33.旭川の都市化と気温上昇

近藤 純正

北海道の旭川では1902(明治35)年1月25日、-41℃の 最低気温を記録した。 これは正式の気象観測所としては日本最低の記録である。旭川に気象観測所 が設置された時代の1889年~1920年ころ、年最低気温は平均的に -30℃~-35℃程度であったが、近年の最低気温は-20℃~-25℃程度と なった。これは、約100年間に10℃の上昇 である。

一方、周辺のアメダス観測所(無人の自動観測所)の一つである江丹別 (えたんべつ)では、最近でも-35℃~-37℃の年最低気温を数年に1回の 頻度で観測している。江丹別は人家が少ないところである。

比布(ぴっぷ)アメダスや東川アメダスでは、周辺は市街地住宅となって いて、-28℃~-29℃の最低気温を数年に1回の頻度で観測しているが、近年 上昇傾向が見られるようになった。

これらの事実から、旭川の年最低気温が上昇しているのは都市化によるもの と考えられる。そこで2004年10月20日午前~22日夕刻にかけて現地を視察し、 最低気温の上昇に都市化の何が影響しているかを探ることにした。 注目点は、観測点の周辺一帯における人家・ビルの密集度と天空の見える 天空率、冬期に除雪する道路の面積、広域の地形と局地地形についてである。

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上川盆地周辺の鳥瞰図
これから訪れる旭川と周辺アメダス(江丹別、比布、東川)の位置関係を 鳥瞰図によって眺めておこう。この鳥瞰図は旭川の西25kmにある深川市の 上空25kmから東を眺めたものである。

正面前方には大雪山がある。その手前に広い上川盆地が横たわっている。 この盆地の中に旭川、比布、東川がある。一番手前の左手にあるのは江丹別で、 ここは上川盆地とは一応独立した小さな盆地にある。

上川盆地の鳥瞰図
この鳥瞰図は国土地理院発行の数値地図、および DAN杉本氏作成の「カシミール」を使用して作成した。

旭川へ
旭川への旅ははじめてである。旭川空港は市内の東の丘陵地にあった。 台風23号が南の方を北東進しているにしては空が濁っている。 あとで分かったのだが、シベリアの森林火災の煙によるらしい。

旭川空港から市内へ向かう途中の風景

市街地に近づくと平坦な地面が続くようになった。 旭川の海抜は112mである。旭川地方気象台庁舎は2004年9月13日から旭川市 宮前通東4155番31に移転した。それ以前の旧庁舎は旭川市8条通11丁目 にあった。

上川二等測候所
旭川地方気象台の前身は1888(明治21)年7月1日、上川二等測候所として北海道庁 が創設した。その建物は、北海道の内陸開発のため、囚人を使って岩見沢から 忠別太(ちゅうべつぶと)まで道路を開くに際して、その樺戸監獄署 (かばと・かんごくしょ)出張所の一室で観測が開始された。 現在の旭川大橋の西、旭川市神居町1条1丁目に 上川地方に現存する最古の建物として復元保存されている。

この建物は最初の農作試験場として使われていたが、農作試験場 は1889(明治22)年に、現在の1条通1~3丁目へ移転、後に6条通11丁目、 さらに永山、比布(ひっぷ)町にある道立上川農業試験場へと続いている。

この建物に置かれている案内パンフレット(旭川市教育委員会生涯学習課) によれば、約95kmの長さの道路の開削は、熊笹のしげる原始林での工事で あり、クマやオオカミの出没で作業が中断されるものであった。 道路の開通とともに多くの人が上川に向かい、1891(明治24)年には永山、 翌年には東旭川にそれぞれ400戸の屯田兵が入植した。

屯田兵とは、平時は農業に従事している兵のことであり、北海道では1874 (明治7)年に屯田兵制度が設けられ、北海道の警備と開拓を行なった。

樺戸監獄出張所の一室に置かれた測候所では、出没するオオカミを銃で 追い払いながら観測が行なわれた。1889(明治22)年1月には-34.5℃の 最低気温を記録したが、これは当時の日本の観測史上最低であり、札幌に 電話で報告しても信じられなかったという。
なお、1898(明治31)年には旭川まで鉄道が開通している。


上川二等測候所の建物(復元)

間取り図

台所、右手に木製の流し、その右に水瓶

昔の建物の写真


測候所は1890(明治23)年、その少し西、現在の旭川市神居町1条4丁目に移転。 1898(明治31)年には現在の旭川市6条10丁目(中央警察署の位置、旭川東 高等学校の西側、旧・旭川地方気象台のすぐ南西側)に移転。 ここで1902(明治35)年、-41℃の最低気温が観測され記録は更新された。

旧・旭川地方気象台への案内
JR旭川駅から歩いて市街地を眺めながら旧・気象台の周辺まで行ってみた。 旭川市8条11丁目には1916(大正5年)年から2004(平成16)年9月9日まで 旧・旭川測候所、旧・旭川地方気象台があった。ここでの年最低気温は、 旭川が都市化されるにつれて、年々上昇している。

旧気象台の南側には旭川東高等学校がある。その前身・旭川中学校は昭和時代 の前半に野球で活躍した名投手・スタルヒンの出身校である。 スタルヒン(1916~1957)は1919年、ロシア革命 のあおりを受けて、白系ロシア人であるため迫害を受けて祖国を追われ、 日本に亡命。1929年から旭川に移住。1933年、1934年の北海道中学野球大会で 活躍、スカウトされて、中学を中退してプロ野球に入団。

旭川市では旧球場の老朽化に伴ない新球場を建設。1982年、旭川市営球場は 「スタルヒン球場」と命名された。その入り口にはスタルヒンの像がある。


JR旭川駅、後方に平和通買物公園が北に続く

駅から買物公園を望む、日本初の歩行者天国

買物公園北端から振り返り、旭川駅を遠望

6条通を東進すると、左手に市役所

旭川東高の南西端で左折、左手に中央警察署

旧・旭川地方気象台(2004年9月9日まで)

旭川東高のグラウンド、向こう側に旧気象台

スタルヒン球場の投手・スタルヒン像


新・旭川地方気象台
2004年、旭川地方気象台は旭川市宮前通4155-31の合同庁舎の6階に移転。 9月10日から新観測露場と風力塔で気象観測が始まった。ここは市街中心部 から、はずれに位置する。

新合同庁舎、北東から。右側は電気店の駐車場

新合同庁舎、南から望む

東側の大雪通から観測露場の眺め

6Fの台長室から観測露場を見下ろす

合同庁舎屋上から、北西方の市街地の眺め

合同庁舎屋上から、北方の市街地の眺め


江丹別(えたんべつ)アメダス
江丹別アメダスはJR旭川駅から北西方向に直線距離で17kmのところにある。 海抜は旭川に比べて28m高く140mである。海抜差による平均気温の違いは 旭川に比べて0.2℃程度低いとみておけばよいだろう。

アメダスの横に設置された記念碑には次のような江丹別町の開拓の 歴史が書かれてあった。
1891(明治24)年:移民入植始まる。
1898(明治31)年:マタルクシベツ川流域(拓北、富原)に新潟県より入植。
1901(明治34)年:簡易教育所開設。
1902(明治35)年:ポンベツ(西里)に石川県、香川県より入植。
1903(明治36)年:雨竜団体が北竜村より富原に入植。
1945~1951年:緊急開拓地として200余戸入植。稲作、林業を主産業に人口は 3,200人余りとなる。
1955(昭和30)年:旭川市に合併。

アメダスの近くの集落には数本の道路がある。後で訪ねる予定の比布や東川 と違って、碁盤目の団地の道路は作られていない。 江丹別は直径約9kmの盆地である。周囲の山の尾根の平均海抜を国土地理院 の数値地図から「カシバード」を用いて読み取ると約420mである。盆地底 の海抜130mを引き算すれば、盆地の深さは約300mとなる。この盆地 には石狩川の支流・江丹別川が南向きに下っている。


江丹別アメダス

オンコ並木よりアメダス方向の遠望


比布アメダス
JR旭川駅からの直線距離は北東に14kmである。海抜は旭川より55m高く 167mである。海抜差による平均気温の違いは旭川より0.3℃程度低温と みなされる。

江丹別から比布へ向かう途中、上川盆地は傾斜がほとんどわからないほど 平らで、広大な印象を受けた。国土地理院数値地図から測ってみると、 比布~旭川市街の勾配は約300分の1である。この周辺一帯の圃場は碁盤状に、 約500m間隔の道路があり、舗装されている。市街地はもっと狭い間隔で 舗装道路が整備されている。


江丹別から比布への途中、比布方面の眺め

比布アメダスは生垣の中、民家の庭先に設置

ぴっぷ町営球場北東から球場フェンス沿いの遠望

比布アメダスと球場の遠望


東川アメダス
JR旭川駅からの直線距離は東南東に15kmである。海抜は旭川より103m高く 215mである。したがって海抜差による平均気温の違いは、旭川に比べて 0.6℃程度低温とみておけばよい。

ここは平らな上川盆地の西端に近く、傾斜がやや大きくなり、見た目にも わかる。気象庁ホームページ上に記されているアメダスの 設置場所の海抜は215m、以前に東川町役場敷地内に設置されていた 旧観測所の海抜は216mとなっており、標高差はわずか1mである。 目測では、両者間にはもっと大きな標高差がある。この付近は北西から 南東方向に向かって標高が高くなっており、傾斜は100分の1である。

国土地理院数値地図から読み取ってみると、海抜は現在のアメダス地点では 213m、旧観測所では219mとなり、海抜差は約6mである。

約500m間隔の碁盤の目に道路があり、北西~南東の道路間には、さらに もう1本の小さな道がつくられている。東川町の市街地の住宅団地の中には さらに狭い間隔で舗装道路がある。

最低気温が現われるような放射冷却が顕著になる微風夜間には斜面に沿って 斜面流が南東から北西方向(旭川の方向)に下ることが考えられる。斜面流は この団地の住宅からの排熱と、除雪される舗装道路の地中からの地中伝導熱 を受けるに違いない。 ここでは旭川と同様に冬期の積雪の深さは50cm~1mある。 近年、冬期の道路除雪が年最低気温の上昇傾向をつくる原因ではなかろうか。


比布から東川への途中、旭山動物園

比布から東山への途中、大雪山の遠望

東川アメダス、左は駐車場、盛り土の上から撮影

役場南東側の町立診療所、昔の観測所跡地

東川市街地の遠望

東川アメダスの遠望


幸運な旅を終えて
今回、旭川地方気象台の辻気象台長、佐藤防災業務課課長はじめ、 気象台の皆さんにはお世話になった。 また、昔の東川町役場敷地内に設置されていた観測所の状況を聞くために 上川郡東町役場を訪れた際、出納室室長・中原伸明さんが整理されていた 東川の気象資料のコピーを頂いた。仕事が終ったとき雨降りとなったが、 そのほかは天気にも恵まれた。
こうして視察を終え、夜間の旭川空港を飛び立ち帰途についた。

夜間の旭川空港

備考:八甲田山遭難事件
青森県八甲田山における行軍隊凍死という歴史的事件が1902(明治35)年 1月下旬に起こった。青森歩兵第五連隊第二大隊の210名が青森を出発し、 田代温泉へ向かって雪中行軍を開始したのは1月23日の朝7時前であった。 出発してから数時間後、雪と寒さのため米飯は凍り、水筒の湯は凍結して いた。・・・・・・・3日目、4日目と多くの兵は姿を消していった。 ・・・・・事実上の生存者はわずか11名であった。この期間の1月25日は 北海道旭川で-41℃という、日本の気象官署における最低気温の記録が 出た日である。(近藤純正著「身近な気象の科学」 15章より)
八甲田山遭難事件の詳細は新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨(ほうこう)」 (文藝春秋社、昭和53年発行)に掲載されている。

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