近藤 純正
流鏑馬(やぶさめ)があった日(2004年4月18日)に、見物人のひとりから、
「鎌倉には寺はたくさんありますが、その中で『鎌倉五山』と呼ばれる寺が
あります」と教えていただきました。
鎌倉五山を訪ねるうちに、鎌倉を取り巻く山の尾根伝いにハイキングコース
があることも知りました。
トップページへ | 展示室案内へ | 前の展示室へ | 次へ |
備考「平氏と源氏の略系」(中世の歴史) |
建長寺 鎌倉五山の第一位 臨済宗建長寺派の大本山。 第5代執権・北条時頼が1253年に創建したわが国最初の禅寺。 創始者の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう、1213~78)は、中国から 33歳の時に来日した。一時は千人を超える修行僧を指導した。 境内奥の山の中腹に半僧坊があり、その上の展望台からはハイキング コースにつながる。 |
![]() 三門(三解脱門の略):下を通ると心が清浄に |
![]() 梵鐘(国宝)、1255年の鋳造 |
![]() 柏槙(ビャクシン)、樹齢750年、胸高周囲6.5m |
![]() 半僧坊大権現に寄進された天狗像、12体ある |
![]() 半僧坊の上の展望台から見下ろした建長寺 |
円覚寺 鎌倉五山の第二位 時頼の子である第8代執権・北条時宗が1282年、文永・弘安の役(蒙古軍 の来襲)に戦死した敵味方両軍の菩提をとむらうために創建した。 国宝の舎利殿は中国から 伝えられた「唐(から)様式」を代表する建造物である。また、国宝の 洪鐘(おおがね)は鎌倉時代の代表的な梵鐘である。 |
![]() 円覚寺三門、奥に仏殿 |
![]() 舎利殿への道、方丈脇で写生する人 |
![]() 中国から伝えられた唐様式の舎利殿(国宝) |
![]() 国宝洪鐘へ上る木立の道 |
![]() 洪鐘(おおがね、国宝)、北条貞時1301年寄進 |
寿福寺 鎌倉五山の第三位 源頼朝の妻・北条政子が1200年に創建。最初は密教系寺院であったが、 その後宋風の禅寺となって発展した。この裏山には北条政子とその子・ 源実朝(第3代将軍)の墓がある。この墓の上の尾根道はハイキングコース となり、源氏山公園を経て浄智寺(鎌倉五山第四位)へ、あるいは分岐して 大仏へ至る。 |
![]() 写生する人と、修学旅行の山梨の小学6年生 |
![]() 寺の裏山にある墓地 |
![]() 北条政子の墓、右方約10mに源実朝の墓 |
浄智寺 鎌倉五山の第四位 北条時頼(第5代執権)の孫・師時(もろとき、第10代執権)が1281年に創建。 境内には鎌倉十井の一つ・甘露(かんろ)の井がある。1356年の火災で 初期の伽藍を失うが、室町時代には主要な堂、庵、院が建ちそろっていた。 この寺から南へ尾根伝いにハイキングコースがあり、第3位の浄智寺へ、 あるいは分岐して大仏方面へ行くことができる。 |
![]() 二階に鐘をさげた楼門(石川丈山は下の注参照) |
![]() 散策しているうちに心が和む |
![]() 布袋(ほてい)に参る人たち |
浄妙寺 鎌倉五山の第五位 源頼朝の忠臣・足利義兼(よしかね)が1188年に創建。 はじめ東の極楽寺と呼ばれていたが、のち浄妙寺と改められた。 他の四山が北条氏と関係が深いなかで、本寺は足利氏の保護にあった。 本堂うらの墓地に足利貞氏(さだうじ、1277~1331)の墓がある。 (注)足利8代目の尊氏(たかうじ、1305~58)は室町幕府の 初代将軍であり、貞氏は尊氏の父にあたる。 |
![]() 本堂と庭園、写生する人が見える |
![]() 本堂前でぼたんの花を写生する人 |
![]() 足利貞氏(尊氏の父)の墓 |
![]() 執権政治を後醍醐天皇の親政にすべきとして、幕府に捕らわれた 日野俊基を祀る葛原岡神社 |
![]() 魔が去るように願いを込めて盃(100円)を当てれば幸せを勝ち取れる という石「魔去ル石」 |
![]() 源氏山に座して相模湾を見る将軍・源頼朝の像 |
![]() ハイキングコースから見下ろした寿福寺の裏山 |
![]() 大仏への途中、鎌倉市街と相模湾を望む |
![]() 林間のハイキングコース |
![]() 極楽寺坂の成就院から見下ろした由比ヶ浜 |
![]() 関東の駅100選、江ノ島電鉄極楽寺駅 |
![]() 尾根に横たわる岩、シルト岩と砂岩の互層か |
![]() |
![]() 天園(六国峠)から眺めた鎌倉市街と稲村ヶ崎 |
![]() |
![]() 尾根の岩に掘った横穴内の墓 |
![]() |
![]() 足利尊氏に捕らえられた護良親王が1334年11月から9ヶ月間 幽閉されていた土牢の入り口(内部は深さ4m、広さ4m四方)、 鎌倉宮本殿裏 |
![]() |
トップページへ | 展示室案内へ | 前の展示室へ | 次へ |