M46.富士宝永噴火と災害復旧

著者:近藤純正
富士山宝永大噴火は、1703年の元禄大地震と1707年の宝永大地震に続いて、 1707年に発生した。この噴火による小田原藩の相模・伊豆・駿河領地の コメ収量は大減収となり、復旧するまでに約90年もかかった。火山噴火に よる降砂は降雨時には河川に流下・堆積し、大氾濫を起こした。 神奈川県史資料に見られる年貢米の時代変遷からこの復旧状況を、 さらに天明の大飢饉、天保の大飢饉までの状況を概観した。 (完成:2009年10月12日)

本ホームページに掲載の内容は著作物であるので、 引用・利用に際しては”近藤純正ホームページ”からの引用であることを 明記のこと

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   目次
	46.1 まえがき
	46.2 連続して発生する海溝型大地震
	46.3 富士山宝永大噴火の前後
	46.4 宝永噴火後の酒匂川の水害
	46.5 小田原藩年貢米の量的変化
	46.6 天保大飢饉年の小田原周辺の状況
	参考文献


46.1 まえがき

筆者は1980年代に、天保時代に仙台藩涌谷で書かれた古文書「花井安列の 日記」を解読分析し、天保大飢饉時代の天候を再現し、コメ収量との関係 を調べた。その内容は教科書「身近な気象の科学―熱エネルギーの流れ―」 に掲載し、また、本ホームページにも紹介した。

その天保時代の天候の再現ができた後、日本各地の歴史資料館などを見学 した際には、おのずから、天保7~8年の飢饉の記録が目に入るように なった。

筆者が現在住む神奈川県平塚市で市民講座「気候変動と人々の暮らし― 歴史資料に学ぶ―」を何度か行うことがあった。それらの講演では、 地元・小田原藩における天保飢饉時代の資料も付け加えることとした。 その資料に含まれる小田原藩の年貢米の時代変化の中に、富士山宝永噴火後 の農業災害の復旧状態を見ることができる。

本年、2009年になって、相模湾平塚沖海洋観測塔と相模湾海底地震観測施設 を紹介する説明会・講演会も何度かあった。相模湾海底地震計は「海溝型 大地震」や「首都圏直下型大地震」が近い将来起きるかも知れないという ことが話題になってきた時代(1996年)に設置されたものである。 講演では、海溝型大地震の元禄地震(1703年)と宝永地震(1707年)、 続いて発生した富士山宝永噴火(1707年)のことも話題として取り上げた。

こうした経緯から今回、1700年~1840年における小田原藩(現在の神奈川県 と静岡県にまたがる)における噴火や津波による被害状況をまとめておく こととした。ここでは噴火や津波の全貌ではないが、大規模噴火と日本の 異常気象が密接に関係していることを紹介するときの参考になるからである。

なお、大規模火山噴火と異常気象については本ホームページの「身近な気象」 の「3.気候変動と人びとの暮らし」 に、また相模湾平塚沖観測塔と相模湾海底地震観測施設の紹介は「写真の記録」 の「92.平塚沖観測施設の見学」 に掲載してある。

46.2 連続して発生する海溝型大地震

図46.1は駿河トラフ~南海トラフおよび相模トラフ沿いに発生した M7.9以上の海溝型大地震の分布である。単独または連続して発生した ものとして次の大地震がある(理科年表による)。

(1)明応地震(1498年9月20日)
(2)慶長地震A(1605年2月3日)と慶長地震B(1606年2月3日)
(3)元禄地震(1703年12月31日)と宝永地震(1707年10月28日)
(4)安政東海地震(1854年12月23日)と安政南海地震(1854年12月24日)
(5)関東大地震(1923年9月1日)
(6)東南海地震(1944年12月7日)と南海地震(1946年12月21日)

海溝型大地震分布図
図46.1 駿河トラフ~南海トラフ、および相模トラフ沿いに発生した M7.9以上の海溝型大地震の分布(宇佐美龍夫:日本被害地震総覧 1975を参考にして、国立防災科学技術センターが作成した展示資料に 基づく)。

これら東海~南海にかけての大地震は概略100年の間隔で発生しており、 近い将来、同じ規模の大地震が30年以内に高い確率で発生することが示唆 されている。

46.3 富士山宝永大噴火の前後

高等学校日本史の教科書によれば、江戸の寛永~元禄時代(1624~ 1703年)は経済的に繁栄したが、一方では放漫な財政支出によって 赤字続きであった。元禄15(1702)年12月には、赤穂浪士の吉良邸 への討ち入り事件が起きている。

このような時代、元禄16(1703)年11月23日(新暦12月31日)、 M8.0~8.2の元禄大地震が関東に大災害をもたらした。特に小田原 で被害が大きく、城下は全滅している。この地震による大津波は鎌倉で 8m、伊豆で8~12mの高さであった。

その4年後、宝永4(1707)年10月4日(新暦10月28日)には、 M8.4の宝永大地震が東海・南海・西海道に大災害をもたらし、大津波は 紀伊半島から九州まで、さらに瀬戸内海を襲った。津波の被害は土佐 (高知県)で最大であった。

宝永大地震の1ヵ月後から富士山麓で震動・地鳴りが起こり、11月22~ 23日には東北麓の吉田と南麓の吉原で頻発地震が起きる。11月23日 (新暦12月16日)の10~11時に富士山の噴火が始まる。12月8日 に大噴火は収まり降砂も終わる。のちに宝永噴火と呼ばれる。この噴火で 海抜2700m付近に噴火口ができ、その大きさは1300m×1000m、 深さは1000mとなり宝永山(海抜2693m)ができた。吹き飛ばされ た山体の容積は1km立方(10億立方m)と見積もられている。 この噴火は世界的にみると、大規模噴火の小さいほうに分類される。

永原(2002)によれば、宝永噴火による降岩・降砂の堆積は1.5~ 3m(現小山町)、60~70cm(山北村)、40~50cm(秦野)、 20~30cm(藤沢)である。降砂により耕地と山野・薪炭の埋没により、 飢饉と流亡が発生する。堆積した降砂は降雨時には河川に流下し、洪水の 大氾濫、水死する者もあり飢饉と流亡が起きた。住民は小田原・沼津・三島 へ日雇い稼ぎに出た。降砂が厚く堆積した村では弱者は飢饉に見舞われた。 幕府は諸国に対し「砂除国役金」の賦課を発令したが、違法な流用もあった。

46.4 宝永噴火後の酒匂川の水害

現在の小田原市から相模湾に流れ入る酒匂川の水害について、永原(2002) は次のように記している。1707年11月23日(新暦12月16日) の宝永噴火による大量の降砂は、上流・支流から酒匂川に流入し、大口堤 付近で堆積し天井川となり、穀倉地帯の足柄平野に水害を繰り返すことに なる。その工事と水害のあらましは次の通りである。

1708年2~5月:治水工事、とくに大口堤の補強。
1708年6月22日:豪雨で岩流瀬(がらせ)堤と大口堤が決壊、右岸の 6か村水没、新川筋が貫流。
170811月:大口堤締切り工事始まる。

1709年6月下旬:大増水により堤は決壊。
1709年11月:復旧工事を行う。
1710年10月:大口堤外側の築堤、二重堤とする。
1711年7月27日:豪雨による大口二重堤が決壊。

1722年:将軍・徳川吉宗は、大岡忠相(ただすけ)に地方御用掛を兼務させる。
1925年:大岡忠相は民間人・田中丘隅(きゅうぐう)に酒匂川普請を命ず。
1726年:酒匂川地元請負、工事に着手、新大口堤は後に「文明堤」と呼ば れる。

注1:酒匂川を下流から右岸(西側)に沿って北上すると、二宮尊徳 (後述)の記念館があり、さらに上ると開成町・松田町付近で川は西向き に変わる。この近くにある酒匂川サイクリングコース起点に大口堤があり 「文明堤」の歴史的な説明案内板が建てられている。ここから上流へ行くと 岩流瀬堤がある。

注2:享保時代の大岡忠相(通称:大岡越前、1677-1752)は、 天保時代の遠山影元(通称:遠山金四郎、遠山の金さん、1793- 1855)と並ぶ江戸時代の名奉行として知られ、ドラマにも登場する 人物である。

注3:将軍・徳川吉宗(1684~1751、将軍職は1716~ 1858年)の時代に財政のたてなおしや、庶民の意見を「目安箱」 に投書させて聞くなどした享保の改革が行われた。しかし、1732年 (享保17年)に西国を中心とした虫害による大飢饉によって97万人ほどが 餓死する大災害もあり、民衆(農民)の幕府への反抗が高まった時代である。

46.5 小田原藩年貢米の量的変化

小田原藩年貢米
図46.2 小田原藩年貢米の変化、本領地(赤線)と関西領地(緑色)。 二宮尊徳全集、第4巻;神奈川県史資料編5、近世(5)に掲載された資料 に基づいて作成。(注)領地は時代によって移動・変化し、ほかに下野、 武蔵、常陸領地もある。小田原藩領の総石高=10万3千石である。

図46.2は二宮尊徳全集に掲載された資料から作図した小田原藩年貢米 の変化である。本領地(相模・伊豆・駿河)を赤線で、関西領地(河内・ 美作、途中で移動して河内・摂津)を緑線で表した。宝永噴火で本領地の 多くの耕地が失われたが、噴火の約90年後の1790年代になって、ようやく 年貢米の量が回復している。年貢米は総収量ではないが、収量の30~ 40%程度であろうか。参考までに歴史教科書には、「二公一民」 (税率67%)、「四公六民」(税率40%)の用語もあり、江戸時代の 税率の主流は40~50%の記述もある。

本領地の年貢米において、1783年の減収は天明の飢饉によるものである。 これは浅間山の大噴火とアイスランドのラキ火山の噴火後に起きた。 また、1836年の減収は天保の飢饉によるものである。これは中米ニカラグア のコセグイナ大噴火後に起きた。

46.6 天保大飢饉年の小田原周辺の状況

江戸時代の終わりに近い天保年間、全国的なコメの凶作で餓死者が何万人 と出、農村はもちろん都市にも困窮した人々が満ちあふれ、百姓一揆などが 続出した。とりわけ仙台藩で起きた大凶作は無類のものといわれている。

天保の飢饉に関して、小田原市栢山(かやま)にある二宮尊徳記念館の 展示室には次のことが書かれている(二宮尊徳は1787年に栢山で生まれ、 1856年に今市で没す)。

天保4(1833)年:「金次郎(尊徳の幼名)は夏食べたナスに秋の 味がすることで、飢饉を予知し、桜町領では冷害に強いヒエを植えさせて、 飢饉を切り抜けました。」(桜町領は現在の栃木県二宮町)。

天保8(1837)年:「金次郎は米倉を開けさせ飢民を救済しました。」 (小田原の飢民救済のこと)

小田原藩本領地における年貢米の変化を示す図46.2において、1836年 (天保7年)の年貢米は当時の平均値より約30%の減収であり、小田原藩 内でも困窮した人々が多く出ている。神奈川県史の資料編5近世(2)に よれば、中里村(現小田原市の中里)の天保7~8年に次のことが書かれて おり、食を乞う者が毎日数十人も出、大通りでは毎日数人が餓死していると 伝えている。

11月:米穀、次第に直段引上り
2月:村方難渋人相増、極難拾六人
3月:日々乞食之多事五拾人六拾人位来る、こもかぶり日々三~四人宛位 餓死往還通り多き

大磯宿について馬場弘臣(私信)によれば(日付は旧暦)、
7月18日:大風雨、下町中心の被害55軒
7月29日:大磯宿打ち壊し処罰者586人

とある。大磯におけるこの天保7年7月18日の大風雨の記録に筆者は注目した。 それは、筆者が以前に「身近な気象の科学」の76ページ表8.1において、 仙台藩における天保7年大飢饉の「主原因は大冷害」、「副原因は台風による 風害と前年洪水の後遺症」としてあったことと関係する。その原因の一つと して、花井安列の日記の7月18日付(旧暦)に次の記述がある(カタカナと ひらがなが混在する)。

「辰巳大風(南東の大風)ニ御座候、暑く御座候、折々雨ふり候而大嵐 ニ御座候、八ツ頃(午後3時頃)より大雨辰巳大風に而大嵐相成候、晩方 ハ弥々大嵐ニ而近年覚無之惣草木ぬかり風折多在之候、夜中四ツ時 (午後10時)より大嵐やみ申」

つまり神奈川県大磯での大風雨は、同じ日の午後に宮城県涌谷で南東風の 大嵐を起こし夜半に止んでいるので、台風が相模湾の西の方を比較的速い 速度で北上し、勢力が衰えることなく、仙台の西方を通過したことになる。 旧暦7月18日は現在の新暦8月下旬であり、この大嵐で塩釜神社では杉百本余 が、仙台城下の神社仏閣の杉も、家も吹き倒され、海岸近くでは高潮で 田畑や家が冠水するという古今稀な台風であった(「身近な気象の科学」 のp.75)。

以上は、小田原藩本領地における年貢米やその他の記録にある社会状況 の一部であるが、貴重な情報となる。

参考: 世界的な大規模火山噴火と東北地方の冷夏・大凶作の関係や、 災害の時代変遷などは「身近な気象の科学」の8章、9章、13章、18章 とKondo(1988)に詳しく、また本ホームページの「身近な気象」の 「3.気候変動と人びとの暮らし」 にも大筋の内容が掲載されている。

参考文献

近藤純正、1987:身近な気象の科学―熱エネルギーの流れ―. 東京大学出版会、pp.189.

Kondo, J., 1988: Volcanic eruptions, cool summers, and famines in the northeastern part of Japan. J. Climate, 1, 775-788.

永原慶二、2002:富士山宝永大爆発.集英社新書、0126D、 pp.267.

馬場弘臣、2003:大磯宿―宿場の苦悩(私信)

東京天文台編、2009年:理科年表.丸善株式会社、pp.1038.



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