エニセイ紀行 (1993)


 

(00) 前口上

 

 FWORLDTのみなさん、おひさしぶりです。殆どROMでした石川です。

 

 去る14日にこちらを出て25日の夜戻るまでの12日間、シベリアのエニセイ川を中心

にしたパック旅行に参加してきました。スイスのM社の企画した旅行で、西ヨーロッ

パの観光客が中心の百数十名の団体旅行ですが、その中に20人程度の日本人枠があり、

それを日本のAT社が国内で売り出したのに応募したものです。参加費は船、ホテル

ともにシングルで31.2万円というこの種のロシア旅行としては格安のものでした。今

回の日本人グループは16人。添乗員はつかないという契約でしたが、現地調査という

名目で社員の中山さんが同行してくださいました。

 

 この会社のパンフレットを取り寄せたら「ロシアリバークルーズ5つの魅力」とい

うセールスポイントが枠に囲んでありました。おもしろいので書いてみます。「1.ス

イスのマネージメント,2.スイスのホテル会社によるクルー教育,3.食糧はスイス側

で用意します,4.西ヨーロッパ水準の設備,5.川と湖なので船に弱い方もの楽しめま

す」 5はともかく、1〜4の意味はロシア旅行をされた方でないとおわかりになり

にくいのでは。でも、今回で19回目になる旧ソ連・ロシア旅行でレストランのウェイ

トレスから笑顔で(笑顔でですよ)「ほかにご注文は?」などと聞かれたのは今回が

初めてです。これが2の意味するところなのです。というわけで、商店では「売って

やる」、食堂では「食わせてやる」という応対に慣らされた身にとっては、少なくと

もエニセイ川を航行する船に乗っている間はロシアの旅とは思えないものでした。

 

 旅行中にフィルム3本の写真を撮ったつもりでしたが、現像したらそのうち1本が

真っ白。そのかわり大学ノート18頁ほどのメモを取ってきましたので、それをベース

にしてこの12日間の旅のもようを書き綴ってみたいと思います。ご迷惑でなかったら

お付き合いください。

 

 

 

 

(01) ハバロフスク空港

 

 ハバロフスク行きアエロフロートSU-812便はほぼ満席の乗客を乗せて14日雨の上が

った新潟空港をほぼ定時に離陸。2年以上前に利用したときとくらべて変わった点と

いえば....

 1) ロシア人の乗客(個人客)が少なからず搭乗していること。

 2) 新潟空港からウラジオストク,イルクーツクを含めほぼ毎日ロシアへの定期便

  が飛ぶようになっていること。出発ロビーと到着ロビーが分離されているのも初

  めて知った。

 3) 機体番号がCCCP-****ではなくRA-****に書き換えられていること。

 4) 尾翼のソ連国旗がロシアの三色旗になっていること。

 

 とは言え、お馴染みのTU-154の内部は昔のままで、やっぱり窮屈な思いをしながら

の1時間40分のフライトでした。離陸後1時間ほどして昼食。ローストビーフ,イカ

のマリネ,ロールキャベツ,蒲鉾,ミニトマト,ロールパン,マーガリン,チーズ,

それにいつものお菓子「万代太鼓」。ここまでは日本で積み込んだもので、「あぁ、

このあとは黒パンとサラミとチーズの生活だ」と思ってよく味わって食べる。食後に

コーヒーが出ましたが、こっちはもうメチャクチャ甘い。これだけはロシアから持っ

てきたもののようです。

 

 今回の着陸は市の南西部からアムール河を横断するような態勢ではいりましたので

左側の窓から全市が俯瞰できました。やっぱり大都会です。機体はボロ、滑走路の舗

装もイマイチですが、相変わらず着陸はうまい。ある程度の高さまで下りるとそこで

失速させるあの「ドスン」という感じがアエロフロートには少ないのです。気づかな

いうちに着地していることも珍しくない。

 

 びっくりしたのはハバロフスク空港の国際線ターミナルが一新されていたことです。

この7月から利用されるようになったとかという施設で、これは新潟空港にくらべて

も決してヒケをとらない。それもその筈で、どうも日本の企業との提携でつくったフ

シがあります。空調から机・時計などの什器・備品の多くが日本製でしたから。おま

けにホールにはBGMまで流れるというサービスぶり。あのスターリンゴシックのミ

ニチュアみたいなターミナルとは雲泥の差です。もっとも、ここから出国するときは

空港使用料として20ドルを徴収するという話を聞きました。私達はイルクーツクから

出国しましたからこれは免れましたけど、20ドルといえば悪名高い成田より高いじゃ

ないですか。それはあんまりというものです。

 この空港を初めて利用した頃は外国からの飛行機といえば新潟線と平壌線ぐらいで

した。それが今は、中国とも韓国ともさらにはアメリカ(アンカレッジ,サンフラン

シスコ)とも定期航路ができています。また、駐機場にはアエロフロートと同じ外装

ながらロシア文字の「АЭРОФЛОТ」のかわりにローマ文字で「UZBEKIS

TAN」と書かれた機体番号UK-*****の飛行機も見ましたけど、あれも国際線になる

のでしょうか。翌15日朝、元の国際線ターミナルの待合い室でイルクーツク行きを待

っていたとき、片隅でゲームボーイに熱中しているロシア人の男の兄弟がいて、聞い

てみたらウラジオストクに住んでいてこれからソウルへ行くんだと言っていました。

 

 でも、施設が一新され、国際色豊かになっても、空港やホテルの仕事ぶりは旧態依

然。現地時間で18時半頃着陸したのですが、空港からの途中でレストランで食事をし

たとはいえ、ホテル“インツーリスト”の部屋に入ったときにはちゃんと22時になっ

ていました。

 

 

 

 

(02) ハバロフスク

 

 ハバロフスク空港の税関・イミグレでのんびりしていたので、ゲートを出たのは私

が最後でしたが、それでもグループが動きだす風がないので、ホールの中の銀行の窓

口へ行って両替えをしました。5,000円出したら45,000ルーブルきました。500ルーブ

ルの新札の札束をボンと渡された人もいます。私が79年の暮れに初めてソ連に行った

ときの旅行会社の案内をあらためて見てみたら1ルーブル=417円となっていました。

もっとも1ドル=236円で買ったという銀行のレシートも残っていましたけど。ま、ド

ルの下げ幅は2分の1をちょっと上回る程度ですが、ルーブルは3700分の1以下にな

っているのですからやっぱり凄い。もちろん以前の旅行のときに「また次回に使えば」

と思って税関に気づかれないように持ちだしたルーブル札はその苦労もむなしく文字

通りぜんぶ紙屑。これはインフレのせいだけでなく、92年以前の札は全部無効という

れいのおふれのせいでです。だから、両替えしてもらったルーブル札の発行年をその

場ですぐにチェックするまめな日本人もおりました。ご苦労さま。

 

 ハバロフスクの街は以前ととりたてて変わったふうには見えませんでした。しいて

言えば、たとえばあのレーニン広場を囲むそれぞれの建物の屋上にあったスローガン

がすべて取り払われていたことぐらいでしょうか。あと、道を行く車に日本車が多い

のも前と違う点ですか。ホテル前に止まっていた乗用車にはドアに漢字で「教習車」

と書いてあったので、これは自動車学校のお古ですね。でもあの街では新車に見えま

した。それとつい数年前まではインツーリストのバスはハンガリーの“イカルス”と

相場が決まっていたものですが、今回は空港でもホテルでも1台も見ない。部品の供

給が滞ってしまったのでしょうか。団体の送迎にはトヨタのマイクロバスだかワゴン

車だか(私は免許を持ってなくて車に関心がないので見分けがつかない)が使われて

いました。我々のグループはソ連製の古典的なバスです。

 あ、あとコムソモリスカヤ広場近くの合弁レストラン「サッポロ」の建物がひとき

わあか抜けていて目立ちますね。

 

 昔はハバロフスクではインツーリストホテルが最高級のホテルで、あの街に行けば

我々外国人は無条件でそこへ泊まれました。ところがペレストロイカ以降ホテル事情

が逼迫してくると、これが怪しくなり、私自身もレーニン広場のツェントラリナヤと

か、3年前などは市郊外のミクロヒルルギヤ・グラザという要するに眼科の手術をす

る病院の病室に泊められたこともあります。

 今回もハバロフスクとイルクーツクは「インツーリスト」という予定だったのです

が、中山さんの話だと先方からハバロフスクは「ツーリスト」だという連絡で、さん

ざん交渉してようやく出発の3日前に「インツーリスト」が確保できたという話でし

た。ま、M社からもらったバウチャーに「HOTEL INTOURISUT, KHABAROVSK」と書いて

あるのでこちらは大丈夫とは思ったのですが、そうなるとイルクーツクの宿泊券には

「HOTEL PROV. FIDOROF, IRKUTSK」と聞いたこともない名前がタイプしてあるのが心

配。イルクーツクの地図を見てもそれらしいホテルがないので、中山さんに聞くと

「いやぁ、地図を見てもないんですよ。」と私とおんなじことを考えている。「イン

ツーリストホテルに戻すように交渉しているんですが、現地に行ってみればわかりま

す。」ですって。そりゃ、現地に着けばわかりますよ。

 そういう訳で宿泊を手放したツーリストホテルも食事は手放さなかったらしい。貴

重な外貨獲得源ですから。それで、われわれは夕・朝食とも食事はツーリストホテル、

宿泊はインツーリストホテルということになりました。夕食は、半切りのゆで卵にキ

ャビアをのせたの・茄子の油炒め・生野菜のザクースカ(前菜)に、シチュー用のス

ジ肉みたいな牛肉の細切りを煮込んだものにゆでたジャガイモと生のトマトを添えた

メインディッシュ、それに黒パンとコーヒーで、肉はもちろんやわらかくはありませ

んでしたけど、まあまあの味です。ホテルの部屋は、風呂の栓、バスタブのカーテン、

便座が欠けずに完備している上、スイッチを入れると画像と音の出るテレビ(日本製

でした)、冷蔵庫、それになんと扇風機(これも日本製)まであるというもので、私

のこの日のメモには「言うことなし」と書いてあります。驚いたことに、洗面所には

ホテル名を印刷したポリ袋に歯ブラシ、石鹸、軽便剃刀などを入れた洗面セットまで

置いてあります。勿論、使わずに記念に持ち帰りました。

 ところが、あとで船に乗ってから聞いたら、このハバロフスクのホテルと食事、皆

さんにはえらく評判がわるい。「はじめにハバロフスクへ泊めて、船がどんなにいい

かと思わせるM社の戦略ではないか。」というご仁までいたほどです。あぁ、みなさ

ん、あれほどのものが食べられて(なにしろ到着していきなりキャビアですよ)、あ

んな部屋に泊まれたら感激するようでなければロシア旅行をする資格はないというも

のです。

 

 

 

 

(03) お土産

 

 今回の旅で立ち寄る2つの大都市ハバロフスクとイルクーツクに私が手紙をやりと

りしているロシア人4人がいます。前者にナターシャとナージャ、イルクーツクにア

ントンとレーナで、いずれもこれまでの旅の中で知り合いになった人達です。この中

でアントンとのつきあいがいちばん深く、83年、彼がまだ11歳で私の肩ぐらいの身の

丈しかなかった頃イルクーツク郊外のインツーリストの観光施設のそばで知り合い、

その後84年春、88年暮れ、91年夏に彼のアパートを訪ねたことがあります。他の3人

の家を訪ねたことはありませんが、ナージャの家ががホテルから少し遠いところある

ほかは、ナターシャは鉄道駅のすぐそば、レーナは市の中心部に住んでいる筈なので、

もし訪ねることができればと思って多少のお土産をスーツケースに入れておきました。

 

 訪ねられるかどうかは現地でのこちらの時間とか都合次第ですが、訪ねても会える

かどうかという問題もあります。予め連絡して行ったこともあるのですが、ソ連旅行

はこちらのスケジュールが流動的でそれこそ現地に着いてみないとわからないことも

多いので、今回は事前には誰にも連絡してありません。第一、連絡してもそれが届く

かどうかも怪しい。先年、アントンのお父さん(チェロ奏者です)がイルクーツク・

フィルの一行として来日する機会があったのですが、その手紙を受け取ったときには

お父さんは既に帰国したあとでした。で、何も言ってなければ先方は今長〜い夏休み

中ですから自宅にはいないで郊外のダーチャ(別荘と訳す?)にいる可能性が大です。

ことに、現在のような経済状況だとそこで家庭菜園の手入れなどをしている可能性が。

そうすると、持っていった土産を全部持ち帰ることになり、ことに洋食器のセットは

ちょっと重かったので、それを考えると心配でした。

 

 持っていったのは、

 アントンに、ロックのアナログレコード、お母さんに扇子、お父さん(ワレンチン)

に「ワレンチノ」というブランド名の入ったハンカチセット、妹のアーニャには手鏡、

昨年の秋に結婚したアントンの奥さんには上質のステンレスのフォーク・ナイフ・ス

プーンのセットを、それにみんなにということで上品なキャンデーの缶。

 他の3人のうち誰を訪ねることができるかわからないけど、みんな女の子なので、

アーニャへのと同じ手鏡とやはり缶入りのキャンデー。

 

 あと、チップ代わりに誰にでも上げられるように、カード式電卓5個。1個300円で

した。

 

 それから、お土産ではないけど、折り紙2束。私はこれで鶴しか折ることができな

いのですが、非常に使い道が広く、あちらへ行くときに私はいつも持っていきます。

ソ連時代、学校の平和教育で、原爆病で死んだ日本の少女佐々木禎子さんのことを教

えていましたので、折り鶴はよく知っています。だから、大祖国戦争の戦没者慰霊碑

とか日本人墓地なんかでは花束や線香の代わりに置くことができるし、飛行機を降り

るときはスチュワーデスに「ダ・スビダーニャ」と言いながら渡せるし、幼稚園の見

学(これからのロシア旅行ではこういうプログラムはなくなるでしょうね)なんかで

は全部の園児一人一人へ手渡すことだってできます。

 また、現地の人との交流のきっかけをつかむのにも有効です。公園のベンチなんか

にすわってとなりの乳母車の赤ん坊にあげるのに1羽折っていると、それを見ていた

人が近寄ってきて私にもほしいとか私も折るから紙を1枚よこして折り方を教えろと

かその紙はどこの売り場で売っているかとか、だんだん私の回りに黒山の人だかりが

でき、人だかりがあるとあそこで何か珍しいものを売っているのかもしれないという

ことになってさらに人が集まるという経験をなんべんしたことでしょう。

 

 あ、話を本題に戻しましょう。このあいだ書いたようにハバロフスクのホテルの部

屋に入ったのが22時。明朝6時過ぎには起きなければということを考えると、ナター

シャやナージャのところへ行くのはやめることにしました。一度も行ったことがない

ので、建物に貼ってある番地の札と地図を照合しながら家を探さなければならないし、

さすがに22時を過ぎると日が落ちてしまっていて見つけられる自信がなかったことも

あります。それに今のロシアでは1人でタクシーを使うのは危ないとも言われていま

したから。そういうわけで持ってきたお土産はまったく減らないままハバロフスクを

出ることになりました。ここで、4人のうち2人には会わないことがはっきりしたの

で、イルクーツクでアントンとレーナのどちらかに会えないと、お土産の一部は持ち

帰ることになってしまいます。

 

 

 

 

(04) ハバロフスクを発つ

 

 着いた晩、夜10時頃まで明るかったので、やっぱり北へ来たせいだ、これは朝も早

くから明るいぞと思ったのはとんだ間違いでした。サマータイムで時間が日本より2

時間進んでいるせいでもあるのです。朝6時をまわっても明るくありません。

 

 朝 6時15分にモーニング・コールがあることになっていたのですが、そんなものあ

ろうはずがありません。これまでの旅行でもモーニング・コールは日本の添乗員が自

分で内線電話をかけるか、場合によっては自分で各部屋の扉をノックしてまわるとい

うのでしたから。じつは、前の晩、中山さんが通訳のお嬢さん(きれいな人でしたが

名前は忘れてしまいました)にモーニング・コールを頼んでいるところに居合わせて

しまったのです。中山さんは、ベテランの社員でとても頼れる人でしたが、ロシアは

初めてで、かつロシア語は知らない。他方、通訳嬢のほうの日本語はいまひとつ。で、

彼がモーニング・コールを依頼すると「それは何?」という感じになり、中山さんが

手振り身ぶりも加えて説明すると例によって「フンフン」という返事(これをマに受

けてはいけない)。思うに、ロシアのホテルにはモーニング・コールというサービス

そのものがないのですよ、きっと。

 

 で、朝は6時半1階ロビー集合ということになっていたのに、目が覚めたらなんと6

時19分。あわてて飛び起きてとにかく30分に1階ロビーに行ったら、「燃料がないの

で、飛行機は飛ばない。出発のメドはたっていないから、連絡があるまで部屋で待機

するよう」にという話。他の日本人グループには「午前中はハバロフスク市内自由行

動」なんていう噂もあるくらいの状況でした。モーニング・コールがあるのを信じき

っていて寝過ごした人は大喜びでしたけど。私も午前中自由行動なら昨晩あきらめた

ナージャかナターシャのところへ行ってみても(朝なら明るいので不安も少ない)と

思ったのですが、うちのグループには自由にしていいという指示も出ず、ひたすら待

機。

 

 でも、この待機は思いのほか早く解除になり、1時間後の朝8時にホテルを出るこ

とができました。勝手に外出しなくてよかった。

 

 昨日と同じツーリストホテルに寄って朝食。黒パン、ハム、ソーセージ、ビーフス

トロガノフ・ライス添え(「朝から豪華な」などと思わないでください。肉は昨晩の

と同じ、ライスはパサパサでした)、紅茶。

 

 この日の朝は寒く、ラジオでは15℃と言っていました。私は、夏のハバロフスクは

大陸性で暑いという印象だけが強く、今日行くところは北極圏の中だということも忘

れて夏の服装しか持っていないことに気づきました。長袖といえば、長袖のオープン

シャツと卒業生(私は学校勤めです)が教室に残していった体操着の上(ジャージ)

を持っているだけです。船長主催のディナー用にスーツを持ってくるように案内書に

書いてあったのですが、それは持ってきたもののYシャツを忘れていることにも気づ

いてしまいました。そう思って街を見ると気のせいか木の葉が多少色づいているよう

にさえ見えるのです。

 

 8時半を少しまわった頃、空港着。今度は新しいビルでなく、昔懐かしい旧国際線

ホール。飛行機がつぎつぎに離着陸しています。あの「燃料がないから」という話は

何だったのでしょうか。そのように言えば、ロシア人は今にも凍死か餓死しそうに思

っている日本人は黙って納得するとでも思ったのでしょうか。

 搭乗手続き、荷物検査まではわりに順調にことが運んで、例のレリーフのある待合

い室へ。ところがその後一切声がかからない。あちら側の待合い室はカフェもないで

すから、軟禁状態みたいなものです。ときどき係員が来るけど、「マガダン」とか

「ヤクーツク」とか見当違いの地名を叫んで、その都度日本人を含む何人かの乗客が

外へ出ていく。日本人もいろんなところへ行くようになりましたね。

残っているのは我々だけになり、ようやく「イルクーツク」とよばれて外へ出て飛

行機に乗り込み、予定では9時35分発のSU-6140便がハバロフスクを離陸したのは12時

50分でした。

 

 

 

 

(05) 北極圏へ

 

 私達が小さい頃、飛行機はお金持ちが乗るもので私などは一生乗る機会はないもの

と信じていました。ソ連では国土が広くて鉄道や道路の整備が非常にたいへんなもの

だから、飛行機ってそういうのではなくて(すくなくともこれまでは)路線バスみた

いな感じかもしれません。

 この日(15日)ハバロフスクからイルクーツクへ渡ったときのTu-154もそんな感じで

した。機体の外側の塗りは一部はげ落ちているし、客室の電灯のカバーがはずれて天

井にぶら下がっていたり。お客はコンピュータの端末が打ちだした搭乗券を持ってい

るのですが、そこに書いてある席番なんか関係なし、スチュワーデスのお姉さんが

「空いているところに座って」ってどんどんすわらせちゃう。通路をはさんで私の左

隣にいた若い夫婦はお客が全部着席してしまうとやおら折り畳みの乳母車を組み立て

て非常出口にもなる出入り口のところにそれを置き、赤ん坊を寝かせてしまいました。

万一のことでもあったらあれに阻まれて我々はまずまちがいなく機内で焼死体になっ

ていた筈です。でも、スチュワーデスは何も言わない。おおらかなものです。国内線

だから全面禁煙で、3時間足らずの飛行なので機内食はなく、ガス入りのミネラルウ

ォーターが1回出ました。

 

 前の3人ならびの席の真ん中に座っていた男の子がときどきこちらを見ます。外人

が珍しいのかな。小学校6年生だとか。名前を書いてもらったらアレクサンドル・ア

レクサンドロビッチですって。あちらでは親子で同じ名前のこともあるんですね(あ

との**ビッチは父称といって父親の名前がきます)。そのうち、彼が私にだけでな

く同じ列に座っていた石山さんご夫妻にもと言ってキャンデーをくれたので、おかえ

しに例の電卓を1個上げました。そしたら、また、そのお返しになんとビニール製の

ミッキーマウスの人形をくれるのです。「こんな大事なもの(中国製品でした)もら

えません」と言いたかったのですが、そういうことが言えるほどの語学力は無し。な

んとなく受け取れないという雰囲気だけは伝わったようで、「平気、こうすれば」

(と言ったかどうかはわかりませんが)と栓をあけて空気を抜いてたたんでくれる。

荷物になるから断ったと思ったんですね。結局ありがたくいただきました。旅の間に

どこかで“活用”しなくては。

 イルクーツクで飛行機を降りたとき、タラップの下で一緒に写真を撮ったのですが、

これは現像したら真っ白だったほうので、後日手紙を書いて謝る必要があります。住

所はダムで有名なブラーツク市になっています。

 

 窓からバイカル湖が見えるようになってからそれほどは時間がたたない13時半過ぎ

に(ハバロフスクより-2時間)、イルクーツク着。ここでも着陸は上手です。気温は

24℃とかで、ハバロフスクとは10度前後の差があります。

 

 一旦、空港ターミナルに入ってスーツケースと合流したあと14時半頃ノリリスク行

き機に乗り込みました。同じTu-154ですが、こちらはM社のチャーター機だけあって

内装も手が入っていてさきほどの飛行機とはずいぶん雰囲気が違います。我々のグル

ープは中山さんを入れて17人ですから、当初Yak-40か何かの予定だったらしいのです。

それがエニセイ川を下ったお客さんを迎える都合か何かでこれになったということを

あとで聞きました。Yak-40ならイルクーツクからノリリスクまでの間に給油のために

2度も降りなければならなかったらしいのですが、それが直行できたためにノリリス

クへ着いたときにはハバロフスクでの遅れを取り戻してお釣りがくるほどでした。も

っとも、この機も我々がキャビンに入ってから離陸まで1時間ちかく動きませんでし

たけど。とにかく、そういうわけで百数十人乗りの飛行機に乗客17人。そのかわり、

荷物をあずかってくれるというサービスはなく、重いスーツケースをもってタラップ

を上がりました。

 

 イルクーツクからノリリスクへ向かう空路のはじめの頃は、わりに天気がよく、ぽ

かりぽかりと浮かんだ雲の影が畑や森の上に落ちているのがよくわかりました。

 16時半頃になってようやく昼食。いくら時差があるとはいえ皆おなかがへっていま

した。ローストビーフの厚切り(昨日の肉よりはずっとやわらかい)に胡瓜、チーズ、

サラミ、フランスパンみたいに固めの黒パン(美味しい)、バター、レバペースト、

甘い味の焼き菓子、とてつもなく甘い例のチョコレートのキャンデー(さっきの飛行

機でサーシャにもらったのと同じ味)、紅茶。このときの紅茶が美味しかったとメモ

にあります。よほどおなかがすいていたのかな。

 

 ノリリスクへ向かって着陸態勢にはいり、雲をつきぬけて地上が見えてきたら、風

景がこれまでと全然違っていました。ゆるやかな起伏しかない低地に低い潅木だけが

生え、凹地に水がたまって無数の沼沢が点在しています。ところどころに万年雪なの

か、白い広がりがあります。

 


 

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