アムール川のさざ波 (2002)


( 4) 船上の一日

8月6日(火)



 期待に反して今日も天候はあまりパッとしません。殆ど全天曇空です。なのに、昼

頃でしょうか、甲板にいた私に近づいてきたスタッフの女性が「いいお天気でしょう」

と言うのです。上空を指さしてこれでいいお天気なんですかって言ったら、「だって、

雨は降らないし、暖かいし、..」と言われてしまいました。あ、そういう見方もある

んだと感心した次第。たしかにこの日は暖かだったのです。風も弱く船尾の三色旗が

まったくはためかないこともしばしばでした。



 8時朝食。グレープフルーツジュース,5cmはある厚焼き卵,チーズ,ヨーグルト,

コーヒー,今日はこれだけです。大きなスプーンも出ていたのにカーシャがありませ

ん。「ねえねえ、姉さん、このローシカは何に使うの?」なんて言える語学力はむろ

んありませんから、出されたものを黙々と食べて退散してまいりました。



 10時から民謡教室。「スターリィ・クリョーン」が3番まで行き着いてこれで終

わりかと思ったら、次の曲があって「オーチ・チョールヌィ(黒い瞳)」。私はこれ

を「オーチン・チョールヌィ」と思い込んでいまして(^_^;)まったくなんて暗い題

名の曲をやるんだろうと思ったものです。失礼しました。



 2時間の予定が1時間半くらいで終わり、そのあと歌舞団の全員が練習にやってき

ました。こちらが出ていこうとすると座っていなさいと言われて、最初の一曲の練習

風景を見せてもらいました。これまでに何度も演奏してきた曲のはずなのにお互いに

ここはこうしたらいいとか真剣なものでした。グリーシャは今日も二日酔いなのか冴

えない顔をしています。今夜の出し物はロシアの民謡特集だそうで、ホフロマ塗りの

スプーンや草刈り鎌まで楽器に使ってそのにぎやかなこと。それにしてもあの裏声の

ようなスラブ独特の歌い回しが頻繁にあるのですが、それを昨晩ロシア・ロマンスを

歌ったのと同じ女性達が歌うのです。喉、大丈夫なのでしょうか。



 この船は我々のキャビンがある2階のデッキにはいくつかの椅子が出ているのです

が、上階の甲板には椅子があるのをこれまで見たことがありませんでした。ところが

民謡教室のあと上へ出てみたら、金属製の折り畳み式パイプに一枚布(ビニール製の

シート)を張ったデッキチェアが出ているではありませんか。これをめいっぱい倒し

て横になったら気持ち良くてしばらくウトウトしてしまいました。



 1時昼食。グレープジュース,コーンと胡瓜とハムなどと細切り卵のサラダ,茄子

の油炒め,サリャンカ,鮭のムニエル風に裏ごしジャガイモ添え,桃,コーヒー。



 この日は上陸予定がなかったものだから、昼食から夕食までの数時間、ずっと上甲

板に出ていました。



 時刻は忘れましたが、3時頃だったでしょうか、突然船内放送があって右舷側の山

頂に岩でできた柱状のものが見えるということです。この地域にはそれにまつわる伝

説もあるということでした。



 ほとんど同じ頃、船はニジニタンボフスコエ村あたりを通過していきました。この

村もかなり大きな村のようで、飛行場まであります。1機のMi-8型ヘリコプターと2

機のAn-2型複葉機が駐機していました。村の名前は地図から割り出したのではなく船

客の一人イーゴリさんが桟橋の看板を双眼鏡で見て教えてくれたのです。左舷の岸の

はるか向こうに小高い山並みが見えます。彼が「ヴィソーキエ」なんて言うものだか

ら「いくらぐらい?」って聞いたら「キロメートル」と答えるのです。見た目には日

本のどこにでもある里山に毛の生えた程度の山並みですから、内心「まさか」と思っ

たのですが、あとでキャビンに戻ったときに地図を見たらシホテアリニ山系の端っこ

でほんとうに1000mぐらいの山が並んでいました。



 私がイーゴリさんと話をしているとき、彼のお嬢さんナースチャは傍らのデッキチ

ェアで雑誌のパズルを解いていました。ところが、どうも手に負えないらしく、お父

さんのところへ聞きにやってきます。私はこのパズルに見覚えがありました。縦横の

マス目のうち黒く塗りつぶされるはずのコマがいくつあるかを各列,各行ごとに数字

で示して、黒色のコマで構成されている絵を復元させるというものです。私はこれを

どこで見たかというと来年度から高校で使われる「情報」の教科書の「情報のデジタ

ル化」という節のコラムにあったのです。じつはパズルだったんですね、あれは。あ

んな訳のわからん図を載せた教科書、不採択にしておいて良かった。ナースチャが持

ってきた問題は、46行×13列、難易度5という日本の教科書のとはくらべものになら

ないシロモノでした。



 夕方5時頃、ニジニエ・ハヤビの付近を通過しました。甲板でぼんやりしていたら、

金髪を全部縮れっ毛にした大柄の女性が私に近づいてきて早口のロシア語でミヤモト

ツトムという画家が云々という話を一気にまくしたてます。私ではどうしようもあり

ませんから、ロシア語のわかる人のところへ連れて行って通訳をお願いしたら、その

画家の消息を求めているようです。新潟在住で今年72歳ぐらいの人だそうですので、

これをお読みの方で何か情報をお持ちの方がいらっしゃいましたらご一報ください。

ところで、その話をなぜ私に聞いてきたかなんですが、この人(私のことです)は昨

年自分達の美術館に来たことがあるからと言ったそうです。そりゃたしかに去年の3

月コムソモリスク・ナ・アムーレに行ったときに美術館に立ち寄ったような記憶はあ

りますよ。でもこちらは寄ったかどうかさえおぼろげなのに、先方は1年4ヶ月経っ

ても顔まで覚えている。私の顔ってそんなに人に覚えられやすいんですか。もし今後

コンビニ強盗に入ることを計画する場合には相当入念に覆面をしなければと肝に銘じ

たほどです。



 7時から夕食。アップルジュース,ゆで卵・人参・胡瓜・玉葱をみじん切りにして

のサラダ,プロフ,チョコレート菓子,オレンジ,西瓜,コーヒー。



 8時からの上階のホールでの出し物は「ロシアのおとぎ話」というテーマで、今朝

練習していたものです。今日はダンスは無いようで、あの若い踊り手達も客席でくつ

ろいだ表情を見せていました。内容は歌だけでなく踊りもあるしお客を巻き込んで

(ほんとうは「巻き添えにして」と言いたい)のゲームもありで、1時間半があっと

いう間でした。エニセイ川の「北極圏まつり」で見たような寸劇もあって、面白かっ

たので紹介しますね。まだ村に鏡というものが無かった時代、ある男が町へ行って手

鏡を買って帰り、大事にしまっておいたのです。ところが彼の妻がそれを見つけてし

まって、夫の愛人のポートレートだと思い込んでしまう。悲嘆にくれる彼女の話を聞

いて村人がそのポートレートを見ると、猿のような女だったり、毛むくじゃらの男だ

ったりで....。これをオーバーアクションで演じている様をご想像ください。



 日没は9時半頃でした。雲と川面を黄金色に染めて陽が沈んでいきます。コムソモ

リスク・ナ・アムーレの市街が見えてきたのが10時頃。船足をずいぶん落としている

様子で、市の南側にある鉄橋の橋脚の間を船がおそるおそるくぐり抜けたのは11時頃

でした。ちょうど上の鉄橋を大編成の貨物列車が渡るところで、一方が汽笛を鳴らす

ともう一方も汽笛で応えました。列車と船、同じ運輸業に携わる者どうしの仁義なの

かもしれません。空には星がいくつもまたたいていました。

 

 

 

 

( 5) トロイツコエ

8月7日(水)



 旅の6日目にしてようやく晴れ。なにしろ空が広いので快晴というわけにはいきま

せんが、とにかく上々のお天気です。日の出は6時半頃。空気は冷たいけれど、風は

無いようです。7時半過ぎ、イノケアティフカ村付近にいるとの船内放送。ニブヒ人

の村だそうです。



 8時朝食。オレンジジュース,ジャムを添えたパンケーキ,砂糖入りの温かいミル

クに浸したコーンフレーク,ヨーグルト,チーズ,コーヒー。



 食後に甲板に出ていたら若い船員達がデッキチェアを出す作業を始めて、そのうち

の一人がわざわざ私のところまで運んできて座るようにと勧めてくれました。でも風

が少し出てきてそれが肌に冷たくあたるので甲板に上がってくる人がいません。



 10時から民謡教室。さらに「バイカル湖のほとり」まで加わりましたけど、これは

明日の晩に歌わなくてもいいらしい。ほかに明晩ダンスをする人が歌ってほしいと言

っていたという「セヴァストーポリ・ワルツ」という曲も教わりましたけど、これは

えらく難しい。



 その後は昼食まで甲板にいました。陽射しが強いけど風の冷たさと相殺されて、デ

ッキチェアに横になっているといい気持ちでした。今度は甲板に私一人というわけで

はなかったのですが、上がって来るのは船客ではなくスタッフばかり。はじめに現れ

たのがグリーシャ。デッキチェアを横に並べてしばらく話をしました。そのうちにダ

ンスチーム2組のうち若いほうのアンドレイとアーニャがやってきます。アンドレイ

は上半身裸で、アニュータはビキニ姿でデッキチェアにじっとしていて、私が昼食を

終えて甲板に戻ってもまだそこにいたし、今日に限って彼らは村に上陸することもし

なかったので肌を焼くのが目的だったんですね。実際、途中でしっかり裏返ってうつ

伏せになっていましたから。バレリーナは日焼けを警戒するって聞いたことがありま

すが、ダンサーはむしろ積極的に焼くのでしょうか。昼食後には民謡教室の先生達歌

舞団の女性が上がってきてトドのような巨体をならべていました。



 1時からの昼食は、グレープジュース,キャベツ・オレンジ・林檎の細切りのサラ

ダ(珍しくマヨネーズがかかってない),2種類のハム,ジャガイモのスープ,チキ

ンの衣揚げにゆでジャガイモ添え,プラム,コーヒーでした。



 さきほど書いたように昼食後もまた甲板に上がりました。船は12時くらいにはトロ

イツコエ村に着いているのですが、桟橋にはつけずに少し離れたところに投錨してい

ます。それで、風のせいか流れのせいか知りませんけど、錨のところがコンパスの軸

のようになって船が弧を描くように少しずつ位置を変えるんですね。そうやって揺ら

れながら目を開けると青い空には無数の白い雲が浮かんでいてほんとうに幸せな気分

になれました。



 3時からトロイツコエ村の観光。ナナイ人の村なのにロシア風の名前なのはもちろ

ん18世紀半ばにロシア人がやってきてからです。ガイド氏は村の名の由来には3説あ

って、1)村を開いたのが聖トロイツキーの日だった,2)最初に入植したのが3家族だ

った,3)入植者の出身地の村の名前が「トロイツコエ」だったなどとテレビのクイズ

番組みたいなことを言っていました。



 最初に訪れたのがローカル紙を発行している新聞の編集局。コルホーズだの幼稚園

だのの見学がスケジュールに組み込まれていたソ連時代の観光を彷彿とさせるプラン

ですね。名前は忘れましたが、このあたりを流れる川の名前をとったロシア語の週刊

紙を出しているそうです。ここに印刷所はなくて、ハバロフスクで印刷するものだか

らニュースが遅れがちになるのが悩みだとか。さらに月刊でナナイ語の新聞を出して

いるということです。文字はロシア文字。ただ、若い人達はロシア語しか読めないの

で発行部数は500部程度と言っていました。無料なんだそうです。こちらはハバロフス

クの印刷所に持ち込むと外国語料金になるので自前で印刷しています。



 次に村の文化会館の庭でナナイ人の子ども達による民族舞踊を見せてもらいました。

子ども達と言ってもこちらは年齢幅が狭く揃えられているようで、中学生か高校生ぐ

らい。ブラワ村のように古老が登場することもなく、それより何より全員女の子で、

男の子が一人もいませんでした。十数人の踊り手の中の2人くらいはナナイではなく

てロシア人らしく見えます。昨年セヴェロバイカリスクのブリヤート文化会館でデュ

エットのダンスを見たときにも一人はブリヤート人だったけれどもう一人はロシア人

でした。少数民族の伝統文化に関心を持って積極的にそれに加わっていく子たちがい

るんですね。日本ではどうなっているのでしょうか。



 踊りが終わったあとで、着替え終わって会館から出てきた彼女達に予め用意してお

いた折り鶴をあげたのですが、やはりと言うか、中の一人から目の前で折って見せて

という声がかかって「実演販売」をする羽目になりました。



 そのあとは郷土史博物館の見学。どんな小さな村にもこの種の博物館があるのは、

ソ連時代にそういう政策だったのでしょうか。



 船は6時にトロイツコエの桟橋を離れました。7時から夕食。オレンジジュース,

トマト,肉詰め茄子のフライ,チョウザメの串焼きにライス添え,バナナ,コーヒー。



 8時から上階のホールでいつも通りのエンタテーメントがあり、しばらくそちらに

いた後1階のバーに移りました。こちらにはカラオケがあるんです。日本のと同じで、

ちゃんと曲の進行にあわせてビデオ画面の白いロシア文字が赤色に変わっていきます。

今やカラオケはロシアにも定着しつつあるようですが、先日ハバロフスクで見たカラ

オケ屋さんの看板は「КАРАОКЭ」だったの対し、ここの画面は「КАРАОК

Е」でした。



 夜11時過ぎに甲板に上がるといつもレセプションなどで仕事をしているナターシャ

さんが真っ暗な中一人で川面を眺めていました。彼女はハバロフスクの大学生で、再

来年卒業予定だそうです。日本語を勉強していて、一昨年新潟に行ったことがあると

言っていました。ナターシャほどではなくても片言の日本語を話す人ならたくさんい

るのが、同じロシアでもヨーロッパ部とは違うハバロフスクの特徴です。イーゴリさ

んの娘ナースチャでさえ昨日別れ際に「サヨウナラ」と言って私を驚かせましたから。

 

 

 

 

( 6) シカチアリャン

8月8日(木)



 私のキャビンはどこか節穴でもあるのか、隙間風が絶えず入ってきて、朝はたいて

い寒さで目が覚めます。目覚めたときには空を雲が覆っていて、星を見ようと夜中に

アラームをセットしておかなくて良かったと思ったものでしたが、その後陽が昇るに

つれて雲は少しずつ取れていくようでした。船はエンジンを停めて、シカチアリャン

村の近くに投錨していました。



 8時朝食。オレンジジュース,フランクフルトソーセージの衣揚げにグリーンピー

ス添え,チーズ,甘い味のカーシャ,ヨーグルト,コーヒー。



 9時にシカチアリャン村に上陸という予定ですが、朝食の頃から船を動かして桟橋

ではなく人の気配のない浜を上陸地点に選んでいます。これは村の観光のあとで、午

後にグリーン・ストップ(ゼリョーンナヤ・アスタノフカ)が予定されている為のよ

うです。船と浜の間には渡し板が3枚ほど繋いでセットされ、船客はそこを渡って上

陸します。船のスタッフのほうは鍋釜や椅子・机を浜に運んで午後の準備を始めてい

ます。



 浜から集落までは川沿いの道を上流側へ10分ほど歩かなければなりません。道が岸

から少し離れて小高くなったところに村の文化会館があり、それと隣接して小学校、

さらにその奥に幼稚園があります。最初の見学場所はその幼稚園。いかにも幼児教育

一筋に生きてきたという感じの穏和な表情の年輩の女性が園長先生で、その先生の案

内で小さな幼稚園を見せてもらいました。小学校就学前の年齢の村の子どもは全部こ

の幼稚園に入っているそうで、園児の総数は24人とか25人と言われた記憶です。年長

と年少の2クラス制で、私達が訪問したとき、年長組の子たちは園庭で遊んだり屋内

で自由に絵を描いたりしていました。年少の子たちは一つの教室に一人の保母さんと

一緒に一人ずつ小さな椅子に座って車座になっていたのですが、その行儀のよいこと、

私達訪問団がやってきても騒ぎもせずにじっとしています。園児用の木製のロッカー

には番号と一人一人の名前を書いた保母さん手作りの名札が貼ってあります。園児の

ベッドを置いた部屋も見せてもらいました。リネン類が清潔な感じのほんとうに気持

ちよく眠れそうな木製のベッドにはやはり同じような番号札がはってありました。給

食のメニューも週単位とかで掲示されていて、同行の誰かが美味しそうですねと言う

と、園長先生、満面の笑顔で「それは美味しいですよ」と得意そうに話していました。



 この村の郷土史博物館は小学校の中にあります。こういうスタイルは、バイカル湖

のオリホン島の村で経験したことがあります。やはり、シャマニズムなどナナイの関

係の史料などが置いてありました。小学校の教室は20人も児童が入ればいっぱいにな

るくらいしか席が用意されていなくて、一学級60人近いクラスで小〜高校時代を過ご

した私からすると羨ましい限りです。校舎の前にはコスモスのような花がいっぱいに

咲き誇っていました。



 文化会館で子ども達によるナナイの民族舞踊を見せてもらいました。あと、すごく

年輩の女性1人だけによる吟詠のような歌もありました。民族舞踊の披露の後、この

女性は文化会館の外に出てシャーマンに食べ物を捧げる儀式というのも見せてくれま

した。男が狩に出たりする前に必ずやったというものです。



 このシカチアリャンという村は古代人が描いたという岩絵でも知られているという

ことで、今度はそれを見に行きました。放し飼いの豚がせっせと草を食んでいる道を

さらに上流に向かって20分ぐらい歩いたでしょうか。途中にちょっとした小川があり、

普通の靴では渡ることができません。そこに手漕ぎのボート屋さんがいて、1人10ル

ーブル(往復)で渡してくれます。渡し船と言っても矢切りの渡しみたいな川幅があ

るわけでなくほんの数mなので値段を聞いて「エッ!?」という気もしましたが、でも

彼らがその岩絵のところまで案内してくれることを考えるとガイド料込みということ

だから高くはないのかもしれません。岩絵はアムールの川岸にあり、ガイド役の男性

らが絵の部分にペットボトルに汲んだ水をかけて絵を見やすくしてくれます。長い年

月の風雪で摩耗してしまっているのか、どの絵もはっきり見え易いというわけではあ

りませんでしたが、パンフレットなどに印刷されているトナカイの岩絵などは写真に

撮ってみてもすぐそれとわかるくらいに明瞭でした。



 さきほどの船を停とめたところに戻って午後1時くらいから5時までの予定でゼリ

ョーンナヤ・アスタノフカです。前半は、船のスタッフによる昼食のサービスがあり、

岸の林の端の平地に机椅子を並べてそこでご馳走になりました。生のトマト,胡瓜の

ピクルス,鮭のムニエル,ウハー。これが「船長のウハー」と呼ばれて、この食事の

メインなのです。ウハーの魚も鮭のように思えました。あとはグリーンピースと人参

の入った炒飯を添えたシャシリク,ヨーグルト。この時は飲物も出て、ウォトカ,ビ

ール,それにファンタオレンジが飲み放題でした。歌舞団のメンバーが音楽を添えて

くれます。もちろん船長の挨拶とそれに続く乾杯もありました。食事のあとは歌舞団

の人達が船客を誘っての踊りやゲーム。これが3時近くまで続いたと思います。



 毎回の食事のときに世話をしてくれる女性の一人にレギーナという娘(こ)がいま

す。レギーナという名だと知ったのは旅も終わりに近いこの日だったのですが、どの

テーブルの人にもこの娘が印象に残っていたのは、いつもまるで笑顔を見せなかった

からです。悪く言えば無愛想で、まるでソ連時代のウェイトレスの生き残りではない

かと思ったくらいですから。でも、顔いっぱいのそばかすとお下げが印象的な可愛い

娘さんで、何と言っても働き者。もう一つの特徴は、お皿をすぐに下げてしまうこと。

ナイフとフォークをどう置くかなんてことに関係なくちょっと料理に触れてない時間

が長いと下げられてしまうのです。まったく手つかずの皿を下げられてしまった人も

いるくらい。それで僕らは「お下げの彼女に下げられちゃった」なんて言い合ったも

のです。屋外での食事の時にも彼女はいつも通り黙々と、しかし甲斐甲斐しく働いて

おりました。でも、この時はロシア語のできる人が写真を撮らせてってお願いしたら

それが撮らせてくれたんですね。レギーナの笑顔を見たのは後にも先にもこの時だけ

でした。



 ゼリョーンナヤ・アスタノフカでこうしたイベントが用意されているかどうかにか

かわらずロシア人の船客はこれを楽しみにしていて、川で泳いだり岸で肌を焼いたり

裏山に入って花摘みや茸取りをしたりするのが普通です。ところが、今回は食事やそ

の後のイベントが終わるとほとんどの人が船に戻ってしまいました。泳いだのはイー

ゴリさん一人だけだったのではないかと思います。もっともあの水の色を見たら日本

人だとちょっと泳ぐ気にはなりませんけど。焼いたのはアンドレイとアーニャ達の1

グループか2グループ。私は岸辺を歩いたり少し林の奥のほうまで歩いてみたりしま

した。日本では立秋前後のこの頃、ロシアでも秋はもうすぐなのでしょうか、花の盛

りの時期はもう過ぎているようで野草も花の散りかけているものが多いように思いま

した。それでも何本かの野草を摘んで帰り船室のコップに挿しておきました。船に戻

ったのは4時半くらいだったと思います。



 船は5時に岸を離れました。桟橋につけている場合と違って渡し板の撤収などがあ

ります、船の動きを間違えると座礁の危険もあるので、出帆の作業もなかなか慎重で

した。



 7時から最後の晩餐。オレンジジュース,トマトと細切り卵のサラダ,蟹脚,イク

ラのカナッペ,茄子の炒め物,鶏モモの形の詰め物 -- と言っても何だかわかりませ

んね。鶏の皮の中に肉を中心とした詰め物を入れて鶏モモの形にしたものです。端に

はちゃんと骨まで付いている。これにフライドポテトが添えられていました。バナナ,

西瓜,コーヒー。



 9時から上階のホールでお別れのパーティーがありました。いつものように、歌舞

団の人達の歌や踊り、あの2組によるダンス、それに参加者を交えてのゲームなどが

あったのですが、その前に私達のロシア民謡教室や他のダンス教室,絵画教室の「成

果発表」がありました。私達が歌ったのは「スターリン・クリョーン」1曲だけでし

たので、何とか紙を見ずにうたうことができましたけど。そして、船客一人一人に

「乗船証明書」なるものが手渡されました。それが終わって、私達が抜け出した後も

ホールでの宴会は続き、ホールの直下のキャビンにいた人の話しでは騒ぎは朝の3時

頃までおさまらなかったそうです。

 

 

 

 

( 7) 再びハバロフスク

8月9日(金)

 朝起きて2階のデッキに出てみると、船の前方にハバロフスクの大鉄橋が見えます。

船内放送でもまもなく鉄橋が見えるというアナウンスがありました。放送によるとこ

の鉄橋もハバロフスクの見所の一つなんだそうです。鉄橋の下をくぐったのはちょう

ど8時頃。この8時から朝食でした。オレンジジュース,厚焼き卵,ヨーグルト,チ

ーズ,コーヒー。食べ終わってレストランを退出するときにレギーナに「お世話にな

りました」と日本語で言ったのですが、相変わらず「フン」という雰囲気でした。



 9時下船。船の出入口で、ダンスのアンドレイ、歌舞団のバラライカ弾きグリーシ

ャやバヤン弾きのコーリャ、イーゴリさんの姪サーシャ、レセプションのナターシャ

など会う人ごとに折り鶴を1羽ずつ渡しました。



 この後はバスで市内観光です。最初はコムソモール広場。ここは内戦のモニュメン

トがあるので有名なところですが、驚いたことにそれに隣接するようにして真新しい

教会が完成していました。ガイドの説明では革命前にあった教会が革命によって取り

壊されたのを復元したそうです。次が栄光の広場。ゴステレラジオの前の広場です。

次にレーニン広場に向かう途中ウスリースキー・ブリヴァール、日本総領事館のすぐ

下のところにこの7月にオープンしたという人工池ができていました。ハバロフスク

市の中心部にはこうした水溜まりがありませんから、ちょっと新鮮な感じです。レー

ニン広場の噴水も「満開」で綺麗でした。その後、中央ルィノックへ寄って、駅前広

場へ向かいました。去年3月に来た時に建て替え工事中だったシベリア鉄道の駅舎は

まだ完成していませんでした。最後に日本人墓地に寄って空港に向かうという話だっ

たのですが、1番のトロリーバスの走る馴染みの通りとは違ってかなり立派な高速道

路風の道をバスが走ります。案内されたのは日本人墓地ではなく、「平和祈念公苑」

と漢字で書かれた碑のある立派な公園でした。通路の左右のよく手入れされた花壇に

は今が盛りとたくさんの花が咲き競っていました。






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