M25.気候変動と暮らし (1)天保の大飢饉
	著者:近藤純正

		要旨
		備考(平均気温と米収量)
		参考書
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2008年3~4月開催の市民講座「緑の家学校」連続講座の第1回 前半の要旨と質問・回答である。

今から約170年前の天保時代に仙台藩涌谷で書かれた天候日記 がある。この天候日記を分析し、大飢饉をもたらした異常な冷夏の天候を 再現することができた。大飢饉年の天保7年(1836年)夏の平均気温は、 この100年余の近代的な気象観測時代に記録された冷夏をしのぐものであった。 この年のコメ収量は平年の8%しかなく、多くの餓死者がでた。 (要旨の完成:2007年12月24日)

本講座シリーズに関する専門的なことがらは、共通する基礎的 内容であり、別の章「M33.水蒸気(要点)」、「M34.放射(要点)」、 「M35.エネルギーと温度変化(要点)」、「M36.大気安定度(要点)」 に説明してあるので参考にしてください。


要旨

江戸時代末期、今から約170年ほど前、天保年間に全国的な米の凶作で 餓死者が何万人と出、農村はもちろん都市にも困窮した人々が満ちあふれ、 百姓一揆・打ちこわしが続発した。とりわけ東北地方はひどく、仙台藩で 起こった天保7(1836)年の大凶作は無類のものといわれている。

この時代に、毎日の天候を克明に記録した日記が宮城県涌谷町に残されて いた。この日記は涌谷城主・伊達安芸の家臣・花井安列によるもので、 14年間にわたり、毎日の天候記事が書かれている。たとえば暑さについては、 「暑く御座候」「大暑」「暑甚敷」「難渋暑」「近年覚無之暑気」など、 風については風向のほか「風」「大風」「しけ」「大嵐」など、雨については 「雨少々」「雨しめる程」「大雨」、また洪水の模様などが記されている。

この「花井日記」を分析することによって当時の飢饉を もたらした異常な気候を再現することができた。

日本では近代的な気象観測が始まったのは明治時代であり、100年余の気温 資料しかないのだが、花井日記から推定した天保7年夏の平均気温は、 この100年余の期間に起きた最大冷夏年の1905(明治38)年や1913(大正2) 年よりも低温であることがわかった。

花井日記で特に注目すべきことは、大飢饉前年の天保6年4月1日付に、 「此節毎日、日出赤く、毎朝のように霜が降り白くなる」とある。 この日の前後の天候状態から、この朝焼けは雲など微水滴でできるものでは ないと判断される。

世界の火山記録を調べると、実は、その約2ヶ月前の1月20日に中米ニカラグアの コセグイナ火山が噴火している。花井はこの噴火の事実を知らなかった はずであるが、噴煙でできた連日の朝焼けを異常と感じたのであろう。

当時の伊達の殿様の状況、庶民の生活の記録、高等学校日本史教科書の 記述も取り上げよう。大塩平八郎による「大塩の乱」は大凶作の翌年の 天保8(1837)年に大坂で起きた事件である。「天保の改革」も行われた がうまくいかなかった。江戸では「化政文化」が栄え、浮世絵や北斎による 富嶽(ふかく)三十六景や広重による東海道五十三次がでた時代である。

天保時代において、江戸では文化が栄え、東北では多くの困窮した 人々がいた。現代においては、贅沢な暮らしの日本社会があり、 他方では餓死者の多いアフリカなどに途上国がある。

備考

(1)夏3ヶ月の平均気温と米収量の関係
米収量は、夏の平均気温が平年より1℃低い年は平年作の90%、これより冷夏が ひどくなると収量は急激に落ちはじめ、2℃低い年は40~50%となる。 このことから、3ヶ月平均気温が1℃以上違う年を異常年ということができる。

参考書

近藤純正、1987:身近な気象の科学(東京大学出版会)、8章「天保大飢饉」

近藤純正ホームページ:「身近な気象」の 「3.気候変動と人々の暮らし」

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