仙がい「金印」考文 1幅
有形文化財・古文書
福岡市東区 個人蔵
概要
【法量/cm】
竪29.0 横50.5
【形態等】
紙本。掛幅装。紙表具。
右肩に「金印」印影捺印。墨は淡墨。
【釈文】
「漢委奴國王」印影
右印蓋漢之光武
之時自此方竊到彼
所賜之物乎矮奴者
非和國之謂而怡土之
縣主也三國志可見
已
天明四年丙辰
志賀島農民
秀治
喜平
自叶崎掘出
厓菩薩
指定理由
本幅は博多聖福寺第123世仙厓(寛延3・1750〜天保8・1837)が、天明4年(1784)志賀島から発見された「金印」に対する見解とその発見者について記したものです。
大谷光男氏は昭和31年(1956)4月、鍋島家で本小幅を見出したとされ、淡川康一氏(当時立命館大学教授)は仙がい70歳前後の筆蹟と鑑定されています(同氏『研究史 金印』1974)。
また、三宅酒壺洞氏は仙がい文政中期頃の志賀島での即席揮毫であると見られ、仙がい70歳前半の筆にあたります。(『九州文学』第6巻9号 1960.9.1)
落款「がい菩薩」(「がい(花押)」ではなく「がい菩薩」と読み慣わされている、「菩薩」はいわゆる「ササ」菩薩)の署名は、文化14年(1817、68歳)博多の定助(定介)に書き与えた「観音大士金像出現記」以後に見られる落款と考えられています。筆跡から天保年間、仙がい晩年80歳前半と見る意見もあります(福岡市博物館・中山喜一郎)。
伝来の経緯は明らかではありませんが、本幅を伝えた鍋島家は現在も「元役場」と称される家号を持つかつての勝馬村の庄屋でした。仙がいと志賀島の関係は、仙がい葬儀に参列した志賀島の医師荒木正受(正寿)との交流他、種々の往来があります。(荒木正受(正寿)の一族ではないかと思われる西戸崎の荒木医院には梶原景煕の「金印」考文が伝えられていました。)
本幅「金印」印影が真影であるか否かは検討を要するにしても、志賀島での即席揮毫ではなく、事前の用意があって認められたものではないかと思われます。考証家・篆刻家であり別種の「金印」考文を著し、仙がいとも親しく交際した梶原景煕の存在も本幅の背景に考えられます。
「金印」発見当時の「甚兵衛口上書」(「那珂郡志賀嶋村百姓甚兵衛申上る口上之覺」)は所在不明となっています。
「委奴国」を「怡土之縣主」と解するのは既に仙がい以前の考証にも見えるところですが、「甚兵衛口上書」には窺えない知見、発見者を「志賀島農民 秀治 喜平」と明記し従来の伝承には見えない貴重な知見を伝えています。