エニセイ紀行 (1993)


 

(11) イガルカ

 

 この船のモーニングコールは船室のラジオからまず小鳥たちのさえずりが流れ、続

いてベートーベンの第9の4楽章のテーマを流したあと、例によって独,仏,伊,日

の4ヶ国語で朝食の案内を流すという手のこんだものです。もっともオートにセット

してテープで流すというのではないらしく、日によって少し時間が遅れたり、ドイツ

語のアナウンスを聞いてあわてて本山さんがマイクのあるレセプションにとんでいっ

たりということもあったようです。17日(火)も朝7時にこれが流れ、7時半にバイキン

グ形式の朝食をとりました。

 

 8時10分、イガルカの桟橋に接岸。前にも書いたようにエニセイの水量の季節的変化

が大きいのでどの町の桟橋も固定式ではなく、船のような浮き桟橋です。船着き場の

階段を上がるとやはり5台のバスが待っています。我々のグループのは外側を真っ赤

に塗った路線バスで定員が30名以下ではないかと思われる小型のものでした。しかも、

もうこの土地を何十年走ったのかと思うようなすごいヤツで、これで凸凹道を走ると

いうのは日本では味わうことの難しくなった感触でした。このバスにはじめから乗っ

ていて我々を迎えてくれたローカルガイドのお爺さんは、ものすごく立派な白い顎髭

をたくわえて、そのうえ素敵な犬を連れていて文字通り「絵になる」という感じ。バ

スに乗るやいなやみんなつぎつぎに彼に向かってシャッターを切りました。ロシア語

の堪能な飯山さんが、お爺さんに「トルストイみたいだ」(そう言われてみるとほん

とにそういう感じです。)と言うと、ニコニコしていました。でも、このトルストイ

氏、ドイツ語もよくでき、かなりのインテリとお見受けしました。

 

 イガルカは人口は16000人ほどの小さな町ですけど、創建されてから300年になると

いうことですから、シベリアの町としては歴史のあるほうです。といっても、これと

いった名所・旧跡があるわけではありませんから、市内観光のバスも道の両側に野の

花がたくさん咲いているところで止まってみたり。でも、そういうところでは小さな

羽虫のようなのがたくさんまつわりついてきてうるさい。みんなは蚊だと言ってまし

たが、私には蚊のようには思えませんでした。

 

 町には大きな林業コンビナートがあり、町の人の大半はそこの従業員か関係の仕事

で生活しているそうです。でも、この町の周辺の樹木は生育が悪くて用材にならない

ので、コンビナートで扱う材木は他の地域から運び込んでくるということでした。そ

れにしても、コンビナートの広大な敷地に積み上げられた製品の量は目をみはるばか

りです。

 

 また、トルストイ氏の説明によると、この町には1930年代から富農(クラーク)や、

ドイツ人、フィンランド人などが送り込まれたラーゲリがあり、スターリンの死後こ

れらの人達は解放されたけれど、その末裔の人達が今もなおこの町に150人ぐらいは住

んでいるということでした。翌18日にツルハンスクの博物館で知ったのですが、この

イガルカからオビ川の岸に至る鉄道をスターリンが計画して囚人達に工事に当たらせ

たらしいのです。工事が完成しないうちにスターリンが他界してこの計画は中断され、

いまこの幻の鉄道は「ミョールトバヤ・ダローガ(死んでしまった道)」と呼ばれて

います。ロシアではどの都市でもその町の紋章や名所・特産品などをデザインしたバ

ッジを売っていますけど、このイガルカのバッジの一つはなんと雪原に収容所と監視

棟を配し、上に「ミョールトバヤ・ダローガ」の文字、下に「イガルカ」、周囲の枠

は有刺鉄線というデザインのものでした。

 

 この町でもレーニンの銅像は健在でしたが、戦没者慰霊碑のソ連邦英雄のメダルは

はぎ取られていました。

 

 途中、朝から開いていた食料品店が1軒あり、そこに立ち寄ってみました。酒類、

パン、カーシャ(オートミールと言えばいいのか粥と言えばいいのか)などどれも品

数は豊富でした。でも、かのトルストイ氏に言わせると値段が高いんだそうです。3

年前に28カペイカだったパンが今では150ルーブルすると言っていました。

 

 市の博物館には地下に行く階段があって、永久凍土の中を見ることができるように

なっています。実際、氷まじりの土が幾重にも層をなしていて、ひんやりとした冷気

の感触があります。地下室の中の温度は-5℃前後とかで、食品をただ置きっぱなしに

しても保存が可能らしい。かつてはここは低温研究所だったそうですが、現在では技

術の進歩で「人工的に」低温を実現できるようになったので研究所としては使われな

くなったという説明でした。

 前日のドゥヂンカもここイガルカも、新しい建物はみな「ツンドラ仕様」というか、

長い鉄筋コンクリート製の柱を地中深く埋め込み、その上に建物をのせるというやり

方で建てられています。ですから、普通の地域の建物の1階に相当する部分は、場合

によっては人がそのまま通り抜けられそうな縁の下です。そうしないと、建物の中か

ら発生する(暖房その他の)熱で建物の下の凍土が融け、建物が傾くなどの被害が出

るからだそうです。実際、市内には地盤の融解・凍結の繰り返しで建物全体に大きな

ひび割れを生じていたり、建物がすっかり傾いてしまって材木を組んでやっと支えて

いたり、大きく歪んで人が住めなくなって補修しているアパートを見ました。

 

 博物館の売店にさきほどの有刺鉄線のバッジがわりにたくさん置いてあったので50

個あるかと聞いたら数えてくれてちょうどそのくらいあり、それではとクラスの子た

ちへのお土産がわりに買うことにしました。お土産には不向きなデザインですが、あ

の国では一つの店に同じものが何十もまとまった数であるということが珍しいので、

その時に買ってしまわなければなりません。 1個500ルーブルという表示だったので、

ハバロフスクで両替した1000ルーブル札を25枚出そうとしたら3枚とって500ルーブル

のお釣りをくれます。この時、私は先方が計算間違いをしたのかと思ったのですが、

今思うとどうもそうではないのではないか。急激なインフレでこういうものの値段に

たいした根拠が無いのだと思います。おそらくこうなる前は数十カペイカのバッジで

すから、いくら50個といってもバッジで平均月収の半額以上もの代価を受け取るのは

ということで計算間違いのふりをしたのではないかという気がしています。とにかく

そういうわけで、50個2500ルーブル、日本円で250円の買い物でした。

 

 市内観光を終えて、11時頃船着き場に戻りました。別れ際にトルストイ氏に例の電

卓を1個差し上げたので、まだ4日目なのに残っているのはあと3つになってしまい

ました。

 

 11時半、船はイガルカの桟橋を離れ、さらに上流に向かいます。

 

 

 

 

(12) クレイカ

 

 11時半に船はイガルカの桟橋を離れました。12時半からはサンデッキの映写室で、

エニセイ川を運航する船と流域でのトナカイ飼育についての映画が上映されましたが、

ナレーションがドイツ語であまりよくわからない。

 

 映画が終わると早々に映写室を出て、サンデッキでのんびり過ごしました。天気は

朝から晴れでしたけど、川をわたってくるひんやりとした風がからだにあたって暑く

はありません。気温は10℃台だと思われます。川幅は相変わらずうんと広く、両岸は

川面からそれほど高くはなっていなくて、そこに針葉樹の林がずっと続いています。

岸の水面に近い部分には草が茂っていなくて増水期にはそこは川底になってしまうら

しい。つまり、この時期は水量が少ないのだろうということが素人目にもわかります。

やはり雪融けの頃が多いのでしょうね。青い空に白い雲がぽかりぽかりとたくさん浮

かんで船と一緒に前方に進んでいます。船尾にはやはりかなりの数の鴎の群れが舞っ

ていました。

 

 そうしているところへ若い水夫が1人か2人上がってきて、救命ボートの内側を雑

巾で拭くなどの手入れをはじめました。「ああ、こうやって時々は手入れをしないと

イザというときに動かなかったりして困るからかな」と思ったのですが、煙突の根元

の部分にある物置みたいなところから座布団様のものを出して救命艇に並べたり、逆

に救命艇のエンジンが動かないときに使う大きなオールを艇から出してしまったり、

ただのメンテナンスにしては少し様子がおかしい。

 

 申し訳けないことに、この日の昼食で何を食べたのかというメモが私のノートに残

っていないのです。レストランできちんとした昼食をとったことはまちがいありませ

ん。この食事のメニューのことですが、船旅が始まって何日目かにレストランの入り

口に掲示してあることに気づいたのですけれど、日本語では書いてなくてよくわから

んということもあってそれ以後もその掲示を書き写すことはしませんでした。

 

 19時、クレイカの沖(川でも「沖」と言っていいんですよね)に停船。エニセイの

右岸にクレイカ川が合流するところで、クレイカの村は左岸にあります。このあたり

航路が複雑らしく、船は一旦上流へ行ってから回り込むようにして戻ってきてとまり

ました。船から見えた範囲では戸数10戸ほどの寒村とよぶのも大げさなほどの小集落、

その少し右手(下流)の林の中にギリシャの神殿の遺跡のような建造物(の残骸)が

あるのが違和感を与えます。

 

 この村には桟橋もなく、救命艇をおろしてそれに15-6人ずつの観光客をのせてピス

トン輸送するというやりかたです。そうです、さきほどの水夫達の作業はこれの準備

だったのです。救命ボートに乗るのは初体験でちょっとうきうきした気分になります。

上陸するとたくさんの蚊が歓迎してくれるとかで、ボートに乗る直前に船のガイドの

元締めのロリフというお兄さんが私達の顔だの手だのに虫よけスプレーをかけてくれ

ました。もちろん、船室を出るまえにこちらは日本製の虫よけを思いっきり塗ってあ

りましたけど。

 

 こんな廃村寸前みたいな村に上陸して何を見るのかですって?じつはこの村はロシ

ア革命以前にスターリンが流刑されていたことがあったところだそうで、さきほどの

「遺跡」は革命後(もちろんレーニンが亡くなってからでしょうが)に建てられた巨

大なスターリン博物館の廃虚だったのです。博物館が廃止になったのはそう最近とい

う感じではありませんでしたから、ペレストロイカになってからではなく、おそらく

フルシチョフのスターリン批判の後だったのではないでしょうか。扉や窓ガラスは全

部壊れ、部屋の仕切りや内壁や床材も無くなっていますが、建物本体の構造だけは相

当頑丈に造ったらしく、傾きもせずに立っています。建物の正面には大きなコンクリ

ート製の台座があり、おそらくそこに大きなスターリン像が立っていたことが容易に

想像できます。ガイドの説明がつくわけでもなく、「かつて独裁者スターリンが云々」

という銘板があるわけでもなく、ただ薮蚊や羽虫がとびまわる林の中に異様な雰囲気

でそびえたつ廃虚があるだけなのですが、権力の横暴や不気味さを否応無く感じさせ

るものでした。

 

 クレイカの村は船から見た通り、十数戸の農家があるだけの貧しげな村で、しかも

そのうちの半数ぐらいは廃屋のようでした。それでも農家のまわりにはきちんと手入

れをした畑があります。どの家にもテレビのアンテナがあるのには驚きましたが、こ

ういうところでは新聞の宅配なんか望めないでしょうからきっとテレビかラジオが唯

一の情報源ですね。林や荒れ地には羽虫のような虫がたくさんいて人にまつわりつい

てきますけれど、聞かされていたような獰猛な薮蚊はいないようでした。荒れ地に咲

いていた野草越しに見る川の上の「アントン・チェーホフ」号がとても“絵になり”、

写真を一、二枚撮りましたが、前にお話しした事情でこれもできあがってきませんで

した。

 

 昼食と夕食は二交替制で、私達がクレイカの村に行っている間に前半のシフトの人

達は夕食、戻ってきたら今度はあちらが村に出かけるというやり方になっていました。

20時半に夕食。サリャンカのような野菜スープ、ローストビーフにインゲン,マッシ

ュルームを焼いたようなのを添えたもの、パンには何かの木の実と肉をすりつぶして

ペースト状にしたような珍しいスプレッドが添えられていました。デザートはチョコ

レートムースにオレンジの輪切りを添えたもの。食事はいつも美味しくて毎回の食事

が楽しみです。

 昼食と夕食はテーブルが決まっていますから、この頃になると担当のウェイトレス

の顔も覚えてきます。私達のテーブルは、リーザとリューバの担当。前にも書きまし

たが、ここがロシアであることを忘れるくらい丁寧な応対をしてくれます。どちらも

クラスノヤルスクの学生で、名前はロシアっぽいけど少しだけ東方の血が混ざったよ

うな顔のリーザは芸術大学、もう一人のリューバは教育大学だということをずっとあ

とになって知りました。あと、テーブルの担当ではないけど食事のあとでコントレッ

クスなど飲み物の代金を回収しにくる兼集金係のセリョージャ(セルゲイという男の

人)もリューバと同じ教育大学の学生ですって。

 

 食事のあとまたサンデッキに上がってみると、クレイカの観光も無事終わったとみ

えてもう救命艇は所定の位置に格納されていて、それを1人で一生懸命掃除している

若い水夫がいます。声をかけてみました。ウクライナのニコラエフに住む20歳の青年

でサーシャ(アレクサンドル)といいます。どこの大学かと聞いたら「..建築..」と

いうのだけ聞き取れたからたぶん造船大学でしょう。実習でここに来ていると言って

ました。旅行代金が格安なのはこうして船員のかなりの部分が学生アルバイトのせい

もあるのかもしれません。クラスノヤルスクの女子学生に我々のグループの誰かが聞

いてきた話では、それでも珍しい仕事で楽しいだけでなく、収入も地元で働くより少

しいいということでした。キャビンにカメラを取りに戻ってサーシャの写真を撮りま

したが、残念なことにこれも写っていない1本の中です。

 

 21時30分上甲板のディスコバーで、北極圏を抜け出す儀式がありました。ちょうど

赤道を通過する船で赤道まつりをやるのと同じですね。船長も出席していて、彼が神

ネプチューンにここを通して下さいとお願いするのです。ネプチューン役はあの迷彩

服のガードマンのお兄ちゃんが変装して演じていました。海でなく川でもやっぱり神

様はネプチューンだとは知りませんでしたけど。もちろん4ヶ国語通訳付き儀式です

から進行は時間がかかります。

 神様の白い衣装のガードマン氏、船長に個人的な恨みでもあるのか簡単にはOKを

出しません。そこで船側では神様の心をやわらげる出し物を用意します。出演者はふ

だん船内で見ないメンバーですからおそらく厨房で働いている人達ではないかと思う

のですが、おそろしく芸達者。なかみはうちの学校のクラブの生徒達が新入生歓迎会

や卒業生歓送会(追い出しコンパ)で学年ごとに知恵を出してやる“芸”と同じよう

なものですが、構想や演技の水準はこちらのほうが格段に高い(うちの生徒達だって

かなりハイレベルだと思っていたのですが)。この日の出し物は「ダニーボーイ」の

歌をいく通りにも調子を変えて(はずして)歌うというのと、「アイン,ツバイ,ド

ライ,..」のかけ声を掛けながらはじめは片手だけそれに合わせて動かす、次にはも

う一方の手も、そして片足もつけ加え、やがて頭も胴もというのでした。こう書いて

しまうと単純なのですが、なにしろ芸達者なものですから各国からのお客さんに大受

け。さしもの海の神様も通過してよろしいということになり、乗客全員に船長と「ネ

プチューン」のサインのある「通過証明書」が発行されました。

 

 儀式のあとデッキに出てみると、北極圏を出たというのが頭の隅にあるからでしょ

うか、昨晩よりも心なしか空の色が暗くなっているような気がしました。

 

 

 

 

(13) ツルハンスク

 

 18日(水) 7時半にやはりラジオで起こされました。今日もよく晴れています。船は

既にツルハンスクの桟橋の沖に停泊中でした。すぐに朝食。

 

 9時に下船して市内観光ということですが、ここではバスもなくガイドもつかず各

自徒歩で自由行動ということになりました。1時間半近い自由時間があったので、町

の中をゆっくりと歩いてみることができました。ツルハンスクはイガルカより小さな

町かもしれませんが、クレイカのような寒村ではありません。ただ舗装道路は一つも

なく自動車が通るとたいへんな埃が舞い上がります。建造物もドゥヂンカやイガルカ

で見たゲタを履いた「ツンドラ仕様」ではなくなっています。

 

 町にはスベルドロフが流刑になっていたとか(このあたりの町や村はみんな流刑だ

の収容所だのと関係あるんですね)という場所にほんとうに小さな博物館があり、ス

ターリンなどシベリアに流刑になった人達の資料や逆にスターリンが囚人達を使って

完成させようとした例の「ミョールトバヤ・ダローガ」の資料などが展示されていま

した。博物館の前庭で東山さんが相手をしていた少年達のうちいちばん年少っぽい12

歳ぐらいの子にそこに立っているスベルドロフの銅像を指して「あれは誰?」と聞い

たら「知らない」という返事が返ってきました。ソ連時代なら考えられないことです

が。

 

 10時半、下ツングースカ川の遊覧。遊覧船「ザリャー」号で下ツングースカ川を遡

ります。この川はエニセイの第一の支流だそうですが、最下流部ですから前日映写室

で見た映画のとはちがって川幅も広く流れも穏やかです。合流部から少し上にのぼる

と右岸または左岸に切り立った崖が現れたりして、これまで見てきたエニセイの両側

の景観とは少し違います。でも川幅が広いので“渓谷”という感じではありません。

 

 この遊覧船で隣の席に座ったドイツ系の男の人がこちらが日本人だとわかると自分

のもっているカメラは「ヤシカ」だと言って見せてくれました。「チェーホフ」号の

デッキでもあちらの人達のもっているカメラやビデオカメラ、「CANON」だの

「SONY」だのがやたらに目につきます。なるほど貿易摩擦も起こるわけだという

感じです。お返しに私のカメラも先方に見せてあげました。勤め先の近所の写真店で

数千円で買ったドイツ製の「アグファ」です。相手は笑ってましたけど。もっとも、

この「アグファ」、フィルムを巻き上げるとシャッターが下りてしまったりしてどう

も信頼性が今一つです。やっぱりこの手の機械は日本製に限りますか。

 

 12時に「チェーホフ」号に戻りました。12時半からまた映写室で今度は1908年の大

爆発(隕石の落下?)のドキュメントフィルムを見ましたけど、ロシア語のナレーシ

ョンで、やっぱりよくわからない。その間に船はツルハンスクの桟橋を離れたようで

す。

 

 

 

 

(14) 客船「A・チェーホフ」

 

 13時半、昼食。アスパラガスをハムで卷いた前菜には生野菜が添えられていました。

メインはスズキのムニエルですが、そのつけあわせがゆでた馬鈴薯のほか、ほうれん

草か何かをすりつぶして味付けしたものでこちらは正直何なのかよくわかりません。

デザートは生クリームを添えた缶詰パインでした。

 

 14時半ぐらいから2時間ほどサンデッキでうたたねをしました。サンデッキよりも

う1階下の上甲板後尾のスペースにもデッキチェアーが置いてありますが、ここは隣

接するバーの続きになっていて、そこにいるとウェイトレスが注文を聞きにきます。

そのうちの1人、控えめながら愛想のいいオクサナなぞに「ご注文は?」と聞かれて

「いや、何も要りません」と言うのはなかなか努力がいるので、私はどうしても最上

階のサンデッキに居ることが多くなりました。

 

 17時半、ブリッジの見学。船旅をするとたいてい一度はこの機会が設けられますね。

 まず航海士の方からこの客船「アントン・チェーホフ」号についての説明を受けま

した。1978年にオーストリアで建造された船で、はじめからエニセイ川に就航してい

たようです。改装は昨年から今年にかけてオランダでです。オーストリアで進水・完

成してからエニセイにどうやって運んだかと思います?ドナウを下って黒海に出、そ

こからボルガ川を遡って運河を渡りバルト海にまわり、そして北極海側からエニセイ

にはいったというのです。そうするとスカンジナビア半島をぐるっとまわったのでし

ょうか。ちなみに、この船の回航ルートの一部、バルト海の奥フィンランド湾からラ

ドガ湖、オネガ湖を通ってボルガに出るコースには同じM社のクルーズ船が運航して

いて、レセプション脇にはペテルブルク〜モスクワやモスクワ〜ボルゴグラードのリ

ーフレットが置いてありました。

 この船は川船なので喫水が浅く2mくらい。2m40cmぐらいの水深なら航行できる

と言っていました。最大復元角は45°ということでしたから、海の船にくらべると小

さいかもしれません。大西洋や北極海を回ったときはどうしたのでしょう。「アント

ン・チェーホフ」はディーゼルエンジンを積んでいますが、振動を減らして乗り心地

をよくするために、それで発電機を動かして電気でスクリューを回すんだそうです。

エネルギーのロスはその分多い筈です。

 ブリッジには何とよぶのでしょうか、海図に相当する図面が勿論あり、航路標識や

川底の様子が細かに描かれています。季節によって水量が大きく違う河川の航行は海

とはまた違った難しさがあるように思います。同じ河川でも堰がいくつもあって水量

の管理もそれなりにできるヨーロッパ部のボルガなどとはエニセイはまたひと味違う

ようです。

 ブリッジのレーダー(これも覗かせてくれました)のほかに、そのすぐ後ろにM社

のマネージャー専用の小部屋があって、そこには衛星通信を使ってコンピュータでロ

シア外の各地とすぐ連絡をとれる設備もありました。

 

 18時過ぎからまたサンデッキに。天候は快晴で、風がやわらかく暖かでした。両岸

は針葉樹の森が続きます。どういうわけか、右岸の針葉樹林の根元にはずっと大量の

倒木だか流木だかが横たわっています。どちらの岸にも人家などの建造物を半日も見

ないまま航行するというのにも慣れてしまいました。船尾にはあいかわらず鴎がつき

まとっています。 ご夫婦で参加してらっしゃる石山さんのご主人もよくサンデッキ

へ上がっていらっしゃいますが、このときもやはり来ていらして「初めてみたときは

この景色に感動したけど、4日も続くとね〜」とおっしゃると、たまたまそこに来あ

わせた徳山さん、「女房と同じですよ」ですって。

 

 

 

 

(15) エニセイ川の夕焼け

 

 20時夕食。レストランのテーブルは全部窓際に並べてあって外の景色を直接眺めな

がらの食事ができるようになっています。もっともその景色は川面とその向こうの針

葉樹の森というこれまでとずっと同じものですけど。テーブルの上にはかわいいラン

プが置いてあって客がくると点火してくれます。同じランプは上甲板の青天井のバー

(昨日書いたあそこです)のテーブルにもあって、日没からその後にあそこを利用す

るとやはり点火してくれて、とても効果的でした。夕食は、唐辛子をきかせたコーン

スープ、杏をはさんだポークソテーにマッシュポテトを焼いたのと一口人参を添えた

もの、カスタードクリームとフランスパンのケーキにブルーベリーのソースをかけた

デザート(何が何だかわからない表現ですが、どんなものかご想像になれます?)で

した。もちろん、いつもパンがついていますが、バターは要求しないと出されません。

 

 日本語の日程表にはなかったのですが、ヨーロッパ人向けの案内には21時半からデ

ィスコバーでロシア民謡の夕べというのが出ていて、ロシア民謡の好きな私は勿論聞

きにいきました。でも、船に乗り組んで他の仕事をしている人のですから、正直あま

りうまいとは思えず、ちょっと期待はずれでした。翌日は日本語の案内にもロシア民

謡の夕べというのがあったのですが、この晩のことが頭にあったので行きませんでし

たら、そちらはとても良かったと皆が言っていました。歌い手が違ったのでしょうか。

 

 22時半頃でしたか、この民謡の夕べの間に、ディスコバーの大きな窓から日没を見

ました。エニセイに来て日没を見るのは初めてです。ハバロフスクでアムール川の向

こうに沈んでいく大きな太陽を見ているといかにも大陸に来たという感じがするもの

ですが、どう表現していいのかわからないけど、ここの日没はまたあれとは違った感

じです。

 

 ロシア民謡が終わって、伴奏をしていたロシア人のバンドが私達の知らないある曲

を演奏しだすと一緒に会場にいたスイス人だかドイツ人だかががそれにあわせて一斉

に歌い出すという一幕がありました。それはそれはかわいいきれいな曲で、おそらく

その人達にとっては誰でもが知っているという曲なのでしょう、歌っている人は年輩

の方が多いのですがハモっているようにさえ聞こえるのです。

 じつはこれと同じような場面に以前にも居合わせたことが一度だけあります。82年

の大晦日、モスクワ郊外(というにはちょっと遠すぎますが)スズダリのツーリスト

センターで年越しのパーティーに参加していたときのことです。我々日本人はやはり

20名かそれ以下の人数だったと思いますが、他にドイツからかなり多数の旅行客が来

ていました。そして、やはり私達の知らないある曲を誰かが歌い出すと他の人達も次

々と一緒になりやがて会場全体の歌声になっていったのをよく覚えています。

 その時も今度の場合も思ったのですが、日本人にはこういう時こうして歌える歌が

あるのだろうかと。そう考えると、ロシア人にしてもドイツ人にしても歌がほんとう

に生活の中にとけ込んでいるんですね。

 

 その宴のあと、また甲板に出てみました。日が沈んだあとの夕焼けが何ともいえな

い微妙な美しい色になっています。しかも、それが川面に映っていて、航跡と混じり

合って見事な文様を作り出しているのに驚いてしまいました。海の夕焼けなら水平線

のあたりで空と海とが渾然一体となるのでしょうが、ここでは対岸のタイガの黒い帯

がはっきりと両者を隔てています。そしてそのあたり、つまり船から遠く岸に近いと

ころでは船の航跡も届かず、水面は油を流したように平らです。

 船室に入って寝てしまうのがもったいなく思えて、しばらくの時間、デッキの手す

りにもたれてこの空と水の夕焼けの色に見入っていました。

 


 

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