平成11年度指定

有形文化財・建造物
旧 山 下 家 住 宅 1棟
附 明治八年(1875)の棟札

 福岡市西区能古1624番地 能古の島アイランドパーク

 名柄川河口、姪浜漁港の傍らにあった明治8(1875)年建築の町家。建築年代が明らかな町家のうち福岡市で最も古い町家です。
 構造形式、桁行13.266メートル、梁行7.91メートル、背面下屋張り出し4.107メートル、二階建て、北側入母屋造り、南側切妻造り、正面庇付き、桟瓦葺き。施主、西嶋清五郎、大工棟梁、柴田弥八郎信貞。

 住宅の特徴は、正面間口が狭い竪長の町家形式ではなく、正面間口六間で広いことと、一階「どま」床が約二九坪で、全体の建築面積四五坪の65パーセントを占めることです。「どま」が広いため、出入口は一間の大戸口と、それとは別に東側に三間あって、各柱間に板戸横落し込みで開閉するようになっている。特に南より二本目の正面柱は鴨居より下部を取り外し可能にしているので、間口二間の広さとなり、「どま」に直接車力やリヤカーなどが出入りすることができます。
 主屋の屋根は北側が入母屋造り、南側が切妻造りであり、主屋南側には元は切妻造りの倉庫が隣接し、主屋の「どま」から片引き戸で出入り出来るようになっていました。

 本住宅は昭和12(1937)年山下家の所有となり、平成10(1998)年現所有者の手により、改造部分を建築当初の姿にもどして移築復元されたものです。
 昭和の初めまで姪浜や能古島の漁師から魚介類を買い付け、小売りに卸す問屋でした。屋号を「イゲタヤ」と称し、近隣には他に「ヤマトヤ」「シカヤ」の二軒の問屋もあったといわれています(『福岡市の町家』昭和63年3月 福岡市教育委員会刊)。
 解体の時に壁土のこぼれを止めるために貼り付けた帳簿の反故などが見つかりました(他に大正2年の大阪毎日新聞、同前年福岡日日新聞、昭和8年の九州日報、博多新川端岡田分店製の熨斗紙)。熨斗紙には「博多姪濱魚市場 # 井桁屋」、帳簿反故紙の印に「筑前□□井桁屋清三 萬問屋 生魚 □□」と書かれているものがありました。
 天然寺過去帳によると、井桁屋は文政11(1828)年の「井桁屋西嶋清六」から続く屋号です。本住宅施主西嶋清五郎(明治23年〔1890〕旧7月22日没、修善院弘譽義道居士)と清六・清三との続柄は、井桁屋西嶋清六─西嶋清五郎─井桁屋清三の親子関係と考えられます。
 なお、「山戸屋」は野上家の屋号で、文政5(1822)年から資料にでてきます(魚市場を経営していた野上善右衛門、戦時中に周船寺に転居、周船寺村長を勤める、現在野上家は周船寺で割烹料理店「大和屋」経営)。 「志賀屋」も西嶋家(西嶋清五郎とは別家)の屋号で、延享5(1748)年から資料にでてきます(直方市在住西嶋敏弘氏〔昭和11年1月29日生〕、小三の頃まで「志賀屋」に居住、「志賀屋」は魚市場の経営者の一人、昭和昭和23.4年頃家屋売却)。

 姪浜はかつて藩米を大坂や江戸に回漕した五ヶ浦廻船(能古・浜崎・今津・宮浦・唐泊)の基地として繁栄した浦ですが、本住宅はその地に西嶋家が明治8年(1875)に建てたもので、江戸時代以来の西嶋家の屋号「井桁屋」を称し、海産物を中心とした問屋を経営していた建物です。
 その取り引き範囲は、浜崎・今津・唐泊・加布里などの近隣漁村をはじめ、遠くは長崎県壱岐、山口県萩など広範囲にわたっています。また取り引き高が相当の額であったことも、残されたわずかな古文書から窺うことができます。
 大工棟梁柴田弥八郎直貞の事績については詳細不明ですが、姪浜には大工柴田家が複数あったことがわかっているので、その一族と考えられます。
 広い「どま」を活かすための出入口の工夫、店の間の弓状の階段や2階の手すりなど接客・居住空間に施された細やかな意匠に、当時の大工棟梁の優れた技量が見られるとともに、問屋としての建物の特徴を構造的にも示しています。
 本住宅は、現在確認された建築年代の明らかな町家では市内で最も古く、町家建築の一指標となるものであるとともに、廻船と漁業で栄えた地域の歴史を色濃く伝える町家として極めて貴重です。

旧山下家解体前後写真(pdf書類)1.5M