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多胡・上田・諏訪の渡来人遺跡探索 03.11.15,16

辛科神社
牛伏山山頂から
一本杉古墳
石室が開口されている古墳

紅葉の季節となり、今回は長野の友人のところに行くついでに渡来人関連の遺跡を巡ってきました。長野上田に向かうにあたり、まず首都高に乗り、それから大宮方面へ関越自動車道に乗り換え北上し、さらに上信越自動車道へと入り、群馬の吉井ジャンクションで降りて、前回見逃した多胡郡周辺の遺跡をみることにしました。降りてからすぐに、先の仁ソウ寺のほうに向かう通り沿いから、右折してすこし行くと辛科(からしな)神社があります。かつてはこのあたりは韓級郷ともいわれ渡来人との関わりが注目されているところで、この周囲の遺跡との兼ね合いが気になるところでした。その通り沿いには、大規模な古墳群があるのですが、特に小金銅仏古墳と一本杉古墳があります。前者のほうは、小金の銅仏を出土しており、すぐ南がわに今は墓地となっていて、石室が開口されている古墳もありました。さらにそのやや北方向に一本杉古墳という、八角墳があります。八角形の古墳は畿内では天皇陵に限定されて存在しているので、はてさて関東にあるのかどうかとおもいましたが、やはりそばで見てみると、見事に八角形をしており、唐尺の使用、19体の死体の発掘など、さまざまな憶測がなされている古墳です。もうひとつそばにある城古墳からも正倉院の黒太刀と類似する刀も出ており、今後のこの周辺の発掘が期待されますが、ちょうどそばの仁叟寺裏手の丘で古墳発掘をしているらしいとの現地の方の話でしたので、そこもそばからみてきましたが、今後が楽しみです。その後、そこから3キロほど東進したところにある牛伏山をバイクで登ってきました。ここは、この地で羊の字が残り議論がなされている多胡碑文との関わりで有名な羊大夫伝承において、羊大夫が京から討伐にきた官軍との戦いで拠点として構えたところです。多胡郡を一望できる城としてはうってつけの場で、大変すばらしい景色でした。そこからまた高速に乗って西に進み、長野の上田市内に入り、友人に会い、そこの上田カトリック教会にバイクを置かしてもらいました。わたしも友人も大学時代からのカトリック信徒なので、教会にバイクなど置かしてもらえるのですが、最近の世代の人はあまり宗教的などの全国各地の拠点を持つ無償のつながりということの良さについては、よく理解できないことが多いかもしれません。でも神道でも仏教でもきっとかつては全国的な拠点同士のつながりというのは、その交流とともに大きな役割をはたしていたはずであり、今の新興宗教の犯罪で悪い面ばかり注目されている一方で、やはり金銭関係にもとづかない人間交流のあり方とその必要性というものをもそろそろ日本でも見直されていくべき時期がきているのではと感じます。さて、そこから友人の車の案内で、別所温泉に南進し、「大湯」という150円で入れる温泉に入ってきました。地元の方が入りにくる温泉で、硫黄のにおいがなんともいえないいい感じでしたが、ひさしぶりにシャワーでなく湯桶で体を洗ってみるのもなかなか懐かしいものでした。それから夜は友人宅に泊めさせていただき、次の日は、友人の車で上田市内の生島足島神社に向かいました。この神社は宮中にかつて祭られていた生島神、足島神という2神を、九州に拠点を持つ多氏がこの地にもたらしたことに由来があるそうです。また伝承によるとタケミナカタが、長野南方の諏訪大社に向かう途上でここを経由したことに由来があるそうで、諏訪大社が上下社など2社に分かれている点と、この社で2神が祭られていることなどとともに、きわめて諏訪大社とつながりが深い神社と考えられているようです。そして上田にも「スワ」の地名があり、上田と諏訪とのつながりはとても深いそうです。その後ちかくにある信州名産の手打ちそば屋さんへ寄り、上田市内にもどってそこから18号沿いに東進して国分寺資料館に向かいました。そして国分寺の跡地を見たわけですが、やはり回廊の構造が友人がいうにはキリスト教の修道院の回廊構造を思い出すとのことで、東西寺院建築の類似性の一端を垣間見ることができるようです。その資料館では国分寺の歴史のほか、上田市周辺の遺跡や伝承など細かに知ることができます。そこでしらべているうちに、18号沿いに友人もみたことがあるという中曽根親王塚古墳があることにきづき、そちらに向かいました。5,6分で着き、今は植木屋さんの庭と化しているのですが、関東1,2を争うという大きな方墳をみることができます。この周辺地域には日本霊異記や諸伝承によると大伴氏が拠点をつくっていたらしく、馬の飼育を得意としていた大伴氏が周辺の牧などでの、高句麗系渡来人などとの関わりなどについても考えられてきているようです。詳しくは以下のHPをご参照ください。http://www.bi.wakwak.com/~musha/uno/uno_04/ そこから友人に別れをつげ、152号で諏訪方面へ紅葉の中を南進し、1時間ほどで下諏訪に到着しました。まず下諏訪秋宮に行き、そこから1キロほど離れた下諏訪春宮へと向かいました。両社とも構造はほとんど同じで当社特有の式年遷宮の関わりとおもわれますが、境内の御柱の大きさに圧倒されるものがあります。式年遷宮、柱と神体の構造など諏訪大社と伊勢神宮とはつながり深いようです。その間に生島足島神社を作った多氏が仲介するとなると、やはり多氏とつながりの深い茨城や鹿嶋神宮への流れも考慮すべきでしょうし、鹿嶋も神宮とよばれている点、多氏特有の九州から茨城にかけての装飾古墳と渡来系氏族とのつながりも気になります。多氏は古来から古事記編纂にもみえるような文筆関連や舞楽も専門としており、同じく舞楽と関わり深い秦氏と多氏との関わりもかねてより指摘されており、今後の長野など中間地での装飾系古墳の発掘などとともにその研究に期待が寄せられます。そこから東進して数キロ行くと、上諏訪神社があります。上諏訪神社そばには諏訪博物館もあり、そこに寄ってから、上諏訪神社前宮に行きました。こちらは下諏訪神社とは構造は類似するもののやや配置に相違があるようで、長い木造回廊を歩くのはなんともいえない不思議なここちよさを感じたのではありますが、その神殿敷地や構造の大きさには驚かされます。そこからやや北上すると上諏訪前宮があります。こちらは、まったくいままでの3社とは相違しており、小高い丘に沿って各建物が分散している感じでした。丘を登っていくと本殿があり、諏訪一体を眺めることができ、諏訪大社の創始の場はここにあるそうで、周囲に古墳が多くあり、古墳時代からのまだ平地に社が建てられる以前の神社形態を残しているように感じました。そしてその後は、中央道で神奈川に帰ってきたわけでありますが、今回は高句麗系などの渡来人がどのように日本海側や京方面から、長野を経由して、群馬を経由して、あるいは諏訪・山梨を経由して、関東にいたったかをたどることができたような気がしました。

生島足島神社にて
国分寺の跡地
中曽根親王塚古墳
諏訪大社
多胡の風景
国分寺の跡地にて
一本杉古墳
諏訪に向かう途中で