ボルガ遡航記 (1995)


 

(28) セルギエフ・ポサド

 

 列車はシベリア鉄道の「バイカル」号より速く走っているようですが、その分揺れ

が大きいという感じです。8月15日(火)、起きたのは朝7時頃だったと思います。外を

見ると列車は通勤電車と平行して走っています。窓からは高層アパートが見え、モス

クワ郊外にまで達しているのがわかります。

 まもなくヒムキの駅を通過。なのに女性3人と桜田君のいる隣のクペーは起きてく

る気配が全くありません。終着駅が近づいて線路がいく本にも分岐するようになって

たまりかねて金田さんが起こし行きました。

 

 列車は7時45分、モスクワのレニングラード駅に到着。駅の表示では気温11℃となっ

ていましたが、それほど寒くは感じません。

 迎えの車に乗り込んでホテル「イズマイロボ」へ。このホテルは私は初めてです。

もらったホテルカードには24**という4桁の部屋番号があり、今回の旅ではこれまで

24階なんていう高層のに泊まったことがありませんでしたから、これは24階でなく24

号棟ではないのかなどという話も出てましたが、むろん24階。コルプスDのです。

 最終日の朝食が出ないかわりにこの日の朝は食事があるということで、8時45分に朝

食。ジュース、黒パン、丸いパン、バター、チーズ、ソーセージ、トマト、ゆで玉子、

レーズン入りのオムレツみたいに見えるお菓子(スメタナをかけて食べる)、紅茶。

 

 食後、金田先生が帰国便のリコンファームに行くと、ちょっと重大事態。グループ

8人のうち桜田君、森田さんなど3人分の席が取れてないと。実は日本の旅行社のほう

からも到着しだい電話をという連絡が入っていて、先生が電話をしてみると同じ内容

です。もともと3人分はキャンセル待ち状態で出発してきたのだそうで、予備に1日

早い16日発の東京行きが3席取ってあるそうな。最悪の場合、明日の午後シェレメー

チェボに3人を見送りに行くことになります。

 10時からクレムリンなど市内観光に出る予定になっていて、みんなは1階のロビー

に集まりましたが、こちらの部屋(モスクワでも金田さんと同室にしてもらっていま

す)はその重大な件で電話中ですから、みんなにしばらく待ってくれるように伝えに

行きました。ところが、金田先生、電話が終わったら急いで下へ降りるのかと思った

ら、とんでもない。それからおもむろにシャワーを浴び始めるのです。まったくどこ

までもロシア的な人です。

 

 私は市内観光はパスして、モスクワ川遊覧の船にでも乗ろうかと思い、みんなより

遅れて11時過ぎにホテルを出ました。キエフ駅までは地下鉄で乗り換えなしで行けま

すから、そちらの船着き場へ行ったのですが、川岸の船着き場はガランとしていて切

符売り場の窓口も閉ざされており、船が運行されている気配がありません。そう言え

ばそのあたりを歩いている人達は長袖の上にさらにもう1枚着込んでいるくらいです

から、船のシーズンは終わったのだと思いました。でも、実際はそうでもなかったよ

うです。翌々日にはゴーリキー・パークのそばでちゃんと運行している遊覧船を見ま

したから。この時はどうしてだったんでしょうね。

 このキエフ駅のそばでモスクワの地図を1枚買いました。11,000R。市内の地図とモ

スクワ州の地図が表裏になっており、地下鉄の路線図のほかに国電区間の路線図もつ

いていますが、都市交通の系統図はありません。

 

 モスクワ川はあきらめて、地下鉄でコムソモリスカヤ駅まで出て、国鉄のヤロスラ

ブリ駅から国電でセルギエフ・ポサドへ行くことにしました。コムソモリスカヤで地

下鉄駅から階段を登って外へ出たところには両手に商品を持ったおばさんが大勢なら

んでいますが、ここはやはり長距離列車の始発駅だけに、売っているものが衣類とか

でなく、ソーセージなど車中での食事用のものが多いようです。

 モスクワからセルギエフ・ポサドまでの運賃がなんと3,200Rなのです。地下鉄に1回

乗ると800Rというのと比べると70kmの距離をこの値段というのは信じられないくらい

です。私ははじめ駅の料金表にあった42000とか19000という定期券か何かの値段の数

字を見て、それが1回分の運賃と思って納得していたくらいです。インフレが進んで

いてコイン式の自動券売機が使えませんから切符はカッサで買います。国電の時刻表

もその出札口で売っていたので買いました。3,000R。

 

 電車は定刻の12時38分より1,2分遅れて発車しました。 その発車の直前に車両の一

方の端に現れた男の人が突然何やら叫ぶのです。私はてっきり検札に来たのだと思っ

てポケットの切符(といっても小さなレシートみたいなものです)に手を伸ばしまし

たが、じつはそうでなく、アイスクリームなどの物売りでした。この“車内販売”が

発車後も続々と現れるのです。本を売る人もあれば、新聞売りも来るという具合です。

売り子の中には中学生ぐらいの子どももいます。当局が承知しているのか、それとも

勝手にやってるのかわかりませんが、日本の車内販売と違うのは、車両に入ってくる

とまず大声でしかも長々と口上を述べる点です。静かに眠りたい人には邪魔でしょう

が、日本の通勤電車と違って眠っている人の割合は多くはありません。

 モスクワを出てしばらくすると、もう両側の車窓は市街の景色ではなくなって林に

なります。セルギエフ・ポサドまでの1時間半、林、森、沼、小川、農地、草地とい

った風景の連続です。山羊を2匹従えたおじさん、自転車で電車と競争する少年など

など....のどかな光景が後ろへ走り去っていきます。耕地はもう全面茶色になってい

ますし、森の木々も黄色い葉が少し目立つだけでなく、真っ赤な実が鈴なりになって

いたりします。

 

 セルギエフ・ポサドにはほぼ定時に到着。この街は以前ヤロスラブリからの帰途に

通ったほか、このお正月にモスクワからバスで来て修道院を見学しました。その時、

駅前のカフェで昼食を取ったので、駅のホームや駅前の広場は見覚えがあります。も

っともあの時は白い雪面にものの影が長ーく伸びていたのが今回と違いますが。

 駅に降りてまず地図を手に入れたいと思ったのですけれど、食べ物を売る店ばかり

で地図が手にはいりません。かわりに(全然「かわりに」はなりませんが)ジャム入

りのピロシキを2つ買いました。あわせて600R。

 地図がないのでどっちへ行けばとちょっと困ったのですが、幸いに教会の塔の先が

駅から見えます。道は適当に見当をつけてそちらへ向かって歩きました。でも、あと

でわかったのですが、道はやはりちょっと間違っていました。駅前広場からモスクワ

と反対方向(乗ってきた電車の進行方向)に進むと鉄道を横切ってくる少し広めの道

にぶつかります。私はこの道を鉄道から離れる向きに行ったのですが、ほんとうはこ

の広めの道は横切ってしまってそのまま道なりに進むのが正しい。というのは修道院

のそばに大きな国道が通っていて、ここをかなりの数の自動車が相当のスピードで通

過するので、横断が困難なのです。「正しい」道を行くと国道横断の歩行者用地下道

があるのですが、私が行ったほうの道を使うとこの“ハイウェイ”を横断しなければ

ならない。

 そのかわりご利益もあった、とその時は思いました。修道院からちょっと離れたと

ころに小さな貯水池があり、道路を横断してその修道院と反対側の小高いところに上

がると、池の水面に教会のネギ坊主が映り、池の上には緑のしげみ、そしてその上に

教会の塔が顔を出していて、いい写真が取れると思ったのです。でも、出来上がった

写真を見たら何の変哲もないつまらないものでした。思った通りの写真が取れるんだ

ったら写真屋さんをやってますよね。

 

 そちらの道を通ったおかげで修道院には裏手から近づくことになりました。表と裏

というちょっとした違いなのに、こちらひどく静かでごくたまに道を行く村人とすれ

ちがう程度です。何でもないロシアの村の風景。裏からもう一度国道側に出るとちょ

っとした建物の裏に郵便車が横付けになっていてそこが郵便局だというのがわかりま

したので、自分宛のはがきを1枚出しておきました。切手代が1,200R。このはがき、

26日にわが家に着きました。

 

 白い塀で囲まれた修道院には多過ぎも少な過ぎもしない程度の数の人がいてゆっく

りと散策することができました。三位一体教会では礼拝も行われていて、小さな聖堂

の中にはこれまでのどの教会でもそうだったように美しい歌声が響いていました。

 ただ、ここでも修道院の門のところでは物乞いの人が十字を切りながら手を差し出

します。船のフランス人とロシア人のミーティングの折、「旅で印象に残ったこと」

を聞かれたフランス人の1人がこの物乞いの多さを上げていましたけど、ほんとうに

多い。権威を復活しつつあって尊敬も寄進も集めている教会とその門前でこうやって

手を差し出す貧しい信者との対比を見ていると、ソ連が崩壊した今になってかえって

「宗教は阿片」ということばが真実味を増しているようにも思いました。

 

 16時18分の電車でモスクワへ。帰りの電車も来るときと同じく立っている人はいな

いものの、ほぼ満席状態でした。往復とも検札には一度も出会いません。

 電車の中はというとロシア社会の縮図を見ているようです。私の前の席は、聖職者

なのか長い髪を後ろで一つにたばねた姿の若い男性で、ずっと本を読んでいます。そ

の隣は1人分空席で、通路側にはハンチングをかぶった労働者風の中年男性。通路を

隔てたむこうはちょっと気位の高そうな若い婦人で、やはり1人分の空席の向こうの

窓側はひげを伸ばした哲学者風の男の人です。私の隣席には、女の子のようにも見え

る気の弱そうな男の子が右隣の初老の女性との間にはさまれてちょこんと座っていま

す。車両には自転車が2台も持ち込まれていますし、犬を持ち込んだ人もいるらしく

後ろのほうで犬の吠える声がします。笑い声か泣き声かわからない悲鳴のような赤ん

坊の声も。相変わらず次々と物売りがやってきては口上を述べていきますし、物乞い

もやってきてあの気位の高そうな若い女性がいくらかあげていました。

 3人掛けの椅子が通路をはさんで左右2列にならぶ幅の広い車両ですから、椅子に

かけたときの目線の高さで写真を取るといい絵になりそうな気もしますが、さすがに

その勇気はありませんでした。絵心があれば絵を描いてもいいかもしれませんね。

 

 17時45分、電車はモスクワのヤロスラブリ駅に着きました。

 

 

 

 

(29) アルバート街

 

 このままホテルに戻っても時間をもてあましてしまいますから、モスクワの町中へ

出てみることにしました。はじめ地下鉄のツヴェトノイ・ブルバルへ行って市場をさ

がしたのですが、見あたらない。中央市場ってこの駅じゃなかったでしたっけ?おま

けに酔っぱらいにからまれて200Rくれなんて言われたり。ロシア語はわからないと言

って切り抜けましたけど。駅構内の改札口脇のファースト・フード(昔の地下鉄を知

っている向きにはこんなものが構内にあるなんて信じられませんね)で「チリ・チー

ズ」とかいう得体の知れないものを買いました。昨日の“シャヴェルマ”のような生

地にチーズと何かわからぬ具をからめて巻き込んだもので、味は悪くないのですが、

量が少ない。これで夕食おわりというわけにはいきそうにありません。コーラとで7,

100R。

 

 このあと地下鉄のスモレンスカヤに回ってアルバート通りの中ほどのところにある

ラーメン店に行きました。このラーメン屋さんのことは FLM MES(13) #02415 で取り

上げられています。スイートコーンとわけぎとハムの千切りだけの入ったラーメンが

22,000Rとそう安くはありません。 スープはまあうちの学食程度の味なんですが、何

と言っても麺にコシがない。上の#02415によるとそれを書かれた人がコックにアドバ

イスしたんだそうで、それでスープの熱さなんかは改善されたらしい。しかし、ロシ

ア人の調理人が麺の「コシ」を覚えるというのは、私が「ль」の発音ができるよう

になるのと同じくらいに難しいでしょうね。

 左前のテーブルにはロシア人の若いカップルがいて、よせばいいのに、2人ともラ

ーメンを注文しています。女性のほうはフォークで麺をすくいあげていますし、男の

人はと見ると右手で蓮華を、左手にクロワッサンを持って賞味しています。

 店のウェイトレスは若い日本人の女の人です。彼女、ロシア式のビニール袋一つを

持って店に入った私を日本人かどうか迷ったようで、私のラーメンには一応箸を添え

てくれたのですが、それをテーブルに置くときにはごく小さな声で「パジャールスタ」

と言いました。ま、いいでしょ、以前モスクワ音楽院の入り口で仲間と待ち合わせを

していた時、見知らぬ日本人男性からいきなりロシア語で声を掛けられたことがあり

ますから、それに比べれば。その時の私、やや憮然として「私は日本人ですよ」と言

ったら、テレ隠しに「モスクワに長くお住まいですか?」ですって。

 

 アルバート通りが歩行者天国になって日本のTVなどでもその様子がしばしば紹介

されたのは何年くらい前でしたでしょう。やはりペレストロイカの時期だったような。

 その頃とは少し様子が変わっていて、モスクワの若者のたまり場になっているのか、

一角にはちょっと一般とは違う雰囲気の若者が集まっていたりして異様というかちょ

っと不気味な感じもしました。警備の警官もわりに頻繁に行き来しています。こちら

のパトカーも黄色い車体の窓の下のところに青い線を入れてそこにそっけなく「民警」

と書かれた昔のとは一変していて、車は白塗りで、ドアには何かの紋章のまわりを

「ロシア都市パトロール」の文字が囲み、屋根にはアメリカのパトカーなみの警報灯

がついていて、アクション映画に出てもじゅうぶん通用する姿です。警官の制服も一

新していてベレー帽をかぶっているのはいいとしても、防弾チョッキを身につけて自

動小銃を持っているんですからすさまじいですね。

 通りにはホットドッグ屋が多い。ペテルブルクでもモスクワでもこの手のファース

ト・フードがすっかり多くなりました。ことにホットドッグはロシア人の嗜好に合っ

たのでしょうか、むやみにたくさん店があります。そして、これらの店の多くがコカ

・コーラのロゴのあるボックスやパラソルを使っています。ロシア進出ではペプシに

10年ほど遅れをとったコカ・コーラ社の猛烈な巻き返しなのでしょうか。

 そのほかには似顔絵かき、昔より数が減ったみたいだけど絵や土産を売る人、写真

屋さん。その写真屋さんが撮る写真は、等身大のエリツィン像と握手などという手は

もう古いらしく、生きている熊や鷲と一緒とか、果ては太さ10cmもあるんじゃないか

(ちょっとオーバー?)という蛇を肩に掛けてなんていうのまであります。

 外務省に近い通りの端に、昔ながらの体重はかりのおばさんがいたのがせめてもの

救いでした。

 

 ホテルへ帰ったのは20時40分頃。そのあと私達の部屋で金田先生の他に森さん、飯

田さん、中田さんが加わって夜遅くまで話をしていました。寝たのは1時前でした。

 

 

 

 

(30) クリン

 

 同室の金田先生の豪快ないびきで4時半過ぎには目が覚めてしまい、しばらく部屋で

旅日記を書いていました。16日(水)の朝です。6時半ぐらいになって、もう音を立てて

も大丈夫かなと思ってシャワーを浴びようとしたのですが、どうしたことか湯のほう

の栓をいつまでも開けっぱなしにしておいても水しか出てこないのです。やむなく水

風呂ならぬ“水シャワー”。

 天候は晴れで、24階の部屋の窓からはオスタンキノのテレビ塔やそのそばの独特の

形をしたホテル「コスモス」の建物がよく見えます。

 

 帰りの航空券のことで7時に日本の会社から電話がある約束になっていたのですが、

その時間には電話はなく、もう少し遅れて電話がつながりました。3人分の席は確保

できたそうで、こちらは1件落着。

 

 8時半、朝食。ハム、チーズ、菓子パン、バター、黒パン、オムレツ、紅茶、ジャム。

 前日もそうでしたけど、この朝食のときにその日にどこへ行くかを話し合います。

金田さんが添乗員役ですから、とりわけロシアは今回が初めてという桜田君や森田さ

んは先生が見どころに案内してという筈なんですが、昨日もクレムリンの武器庫や赤

の広場に行ったあと「まだほかをまわる元気がある?」と聞かれて「ええ」と答えた

ら観光スポットではなくなんと本屋さんに連れていかれたりで、この頃になると“添

乗員”への「信頼感」もやや薄らいできています。(^_^)

 私は昨日の「遠出」に気をよくして、また国電の路線図を広げて、今度はオクチャ

ブリ鉄道のクリンかカリーニン(市の名前はトヴェリに変わっています)に行ってみ

ようかと考えています。トヴェリに行けばリビンスクで別れたままのボルガ川にまた

会えますし。

 飯田さんと大田君はヤロスラブリの手前のロストフに行きたいと。列車で片道4時

間ですから、ちょっとたいへんですが。森田さんと中田さんは昨日の朝食のときにイ

ンツーリストのガイドから買ったサーカスの券があるので17時にはホテルに戻って、

金田先生と一緒にツヴェトノイ・ブルバルの旧館(改修の終わった今ではこちらのほ

うが新館より新しい)へ行く約束です。

 で、結局、5人で作曲家チャイコフスキーが晩年を過ごした家のあるクリンへ行っ

て、17時までにホテルに戻ることにしました。路線図ではクリンまで90km,所要1時間

35分ですし、昨日の経験では電車はかなり頻繁にありますからじゅうぶんその時間ま

で帰って来れる計算です。

 

 10時にみんな一緒にホテルを出て、クールスカヤの駅で金田さん、桜田君と別れ、

我々5人は国鉄のレニングラード駅に向かいました。今日は“通訳”の飯田さんが一

緒なので心強い。早速、駅で出札口が見つからず飯田さんに聞いてもらいました。ク

リンまで片道4,000R。ここでも今度はレニングラード駅発の国電の時刻表を買いまし

た。やはり3,000R。

 私達が切符を買い終わってホームに出たのが、ちょうど10時50分発のクリン行きが

発車する直前でした。ところが電車がこんでいてデッキまで人が立っている。時刻表

を見るとすぐそのあと11時ちょうど発のカリーニン行きがありますから、これを見送

りました。

 ところがこのカリーニン行きの電車というのがどのホームにもいなくて、その時刻

になっても電車が出ていく気配はないのです。しかも時刻表をよく見たら青くなりま

した。昨日のヤロスラブリ駅からアレクサンドロフへ行く線と違って、こちらの線は

電車の間隔がひどくあいているのです。しかも、帰りのほうを見たらホテルに17時に

着くのにちょうどいいクリン発14時台の電車は2本とも休日運転で、平日は14時台が

1本もない。これじゃ私の地元の相模線よりもひどいじゃないですか。

 その上さきほど書いたようにどうもダイヤが乱れているフシがある。駅のアナウン

スが次のカリーニン行きは14時何分と言ったような。いやきっと私の聞き間違いでし

ょう。

 で、やむなく11時08分発のクリュコヴォ行きに乗り、終点で次にくるのを待つこと

にしました。飯田さんが電車の乗務員に聞いたら「すぐあとから来るから」というこ

とだったので。ロシアではこの「すぐ」というのがアテにならないのですけれど。

 電車はさきほどのようには混んでなくて、我々は一応全員が席に座ることができま

した。乗り込んでまもなくして検札がありました。

 

 クリュコヴォにはほとんど定刻に着きました。ところが、この駅でいくらも待たな

いうちに、ですから「すぐ」の言葉通りに、クリン行きが来たのです。これが時刻表

に見あたらない。時間からするとコナコヴォ行きの電車の筈ですが、でも行き先表示

はクリンだったし、たしかクリンで全員が降りてしまったと思います。

 こちらはやや混んでいて、クリュコヴォの駅で乗ったときには私達は1人も座るこ

とができませんでした。デッキと車室の境あたりに立っていたら目の前の席に可愛い

女の子がちょこんと座っていてこちらをときどき見るものだから、例によって折り鶴

を1羽折ってあげました。そんなことをしているうちに駅ごとに少しずつお客さんが

降りて、我々はあちこちに分散してですが、座ることができました。

 私と大田君の2人が座っている席の前にいた年輩の女の人達が突然我々に話しかけ

てくる。さっき鶴を折っているところを見られた筈ですからこちらが日本人旅行者だ

ってわかっている筈なのに、「住んでいる」とか「雪」とかどんな文脈なのか想像の

しようもない単語がつぎつぎ出てきて、やむなく飯田通訳にこちらの席に来てもらい

ました。

 じつはこういうことだったのです。私と大田君は現地で働いているベトナム人だと

思われていたんですって。それで、このあたりの冬は厳しくて雪も降るからしっかり

した履き物の用意が必要だとかそんな話だったとか。そう言われてみれば私も大田君

もベトナム難民と言えば信じてもらえそうな顔をしていますものね。これも昔話です

が、レニングラードのレンソヴィエト文化会館の前の通りで東洋系の男性にいきなり

抱きつかれたことがあります。こちらもさすがにびっくりして何だと思ったら、その

男の人はベトナム人で、異国で出会った同胞を固く抱擁したのです。行動に移す前に

言葉で確かめてくださいよ。

 

 クリンの駅には13時前に着きました。飯田さんが電車の中で聞いたところでは、駅

からチャイコフスキーの家まで徒歩で30分ほど、ほかに5番のバスに乗って行く方法

もあるということでした。しかし、帰りの時間のことがあるから徒歩というわけには

いかないし、バスは日本での場合と同じくいつ来るかアテにならない。それで駅から

タクシーで行くことにしました。15,000R。 外国人と見るとドルで払えとかあるいは

高い値段を言ってきそうなのに、その様子がないのは我々まとめて住み込みのベトナ

ム人と思われたのでしょうか。タクシーはどう見ても運転手を含めて5人乗りですが、

「大きい車だから5人乗れるよ」とか言って全員を乗せてくれました。過積載ですな。

 

 ところがお目当てのチャイコフスキーの家はあいにくと休館日。水曜日と木曜日が

休館のようです。こんなこともあろうかと出発前にホテルでガイドブックを調べたの

ですが、クリンのことなんか出ていなかったのです。ダメだとは思いましたが、この

お正月のボルコボ墓地の時と同じく、柵にそってずっと回って、どこかに人が通れそ

うな穴でも開いてないかと。裏門あたりまでまわると中に若い男の子が2人います。

そこで飯田さんがどうやって入ったのか聞くと、あちら(我々が最初着いた正面の入

り口のほう)へ回れと言います。で、そのまま柵にそってほぼ1周しかけたところに

工事用の車両が出入りする入り口があり、そこの大きな門扉のと地面の間が人が通り

抜けられるほどの幅なのです。そこで、全員匍匐前進。不法侵入に成功しました。も

ちろん博物館は閉館ですが、チャイコフスキーの家の建物や敷地の中の散歩道を見る

ことができました。家の前の花壇はとてもよく手入れされていて行く夏を惜しむよう

にいく色もの花が咲き競っています。

 切符も買わずに入っているのを忘れて我々は次第に大胆になり、中田さんなんかト

イレを借りようと管理棟のドアをそっとあけたんです。そしたら中で人の気配がした

というので、我々全員逃げるようにして、さきほどの「入り口」から脱出しました。

 でも、とにかく今回の旅の、ボトキンスク以来の「チャイコフスキー・シリーズ」

はこれで完結です。

 

 帰りは駅まで歩くことにしました。途中、水草が花を咲かせている沼地の脇の小道

に入ったり、小川にかかるちょっと危なげな橋を渡ったりしながらです。

 道の両側に建物がならぶようになったあたりで葬列にも出会いました。結婚式には

これまで何度も遭遇しましたが、こちらは初めての経験です。帽子を脱いでちょっと

見てますと、棺には蓋がなく、亡くなったのは女の人だというのがわかります。立派

な霊柩車ではなくて、ふだんは路線バスとして使っているんじゃないかという感じの

バスが来ていて、それに棺を載せていました。

 もう少し歩くと、戦没者慰霊の永遠の火があります。このあたりはモスクワ攻防戦

のおりにドイツに占領されたのかもしれません。シェレメーチェボ空港からモスクワ

に行くときに、ここが最前線だったというバリケード型のモニュメントがあり、位置

関係を考えるとこの町のほうがモスクワから遠いですから。折り鶴を1羽供えてきま

した。

 

 道ばたに名もないような古びた教会があり、トイレを借りたいということもあって

中へ入ってみました。中に中学生ぐらいの男の子が2人いて、大田君が短時間のうち

にこの2人とすっかり仲良くなってしまいます。彼はこの旅の間、ずっとお気に入り

のバンダナを頭につけていたのですが、その男の達もそれがすごくほしかったみたい

で、「どこで手に入るのか」とか聞かれたらしいのです。彼がその大事にしていたバ

ンダナをプレゼントしたところ、もうそれはそれは喜んでくれて、そのあまりの喜び

ようにむしろ大田君のほうが感激したくらい。今度モスクワに行ったらかならずクリ

ンまで行くんだと言っていますから。

 

 駅に近いところで郵便局を見つけて、ここでも自分宛の葉書を出しました。どうい

うわけか、ここでは切手代が1,900Rでした。

 

 さきほど書いたように平日は14時台のモスクワ行きは1本もありませんから、駅前

の広場で時間をつぶします。お昼を食べてないので、物売りのおばさんから怪しげな

肉入りのピロシキ、2個で2,560R。それにアイスクリーム、1,800R。

 

 15時20分発のモスクワ行きは時刻表ではカリーニン発の筈ですが、クリン駅の始発

ホームに電車が止まっていて、「15:20」の表示が出ています。飯田さんが電車のお

客に聞いたらこれがモスクワ行きということで、それじゃ駅前で時間をつぶしてるん

じゃなかったと思いながら乗り込みました。遅れをとったおかげで、みんなでまとま

った席を取ることができません。やはりダイヤがおかしいのですね。

 電車は途中の駅からは中央の通路がいっぱいになるほど混んできました。窓にはカ

ーテンやブラインドなど陽を遮るものが何もないのですが、西日の当たる側に座って

いる大田君と森田さんを含め4人ともよく眠っています。

 私のほうはといえば、森田さんと中田さんが17時にホテル前で待ち合わせてサーカ

スに行く約束になっているのに、この電車は16時45分にレニングラード駅着の予定で

すから、遅れても金田先生が待っていてくれるだろうかと気が気ではありません。

 


 

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