48.栗林公園・屋島・金毘羅

近藤 純正

2005年6月17日(金曜日)、高松市内の栗林公園(りつりんこうえん)と、 源平合戦で有名な屋島、さらに琴平市の金毘羅(こんぴら、金刀比羅宮)を 訪ねた。 栗林公園から屋島の南嶺にある駐車場まではタクシー、あとは歩いて北嶺 北端の展望台「遊鶴亭」まで往復、歩いて下山した。 琴平電鉄の「かたもと」駅から琴平駅まで電車で移動し、こんぴらの本宮まで 上った。この日の歩いた時間は約6時間である。

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栗林公園
朝8時ころ宿泊所「KKR」を出て近くの栗林公園の北門まで 歩いた。公園への入園料は400円である。開園時間は5時30分~19時である。 この時間は季節により変更すると書いてあった。

公園の案内書によれば、栗林公園は当地の豪族・佐藤氏によって築庭された のに始まる。 その後、1625年頃、讃岐領主・生駒高俊により、さらに1642年に入封した 松平頼重(水戸光圀の兄)に引き継がれた。増庭と修築が重ねられた。 1871(明治4)年高松藩は廃され、1875(明治8)年に県立公園として一般公開 されるようになった。

ここは国の特別名勝に指定されている庭園の中で最大の広さをもち、紫雲山 (しうんざん)を背景に6つの池と13の築山が巧みに配されている。 総面積は約75ヘクタール(約23万坪)である。

栗林公園北門

栗林公園橋

栗林公園池

栗林公園毘沙門

栗林公園松



屋島
屋島は南嶺と北嶺からなり、遠くからは頂上部は平らに見える。 なぜ平らなのか疑問のまま北嶺のウーキングコースを一周していると、 次のような説明があった。

瀬戸内海一帯の大地は、花崗岩を基盤としているが、 花崗岩は風化が著しく侵食に弱い性質をもっている。しかし、屋島は花崗岩 の上を硬い溶岩(讃岐岩質安山岩)が水平に被っているため、まわりの 花崗岩が侵食されても崩れないで残った。屋島のほか、同じような地形として 小豆島などがある。

源氏・平家と屋島:
保元(ほうげん)の乱と平治の乱によって平清盛は確固たる地位を固めた。 しかし、清盛の病死(1181年)のあと、戦況は源氏に傾き始めた。木曾義仲 が京を支配するようになってから平家一門は西国へと落ち延びて屋島に根拠地 をつくった。当時、屋島は独立した島であったので、地の利を生かした要塞 であった。
1185年、頼朝は義経に平家追討の命を下した。2月18日、阿波勝浦(徳島県 小松島)に上陸した義経は屋島を目指した。2月19日、義経軍は平家の総門 を占領。時を同じくして那須与一らは屋島に上陸。19~20日は両軍入り乱れる 壮絶な弓合戦となる。
「那須与一と扇の的」、「義経弓流し伝説」などは2月20日の弓合戦にまつわる エピソードとして語り継がれてきた。

古戦場を見下ろす
屋島中腹から古戦場を見下ろす、舟かくし、総門跡、 義経弓流し跡などがある。対岸の頂上は五剣山と呼ばれ、眺める場所によって、 鋭い五つの頂上部が見える。

高松港と紫雲山
北嶺からの高松港と紫雲山の眺め(望遠)、北嶺北端の展望台 「遊鶴亭」

瀬戸
遊鶴亭から瀬戸の島の眺め、かすんで遠くの島は見えない。高松港から阪神方面へ航行 する船は望遠写真。

屋島寺
(左)八十四番札所・屋島寺、 (右)南嶺のふもとから見上げた南嶺



こんぴら
琴平市の象頭山の中腹に金刀比羅宮がある。琴平電鉄琴平駅から参道の 商店街を過ぎると、まもなく石段の上り坂がはじまる。本宮まで785段、 奥社まで1368段あるという。大多数の参拝者は本宮まで上る。

100段目のところの売店に「百段屋」の名前があった。緩い勾配の石段が 多いが、本宮に近づくと急勾配の石段となった。幼児をおんぶして上る 母親もいた。この急勾配を駆け足で登る学生たちに出会うと、学生たちは 皆「こんにちわ!」と元気な声で挨拶する。気持ちがよい。 地元の学生たちであろうか?

本宮に上ると讃岐平野が一望できた。かすみでぼんやりだが、 讃岐富士が眼前に見えた。瀬戸内海も見えるという案内板があったが、 今回は見えなかった。

琴電琴平駅
(左)琴平電鉄琴平駅(背後は高燈籠)、 (中)参道の商店街、(右)古い旅館

かご
籠と料金表(大門365段目まで往復6,800円、上り5,300円、下り3,200円)

参門
参道、中央の写真は参道の両側に並ぶ「五人百姓(あめ屋)」 の店

へんろ
(左から)托鉢、途中の 休憩場、最後の急勾配の石段

本宮
本宮

讃岐富士
本宮からの眺め、かすみの中の讃岐富士(飯野山、422m)

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