ドニエプルから黒海へ (1996)


 

(11)セバストーポリ

 

 このセヴァストーポリの埠頭にもエヴパトーリアの海港と同じように脇に水浴場が

あって日光浴のための寝台風の棚なんかがたくさん置いてありました。入港した21

日は好天でしたから、ヘルソネスに行かずにここで泳いでいた船客もたくさんいたの

です。22日の午前中はフリーでしたからK子さん達もここで泳げたらと思っていた

でしょう。ところが、22日の朝起きてみると前日とはうって変わってどんよりとし

た曇天。時々スコールのようなまとまった雨まで降る始末でした。

 

 朝食のあと、ガーリャさん、Hさん、K子さんの4人で埠頭のすぐそばのルィノッ

クへ。ここはキエフのルィノックの比べても遜色のない規模で、とても活気がありま

した。毛のついたままの牛の頭を両手に持って歩いていく人(豚の頭は何度か見てま

すが、牛の頭はどうも..)、蝶鮫をさばく人、..。蜂蜜売りのおじさんは、何種類も

の蜂蜜をナイフに取ってH先生やK子さんの手の甲に塗り付けて試食させます。雨は

やはり降ったり止んだりです。

 

 ガーリャさんはバフチサライの観光に行き、我々のほうは一度船に戻りました。そ

してK子さんを誘って入港の時に見た埠頭の上の丘にあるモニュメントへ行ってみる

ことにしたのです。ところが、その丘の上に着いた頃突然強い雨風になって傘をさし

てももう下半身はぐっしょりという状態。おまけに下が粘土質で靴に泥がついてどん

どん重くなる。船に帰るべく丘と埠頭を結ぶ階段にたどり着くとそこは雨水で滝のよ

うでした。

 

 K子さんはそのままでは風邪をひいてしまうからと言って船に戻りましたから、そ

の後は私一人で市内を歩いてみました。まず波止場の上の三叉路からボリシャヤ・モ

ルスカヤ通りを終わりまで。ここでも途中強いにわか雨に見舞われました。通りでよ

うやく郵便局を見つけて、これまで出せなかったペテルブルク宛のと絵葉書でない真

っ白な葉書を1枚買ってこちらは自分宛に出しました。応対してくれたのはソ連時代

と変わらない無愛想さのお姉ちゃん。

 通りの終わりのウシャコフ広場からは今度はレーニン通りを歩いてみます。この頃

には雨は上がって青空さえのぞくようになっていました。通りの入り江側は通りに沿

った細長い公園風になっていて、そこからは、現役なのかスクラップなのか知りませ

んが、黒海艦隊の潜水艦が何隻も係留されているのが見られます。レーニン通りには

道路の両側にウクライナ国旗を模した飾りと、道路そのものには「8月24日ウクラ

イナ独立の日」という赤い横断幕が取り付けられていました。8月24日というのは

何があった日でそれを「独立の日」にしたのか私にはわかりません。ナヒーモフ広場

まで戻ると天候はすっかり回復していましたから、海辺のベンチに1時間ほど座って

衣服や靴や靴下を乾かしていました。隣のベンチではお年寄りの男性が2人、いつ果

てるとも知れない長いおしゃべりを続けています。

 

 1時半に船での最後の昼食でしたから、戻ってみると、みんなの様子が深刻そうで

す。K子さんの財布の中から20ドル札5枚だけが無くなっていたんだそうです。彼

女、パスポートや現金などの貴重品の管理はしっかりしていて、殆ど肌身離さずの状

態でしたからそれを抜くことができるとすれば状況は限られていて、ちょっと重苦し

い雰囲気になりました。最もロシアに馴染めずにいる人だけに次々とこういうことが

起きるのは何とも言いようがないのですが、しかし手のうちようもありません。

 

 ガーリャさんも少し遅れてバフチサライから戻ったので、食後しばらくしてから私

とT君の部屋で最後の乾杯をしました。その後、我々の下船までまだ時間があったの

で、あまり気の進まない様子のT君を残して5人でナヒーモフ広場まで行ってみまし

た。ここでも時折小雨に見舞われました。

 

 ところが定刻の5時より少し前に船に戻ったつもりなのに、出迎えの旅行社のナタ

ーシャさんとイーラさんがもう早くから待っているのです。いえ、ちょっと心配が無

かったわけではないのですが、こちらは船の時間で5時と勝手に決めていたのに対し

て先方はもちろん地元の時間で5時に迎えに来ていたのです。それで急いで船室を引

き払って迎えのタクシー2台に乗り込みました。

 

 この日の宿泊予定のホテル「ヤード」というのは旅行者用の地図の索引を見てもま

ったく見当たらないのです。で、船にいる時から「きっとイズマイロボどころじゃな

いとんでもないホテルだよ」とか「いや地図にないんだから新しいホテルだよ」とか

勝手なことを言い合っていました。車に乗ってもどこへ連れていかれるのか不安なわ

けです。前日行ったヘルソネスのあたりを過ぎてどんどん郊外へ行きます。船の出港

時刻に波止場に来てガーリャさんを見送るというのは到底無理になりました。で、我

々の車がどこへ行ったかというとなんと新興住宅地のアパートの建築現場に向かうで

はありませんか。「えっ、ホームステイなの?」と思ったら、その建物の向こうに4

階建ての小ぶりのホテルがある。これが「ヤード」でした。

 つまり地図に出ている旧国営とかのホテルでなくて新しくできた民営のなんです。

部屋はホテルでいちばんいいのだそうで、調度も広さもじゅうぶん満足です。K子さ

んなんか「ここで1泊しかしないのは..」と言っています。ただ困ったのは我々男性

側の部屋がツインでなく、ダブルだったことです。同室のS君が「いいですよ。石川

さん、ベッドに寝てください。」と言ってくれて彼は次の間のソファで一夜を明かし

ました。

 あ、キエフと船では私はT君と同室だったのにというのにお気づきでした?そうな

んです、今回の旅では男性陣は部屋の組み合わせをローテーションにしてまして。そ

の理由ですって?T君と私は去年の旅に参加していてHさんの鼾がどんなに物凄いも

のかよく知っていたからです。で、まあ、できるだけ被害を均等にということで、キ

エフと船がS君、クリミヤがT君、モスクワが私というわけです。

 

 なにしろ建築現場みたいなところに建っているホテルですから「イズマイロボ」み

たいにちょっと外まで行って何か買ってくるというわけにいきません。そこでナター

シャさん達にお願いして、町の小さなルィノックまで連れて行ってもらいました。こ

こでパン、野菜、ソーセージ、ケフィール、それに誰かさんがしっかりウォトカも買

い込んで、HさんとT君の部屋に集まり、ナターシャさん、イーラさんを交えての夕

食にしました。食べながら自己紹介やらいろいろの話をしました。英語通訳のイーラ

さんはまだシンフェローポリ総合大学の4年生に在学中ですが、すでに結婚していて

3歳の娘さんがいるそうです。ナターシャさんはお子さんがもう大きくなっている年

輩の方で、やはりシンフェローポリ総合大学で学んだあと、ゴルバチョフの時期まで

地元の党関係の仕事をしていたといいますからかなりのエリートだった筈です。今は

小さな旅行会社の共同経営者らしい。ナターシャさんの話だと、このセヴァストーポ

リが外国人に開放されたのは今年1月だそうです。ウラジオストクとかペトロパブロ

フスク・カムチャツキーとかアルハンゲリスクなどに比べるとずいぶん遅かった気が

しますが、例の黒海艦隊の分割問題のせいでしょうか。そういうわけで、ナターシャ

さんの会社が扱う日本人客は我々が初めてということでした。

 

 

 

 

(12)バフチサライ

 

 ホテル1階のバーで8時に朝食をとったあと、荷物をまとめてロビーで9時の出発

を待ちます。この23日はヤルタまでの移動日ですが、そこまではナターシャさんと

イーラさんが同行することになっています。

 

 迎えの車を待つ間、イーラさんに明日がウクライナの独立の日?って聞いたら、知

らないという意外な答えです。セヴァストーポリのレーニン通りにお祝いの横断幕が

出ていたのに随分な落差です。あの横断幕は誰が(と言っても公の機関でしょうが)

出して、地元の人はどう思っているんですかね。そう言えばクリミヤへ来てみると看

板なんかもウクライナ語でなくてロシア語表記が多いのです。K子さんが気づいて教

えてくれたんですが、郵便ポストもキエフとちがってここではロシア語のПОЧТА

になっています。地図もザポロージェまではウクライナ語でしたけど、エヴパトーリ

アからこちらはロシア語のを売って寄こしましたっけ。それじゃイーラさんはロシア

人?それともウクライナ人?て聞くとこれも知らないという返事です。「知らない」

というのもヘンな答えですが、お父さんはクリミア・タタール人で、お母さんの先祖

をたどっていくとジプシーの系統だとか。そういう民族問題にかかわりたくないと思

っているのかもしれません。

 

 小さなワゴン車で1時間ほど走るとバフチサライの町に着きます。日本ではなかな

かここに立ち寄るツアーは見つけにくいのですが、プーシキンの「バフチサライの噴

水」で知られていますから外国人の観光客も多いようです。そのクリミア汗の宮殿を

最初に見学。現地のガイドがついて説明してくれると、Hさんが邦訳、イーラさんが

主にK子さんのために英訳してくれます。両方いっぺんに聞こえてきて余計混乱とい

う面もありましたが。汗の宮殿はいくらクリミヤでもやはり東方的な雰囲気の建物で

ロシア人にはエキゾッチクだと思います。プーシキンに名作を書かせたくらいですか

ら。その「涙の噴水」というのも見せてもらいましたが、宮殿の中にはその他にもい

くつもの噴水が置かれていました。ただ「噴水」と言ってもペテルゴフのとか我々が

想像するように水を噴き上げるのというよりも、むしろ水が湧き出てくる泉のような

感じでしょうか。

 

 この宮殿からそう遠くない谷間に石灰質の山肌をくり抜いて設けられた修道院があ

り、雨の降る中な坂道を登って見に行きました。谷間のその反対側の切り立った壁、

それも修道院よりもはるかに高いところには6世紀から15世紀にかけての人々が造

ったという通称ケイヴ・タウンと呼ばれる集落(というよりもう立派な町)の遺跡が

あります。下から見上げるとあそこまで登っていくかという気持ちになるような高さ

のところですが、信仰上の理由の他にやはり外敵から守るという意味があったのだと

思います。おりしも雷雨が激しくなっていて、案内のガイドさんも「ほんとに昇りま

す?」という感じでしたが、我々のグループは若い人が多く、「行こう、行こう」と

いうことになって、ぬかるんだ急な斜面を結局いちばん高いところまで登り切りまし

た。頂上(と言っても尖端という感じでなくある程度平坦です)でも激しい雨に見舞

われて遺跡の一部である石造りの地下室のようなところに避難したこともありました

が、その後天候は急転して、きわめて起伏に富んだ周囲の風景も満喫することができ

ました。また、景色だけでなく、その遺跡そのものも、石造りの建物などよく保存さ

れていてここまで登って来た甲斐があったと思ったものでした。

 

 私は内心この見学が終わったらどこかで昼食をとるとばかり思っていたのですが、

ナターシャさんをはじめ誰も食事のことを言いださず、とうとうそのままヤルタに向

かってしまいました。このあたりは石灰質が崖が垂直ではないかと思えるほど急峻に

そびえ立つ風景です。そして山地でないところはなだらかな起伏のある丘陵。土質の

せいか、畑といえばほとんど葡萄や桃などの果樹園です。そして河川らしいものがあ

まり見られないのも特徴かもしれません。

 幅広の旧ソ連としてはかなりしっかりした道路は次第に高度を上げていく感じで、

しばらくの間山の中を通ったりした後、突然眼前に黒海が広がります。半島の南側に

出たわけです。このあたりは険しい山が海岸線直前まで続き、そこから急に海に落ち

る地形です。つまり南岸は切り立った崖で、そこと海との間のせまい所を道が走り、

サナトリウムなどが密集しています。

 私達は途中、道路よりかなり高いところの崖にある教会に寄ってそこからの眺望を

楽しんだ後、ヤルタに向かいました。

 ヤルタには10年以上前に一度来たことがありますが、その時に比べると周辺部に

ビルがすごく増えたような気がします。

 

 ホテル「ヤルタ」に着いたのは午後5時頃でした。ところがここで問題発生。ナタ

ーシャさんからヤルタまでの送迎の超過料金として1人15ドルを要求されたという

のです。全体で75ドルという現地では途方もない大金です。そういう料金システム

なら事前に説明するというのが市場経済の原則ですが、それがわかってない。ところ

がHさん、こちらが払わなければ彼女がかぶってしまうということで応じてしまいま

す。ここでも交渉能力のあるのは彼だけですからどうにもしようがありません。添乗

員というのはトラブルの時こそ出番なんですがね。

 

 昨日買った食料の残りで昼食だか夕食だかわからぬ食事をとったあと、まだ明るい

というのでビーチまで出ました。12年前もそうでしたが、このホテルはすぐ下にプ

ライベートビーチを持っています。T君とK子さんは水着に着替えてしっかり泳いで

いました。K子さんによれば水はそれほど冷たくはないということでしたけど、でも

彼女、この時泳いだのも一因でこのあと風邪気味になってしまいました。

 

 いくらサマータイムのモスクワ時間でもさすがに暗くなった9時半頃、5人でヤル

タの町まで出てみることにしました。ホテルは市の中心部から少し離れたところにあ

って徒歩で20分くらいでしょうか。エヴパトーリア同様、この町の海岸通りも遅い

時間でもかなりの人が出ています。絵葉書にもなる波止場まで行ってみたのですが、

モスクワのゴーリキー公園のようになんだかわけのわからぬ遊園地風の遊具なんか置

かれてかつてあった港町のロマンチックな雰囲気はすっかり消えていました。埠頭に

は我々が乗っていた「M・ルィバルコ」と同型の川船が停泊しています。Hさんが聞

いてみると、そこに繋いだままホテル・シップとして使っているんだそうです。

 ホテルに帰ってきた時には夜も更けて12時近くになっていました。

 

 

 

 

(13)ヤルタ市内

 

 日の沈むのが遅い分、日の出も遅いわけで、24日ヤルタで迎えた日の出は朝7時

頃でした。曇り空ですが、海上に波はありません。このホテルの客室には全部バルコ

ニーがついていて、私達の部屋のそこには鳩がとまりにきたり、すぐ目の前を鴎が飛

んでいったりしています。

 

 ヤルタには2日間しか滞在できませんし、この日お天気がはかばかしくないので、

アルプカなど郊外に出てみようということで8時からの朝食を終えたあと、タクシー

を手配してみたのですが、空車がありません。それじゃホテル前で客待ちしている白

タクはというと正規の料金の2〜3倍を要求してきます。で、結局郊外に出るのは午

後か翌日ということにして午前中は自由時間に。

 

 はじめはK子さんの部屋で小1時間ほど話をしてましたが、体調もあまりよくない

のか外は歩きたくないし、1人でいたいということでしたから、私一人だけでホテル

の外へ出てみました。ホテルの玄関を出て少し降りたところにアーチ型のオブジェと

噴水があります。このオブジェや噴水は12年前に来たときのままですが、そのまわ

りに日除けのパラソルのある新しい木製のベンチが置かれています。まだ午前中であ

たりに人がいないのをいいことに、このベンチに横になっていました。見上げると高

い木立の先に灰色の空。時折あたりからロシア語の会話がふた言、三言聞こえるほか

は静寂そのものでした。

 

 約束の1時半にHさんとT君の部屋に集合。タクシーの手配の結果を聞くと、この

日は結局駄目で、翌日の9時半に2台のジグリが手配でき、タクシーの非番のドライ

バーが運転してくれるということでした。1台あたり1時間10ドルで。

 

 こうなるとこの日は午後もフリーですから、夕方7時に海港のターミナル前で落ち

合うことにし、T君はビーチで泳ぐと言ってホテルに残り、残り4人は町に出ること

にしました。町へ歩く途中で雨が降りだしました。ターミナルの1区画ほど手前のと

ころにペリメニ屋さんがあるのをHさんが見つけ、そこでペリメニを食べている間に

雷を伴う土砂降りになってしまいました。ペリメニはトマトソース、スメタナ、バタ

ーと何種類かの味があって各自がいろんなのを注文して味を見せ合いましたけど、そ

れぞれにうまい。その間に店の前の坂道はまるで川のようになり、自動車でも通ろう

ものなら軒下で雨宿りしている人なんか大きなしぶきを掛けられます。結局店の中で

1時間以上も雨の止むのを待ちました。

 我々以外にもいく人かが雨のやむのを待っていました。じっと本を読んでいる女の

人。退屈してじっとしていられない子供。お店は昼休みの時間になってレジのおばさ

んが中から錠を下ろしたのに、雨宿りの人を入れてあげるためにお客がそれを外して

しまって新しいお客が来たり。おばさん、「今はないよ」と断っていたはずなのに、

知り合いらしい男の人がくると特盛りのペリメニが出てくるとか..。そばにいた小さ

な女の子に鶴を折ってあげたらはじめは人見知りしていたのにだんだん慣れてとか..

こんな小さな空間でもいろいろな人間模様があります。

 

 雨がほぼ上がってから店を出て海岸通りのお土産店などを何軒かのぞいたりしまし

た。ウクライナでは「カシタン」というお店がロシアの「ベリョースカ」に相当した

のですが、ここの「カシタン」もどこに焦点を当てているのかわからないお店になっ

ていました。そのあと波止場に出て小休止。S君は近くにいた子どもを相手にしてい

るし、Hさんはそのあたりに腰を下ろし、K子さんは波止場の車止めの石の上に横に

なっています。

 そのあとK子さんがさっきホフロマ塗りなどのスプーンを買ったお店にもう一度行

きたいということで2人でルーズベルト通りまで戻りました。そのお店の書籍を扱う

セクションでごく小さな絵本を6冊ばかり買っています。7時の集合時間まで、まだ

少し間があるもののホテルへ帰るには時間がないものですから、地図を見ると波止場

の裏の丘へ上がるロ−プウエーのようなものがあるからそれを探してみようというこ

とにしました。ただ地図をちゃんと見ながら行かずに適当に見当をつけて歩いたため

に見つかったときには集合時間までいくらも残っていず、じゃ食事のあとで皆でとい

うことにしました。そのかわり、そのリフトの近くできれいな教会を見つけました。

地図を見るとアレクサンドル・ネフスキー教会となっています。

 

 約束の7時までには海港のターミナル前に5人全員が集まり、S君達が見つけた大

衆食堂へ食事に行きました。トレーを持ってカウンターで自分のほしいものを取り、

カウンターの端にあるレジで清算するというどこかの社員食堂と同じスタイルです。

私は、ジュース、ケフィール、ピーマンの肉詰め(かなり大きいのが3つ)、ボルシ

チ、キャベツとトマトのサラダで321,000krbでした。

 

 そのあと全員でさきほどのリフトの乗り場へ行きました。リフトは2人乗りのバケ

ツ型ので港の背後の丘まで10分ぐらいでしょうか。このリフトや終点の丘からの港

の眺めが良く、黒海の夕色もきれいです。ただ、このリフトと付近の民家とどちらが

先だったのか知りませんが、民家の上などを無造作に通っているためそういう家の屋

根に食べたあとのゴミなどが捨てられたりしていて下の人達はさぞかし迷惑している

だろうなと思います。日本ならとうに訴訟沙汰でしょう。その家々の間の小さな通り

には子ども達が出て遊んでいるという今の日本では見られなくなった光景がありまし

た。終点の丘の展望台にはギリシャの神殿を模したのかどうか知りませんが、何やら

安っぽい造りの建物があってどう考えても周囲とミスマッチです。

 

 ホテルに帰ったのは9時くらいでした。K子さん、やっぱり具合がよくなさそうな

ので早く寝たらと言ってはみたのですが、彼女のカメラが正しくフィルムを巻き上げ

なくなってしまっていて、それをどうにかしようとしていたらやはり遅くなってしま

ったみたいです。しかも未感光のフィルム3本もベロがパトローネの中に引っ込んで

しまって使えなくなるという結果で、もうほんとうに災難は彼女だけに集中してやっ

て来るという感じでした。

 

 

 

 

(14)ヤルタ郊外

 

 25日の未明3時か4時頃でしょうか。稲妻と雷鳴と激しい雨の音で目が覚めてし

まいました。これで雨は降り切って今日は晴天かと思ったのですが、そう甘くはなく

朝7時に起きたときにも曇り空でした。

 

 8時に朝食。前日は8時に行ったのに食事が出てくるまで結構待たされたし、だい

たい通された食堂が周囲全部壁という密室みたいな部屋でどうも気分がよくありませ

ん。この日は我々の隣のテーブルにおそらく西ヨーロッパから来たと思われる老婦人

が1人座っていて、トーストか何かを注文していた様子ですが、もとよりそんなもの

が出てくるはずもなく、出されたものは殆ど口に合わない様子でした。市場経済だか

らといってサービスが良くなるわけではないんですよね。

 

 9時半から約束の車で観光に出ました。ところがこのあたりはマフィアが仕切って

いるとかで車はホテルの玄関まで来れないんだそうです。我々がホテルのずっと下の

バス停まで歩いて、そこで待っていた2台の車に乗り込みます。

 近いほうから順番にということで、まず最初はリバディア宮殿。ご存じ1945年

の2月にヤルタ会談の開かれた場所です。このあとのアルプカ宮殿もそうですが、入

場者を十数人から二十人ぐらいのグループにまとめてそれに1人ずつガイドが付くと

う方式です。興味深かったのはヤルタでの三巨頭会談とは別に対日参戦などの問題で

スターリンとルーズベルトだけが密談した部屋が三者会談の部屋とは別にあったこと

です。チャーチルを入れたら話は壊れていたでしょうね。日本にとってどちらが良か

ったかは知りませんが。宮殿は庭園もとてもよく手入れがされていて気持ちのいい場

所でした。

 次が「燕の巣」。道端の駐車場から「巣」までは細い坂道を一旦下ってまた登らね

ばならず、それを往復ですからちょっと大変でしたが、この頃には天候もだいぶ良く

なっていて、海に突き出た高い崖の上にある「巣」はやはり絵になると思いました。

ただ、車に戻った時には暑さでヘトヘトでしたけど。

 アルプカ宮殿も駐車場から宮殿までの距離がやはりだいぶありますが、こちらは高

低差がなく、木立ちの中の道で歩くのも苦になりません。宮殿の内部に入るにはCI

Sの大人料金で250,000krb、外国人料金だと400,000krbが必要という表示です。で、

K子さんから400,000krb預かって2人分800,000krbを出したらなんと300,000krbが返

ってきました。いったい私はどこの国の人間だと思われたんですかね。

 

 車はホテルまで戻してもらわずに波止場のところで降ろしてもらいました。そして

そのあたりのオープン・カフェで昼食にしました。ジュース2杯、トマトと胡瓜のサ

ラダ、それに大きな壺に入ったジャガイモと肉のスープで600,000krbでした。このス

ープが熱い上によくダシが効いていておいしかったですね。

 

 食事を済ませて徒歩でホテルに戻ったのですが、私達がホテルに着いた頃からまた

前日のような大雨になりました。ホテルのチェックアウトタイムは過ぎていますから

夜の出発までの間のために確保した1室に5人全員が集まって、交代でシャワーを浴

びたりベッドに横になったりしていました。日曜日でしたけど、1階の郵便局はあい

ていましたから、ここからも自分宛の葉書を1通出しておきました。この局、前日の

24日は休むという貼り紙が出ていました。例の独立記念日ででしょうか。

 

 夕方6時半頃雨がやんだのを見計らうようにして前日のペリメニ屋へ夕食をとりに

出ました。別段リピータというわけではなく、メニューにあったプロフ(ピラフ)が

お目当てだったんですが、行ってみるとそれは無し。で、私はジュース、ペリメニ入

りのブイヨン、キャベツのサラダ、トマトソースをかけたペリメニ、それにホットド

ッグに入れるようなソーセージ2本で夕飯にすることにしました。410,000krb。この

頃また雨が降りだしてペリメニ屋さんの中に軟禁状態の再現です。K子さんもペリメ

ニ入りのブイヨンを注文したのですが、どうも口に合わなかった様子。彼女、ピラフ

を期待してましたから。それで、まだ雨が小降りの中傘を持っている2人だけで店を

出て、もう少し港のほうまで歩いくことにしました。前日待ち合わせた海港の建物の

道路を隔てた反対側に小さなシャシリク屋さんがあり、豚肉のが100gで350,000krb。

どこでもそうですが、注文してから焼いてくれますから15分ほど待っているとたっ

ぷりの香草を添えたのが出てきて、さらにスパイシーなソースもあります。手持ちの

カルバボネツをもうそろそろ使い切ってしまう必要がありますから、彼女、ビールも

注文して、これで十分さっきのブイヨンの口直しになったようでした。

 

 ホテルへ帰ったのは9時頃。部屋のバルコニーから見える薄暮のヤルタの町も、そ

の後もう少し時間が経つと見えてくる夜景もどちらもなかなかきれいです。

 

 11時にホテルの部屋を引き払って送迎のワゴン車でシンフェローポリへ向かいま

す。ヤルタからシンフェローポリまでの道路にはずっとトロリーバスの架線が繋がっ

ています。フルシチョフの時代に環境保全のためにクリミヤ全土のトロリーバス化を

企図してとか。今にして思えば時代を先取りした政策だったはずですが。この夜道を

走る車からヤルタをはじめ海岸線沿いの町々の灯が見え隠れしています。

 

 シンフェローポリの鉄道駅に着いたのは12時半くらいでした。列車はどういうわ

けか定刻より1時間遅い3時過ぎということでしたから、この深夜に2時間以上待つ

ことになります。駅舎は絵はがきにもなるくらい立派な建物ですけど、内部は旧ソ連

のあちこちの駅と同じ。待合室に入りきれないほどの乗客がいつ来るかわからない列

車をただひたすらじっと待つという光景です。私達も座るベンチもなく、駅舎の中の

小さな石段だの自分たちのスーツケースだのに座ったりしていたのですが、その隣に

長いこといた若い夫妻の子どもミーシャが長旅を前に興奮しているのでしょうか、終

始はしゃぎまわって母親を手こずらせているのが愛くるしかったですね。

 

 セヴァストーポリ発26番列車「セヴァストーポリ」はその1時間遅れの予定時刻

よりさらに10分ほど遅れて入線してきました。手配したM社の説明ではこのモスク

ワ行きの列車は一等車だということで多少期待があったのですが、列車が来てみると

我々の15号車だけ他のワゴンよりひとまわり小さいのです。たしかに2人用のクペ

ーですが、あの4人用のから上段のベッドがないという見慣れたスタイルではなく、

上下2段式のクペーですから広さが半分しかないのです。おまけに朝方3時だから室

内灯が点かないのはともかくとして、枕元の読書灯も点かず、天井の常夜灯は逆に消

せないという有り様で「一等車」とは名ばかり。もうこれは寝るしかないと思って早

々に寝てしまいました。

 

 

 

 

(15)モスクワへ

 

 26日朝7時頃だったでしょうか、列車がメリトーポリの駅に止まったところで置

きました。駅の時計はキエフ時間の6時過ぎを指しています。経度は殆ど同じなのに

ウクライナの中でクリミヤだけがモスクワ時間なのでしょうか。ホームに降りて洋梨

を10個ほど買いました。トマトが300,000krbというので買おうとしたらバケツ1杯

だというのでこちらは止めました。キエフへ来るときのHさんのプラムの二の舞にな

りますから。

 

 前夜というか今朝が3時と遅かったので同じクペーの上段にいるK子さん(「赤い

矢」号では落ちはしないかとあんなに心配していた彼女ももう「上段のほうがいい」

と言ってそちらを取るようになっています)も他のクペーの人達も起きてくる気配が

ありません。

 

 8時を過ぎると車窓から見える景色が一変して大きな池がいくつも続く水郷地帯の

ような風景になりました。地図で見るとザポロージェ南方の鉄道が最もドニエプル左

岸に接近するあたりを走っているようです。

 9時にザポロージェ着。8分という短い停車の間にHさんがパンや胡瓜のピクルス、

ゆでたジャガイモなどを買い込みます。

 

 この頃、上段のK子さんも目を覚ましたのですが、前夜が遅かった上にクペーの中

がひどく寒かったために風邪が一層悪くなっているようで元気がありません。車掌の

持ってきてくれた砂糖入りのインスタントコーヒーをすすり、無理してでも温かいも

のをとカップラーメンを勧めてみたのですが全部は食べられない様子でした。

 

 しばらくしてT君、S君も起きてきて、H先生のクペーで朝食。T君とK子さんは

そのまま長いこと話しをしていましたが、だいぶ経ってからこちらのクペーへ移って

きてオセロを始めました。私は上の寝台から観戦です。なにしろ狭い室内ですから。

そのうちS君やHさんもこちらへやってきて2人用クペーに5人が入って下ではオセ

ロが続いていました。

 たたかい疲れた頃に昼食にします。これまで買った食料を片づける感じでしたが、

さすがにセヴァストーポリで買ったソーセージには黴が生えていました。

 

 3時頃、ハリコフ着。ウクライナの税関吏がまわってきたのですが、入国のときと

同様に室内をちらっと眺めただけで行ってしまいました。M社からは各国境を越える

度ごと用に税関申告書の用紙を何枚も渡されていましたけど、ロシア〜ウクライナ国

境では結局往復どちらも不要でした。でも、このときちょっと心配なことに気がつい

てしまいました。それは成田からモスクワに入ったときに書いた申告書に税関の印が

ないのです。あれを税関で見せるとここから下は余白だよという線をボールペンでグ

ニャグニャと書きますよね。あれもない。どうしてそんなんで税関が通って来れたか

今考えると不思議ですが、あの時は3時間も待たされたから思考能力を喪失していた

のでしょう。

 5時に列車はロシア側のベロゴロドに到着。ここでロシアの入国審査がありました。

昔と違ってこの頃ではパスポートに出入国のスタンプを押してくれるようになりまし

たが、ここのはふだん見慣れた飛行機の図柄でなくて蒸気機関車の絵なのが面白い。

 

 みんな寝不足気味ですから、その後はそれぞれのクペーに戻って休憩。K子さんは

上のベッドで長いこと眠っていましたけど、こちらはすぐに目が覚めてしまい、クペ

ーの外に出て廊下の窓からクルスク近郊の大平原に傾きかけている西日を眺めていま

した。

 

 8時頃にK子さんも起こして食堂車へ行ってみました。「レストラン」車という表

示が恥ずかしくなるような田舎のスタローバヤ風のインテリア(インテリアなんて言

葉を使うのも不適当な気がしますけど)印刷されたメニューもなく、目玉焼きしかで

きないという話でした。隣のテーブルで目玉焼きにナイフを入れていた若いカップル

がHさんにもうすぐ駅だからそこで買えばいいじゃないかと言ってくれています。な

るほど、ほどなくクルスクに到着。目玉焼きを注文したままホームに出たH先生、ゆ

でたジャガイモを買っています。ルーブルを持ち合わせてないのでドル札を出したら

お釣りをピクルスで寄越していましたっけ。

 隣のカップルはトマトや焼き豚風のハムなどを買ってきて、そのハムの塊を全部切

って皿に積み上げたものだからたちまち豪華な食卓になっています。こちらもジャガ

イモとお釣りのピクルスを5人で分け合って目玉焼きに添えました。この目玉焼きは

1人分に卵を3つも使った厚手のもので、久しぶりに温かい食事でしたから満足しま

した。

 

 そのあとはHさんのクペーに5人全員で行って、K子さんが買ったジュースやウオ

トカを飲みながら消灯の11時までよもやま話をして時間をつぶしました。

 

 寝台車の寝具は例のシーツや毛布カバーのような薄手のものばかりで肝心の毛布が

なく、長袖を重ね着して寝てもひどく寒いのです。私などシーツの下にもぐり込んで

寝てしまいました。

 そのシーツ類もモスクワが近くなった朝の4時半頃、車掌が遠慮なく各室をノック

してまわって回収されてしまいました。いつも朝はぎりぎりまで寝ているというK子

さん、それらを返してからもカーデガンを足に絡めて頑なに寝ています。起きてきた

のは列車がモスクワのクルスク駅に入線してからでした。

 

 列車は時刻表よりも1時間遅れでシンフェローポリを出たのに、モスクワのクルス

ク駅にはどういうわけか定時に到着しました。空はまだ真っ暗で、車中で想像してい

たほどではないにしても空気は冷たく感じられました。

 

 

 


 

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