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吉備・四国 05.11

11月17日から19日まで、研究会のオフ会で、みなさんと奈良・枚方をご一緒した後、広島で20日仕事があるので、19日昼にみなさんとお別れして、広島に向かいました。広島に着いて、タクシーに^乗っていると、なにやら夜間通行禁止になる看板が。どうも、今夜は広島で祭りがあるそうです。そこで運転手さんに聞いてみると、胡子神社のお祭りが行われているということでした。広島市でもとても大きな祭りだそうで、商売繁栄で有名なえびすさんをお祭りするそうです。そこで、夕方仕事を済ませた後、夜広島市内に入ると、商店街を囲んで人でごった返していました。商店街の真ん中に神社があるのもいかにもえびすさんをお祀りする神社ならではという感じがしました。広島の人はどうもちょっと人種がちがう感じがしたのですが、タクシーの運転手さんにもやはりそういう人がいて、たずねてみると九州だそうです。そういわれてみるとどこか西郷さんような濃い顔の人が多いように感じたのは気のせいでしょうか。胡子神社自体は、江戸時代に毛利家の祭っていたものをもってきたのがはじまりだそうです。 えびす神の起源については、日本神話のヒルコに由来するとか少彦名に由来するとかいろいろあるそうですが、瀬戸内に信仰の拠点があるのでしょう。えびす神についての詳細はこちらを。http://www.ffortune.net/spirit/zinzya/kami/yebisu.htm

その日は広島に泊まり、翌日は新幹線に乗って岡山駅で下車して、吉備線に乗り換えて吉備津駅で降り、そこから歩いて吉備津神社へ。吉備津神社というのは、津と書くように、どうも古代は港に面していたそうで、平地を歩いていってつきあたりのすこし小高いところに立脚しています。最初入るとすぐに大置き岩という由緒ある岩があり、その後階段を上って本殿へ。あいにく工事のため、全体はみることはできませんでしたが、その神社建築としては最大級の吉備津づくりとよばれる構造物の大きさはよくわかりました。それから長い回廊をくだって御釜殿へ向かいました。御釜殿では、釜とともに、大きなしゃもじがあり、巫女さん(阿曾女?)から、いろいろ釜がどういうふうに鳴るかとか、丁寧にご説明いただき感謝でした。かねてより学生時代から吉備津神社と温羅伝承については研究課題としていたので、ついにずいぶんたって本物をみることができたことに大変感激でした。

それから吉備津駅に戻って電車にのり、温羅伝承の本拠地足守方面へ。途中で電車の乗り換えで降りることになり、足守までは案外近そうなので、タクシーで行くことにしました。そこでタクシーの運転手さんに足守方面へ行ってもらうことをお願いしました。そうここで古代史研究家の運転手さんウラさんに出会ったわけです。

まずはウラさんにお任せして足守方面へ。途中足守駅の近く生石神社によりました。生石神社の由緒によると、1,2〜300年前には氏神として存在しており、石の柱のようなものがあったことが名前の由来だそうです。今では石の囲いで中が見えなくなっており、現在は何が中にあるのがみなわからないそうなのですが、その石の柱ではとも考えてみたりします。祀神は応神天皇と神功皇后であり、記紀に応神天皇が葉田葦守宮に寄っている記載がるのですが、その小高い丘の上にあるこの地となにか関連があるそうです。そこでも大きな鉄の甕のようなものが何気なくおいてあったのですが、ウラさんとも話していたのですが、いかにもこ阿曽姫が鉄製の釜を造って吉備津神社へ奉納するという伝承を持つ、製鉄の地足守ならではの産物だろうと感じます。あと、合祀社に天御中主を祀る妙見社と吉備津彦を祀る御崎社があるのはちょっと気になります。吉備津彦は何者だったのでしょう。

その後、足守藩の古い町並みを見せていただき、そのまま伝説地阿曽へ。温羅伝承では温羅の妻阿曽姫が住み、その阿曽から、古来は阿曽姫という巫女が吉備津神社で奉仕したそうで、鉄の釜をこの村から吉備津神社へ奉納したとされる地です。文献では地図でずいぶん眺めており、この阿曽の地に、西漢氏、東漢氏、蘇我氏らが屯倉開発とともに進出した痕跡があるとはわかっていました。牛神という地名も、東漢氏の牛神信仰と関連あるでしょう。その地をこうして10年かけてやっと見て回れたというのは感慨深いものがありました。そして、朝鮮式山城、鬼ノ城へのぼっていただきました。鬼ノ城、現在櫓が復元されてだおりますが、断崖絶壁にそびえるその姿は、まさに、天智天皇が大陸からの侵攻を防御するために造った戦略上の重要拠点であったことを思わせるものでありました。その眺めは、岡山全体はもとより児島湾や、小豆島まで見渡せる壮大な眺めでした。ウラさんに、高梨川から児島湾にかけての内海ルートや、海岸部に位置する古墳群、そしてすこし海より小高いところにある吉備津神社など、いろいろそこからお教えいただきました。ウラさんによると、3つの城門はまさに断崖絶壁にあり、攻めるには相当大変な場所だそうです。この鬼ノ城については、天智が山城を作る以前から、なんらかの拠点があったのではないかとの説もだされているところですが、その辺のひとつの根拠は次にウラさんに連れていっていただいた鬼の岩屋にあるのではと感じます。

鬼ノ城からやや西方へ西門の絶壁具合をみながら、山道を抜けて岩屋という地まで行くと、岩屋寺があります。ずいぶん込み入ったところで、そこからさらにウラさんの記憶を頼りに鬼の岩屋へ、急な山道を登ってきました。ようやくたどり着いて鬼の岩屋をみた印象は、巨岩の重なりあう中に洞窟のようになっており、どうも2日前オフ会で行った物部氏の拠点磐船神社の巨石の重なる洞窟と瓜二つであるといでした。巨岩は鬼の底上げ岩といって温羅がここに住んでいたという伝承があるそうなのですが、どうも巨岩信仰の拠点だったような雰囲気でした。そしてそこから、ウラさんの記憶に従い、山道を歩いて皇の墓へ向かいました。この皇の墓の由来は、岩窟寺の開祖善通大師の墓と言われており、善通大師が文武天皇の皇子であったことから、皇の墓とされているそうです。実際墓石があるのですが、個人的に気になったのは、そこへ向かう途中に看板があり、「石切方面へ」という文字があったことです。つまり、石切、物部氏の本拠石切神社を想起させる地名ですが、この地はおそらくは鬼の岩屋や鬼の城の城壁など石を加工する技術者と、その石を切る鉄製の刃物を作成するような阿曽方面からの製鉄技術者との係わり合いが、どこかに流れ込んでいる地ではないかと思います。 この鬼の岩屋のある岩屋寺と、オフ会で行った枚方の磐船神社とは下記の地図のように、東西同緯度(34度44分)レイライン上にあるもの、ある種物部つながりの可能性を示唆しているでしょう。そしてそのことが、天智の築城以前の吉備津彦と百済皇子温羅と阿曽姫との伝承に象徴される文化がこの地にあったことを意味するのではないでしょうか。

その後、山を下って、この地独特の天井川や水路灌漑やそれと渡来人との関連をウラさんにご説明いただきながら、温羅の矢と吉備津彦の矢とがぶつかって落ちたところといわれる遺跡を見ながら足守駅へと戻りました。こう改めて地図を見ながらたどっていく場所は、本当にウラさんがいなかったらとてもいけなかった場所ばかりであり、その貴重なお話も聞くことができませんでした。本当にウラさんに感謝申し上げる次第です。韓国遺跡にもいろいろ足を運ばれているウラさん、ぜひ今後とも渡来人関連などいろいろお話聞かせてくださいね。

その後、吉備線に乗って備前一宮駅で降り、歩いて数分のところにある吉備津彦神社へ寄りました。この神社は延喜式以前からの歴史を持ち、吉備津彦を祀っているのですが、吉備津神社とも裏山を隔てて1キロほどしか離れておらず、備前と備中の国境に立てられている点も注目されます。また、この神社は夏至の日の太陽に南面して建てられているそうで、方位思想とのかかわりを感じさせられます。吉備津彦神社の中庭にも環状列石のストーンサークルがあり、それらの方位思想と関わるものでしょう。裏山の吉備中山は、吉備津彦の墓とされている前方後円墳があり、そこから岩舟石棺と呼ばれる船型石棺があり、潮の満ち干きとともに石棺内の水の水位が変わるそうです。駅のホームに石棺の蓋があり、帰り際に拝見しましたが、非常に細かく石が彫刻されており、かなりの加工技術と道具をもっていなければ造れないしろもののように感じました。

その後東京へ仕事があるので新幹線で戻りました。それから26日に広島であるイベントがあり、そこでネット生中継の仕事を行った後、夜広島から新幹線で新倉敷で下車し、夜新倉敷を探索することとなりました。駅前からタクシーに乗り、戸島方面へ。児島の屯倉と関連して、屯倉の比定地を児島にもってくるか、戸島にもってくるかという論説があったような覚えがしたので、水島港方面にある戸嶋神社へ向かってみました。この神社は玉島港に面するやや小高いところに立脚しており、乙島祭りにて、千秋楽やだんじり祭りで有名だそうです。http://www.city.kurashiki.okayama.jp/bunkahogo/shitei/sub4_otoshima.htm境内に小さな磐殿があったのはすこし気になりました。その後、玉島領内の藩邸を通って、羽黒神社により、新倉敷駅に戻り倉敷に向かいました。

翌日は、倉敷駅から歩いてゆき、倉敷の古風な町並みを眺めながら、倉敷考古館に寄りました。この倉敷考古館には、岡山各地の古墳から出土した遺物が展示されており、吉備独特の陶棺や鉄製の道具類、装飾須恵器などを拝見しました。装飾須恵器については、今倉敷考古研究集報告研究集報20号を読んでいますが、須恵器のいろいろ鳥や人物、船などのミニチュア模型がくっついているのは、どことなく雲南や南方ドンソン文化圏にある貯貝器と銅鼓にくっついている、それらのミニチュアの人物などとよく類似性を感じます。その研究報の間壁氏の論文によると、船型のミニチュアがついているものは、1988年時点で国内では2例しかなく、1例は播磨のものだそうです。ところが韓国には舟形土器というものがあり、慶州出土のそれと船型の形状等によく類似したところがあるそうで、興味深いことだと感じます。その後そこから数分のところにある阿智神社へ向かいました。この阿智神社の阿智は、由緒によると、渡来系東漢氏の祖である阿智使主の子孫がこの地に住みついたことに、起源があるとされています。非常長い階段を登っていくと本殿があるのですが、ちょうど神式の結婚式の最中で、着物姿のお嫁さんが儀式をしていたのですが、神式の婚式を見たのは初めてで新鮮でした。この阿智神社の祭神は宗像三神ですが、相殿に応神天皇を祭り、荒神社に荒御魂としてスサノオを祭り、和魂として道真公を菅原神社として祀っています。本殿西脇の荒神社のほうは鶴石、亀石として、岩組がなされており、岩座信仰の一端を留めている点は渡来系とそれ以前の信仰との間の関係において注目でしょう。

その後、倉敷駅に戻り、そこから瀬戸大橋線に乗り、児島、四国方面へ。瀬戸大橋に入り前に児島駅で降りて、児島屯倉がおかれたという児島方面を探索しました。まず駅でいろいろ聞いていくと、近くに塩と関連する神社があるというので、駅前すぐそばのその神社へ。そこの神社のそばに住んでおられる方に話を聞くと、昔製塩の長者がいてこの神社を造ったとのことでした。そして屯倉について聞くと、城というところのほうに三宅さんがたくさん住んでいるとのことでした。そこで、その児島市内の味野城という地域へ歩いて向かいました。この城という地域には、持宝院というお寺と、その裏に天満宮があり、今地図でみると和霊神社があります。先の阿智神社の例でも天満宮と和霊の組み合わせがありましたが、なにか関連あるかもしれません。そこからすこし歩いて山腹に向かうと三宅さんが多くいるそうで、山腹を歩いて西方面へくだっていきました。荒神社というのもあり、先の和霊神社と荒神社とはおそらく東西で対なのかもしれません。児島氏には三宅を名乗りものもいたそうで、この児島の持宝院の緯度は38度28分0秒で、飛鳥中心の川原寺の緯度も38度28分0秒なのであります。したがって、伊勢→飛鳥→児島ラインが成立し、蘇我氏らによって造られたとされる児島屯倉は児島の地にあった可能性が高いだろうと今考えています。そしてまたこの児島から北には、由加神社という733年に行基が開いたという巨石信仰の神社があり、また児島持宝院から北にラインを伸ばすと、造山古墳、足守の阿曽にでることとなり、蘇我氏がなぜ渡来系氏族を駆使して、児島の屯倉から北上して進出して行ったかという、このあたりの進出の理解の真偽が明らかにされてくるだろうと感じます。

その後、瀬戸大橋線で大橋をわたって四国高松へ向かいました。瀬戸大橋の感想は、おもったより四国までは近い印象で、あっという間に四国に着いたという感じでした。高松に着いて、まず豊臣秀吉の水攻めで有名な高松城へ。なるほど、海岸沿いに水門を巡らせて造られた水城であり、ようやく秀吉が土塁を築いて水攻めをしたという意味が理解できました。行ってみないとイメージだけでは、想像もつかないほど徒労に思える兵法ですが、それが実に賢くかつ可能であったことにきづかされるところが歴史の面白さだとかんじます。そこから、香川県歴史博物館へ歩いて行きました。そこで四国の遺跡について調べ、銅鐸を叩いて弥生人の音色を味わいながら、駅に戻る途中、讃岐うどんを食べ、そのうまさに酔いしれながら、徳島市へと東へ電車で向かいました。徳島県は、うちの母方の祖母の故郷で、よくそうめんやみかんを送ってきていたのを記憶しているのですが、昨年入院していたときに横のベッドにいた方も徳島出身で、阿波踊りについてなどいろいろ教えてくださっていたので、ぜひ一度伺ってみたい場所でした。着いてみると、港湾沿いの実にのんびりした街で、人柄も穏やかな方が多いように感じました。駅前で大浴場つき、料理がうまいというホテルを選びチェックイン。その後街に出て、うどん屋に入ったのですが、ちょうどご主人さんと私しかおらず、いろいろ元運手さんだったご主人さんと四国全土のお話を聞いて、おまけに徳島名物のすだちで着けてくれた刺身までご馳走になってしまい本当に感謝でした。今回は時間の都合でいけなかったのですが、いろいろお話聞いてみると、四国を横断する高速道路もできているそうで、その辺を使いながら、祖母の生地三好町や三加茂、つるぎ町あたりから、そばの剣山、その南部の物部村あたりを走ってそのまま、大分はかわかつさんの住処宇佐方面へとフェリーで向かい、南国宮崎高千穂方面を巡って、フェリーで東京へ帰るという道筋を考えています。翌日は徳島市からどこかいけるかと考えたのですが、夜仕事があるので無理はできず、南のかわかつさんお得意の阿南町に行くにも、電車の本数が少なく、さらに南の海部市へはとてもいけない感じでした。内陸方面のつるぎ町、三加茂方面へはやはり時間がかりすぎるので、今回はやめてうどん屋さんのおじさんと打ち合わせたごとく、次回バイクで。

そこで、鳴門方面を経由して大阪難波へ抜けることにしました。鳴門線で鳴門に着いてから、タクシーで近くの小高い丘の上にある妙見山にある妙見社へ。天御中主を祭り平安末期に中国から流入した北極星をあがめる北辰信仰によって妙見社となり、その後蜂須賀氏の居城撫養城が建てられたと由緒にあります。確かに鳴門一帯を見渡せる小山の上にありました。そばには考古学の大家鳥居龍三博士にちなんだ鳥居博物館がありましたが、この日は休館だったので、そのまま鳴門駅へもどりました。その後、バスで鳴門大橋をあっという間に渡り、大阪難波にいたり、そのまま8時までに東京に戻るため新幹線で帰りました。

枚方は岩船から、岡山は吉備、倉敷、児島から四国、そして鳴門を経由して大阪へと探索してきたのですが、以下の図のように、ひとつのレイライン上が解明してきたように感じます。そこにはどうも物部氏や蘇我氏、その下で働く渡来人が見え隠れしていたのですが、そのライン上に出現してくる製鉄鍛冶集団、岩船、巨石信仰、屯倉を通しての朝廷の支配経路についてなど、その歴史的な論証を今後研究会でも本格的にしていきたいと考えはじめていますが、みなさんよろしくお願いいたします。