キーホルダー



 1980年のモスクワ・オリンピックのマスコットであった小熊の「ミーシャ」。オリンピック客が手軽に買えるお土産品として大量に作ったのに西側のボイコットで余ってしまったのか、オリンピック後かなりの年月が経ってしまった時期でもイルクーツクだのノブゴロドだのといった地方都市のホテルの売店にまとまった数があって買うことができた。私の手元には一つしか残っていないので写真で示せないが、よく見ると目の黒い点の位置などが一つずつ微妙に違い、表情が違って見えたのがおもしろかった。手工業で作ったのだろうか。


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バッジ


 ゴルバチョフ登場以前のソ連では、国家や党の最高幹部がたくさんの勲章を着けて公式の場に出る姿がよく報道されたものであった。また「ベテラン」とよばれる退役軍人もよく勲章を胸につけて外出した。そのせいかどうかは知らないが、勲章ならぬバッジなら、当時はいたるところで手に入れることが可能であった。左は外国人向けの土産店にも大量にあった赤旗を背景にレーニンの肖像をデザインしたバッジ。在庫が大量なのと価額が安かったので貧乏旅行する学生などが「ソ連に行ってきたよ」という証拠がわりの土産にするにはもっとも適していた。

 ソ連邦共産党第27回大会のバッジ。決して代議員章などではなく、単なる記念バッジ。
 
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 たいてい各都市にもおみやげ用(?)のバッジがあった。最上段左はイルクーツク、市の紋章がデザインされている。ホログラムのようになっているため写真では色がはっきりしないが、その上の槌と鎌のシンボルマークのある長方形が赤色、その左の小さな四角形が青色になっていて、それは当時のロシア連邦の国旗を示していた。最上段中はウラル地方の都市ペルミのもの。手元の事典ではペルミ市と命名されたのは1781年となっているので、バッジの「1789-1989」が何の200周年記念なのか不明。しかも、イスラム寺院のデザインになっているのもロシアのバッジとしては珍しい。そうか! もしかして、このモスクが出来てから200年なのかもしれない。最上段右はリトアニアのカウナス市。中段左はエニセイ川下流の都市ノリリスク。中段中は同じくエニセイ河畔のイガルカ。スターリン時代の流刑地だったところで、強制収容所の絵柄。中段右は、旧カリーニンのトヴェリ。市の名前だけのバッジ。日本の高校の校章にも学校名の文字だけというのがあるから、別段珍しくはないか。最下段のはシベリア鉄道沿線の大都市クラスノヤルスク。

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バッジ



 いろいろな行事の折りにも記念のバッジが作られた。左上はメーデーのバッジ。右は1985年にモスクワで開かれた第12回世界青年学生平和友好祭の記念バッジ。


 下段左はバイカル湖付近で開かれたアイスホッケーの大会の記念。イルクーツクの知人からもらった布製の壁掛けと同じデザインだ。下段右は、言うまでもなくモスクワ・オリンピックのマスコット「ミーシャ」。

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バッジ



 平和を訴えるバッジ。冷戦下の当時、この種のバッジやポスターも多く見かけた。

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 国旗をデザインしたバッジ。左はソ日友好のもの。右は、ソ連時代末期にグルジアで売られていたもので、当時はこれが独立運動の象徴であった。

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 船に乗ると船内の売店には乗船記念のバッジが売られていた。右側の「コンスタンチン・チェルネンコ」という船は横浜〜ナホトカ航路の船。左側の2つはレチフロートに属する河川用の客船。これらのバッジにはいずれも光線のあたる向きによってはきれいな色が出るような仕掛けが施されていた。右の2枚は同じバッジなのに、まるで夜と昼の航行のような印象ではないか。

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バッジ


子どもたちに人気のあったTVのアニメ番組「チェブラシカ」のバッジ。ロシアの子ども達どころか日本にもファンは大勢いる。ウソだと思うなら私のサイトの「リンク集」をご覧あれ。

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