備考

(平氏と源氏の略系)(中世の歴史)

概観
鎌倉時代(1192~1333)から室町時代(1393~1575)を概観してみる。
古代の末期、荘園制度が定着した頃の900年代の初め、桓武天皇 (在位781~806年)を先祖にもつ平氏と、清和天皇 (在位858~876年)を先祖にもつ源氏は地方豪族となっていた。 荘園とは、奈良時代に開墾が奨励され墾田の私有が認められ、貴族や 大寺院、地方豪族などの私有地が拡大されたものである。

保元の乱後、源平2氏の棟梁の源義朝(1123~60)と平清盛(1118~81) とが対立するようになり、1159年の平治の乱があった。その後、源氏系 (源氏、足利氏、新田氏)、または平氏系(平氏、北条氏)の勢力が 1500年代後半まで続いた。ここでは平氏系、源氏系と分類しておく。 この2氏系間の争い、あるいは内部抗争 が続いた。織田信長(1534~82)が登場し、室町幕府は 第15代将軍・足利義昭(よしあき)のとき1573年に滅亡した。
こうして、中世約400年[鎌倉・南北朝・室町時代] から、 近世約300年[安土・桃山時代、江戸時代] へと向う。

下の記述の中に青文字で示す5名が 「鎌倉五山」を創建した人物であり、紫文字 で示す名は「鎌倉五山とハイキング」の章に出てくる人物である。

年表
 1156年  保元の乱(源為義が死亡)
 1159年  平治の乱(平清盛が勝ち、源義朝・義平・朝長が死亡)
 1167年  平清盛、太政大臣となる。平氏全盛
 1180年  源頼朝、挙兵するも石橋山の戦いで敗北
 1181年頃 源頼朝の弟・源希義、土佐で死亡
 1185年  壇の浦に平氏滅亡
 1188年  足利義兼、浄妙寺を創建
 1189年  源義経をかくまった奥州藤原氏、源頼朝に滅ぼされる
 1192年  源頼朝、征夷大将軍となる。鎌倉幕府の確立
 1199年  源頼朝死す。第2代将軍・源頼家、家督相続
 1200年  北条政子、寿福寺を創建
 1203年  北条時政、執権となり、源頼家を幽閉
 1204年  源頼家、伊豆修善寺で執権・北条時政により暗殺される
 1213年  第2代執権・北条義時、幕府の実権をにぎる
 1219年  第3代将軍・源実朝、源公暁に殺される
 1253年  第5代執権・北条時頼、建長寺を創建
 1274年  文永の役(蒙古来襲)
 1281年  弘安の役(蒙古再度来襲)
  同   北条師時、浄智寺を創建。父の死後、母が幼少の師時(のち執権)を開基とする
 1282年  第8代執権・北条時宗、文永・弘安の役の死者を弔うために円覚寺を創建
 1301年  第9代執権・北条貞時、円覚寺に洪鐘(おおがね、のち国宝に指定)を寄進
 1331年  足利尊氏の父・足利貞氏没
 1332年  天皇親政にすべきと唱えた日野俊基、捕らえられ死亡(のち葛原岡神社に祀られる)
 1333年  新田義貞、鎌倉に攻め入り鎌倉幕府滅亡。後醍醐天皇、京都に帰る
 1334年  建武中興(天皇親政)
 1335年  護良親王、尊氏の弟・足利直義に殺害される
 1336年  足利尊氏、後醍醐天皇を幽閉し光明天皇をたてる
  同   後醍醐天皇、京都を脱出し吉野の山中に逃れた
 1338年  足利尊氏、征夷大将軍となる
 1352年  足利直義、兄の尊氏に毒殺される
 1378年  第3代将軍・足利義満、京都室町に花の御所造営
 1392年  南北朝の合一。南北朝時代から室町時代へ
 1555年  川中島の戦い(武田信玄と上杉謙信の戦い)
 1573年  織田信長、第15代将軍・足利義昭を追う。室町幕府滅亡
 1600年  関ヶ原の戦い
 1603年  徳川家康、征夷大将軍となる。江戸幕府創立
平氏
桓武天皇(在位781~806年)から3代目・高望(たかもち)王が平氏の元祖 である。平氏8代目・忠盛(ただもり、1096~1153)の子が清盛 (きよもり、1118~81)である。清盛のおい・敦盛(あつもり、1169~84) は16歳のとき、一の谷の源平合戦で熊谷直実に討たれた(「楽しい美術館」 →「義経まつり」の章を参照)。

平清盛は平治の乱(1159)で源義朝(よしとも、1123~60)に勝ち、 平氏一族は繁栄をきわめることになるが、この乱で義朝の子・源頼朝(よりとも)、 範頼(のりより)、義経(よしつね)らを生かしておいたために、彼らが 成長したあとで平氏は1185年に滅ぼされることになる。 平氏の栄華はわずか20年ばかりしか続かなかった。

以下の系図において、縦に並ぶ記号「・」「*」または 「+」は兄弟姉妹を表す。
――正盛―忠盛―・清盛(1118~81)―――――*重盛(1138~79)――維盛(これもり)
                     *徳子(1155~1213、安徳天皇母)
        ・経盛(つねもり)―敦盛(あつもり)
        ・教盛(のりもり)
        ・忠度(ただのり)
北条氏(平氏系)
平氏の元祖・高望王から4代目・維時(これとき)が北条氏の元祖である。
北条7代目・時政(ときまさ、1138~1215)が鎌倉幕府の初代執権である。

執権政治:
鎌倉幕府を確立した源頼朝(よりとも、1147~ 99)の死後、第2代将軍・頼家(よりいえ、1182~1204)の もとでは、政治の主導権争いが続いた。そのなかから台頭してきたのが、 頼朝の妻・ 北条政子(まさこ、1157~1225)の実家・伊豆の北条氏であった。 政子の父・北条時政(ときまさ、1138~1215)は 政所(まんどころ)の長官となった。 時政の子・義時(よしとき、1163~1224)は、1213年に幕府の実権をにぎった。 この地位が執権(しっけん)である。

第5代執権・時頼(ときより、1227~63)は とくに裁判制度の確立に努力した。また豪族三浦氏一族をほろぼし、 のち皇族から名目上の将軍を迎えて北条氏の地位を不動のものとした。
第8代執権・時宗(ときむね、1251~84) の時代に文永・弘安の役(蒙古襲来)があった。 第16代執権・守時(もりとき、1295~1333)のとき、1333年に新田義貞 (よしさだ、1301~38)に攻め入られて、約150年間続いた鎌倉幕府は滅亡した。

(○内の数字は執権就任の順)
時政①―・義時②―泰時③―□―*経時④
    ・政子        *時頼⑤―+時宗⑧―貞時⑨―高時⑭(たかとき、1303~33)
                    +宗政――師時⑩(もろとき、1275~1311)
源氏
清和天皇(在位858~876年)から2代目・経基(つねもと)が源氏の元祖である。 元祖の孫が頼光(よりみつ、965前後~1021)である。源氏7代目・為義 (ためよし、1096~1156)は保元の乱(ほうげんのらん、1156)で殺された。 源氏8代目・義朝(よしとも、1123~60)はその子・義平、朝長とともに 平治の乱で死亡。 義朝のおいが木曾義仲(よしなか、1154~84)、つまり木曾義仲と 源頼朝はいとこである。

頼朝(よりとも、1147~1199)は 平治の乱(1159)に初陣(ういじん)したが 敗北し捕らえられて伊豆(今の静岡県韮山町)に流された。 流人生活の間,北条時政の娘・政子 と結婚した。1180年8月に挙兵して、石橋山の戦いで負けたが、運よく 命は助かる。頼朝には異母兄弟合わせて 9人があった。

三人の同母兄弟(頼朝、義門、 希義)のうちの 希義(まれよし、1152~1181前後)は平治の乱後、 土佐(今の高知市介良(けら))に流された。 頼朝の挙兵に呼応しようと したが、平氏方に察知され、討ち取られたか、もしくは自害したらしい。

平治の乱の敗者・源義朝と常磐御前(ときわごぜん)の間に三人の子 (今若丸、乙若丸、牛若丸)があった。常磐は勝者・平清盛に子の 助けを懇願した。清盛は美人の常盤に心をうつし、三人の子は赦免(しゃめん) された。 牛若丸は、七歳になったとき鞍馬山に預けられた。牛若丸、のちの義経 (よしつね、1159~89)は平氏打倒の戦いで頼朝 に加わり、 範頼(のりより、?~1193)とともに大活躍することになる。

1185年に平氏が滅んだ。頼朝は、逃亡した義経 をかくまった奥州の 藤原氏を1189年に滅ぼした。1192年、頼朝 は後白河法皇の死後に、征夷大将軍に任命され、 鎌倉幕府 は名実ともに確立した。しかし、第2代将軍・頼家(よりいえ、1182~1204) の時代になると、幕府の実権は北条氏の執権によってにぎられてしまった。

執権・北条時政は第2代将軍・頼家(よりいえ、1182~1204)を幽閉し、 頼家の弟の実朝(さねとも、1192~1219)を 第3代将軍とする。実朝は おいの公暁(くぎょう、1200~19)によって鶴岡八幡宮の大銀杏の木の そばで暗殺された。頼家もこの暗殺前の1204年に 伊豆修善寺で執権・時政によって暗殺されている。

(○内の数字は鎌倉幕府の将軍就任の順)
―為義―+義朝――・義平
         ・朝長
         ・頼朝①(1147~1199)―*頼家②―公暁
                    *実朝③
         ・義門
         ・希義(まれよし、土佐冠者、1152~1181前後)
         ・範頼(のりより、?~1193)
         ・今若丸
         ・乙若丸
         ・牛若丸(義経、1159~89)

    +義賢――木曾義仲(1154~84)
    +為朝(ためとも)
    +行家(ゆきいえ)
足利氏(源氏系)
源氏の元祖・経基(つねもと)から4代目・義家の孫・義康(よしやす)が 足利氏の元祖である。いっぽう義康の兄弟の義重(よししげ)が新田氏の 元祖である。
源頼朝の忠臣であった 2代目足利義兼(よしかね、1154~99) は「鎌倉五山」第五位の浄妙寺を創建(1188) した。 浄妙寺は「鎌倉五山」のうちでもっとも早い 時代につくられた。 足利8代目・尊氏(たかうじ、1305~58)が室町幕府の初代将軍である。 以前の鎌倉幕府が滅亡後、60年間も続く南北朝の動乱があったが、 第3代将軍・義満(よしみつ、1358~1408)のころには、南北朝合体が実現、 幕府の全国統一が完成した。 義満が京都室町に壮麗な邸宅「花の御所」をつくった。 のちに、この幕府を室町幕府とよぶように なった。
義康―義兼―□―□―□―□―貞氏―+尊氏①―義詮②(よしあきら)―義満③(よしみつ)→
                                  +直義(ただよし、1306~52)

                 →義教⑥―政知―義澄⑪―義晴⑫(よしはる)―・義輝⑬(よしてる)
                                   ・義昭⑮(よしあき)
新田氏(源氏系)
足利氏の元祖・義康の兄弟の義重(よししげ)が新田氏の元祖である。 2代目の新田義兼と2代目の足利義兼は同名の いとこである。 新田8代目・義貞(よしさだ、1301~38)が1333年5月22日、鎌倉に 攻めいって北条氏一族をほろぼし、1333年に鎌倉幕府は滅亡した。
鎌倉幕府の滅亡後、60年間も続く南北朝の動乱があり、動乱初期に 南朝側の後醍醐天皇(ごだいごてんのう、在位1318~39)についた 楠木正成(1294~1336)や新田義貞(1301~38)は戦死した。 そのころ足利尊氏は光明天皇(こうみょうてんのう、在位1336~48)をたて 北朝側にあった。


新田義重―新田義兼―□―□―□―□―□―新田義貞(よしさだ、1301~38)
建武中興と南北朝の動乱
隠岐に流されていた後醍醐天皇(ごだいごてんのう、在位1318~39)は 鎌倉幕府の滅亡後、京都にかえり天皇親政を復活し、翌年(1334年)年号を 建武と改めたので、この親政を建武中興(けんむのちゅうこう)とよぶ。 建武中興で活躍した後醍醐天皇の皇子・護良親王 (もりながしんのう=もりよししんのう、1308~35)は 征夷大将軍となるが、足利尊氏(たかうじ、1305~58)により京都で捕ら えられる。そうして、尊氏の弟・足利直義 (ただよし、1306~52)のもと、鎌倉の東光寺に1334年11月から約9ヶ月間 幽閉される。内乱により足利直義 が鎌倉を放棄するとき、護良親王は28歳のとき 殺害された。

親政に不満をいだく武士がふえてきて、武家政治の再興をはかった のが東国の足利尊氏である。その後、一時やぶれて九州に 逃れていた尊氏は1336年京都を奮回し、光明天皇をたて後醍醐天皇を 幽閉した。ここに建武の親政は3年たらずで崩壊した。

ところが、後醍醐天皇は1336年末に京都を脱出し、吉野の山中に逃れた。 こうして京都の朝廷(北朝)と吉野の朝廷(南朝)とが対立して争う ことになる。北朝では派閥争いがあり、尊氏は弟・ 直義毒殺したり、 そのときどきの都合によって南朝と結んで戦ったり、複雑な動乱が 続いた。結局、幕府は新たな武家政治の体制を成立させることになる。 尊氏の孫・足利義満(よしみつ、1358~1408)の時代になって、室町幕府 が確立する。約60年の長期にわたる南北朝の内乱に終止符がうたれた。

(注)護良親王が土牢に幽閉されていた、 鎌倉の東光寺のあったところに1869(明治2)年、明治天皇が 鎌倉宮を創建している。 土牢は鎌倉宮本殿裏に残っている。


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