンジンは矢鱈と掛かりが悪かったとみえ、一度 も飛行や走行を見ぬ侭、
遂には日も暮れてオシマイ、が再々だった。そんな時でも飽かず始動を試み続ける姿を、
少し離れた所からこちらも諦めずに眺めていた。
 すっかり疲れたか、やる気の失せた挙げ句だったのか、振り返って「ちょっと引いてみる?」と
声を掛けられた事があった。無論子供がちょっとヒモを引いたとて、
こじれたエンジンの動く筈はないけれど、何時間もずぅっと見ている小さなギャラリーに、
気を遣ってくれたのだろうな、あのお兄さんは。



☆グローブ
野球

 映画「スタンド・バイ・ミー」の同名の主題曲を耳にするたびに、
子供時代の一コマを思い出す。
 当時、宝光院の境内で熱中していたのが三角ベースだった。
グローブは布製のくたびれた代物だったし、
ベース間にはサルスベリの木が立ちはだかっていた。
それでも私たちは日が暮れてお互いの見分けが付かなくなるまで夢中で
軟球を追い続けた。
 



 
☆模型飛行機
   
拡大

 松戸神社の夏祭り。夜店で「新案拡大縮小自在器」なる代物を買った。
手本をなぞれば、あら不思議、パンタグラフが伸縮し拡大縮小が思いの儘というわけだ。
まさに神の手。
早速手持ちのゴム動力機を2倍の大きさに作り替えることにした。 
 どれ程の日数をかけたのだろう、遂に「一切合切そのまま2倍機」
初飛行の日を迎える。
 夏休みは終わろうとしていた。勇躍、弟共を引き連れての河川敷。
風上に向かい、押さえていた手を外せば
回転を始めた巨大手作りペラが力強い。
ついに機は私の手を離れ…落・ち・た。木っ端微塵だった。

 数年前、偶然A氏との知遇を得た。話しているうちに、
お互いほぼ同時期、同じ模型店通いをしていたことが判り、驚愕した。
いまだA氏には模型飛行機作り卒業の気配など毫も見受けられない。


   

☆クリスマス
サンタ


 幼児体験の中にクリスマスがない。
終戦後 二、三年経った暮れ近くクリスマ スが急にやって来た。
じきに、何かお祭りが来るぞ、訳も判らぬ侭に
クリスマス・イブとか言う日への期待感は高まっていく。
 その晩・・・我が家は赤飯が出る事もなく何時も通り夕食が済み、
いつもの連続ラジオドラマを聴き、
もしやのケーキが出る訳もなく、寝床に入った。
ウチはサンタクロースの配達区域外だと知った。
 大人になり、仕事として何十人のサンタを描いただろう。
今回は正真正銘、
日本で只一人の公認サンタクロースにモデルをお願いした。

 ところでサンタさん。今年辺り是非お立ち寄り頂けないでしょうか?

     ちょっと欲しいカメラがあるのです。




☆モーターボート
ムギワラ


 遊びは江戸川と坂川で殆ど賄えた。
泳ぎは勿論タナゴ、クチボソ、メダカ、ザリガニ、フナ、
運が良ければうなぎ、鯉だって採れたし、ヒバリの巣探し、
葦のジャングル探検、カエルの卵の孵化実験、トンボ釣り、
泥だんご合戦、更には渡し船に乗って川向こうへの大遠征
エトセトラ、エトセトラ。
 江戸川には時折市川の方からモーターボートが現れては、
子供たちの群れる赤入水門辺りで、
何時も鮮やかなUターンを披露しては戻って行った。
爆音が聞こえてくると、誰もが遊びを中断し、土手に駆け上って見とれた。

 今、デッキチェアにアロハシャツなどと
少し気取って描いてはいるけれど、
麦わら帽で過ごした幾度かの夏は、今よりもずっと眩しかった。





☆硬球
硬球

 一度だけ硬球を買った事がある。
小学校から戻り、雨さえ降っていなければ宝光院の境内へ走った。
子供は溢れるほど大勢いた。

その頃、角町の旅館が阪急ブレーブスの宿舎だということを知り、
みんな一斉に三角ベース野球に夢中になった。

 ある日、買ったばかりの硬球を手に夕方の春雨橋を渡った。
此処から先は「よそ」。
ウチから三つ先の町内と言えばもろ外国。大遠征だった。
目指す旅館の前で真っ暗になるまで待ち、
更に大分待ってやっと選手達が戻ってきた。
が、事態は予定とは違った。

 バスから大挙して降りて来たユニホーム軍団に
すっかり肝を潰した私には、その大男たちに
声を掛ける事など不可能だった。
けれどこの侭おめおめとは帰れないよ。と殆どヤケクソ、闇雲にボールを突き出した。
  
 良かった!ひとりが受け取ってくれたのだ。
サインを貰えれば、もう誰のものでも良かった。

 誰のものなのか判読不能なサインボールは、それでも長いこと一番の宝物だった。

                                    
☆日暮修一 略 歴

     1936年千葉県松戸市「日暮酒店」に生まれる

     1942年松戸市立中部小学校に入学(中部小学校跡地に現在の伊勢丹松戸店)

     1970年 雑誌「ビッグコミック」表紙人物画の執筆開始

     1981年 毎日新聞日曜版に「修一・真三のモーニングジャック」連載開始。

     1995年 雑誌「ラピタ」表紙画執筆開始。

     2000年 第45回小学館漫画賞審査員特別賞受賞

      企業広告イラスト・装丁・挿画などで多彩なタッチを駆使し活躍。


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