ソロフキへ  (2009)


1)モスクワへ (8月13日)
 ローマ行きSU-584便ボーイング767型機はほぼ定時に成田空港を離陸。不況のせいか、機は満席でなく、私の隣の31-B席も空席だったため、遠慮なくそこも使わせてもらった。夏のモスクワ便で空席があったのは私にとってはおそらく初めての経験。東京〜モスクワの空路は10時間もかかる(東京行きだと幾分速い)ので、私はこれが苦痛で、これさえなければロシアにもっと頻繁に行っているはずだとさえ思うのだが、今日は「あと何時間で着くのか」などとほとんど思わずに飛べた。と言うのは、前半4時間ぐらいは機内に持ち込んだ内田義雄「聖地ソロフキの悲劇」を読んでいたからで、残り半分ほどはこれまた自分で持ち込んだ携帯プレーヤーで音楽を聞いていたらモスクワに着いてしまった。
 着陸もほぼ定時の5時7分。現地の気温は24℃。晴れ。乗ってきた客のかなりがトランジット客だったか、覚悟していたイミグレに行列ができず、ロシアとは思えないほど短時間で通過。バッゲージ・ピックアップにも時間がかからなかった。シェレメーチェヴォ空港は第3ターミナルの工事が進んでいるのと、空港と都心を結ぶ鉄道ができて可愛い赤い車両の電車が走っているのがこれまでとは違う点。今のモスクワでは空港からは自動車でなく電車で行くのが正解かもしれない。私の車もレニングラード街道に出る少し前から渋滞に巻き込まれた。ただ、運転手が地理と渋滞がどこでどう起こるのかに詳しいようで、よくわからない回り道をしてくれてホテル「ヴェガ」に無事到着。
 「ヴェガ」はイスマイロボ・コンプレックスのうちの1棟で、イズマイロボと言えばモスクワでは安宿の代名詞みたいな印象を持っていたが、とんでもない。部屋はきれいで快適だし、翌朝の食事も選べる品数がきわめて豊富で、まったく満足であった。モスクワに泊まるのならここで十分。

2)モスクワ発 (8月14日)
 時差のせいで早く目覚めるのは仕方がないか。朝食を7時半に取っても迎えの車は11時半の約束なので、しばらく時間があり、ホテルの外へ出てみた。 
 イズマイロボ・ホテル群の裏手、ペレストロイカの頃に雑多なものを扱う定期市が立ったあたりには、常設の施設ができていた。アミューズメント・パークなのか市場なのかわからない雑然とした怪しげな雰囲気のものだが、マトリョーシカなどを売る市場に入るのに5ルーブルの入場料が必要なのと、そもそも朝方であまり準備もできてない様子だったので、入場はしなかった。イズマイロボには帰りがけにも1泊するので、その時でもいいかと思って。ここで入場しなかったのは結果的に正解で、その後ホテルに戻り着かないうちに先日の台風8号崩れの時みたいな大雨がやってきた。ホテルから少しだけ距離のある市場にいたらひどいことになっていたはずだ。
 イズマイロボからモスクワ北河港までどのくらいの距離なのか正確には知らないが、やはり渋滞のせいで車でちょうど1時間かかった。
 チェックインは出港2時間前ということになっていたので、ほどなく乗船。今回の船「マーミン・シビリャーク」はこれまで乗ったことのある船の中でもっとも小さいタイプ。客室のあるデッキは2層しかなく、乗客定員は70名に満たない。白海・バルト運河を航行するにはこういう小さい船でないとダメだからかと思ったのだが、乗船時に渡されたパンフレットを見るともっと大型の船で行くクルーズもある。つまり、今回のコースは大型客船で運ぶほどの集客ができないということかもしれない。キャビンは「カユータ・ノーメル1」という2階のいちばん船首側の部屋。
 船はこれも定時14時半に出港。やはり雨まじりの天候だった。このあともずっと降ったりやんだりの天候で、気温も低かった。じつは出発前、旅行のための荷造りをすっかり終えたと思った後しばらく経ってから長袖をスーツケースにまったく入れてなかったことに気づいて慌てて作業着風の長袖と日本でなら真冬に着る防寒用を1着ずつ放り込んだが、これをそのまま忘れていたら今頃ひどいことになっていた。
 午後3時に昼食。これだけ小型の船で乗客も少ないのに食事は2回のシフト制。つまり、レストランも小さいということだ。リンゴのジュース、野菜サラダ、サリャンカ、ビーフステーキ・ポテト添え。驚いたことに紅茶・コーヒーが出ない。
 4時45分、バーで船のスタッフ紹介。小さなバーはもちろん満員で立ち席の人もいるくらい。最初の船長の話が、何を話しているのかもちろんわからなかったが、むやみに長く、後からきた老婦人に席を譲るふりをして脱出してきた。
 船首側のサロンでうとうとしていたら、同室でゲームか何かをしていた家族らしい一団が突然部屋から出ていったので、何だと思って窓外を見ると今回初めて見る水門。ふだんならゲートの中の水面がこちらの船がいる水面と同じ高さなのだが、今回は違う。先方から逆行してくる船をさきに通すために先方に合わせてある。しかも向こうからくるのは貨物船1、砂利運搬船1、小型のクルーザ1、ヨット2のあわせて5艘で、おかげでこちらはずいぶん待たされた。
 我々のマーミン・シビリャークがちょうど水門に入りかける頃、夕食。同席は昼食時と同じご婦人二人連れ。そのうちの一人は私のキャビンの真向かいにある2号室の住人。友達なのか姉妹なのか。テーブルには円形の器に小さな蝋燭が灯されていて、なかなかおしゃれと思ったのだが、それは照明のためでなく、紅茶用のポットの保温のためだということが後になってわかった。それでも「お洒落」に変わりはないが。シャンパン、甘い味付けのサラダ、ピカタ風の鶏料理・ライス添え、紅茶、ジャムの入ったクロワッサンのような焼き方のパン、バナナ。

3)ウグリチ,ムィシュキン (8月15日)
 やはり早めに目が覚める。天候は曇り。8時の船内放送では気温13℃とのこと。
 8時30分朝食。朝はコーヒーが出るようだが、テーブルに置かれたカップの底にインスタント・コーヒーの粉が入っている。あとで湯の入ったポットがきて、自分で入れる仕組み。そもそも近頃のロシアではホテルのレストラン級であっても、紅茶は紙パック入り、コーヒーはインスタントのことが多い(ヴェガ・ホテルのはコーヒー・メーカーで抽出したものだったのを念のため言い添えておきます。)。コーヒーの他には、白パンとバターとサラミでオープンサンドを自分で作るのと、ジュース、サラダ、挽き肉のカツレツ、カッテージ・チーズ入りのパンケーキ。
 午前中はずっと甲板にいる。時々雨も降る天候なので、屋上にはあまり人は出ていなくて、船室のある2階のデッキにちらほらという感じ。でも、屋上で周囲を眺めているとこの河の広さに圧倒される。そこをゆったりと流されているようにしているだけでロシアへ来てよかったと思う。ロシアの河川の大きさ(川幅の広さ)は日本ではどうやっても実感できないものだから、話ではなく一度来て見てほしいと思うくらいだ。ただ、景色はきわめて単調で、両岸に針葉樹らしい樹種の林が続き、時おり耕地か牧草地か荒れ地らしい原っぱと、やはり時々集落かダーチャ群が見える。これの繰り返しなので、今自分がどこにいるかがわからない。河幅からして、モスクワ運河ではなくボルガにいることは確かなのだが、はたしてボルガのどのあたりにいるのか。
 正午前に前方遠くにクレーンなどが見え、これまで見てきた村落よりも大きな町があるらしいとわかって双眼鏡で見るとかろうじてそれとわかる大きさで見覚えのある水門の上部が見えた。ウグリチの水門だ。出発前の予定ではウグリチの寄港はモスクワへの帰途のはずだったが、乗船時に見た予定表では今日2日目の午後2時となっていたのに、これがまた急遽変更で12時半になったというのをこの後で知った。急いで身支度して船外へ。ところが、この時雨傘を持ち出すのを忘れて、市内でひどい目に遭うことに。
 ウグリチの観光と言えばドミトリー皇子の死んだ(ボリス・ゴドノフが暗殺したと思っているロシア人は少なくない)クレムリンというのがお決まりだが、今日のガイド(やや年輩の女性で、お客に呼びかけるとき「タワーリシチ!」という近頃聞かなくなった単語を使う人だった。)は中央広場をはさんでクレムリンとは反対側にある女子修道院跡にも連れていってくれた。周囲に塀がないのが修道院らしくないが、それはソ連時代に壊されてしまったのかもしれない。3つほど残っている教会はいずれも修復が終わってなかったが、何年か経ったらここも町の観光資源の一つになるかもしれない。そういうのを見越してのことか、河港のすぐそばに低層のお洒落なホテルらしい建物が完成しようとしていて、建物の正面にはここ久しく見ていなかったインツーリストのロゴマークが描かれていて、懐かしかった。
 14時半、出港。15時昼食。ジュースとは思えない赤色の甘い飲料、サラダ、美味しいスープ、薄く切った茹で豚・ヌードル添え、オレンジ。
 16時半にムィシュキン着。この村に立ち寄るのは一昨年に続いて二度目だが、ガイドによって案内する所がこうも違うのかと思うほど前回とはまったく違うところに連れて行かれた。今回は港のすぐそばの教会のほかには、機織りの博物館、雪道を歩く布製の長靴ワレンキの博物館、それに陶芸と鍛冶の博物館で、どこも製品即売をしていて、うーんどういう意図でこういうところを回ったのかと思ったものだ。
 18時半、出港。この頃までは降ったりやんだりのお天気だったが、その後は少しずつ晴れ間が出てきた。
 19時、夕食。レストランに行ったら、棚に重ねてある皿が船のエンジンの振動に共鳴してずっと音を立て続けていたけれど、とうとう最後まで誰も皿を置き直そうとはしなかった。やはりここはロシアだ。肉とキュウリのサラダ、魚のすり身の揚げ物・マッシュポテトと千切り昆布添え(昆布が食べられることをロシア人に教えたのは誰だ!)、靴底の形のパンケーキ(ワレンキ?)、ケフィール、紅茶。
 夕食後しばらくは甲板にいたが、寒いので部屋にひっっこんだら、そのまま寝てしまった。いまだに日本時間で眠くなる。空が晴れてきていたので、真夜中に起きて星を見ようかと思ったのだが、一度寝てしまったら金輪際起きることなく、星見は実現しなかった。

4)ゴリツィ (8月16日)
 目が覚めたのは6時。相変わらず同じような景色の中を船は進んでいるので、今どこにいるのかはわからず。天候は晴れ。7時過ぎ、これもどこなのかわからないが、水門を通過。
 9時朝食。白パン、バター(バターが出るのは朝だけだ)、チーズ、ハンバーグ・炊きあげた蕎麦粒添え、オムレツ、コーヒー。今朝はサラダとジュースがなかった。来る時のアエロフロート機内で思ったのだが、近頃の機内食は(上級クラスは知らないが)以前に比べて軽くなったような気がした。格安航空券の客ばかりで採算性が悪化している各航空会社にしてみると機内食の質を落としたりシートピッチを狭めたりしてコストを削減し、あわよくばエコノミーだとこういう目に遭うぞと思い知らせて利益率の高いビジネスなどの上級クラスに誘導しようとしているのかと疑っているほどだ。同様に船の食事も以前に比べると軽くなっているように感じるのは気のせいか。もっとも、ロシア旅行をするとたいてい太って帰るので、メタボの身にとってはこのくらいのほうがよいことは確かだ。ただ、この船でもっとも高値の船室でも3食付きで5万何千ルーブル、日本円に換算して20万円。仮に70人の乗客がいるとしても1400万円にしかならず、これで11日間船を動かして、食事も観光も提供して採算が取れるのかと他人事ながらよけいな心配もしてしまう。食事は今のままのほうが健康にもいいし、文句は言うまい。
 こんなに天気のよい日は今回が初めてだが、風は冷たい。ことに船首側のデッキには長居ができない。屋上に出てデッキチェアーに寝そべっていると暖かくて居心地がよく、これだけ気温が低いと日焼けもしないのではないかという気がしてくるけど、温度と紫外線は関係なくてそんなことはないのかも。やはり自分の位置がわからないのだが、朝、太陽が右舷正面に見えたので船は北に進んでいるらしい。地図の距離感からもリビンスク貯水池は夜の間に通りすぎたということだ。
 12時前に正面に見覚えのある教会(足場を組んで修復中)が見えてきた。ゴリツィだ。十何年か前に初めてここに寄港した時は、グリーン・ストップで立ち寄っただけで、近くのグランドで船客がフランス人チームとロシア人チームに分かれてサッカーの試合をしたりしたものだったが、今やここゴリツィは7kmほど先のキリロフにある由緒ある修道院へ行くための拠点として、北方のクルーズでは欠かせない所になっている。船着き場には新しい桟橋と駅舎も完成していて、我々がここを離れる時に数えたら、その新しいほうの桟橋にレチフロートの河船で最大の5層の船が4艘、ひとまわり小さな4層のが1艘停泊していた。ちなみに我々が乗っているマーミン・シビリャークは3層の小舟だ。お目当てのキリロ・ベロゼルスキー修道院の駐車場には数え切れないほどの観光バスがとまっていた。
 修道院の建物は数年前に訪れた時とそれほど違いがないように思われた。ガイドは付属の博物館内での説明に相当の時間を割いた。由緒ありげなイコンの数々がきれいなガラス・ケースの中に厳重に展示されていたが、なにしろ説明がロシア語なので、何を言われてもさっぱりわからないのは当然ここでも同じ。見学の最後のほうで、例によって小さなお堂の中に案内されて男声四重唱を聞かせてくれた。もちろん、帰りがけには勧められるまま彼らのCDを買ってきた。600ルーブル。
 14時半頃ゴリツィに帰着。15時出航。同じく15時に昼食。昨日と同じ甘いジュース(ジュースであることの証拠に種のあるごく小さな赤い実が3粒入っていた)、トマトのサラダ、ボルシチ、キャベツ入りのオムレツ、洋梨。今日の昼食から昼食に限って2つのメニューから選択するシステム。これまでの船のようにカードに記入するやり方でなく、ウェイトレスがじかに聞くやり方。昨日、聞かれたときに「キャベツ」という単語が聞こえたのでてっきりロールキャベツだと思ってそちらを選んだのだが、アテがはずれた。しかし、備え付けのケチャップをかけたら美味しかったし、ま、いいか。
 両岸の景色は相変わらずと思っていたが、時間の経過とともに植生が変わり、葦のような低い草本の群落が目立つようになってきた。湖が近い兆しかもしれないと思っていると、17時前右舷前方に壊れた教会が見えてきた。ベーロエ湖だ。この湖はラドガ湖やオネガ湖に比べたら圧倒的に小さく、この程度の水たまりはロシア全土に何百何千あるかわからないほどだが、実際そこにいると対岸は見えるか見えないくらいで、写真を撮るとまずまちがいなく海に見える。実際、このベーロエ湖を船が通過するのに2時間以上を要した。暖かかったのでずっと上の甲板にいたが、周囲は湖水ばかりで写真の撮りようもない。人があまり上がってこないのは午前中と同じで、小学生の男の子と中学生ぐらいの姉の親子4人家族がやってきて鴎にパンを投げてやったりしていたのがいちばんの長居だったかもしれない。
 19時、夕食。積み重ねた皿の振動は昨日と同じ。うずら豆のサラダ、じゃがいもと川魚のグラタン、カッテージチーズのパンケーキ、ケフィール、紅茶。
 さすがに陽が傾くと寒くなって、夕食後は長袖の作業着の上に少し厚手の防寒着を着てデッキへ。下着こそ半袖だが、長袖のデニム・シャツの上に今の2枚を重ねているわけだから東京ならうだっているはずの8月中旬にどんないでたちをしているか想像してほしい。
 両岸の様子はこれまでとはまったく変わって、河幅はせまく(と言っても汽船2艘がじゅうぶんにすれ違えるほどではあるが)、何よりも両岸とも樹木の下部が水に浸かっている状態。今が増水期なのか。しかもそそうやって根の部分の土を洗い流されるために倒れていく樹木も多数。
 暗くなって写真も撮れなくなりそうなので、船室へ。昼間と違って雲も多くなっていたので、星見も考えずに寝る。

5)キジ島 (8月17日)
 やはり目が覚めたのは6時。天候は曇り。この時間には当然船はオネガ湖に出ているとばかり思っていたが、窓の外を見ると川の風情。6時45分ヴィテグラの船着き場を通過。5層の客船1艘が停泊していた。ほどなくヴィテグラの水門を降りる。
 しばらくすると岸の植生が変わって例の葦のような群生が多くなる。やがて岸の林は遠くに後退し、川岸から遠方まで湿地のような低地になる。
 午前8時過ぎ、船はオネガ湖に出る。昨日のベーロエ湖の比ではないから、もちろん大海に漕ぎだしたような感じだ。船も狭い川を航行していたときには速度を落としていたが、オネガに出たら解き放されたように速度を上げる。広い湖だけに波もあり、波頭が白くなるのもある。気になるのは船の進行方向の空が暗いことだ。
 8時半、朝食。白パン、バター、ハム、米粒入りの肉団子・インゲン添え、桃などの果実片の入ったカーシャ、コーヒー。カーシャに果物が混じっているのは初めて食べたかもしれないが美味。
 この食事中から船の揺れがひどくなる。テーブル上のものが落ちるほどではないが、何かにつかまってないと歩けないくらい。ふだんだと朝食後にトイレを使うのだが、ここで用を足したらどんなことが起こるか想像できてしまって我慢したほどだ。キジ島へ向かうらしい5層の客船が我々より先行しているが、あちらはそんなに揺れているようにも見えず、こうなると小舟の悲しさだ。でも、荒天は長続きせず、ほどなく空は明るくなって波も落ち着いた。さきほどは前線を横切ったのかもしれない。安心してトイレへ。
 10時前甲板に出ようとしたら隣室のサロンでバヤンの音がするのでそれにつられてサロンに。バヤン弾きの男性と船客らしい女性2人のあわせて3人がいてロシア民謡を歌っているので、しばらくそこにいた。この女性のうちの一人、私に近い席にいた人は、ちょっと小太りでいかにもロシアの田舎のおばさんという風情の人だったが、歌をよく聞いていると思いっきり呼吸しながらあのスラブ独特の発声でしっかりと歌っていて感心させられた。最後に歌ったのが「ウラルのぐみの木」だったので、終わってから私が日本語で歌ったら、バヤン弾きの男性が私に韓国人か中国人かと聞く。今度の船旅を始めてからお前はどこの国の人間かと聞かれたのはこれで3度目だが、必ず韓国人か中国人か(二度目にはそれに加えてカザフ人かとも聞かれた)と聞かれ、日本人かと聞かれることがない。今や、極東の国境を越えてロシアへやって来るのは韓国人や中国人が主流なのだ、きっと。また、不思議なことに、ロシア領内にいるヤクート人とかブリヤート人とも思われないのは服装が外国人っぽいのか。
 その後2時間ほどは屋上にいた。湖はただただ広く、船はひたすら走る。船尾ではなく船の真上に何羽もの鴎が舞っているのは煙突から出る暖気をアテにしてだろうか。波が荒くなることはなかったが、天候は下り坂で、昼食前には小雨がぱらつき始めた。
 13時、昼食。いつもと同じ赤い飲み物、人参のサラダ、川魚とじゃがいものスープ、豚のソテー・ポテト添え、オレンジ。昼が選択制なのは前に書いた通りだが、今日のメインは絶対に目の前のご婦人が食べているもう一つのほうがよかった。ロシア語でどちらを選択するか聞かれて適当に答えているわけだから、毎日賭をしているようなものだ。もっとも、賭に負けたとしても選択制でなくはじめからそちら一品しかなかったと思えばどうと言うことはない。とにかくこれまで肉片一つだって食べ残さず完食している。
 船がキジ島に近い複雑な水路に入ったのが14時頃。これまで6時間、オネガの広い湖面を走ってきたことになる。やがて左手前方にプリオブラジェンスキー教会の建物が見えてきて、15時キジ島に到着。島に近づくにつれ、船首部のデッキに人々が集まってきて、その中で「お天気がよくてよかったですね。」という声が聞こえる。実際、好天で暖かく、ほんとうに運が良かったと思ったものだが、じつはこれがアダになることに。
 我々より先行しいた「イリヤ・レーピン」という外国人を乗せた5層の客船と同時に着岸したので、あちらのいくつものグループとこちらの2グループが同時に島内に進み始めてちょっと混乱。教会のところまで来て教会に入るグループとまっすぐ農家のほうへ行くグループとがあってどちらかわからなくなり、農家の際に集まったときにこちらのグループのご婦人が「ちゃんと指示してくれないと困るでしょう」みたいなことを言ったのだが、若いガイド嬢は案の定「私は言いましたよ」という返事。日本ならお客に対してはとりあえず一言「すみませんでした」みたいのがあるけれど、ロシアでは絶対にあり得ない。農家の建物を見た後で教会へ。何という名前か知らないが背の低いほうの教会はキューポラの部分を修復中で足場が組まれていて写真には不向きの状態だった。ここに来る頃から空模様が怪しかったのだが、教会を出ようとするとき、ついに雨が降り始めて雷鳴まである始末。ガイドがみなさんどうしますかみたいなことを言うと、これも予想通りだが、「パイヂョム!」ということになってさらに先へ。でも、実際にガイドについて行ったのはあの4人家族を含めほんの数名だった。風車や鐘つき堂のあたりまで来ると本降りの雨。鐘つき堂の中のイコノスタスを見学した後、みんなは船のほうに帰ったが私は雨具を持ってきていなくてそこで雨宿りをさせてもらう。お堂で店番をしていた年輩の女性が英語で空が暗いので雨は長く続くと言ったけれど、出港までに時間があったので、しばらくそこに。ついでにそこにあった鐘のCDを1枚購入。300ルーブル。ところがさっき英語で話したお婆さん、1000ルーブル札を出したらお釣りを出すのに上階にいた鐘つきの男性を呼ぶではないか。日本のファーストフード店で1万円札が入ったらバイトのレジ係は店長に報告するのと同じように管理されているのか、それともお釣りの計算ができないのか。
 ほどなく雨は小降りになってお堂を出る。風車のあたりに小さな麦畑があって一部収穫されている。そこに鴎がたくさんやってきていて落ち穂をつついている。鴎は水面で生活して魚を食べているとばかり思っていたが、麦粒を狙っているのを見たのは初めて。さきほどの農家の広い屋根にもたくさんの鴎が羽を休めていた。
 船着き場から見て教会とは反対側にも歩いてみたかったが、空模様が不安定で降ったりやんだりが続いていたから、時刻までに船に帰られなくなるのを恐れてやめた。船着き場の郵便局で自分宛のはがきを1枚投函。はがき代と切手代とで25ルーブル。その前に、お土産屋に寄ったら1個100ルーブルのマトリョーシカがあったので、お店にこれが50個あるかと尋ねたが、残念ながらないという返事。やはりイズマイロボの屋台に期待するしかないかとも思うが、モスクワではあの小さいのでも100ルーブルというわけにはいかないのではとも。
 船着き場にもどってみたら、モスクワでも見たイワン・ブーニンという5層の客船が我々の船のさらに外側にいた。この3艘の中から我々のマーミン・シビリャークが中抜けするのだけれど、船だからカードを1枚抜くようなわけにはいかず、いったんイワン・ブーニンが外側に動いて、それからマーミン・シビリャークがそろそろと抜け出した。
 船が島を離れてすぐ、船首の向きを反転させて島の裏側を通りぬけた。いよいよこれからはおそらく僚船はなく、マーミン・シビリャークの一人旅だし、私にとってもここから先は初めての場所だ。
 19時夕食。胡瓜とハムのサラダ、牛タン・マッシュポテト添え、小盛りのプロフ、ピロシキ、ケフィール、紅茶。
 夕食の頃、船は少し揺れるようになった。キジ島のような水域とは違ってオネガの広い湖面に出たせいか。

6)ナドヴォイツィ (8月18日)
 昨晩、食事を終えてすぐに横になってしまったこともあるだろうが、いつもと違って夜中に何度か目が覚める。早寝のせいだけでなく、船がエンジンを動かしっぱなしにしないで動かしたり止めたりを繰り返したからかもしれない。午前2時前にエンジンが止まったとき、もしかして水門かもしれないと思って窓外を見るとコンクリートの壁。水門だ。防寒用の上着を着て船首部のデッキへ出てみる。場所がどこかはわからないが、この時の水門は登りだった。驚いたのは、船が上がり終わって前方の門が開いたらその先が次の水門になっていたことだ。列車を引く蒸気機関車の二重連とか三重連とかがあるけれど、水門の二重連というわけ。ドニエプル河のザポロージェにある大きな水門が戦前は3段だったと聞いたことはあるが、私自身がこの2段型の水門をみたのはこれが初めて。さらに、この水門の前方、つまり上流側の門扉のすぐ向こうを門扉に平行に道路が走っていて、時々自動車のヘッドライトが左右方向に通り過ぎる。しかし、そのままだと船体の上部がその橋にぶつかる高さだ。どうなるのか見ていると、船が完全に上がり切る少し前に遮断機をおろして自動車を通行止めにして(ずいぶん早くから通行止めにするのはJRの踏切に似ている)、門扉が開く時に橋も回転して船を通す仕組みになっていた。
 ところが、驚くことはさらに続いて、この水門を出たとたんに次の水門があり、これも2段。さらにそれを出るとまた2段のがあり、さらにそれに続いてということで、都合10個か11個の水門をまとめて通過した。私が起きる前にもしいくつかの水門を通過していたらもっと多いことになる。こんな話、どのガイドブックにも書いてなかったと思うが、さながら水門のコンプレックス。私が見たのだけに限定しても一つの水門の落差が仮に5mとして、一気に50mほどの高さを登ったことになる。起きて船室を出てから最後の水門を通過して船室に戻るまでに3時間以上の時間が経過していた。その間、船を動かしたり止めたり、水門の昇降機につないだりほどいたりの繰り返しで、クルーにとっても厄介な所ではないかと思った。
 さきほどの道路が開くところでカメラのシャッターを2度ほど切った時、見覚えのある船客の男性がデッキに現れて、ドイツ語か何かで、ここで写真を撮ってはダメだと言う。水門の写真なんかこれまで一度も咎められたことはないし、そもそもスターリン時代ではあるまいし、何を言うかと思ったけれど、言い返す語学力はもとより無く、黙って従った。しかし、その男も結構しつこくて、私がデッキにいる間は甲板を周回していて、新しい水門の門扉が開く頃になると私のそばにそれとなく近づいてきたものだ。寒いので、途中から船首側のサロンに場所を移したら、しばらくして姿が見えなくなった。
 夜中に3時間以上も起きていたので、さすがに目が覚めたのは8時。その時、船はまたもや水門を通過中だったが今度は下り。つまり寝ていた3時間の間に分水嶺を過ぎたということだ。8時半に船内放送があって白海・バルト運がについての説明をしているようだったが、もちろん何を言っているかはわからず。ただ、放送の最後に、白海・バルト運河の写真撮影は禁止されているというのを2度ほど繰り返した。いったい何故かと思うが、もちろんわからず。放送はもしかしてあの男の差し金かもしれないと思ったりもした。それにしても、放送で言っていた「白海・バルト運河」というのはどこを指すのか。水門だけならまだいいが、運河全体ならどこが川でどれが運河か区別のつくわけがないから、白海に出るまでカメラが使えないということだ。そんなバカなことがあるかと思うが、同乗のロシア人達の動向を見てそれにならうしかない。
 9時、朝食。白パン、バター、チーズ、小さなハンバーグ・パスタ添え、リンゴの入ったカーシャ、コーヒー。
 天候は曇り。船は湖と言ってもいいようなやや広めの水路を進む。船の揺れはそんなに大きくはない。
 写真を撮ってはならないというのが頭にあって甲板に出る気にもならず、船室で日記を書いたりしていたが、船内放送でソロフキについてのビデオを上映するというのでそれでも見ようかと部屋を出たら、隣室のサロンの人に見つかって歌を歌うから寄って行けと。それで、ビデオまでの間、サロンに。バヤン弾きはもちろん同じ人だが、他のメンバーはかなり入れ替わっていた。でも、ああいう40,50代と思われる人たちが大きな声で一緒に歌うというのは、日本では酒がなければ実現できない光景だと思った。
 11時半から船尾部のバーでビデオ。ロシア語なので、ナレーションは全面的に理解不能だけれど、映像の強みで、何となくわかるところはわかる。筋書きを知らない演目のバレエでも楽しめるのと同じ理屈だ。ところが終わらないうちに船のマネージャがやってきて、外でバスが待っているから乗れという。ナドヴォイツィに着いたということだ。客の一人が係の青年に続きはいつかやるのかと聞いたら、まだ第二部とか続きがあると。掲示板の予定表を見たら17時から第2部、22時から第3部を上映するとなっていた。今日は早々と寝るわけにいかなくなった。
 ナドヴォイツィは何もない所で、船着き場に看板もなく、土産物屋の露店もない。オプション代として170ルーブルを徴収されたが、これはチャーターしたマイクロバス代。そのバスで10分ぐらいの林の中で降ろされて、何があるのかと思ったら少し大きめの滝があったりするちょっと変化のある自然だけ。つまり、ゼリョーナヤ・アスタノフカだった。でも、例によってロシアの人はこういう所で遊び上手で、木の実を取ったり、茸を見つけたりと、170ルーブルぐらい軽く取り返している。バスでそこまで行く途中で刑務所の塀の脇を通り、二人ものロシア人がわざわざ私に「プリズン」と言って教えてくれた。スターリン時代のではなくて今営業中のものだろう。塀の上に撮影禁止の警告があった。さらにその直後に小さな水門上を通過したが、そこにも撮影禁止の表示が。小さな村のくせに撮影禁止箇所の多い所だ。
 14時出航。同じく14時、昼食。いつものより色の薄い飲み物(味はほとんど同じ)、切ったパブリカに載せた昆布のサラダ、鶏肉が一切れだけ入っているラッソリニク、ジャガイモの壺焼き(牛肉と人参も入っている)、洋梨。壺焼きはもちろん日本のロシア料理店で出されるものよりはるかに大きな壷入りで、パン皮はかぶせてない。おもしろいのは食べ方で、まず給仕がその前のスープ皿を下げるときに受け皿は持っていかずに置いていく。それで、壷のなかみをその受け皿に全部かき出して皿に広げたものを食べる。私はそうはせずに壷から直接食べたけれど、相席の二人はそうして、それでも「ガリャーチャヤ!」などと言っていた。ロシア人は猫舌なのか。たしかに熱かったし、ニンニクが効きすぎるぐらい効いている味付けだったけれど、おいしかった。
 昼食中に水門を一つ降りる。水門に降りる斜面にはフェンスが張られたりしてずいぶんとものものしい。
 15時過ぎにもまたしても水門。ま、昨晩あれだけ上がったわけだから下りの水門が多いのも当然。昨晩見たのもそうだったが、ボルガなどの水門と違ってここ白海・バルト運河の水門は幅が狭い。船が2艘横並びになるのは不可能で、船1艘がやっと。むしろ、運河の幅に合わせて船を設計している可能性さえある。
 今見ているここも2連で、その下段を見てびっくりした。擁壁がコンクリートでなく木製。しかも一部は崩れて土が剥きだしになったりしている。この白海・バルト運河は大戦中独軍の爆撃で壊されているそうだから建設当時のままということはないだろうが、戦後の修復だってラーゲリの囚人の強制労働によった可能性だってあり、なんだか当時の姿を想像できそうな感じだ。撮影禁止はそのせいかもしれないと思った。ロシアの恥部をそうやって明るみに出そうとする自虐史観(どこかで聞いた言葉だ)は許せないとか。擁壁が木製だからこれまでどの水門でも見た昇降機がない。で、どうするのか見ていたら、船着き場でそうするように擁壁とをロープでつなぎ、船が降りるにしたがってそのロープをはじめは引き(はじめは船縁のほうが岸より高いから船が下がるにつれてロープが緩むので)、その後は船の降下にあわせてロープを繰り出していくというやり方だ。スターリン時代には水門での昇降はすべてそうしていたのだろうか。水門を出ると両側で白樺の林が切り倒され、韓国HYUNDAIのショベルカーやトラックが働いているのが見えたので、早晩ここも拡幅され、そうなったら撮影禁止も解かれるのだろうと思った。
 水門を過ぎたら乗客たちが遠慮なく写真を撮る様子が見えたので、私もその後は気にせずシャッターを押し始めた。カメラを持っている姿を今朝未明の男性に見られたが何も言われなかったので大丈夫だろう。水路はまもなく広くなり、両岸は針葉樹の林が続く風景。でも寒くなって30分ほどで船室にひっこんだ。
 午後5時からソロフキについてのビデオの題2部。おそろしく丁寧なビデオらしく、ここでも16-7世紀のことを言っている様子。このビデオ上映中にも水門を通過したし、夕食後の8時ぐらいまでの間に4回も水門を通った記憶だ。いずれも2連。これだけ水門が頻繁にあると、水門を撮ってはいけないというのと運河を撮ってはいけないというのが事実上同じ意味になってしまう。実際、いかにも運河という狭い水路があってカメラを取りに船室に戻ろうとした時、前方に水門が見えてあきらめたということが一度あった。
 19時夕食。胡瓜と鶏のサラダ、魚のフライ・マッシュポテト添え、大きなロールキャベツ、ケフィール、紅茶、ビスケット味のパン。
 夕食後に右舷方向に大きな虹が発生。比較的短い間隔で二度見たが、いずれもごく短時間で消えた。
 その後すぐに寝てしまい(起床時刻はともかく就寝だけはいまだに日本時間だ)22時からのビデオ第3部は見損なった。


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