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渡来人研究会掲示板ログ13

草津探索
2006年4月20日 8:17:38 管理人
草津探索アップしました。以下のページです。
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/060418kusatu.htm
今回は創刊号執筆にあたり日本武尊伝承探索で去年雪で行けなかった最後の拠点、草津、碓氷峠を見てきました。オフ会前のそうまとめとして、温泉、桜といい探索の旅でした。よかったらご視聴ください。ビデオ映像付です。
みなさん話題になっている横穴墓については、後日また別に報告いたします。



舟形石棺、直弧紋
2006年4月19日 23:47:25 とみた
タックンさんが私淑されている白石太一郎さんの古墳とヤマト政権と言う本をほぼ読み終わりました。
そこに船形石棺のことが書かれていました。

5世紀前半以降、八代海を含む有明海沿岸地区の豪族は、朝鮮と外交で活躍していた。この地で製作された横穴式石室や船形石棺が、吉備や畿内に或いは山陰地方などにもたらされている。

また、奈良巣山古墳の棺の船について、同志社大の辰巳和弘教授は、読売新聞で、次の文を載せています。

モガリの期間は、死者と交感することが出来ると考えられ、やがて完全なる死が一同で確認された後に古墳への埋葬となる。幽明半ばする、最も生命力が萎えた状態にあるモガリの間の死者を邪霊から護るためにこそ、魔よけ図文である直弧文と銅鏡を意味する同心円文を刻んだ棺蓋の覆いが必要とされた。今回の出土品はモガリの場にあって、棺を安置する装置であった。

以上、ご参考までに



久々にレイ・ライン
2006年4月19日 2:10:33 棘の紀氏
なぜ此処に神社があるのでしょう 「不思議な神社群」HPより
http://www.ictv.ne.jp/~tajima/04izumo.html
埼玉県飯能市
http://www.ictv.ne.jp/~tajima/02hannou.html
奈良の「春日神社」近辺
http://www.ictv.ne.jp/~tajima/03kasuga.html

・・・・・・・・(^○^) (^.^) (*^.^*) (^◇^) 
「土が水を制する」仁徳陵
http://blogs.dion.ne.jp/pentacross/archives/2005-07.html
五芒星が開く古墳時代Aより

石上神社(いわがみ) 磐座
http://www10.ocn.ne.jp/~veeten/iwakura/iwagami2.html
 「晴明さん目当てで来た方は展望台を見ると、そそくさと降りて本殿の方に向かわれる。確かに安倍文殊院は本殿とその脇にある横穴式石室のある古墳であろう。この古墳は倉橋麻呂の墓とされており当然ことだろう。」・・・・・(寺社の近くには・・・古墳の存在が・・・)
http://white.ap.teacup.com/dhistory/20.html
     闇の日本史写真集  より 
大湯[環状]列石の謎(補)
縄文・大湯遺跡の謎を解いて、世界遺産に
世界最古級の地図?大湯・万座環状列石
魏志倭人伝・邪馬台国の構造
http://blogs.dion.ne.jp/pentacross/archives/cat_118169.html
 古代ベンタクロス文化研究所HP より



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私の仮説が支持されている!
2006年4月19日 2:20:31 棘の紀氏
「もしこれが縄文・大湯村のエリアマップだとすると、大湯遺跡は四千年前といわれていますので、あの五千年前の世界最古とされるバビロニアの地図と比肩しうる「世界最古級の地図」ということになります。」

・・・・・夏の禹も  四千年前ごろデハ・・・


 「ダ・ヴィンチの「岩窟の聖母」は「誕生の神秘・子宮」を暗示し、前方後円墳は「命の蘇生」を願う装置のようであり」
・・・・・やはり古墳は子宮・・・甦りの場・・・・


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   (^Q^) V
2006年4月19日 2:46:13 棘の紀氏
「ダ・ヴィンチが秘密宗教結社*との係わり合いを指摘されるのもこの図形ゆえでしょう。
★ダ・ヴィンチ三部作は、黄金比・五芒星特性として「内包性・岩窟の聖母」「展開性・最後の晩餐」「立体性・モナリザ」を活用していました。

*シオン修道会:古代秘密結社。多分五芒星図形を秘匿する土御門神道のような存在。
ちなみに土木建築分野での五芒星秘匿はフリーメーソン、土師氏集団など。」
・・・・・ついに現れました 私の救世主が・・・

行基。彼は初め政権批判をしたため弾圧されていましたが、あるきっかけで国の一大事業に協力することとなりました。国家鎮護の大仏建立です。場所は彼が批判演説をした若草山の麓。「五芒星」に対する「条坊制」の横暴を「仏教の力」で丸く納めようとしたようです。
・・・・・行基も・・・・

 「擬装愛国主義も文化を破壊します。
「来し方(歴史)見極めれば、行く末(未来)危うからず」
・・・・同感 同感・・・・

  、「近年、大和政権は全国の有力豪族の連合体だったとの見方もあり・・」との記載がありましたが、史実はひとつで「大和は豪族間の合議・共和制・・」・・・・ウン ウン・・・  http://blogs.dion.ne.jp/pentacross/archives/cat_118169.html#top
・・感謝 感激 の紀氏でした。



草津
2006年4月18日 23:44:06 管理人
こんばんは。昨日から草津に行ってきました。草津と碓氷峠は、雪で原稿を書いているときはいけなかったのですが、やっと山道も通れるようになり、桜満開の中、ヤマトタケル伝承が残る碓氷峠を超え、軽井沢から北上して白き浅間山を横目にみながら、草津温泉へ。実にすばらしい旅でした。後日探索日記アップいたします。あと、伊豆東方沖地震が連発していたようですね。いささか心配されます。それでは取り急ぎ。
http://www.hinet.bosai.go.jp/



参考HPデス。
2006年4月16日 22:40:09 棘の紀氏
20 tomb  - 2006/04/05(水) 12:54
ウメガイは鶴の嘴か?

梅に鶯、松に鶴。
花札にあるお馴染みの絵柄。

梅に鶯の1セットは仁徳。
仁徳は大雀尊で雀、スズメ目ウグイス科のウグイスもいる。
◇第11代 垂仁(スイニン) が父崇神(スジン)に『お前は何が出来るか?』
と尋ねられ、『スズメを追っ払う事が出来ます』と答えて第11代天皇に即位した。この時代に既にスズメの大雀が飛び交っていたのでしょう。

梅はシュメール語の um-e か? um は鳥、e は隠している。
大雀は、ウグイス(鳥)を隠しての意が梅。

松は matu と言うアッカド語。鶴のシュメール語は、gambi ・ gai 。
matu を松と置き、木と木を対峙させるなら、gambi は白樺の木ですから、松と白樺になる。gambiが正体を現せば鶴。故に、松と鶴。
gambit は鶴。 鶴は gai ともいう。
回って、
ウメガイは um-e gai で、鶴と言う鳥を隠して『ウメガイ』
ウメガイの形状は、鶴の嘴。
http://www.kumanolife.com/guestbook/index.htm


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参考HP
2006年4月18日 5:40:13 棘の紀氏
三神たけるのお伽秦氏
「鞍馬天狗・2」
インドにおけるクベラはヒマラヤに住 む財宝神。毘沙門天が北方の守護神として、平安 京の北にある鞍馬寺で祀られた理由や商 売繁盛の七福神のひとりに選ばれたのは、ここ に理由がある。今でも、天台宗の密教呪術 において、毘沙門天は強力なパワーを持つ ...


http://www.kitombo.com/mikami/0611.html


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古墳 馬 ササキ
2006年4月19日 0:05:21 棘の紀氏
市奉安塚古墳(日本中央競馬会1992)
兵庫県神戸市田辺古墳(日本中央競馬会1 9 9 2 写真よりトレース ... 3 3 京都府福知山市奉安塚古墳(日本中央競馬会1 9 9 2 写真よりトレース ...
http://www.mahoron.fks.ed.jp/kiyou/2001_6_3.htm
東京都 府中市・東京競馬場内で島嶼部を除く都内では初の弥生前期末の遠賀川系土器 ...

姿川(すがたがわ)地区 宇都宮競馬場 姿川地区は,宇都宮市の南西部にあり,壬生町に接しています。 ...
運動公園(栃の木ファミリーランド) 宇都宮競馬場 陸運局 主な遺跡など 塚山古墳 根古谷台遺跡 ...

宝塚駅の南側に位置 ... から開けた場所で、ここにあった古墳をお参りすると幸せに ... 桜花賞、宝塚記念など重賞レースが開催されている、

上山城(歴史民俗博物館) リナワールド 上山競馬場 斎藤茂吉記念館 ...

.足利競馬存廃について 6.良質な起債と ... と運営について 藤本観音山古墳の発掘調査と周辺整備 ...

「京都府福知山市奉安塚古墳(日本中央競馬会1992)、」
以前に「日本中央競馬会」などのトレセンには古墳が・・・・美浦にも
http://www5b.biglobe.ne.jp/~mikoma/tanken_mikomakohun_01.html

殿山古墳周辺の風景その1・榎本牧場(鴻巣市)
生野山古墳群(つづき) 牧場西側の斜面の奥にあったもの。
羽角山古墳群と呼ばれています。 牧場やデンソー工場によってかなりの数が消滅しましたが
空山古墳群 空山の牧場辺りに73基の古墳が分布していますがそのうち線刻 .
扇状地をひかえた牧場経営者の墓として、古墳時代後期の須坂地方を代表する遺跡である
くの古墳が存在しています。 ... 書物には、大室に馬を飼育する牧場があったことが書かれていますので
・・・・・・「古墳 ササキ」 検索
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%8F%A4%E5%A2%B3+%E3%82%B5%E3%82%B5%E3%82%AD&ei=UTF-8&fr=top&fl=0&x=wrt&meta=vc%3D

 古墳 馬 騎馬民族 

、「大雀」の「雀」(ササキ)に音が近い。
です (ササキ ... ササキ インターネットという場で、どんなことが起きるのかを楽しみ
おみたま生活
http://blog.livedoor.jp/sanposan/archives/2005-01.html
                 お後がよろしい様で・・・



装飾古墳の文様
2006年4月15日 21:21:30 タックン
九州各地の装飾古墳の文様には、日・天文的な文様の描かれている幾何学的な文様と、鞆・ゆきなどを抽象化した文様の組み合わせた、所謂呪術化した彩色が多く見受けられます。
こうした文様は、九州地方の独特的なものと私は考えていて、他方の地域には余り受けいられていないようで、関連のあった出雲・伯棋の一部、かなり離れていますが東北の南部の地域などに偏在しています。
辰巳先生などこの文様の研究を永年されておられて、死者に対する呪術的言わば、壁邪に対する一種の魔よけ?と解説されて言われております。
古墳の壁画には、円の文様が多様化されており、これは紛れもなく”日”太陽と考えており、この日(太陽)に関する古代人の太陽に対する神秘化、恐ろしさなどをこの壁画に込めて描いていたと考えられるのです。
他に、蕨手紋・動物・三角分等を文様の組合せを変えて、地域・時代ごとに変わって行きますが、基本的な組合せは三角文・円・蕨手文などの組合わせを多用している古墳が多いように思います。
ただ肥後地方になるとこの彩色だけではなく、浮き彫り状の装飾横穴なども存在しており、地方性が現れております。
筑後川・菊池地方〜豊後などは同様の装飾古墳が分布しており、これなどは山を越えたら交流出来うる地域なので、有明海沿岸から豊後水道地域の交流がこのような結果になったと考えています。


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靱(ゆき)が東国 常陸の国にも!
2006年4月16日 3:28:16 棘の紀氏

 タックンさん お久しぶりです (^.^) 
(古墳が描く三角形ラインのほうは、・・・如何ですか?)
虎塚古墳
 「連続三角文・環状文・円文などの幾何学文や、槍・太刀・靱(ゆき)・楯などの武器・武具や首飾り・馬具などが描かれ、東日本を代表する壁画である。天井は全面が真っ赤に塗られ、奥壁には大きな目玉のような赤い二つの丸と槍や矢を入れる靫(ゆき)などの武具か描かれており、また、側壁には円文、三角文や首飾りや馬具を抽象化した文様が描かれている。連続三角文・円文・武具などの図柄は、九州の装飾古墳壁画との関連性が指摘される。5世紀−7世紀当時、直線距離で千km以上も離れた地域に住む人々が、同じような様式の墓制を採用しているの
である。強い関連性を思わずにはいられない。」

http://inoues.net/club2/toradukakofun.html


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茨城県指定史跡 十五郎穴横穴群   
2006年4月16日 3:43:47 棘の紀氏

十五郎穴は古墳時代末期から奈良時代にかけて造られた集団埋葬墓である。台地の崖に横から穴を掘り、造っているものを横穴
墓といい、群集していることが多い。横穴墓は、玄室・羨道・玄門・前庭部などから造られており高塚式古墳の横穴式石室と類
似した構造になっている。横穴墓からは須恵器、直刀、鉄製品など数多くの副葬品が出土している。十五郎穴横穴墓群は、館出、
指渋などの崖の凝灰岩にいくつかに分かれて密集しているが、このうち館出に群集している34基が茨城県の史跡に指定されて
いる。虎塚古墳のある台地(指渋)の南側の崖からは、約120基が確認されているので、十五郎穴横穴墓群は、数百基の横穴墓
が存在している考えられ、我国を代表する貴重な史跡である。十五郎穴の名称、由来はこの地に十郎五郎なる人物が住んでいた
という伝承から生まれたという。
昭和六十年三月/茨城県教育委員会/勝田市教育委員会


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忘れ物  (-_ゞ) 
2006年4月16日 3:46:07 棘の紀氏
http://inoues.net/club2/5ro10ro.html


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横穴
2006年4月16日 4:49:13 管理人
関東にも、横穴やそれらの群集墳あるようですね。群集墳などの墓制から、身分のほうもわかってくるそうで、この辺からところによっては古代でも、母系より、男系優位とするケースもあるそうです。男系優位というと、古代日本ではなく、中国・朝鮮系の思想とする向きもありますが、横穴全般、どこにルーツがあるのか、非常に興味深いですね。


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横穴墓
2006年4月16日 17:38:14 かわかつ
終末期古墳が消えてゆく時代に現れる形式ですね。地方によって差違はありますが7〜9世紀の奈良朝確立期の埋葬形態です。その後はどうなるのか、平安〜中世に関してはタックンに教えてもらいましょう!
火葬や墓石という形態が現れる背景には仏教の全国的伝播が関係するのでしょう。

石人の臼杵への伝播ですが、おそらく船だったのかと思えます。
これは最近教えて頂きましたが、直弧紋のある石棺は 大分の長湯横穴、筑豊の沖出古墳、岡山の千足古墳、さらには近畿の紫金山古墳、安福寺石棺、さらには会津大塚山古墳までと、途方もない範囲に分布しているそうです。紀氏さんやとみたさんのいる上総あたりにもひょっとしたらありそうかも?


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横穴墓の分布域
2006年4月18日 20:57:21 タックン
関東地方の分布域は、有名なところは神奈川県の湘南地域です。
この周辺は、高塚古墳はあるにはありますが、圧倒的に横穴墓の数が多いのが特徴です。
その他は、現在の栃木県・茨城県の地域、それと有名な吉見の百穴がある埼玉県の比企地方などです。
これは横穴墓を造るのに適した、凝灰岩などの露頭が多い場所?などが手近にあったという事でしょうか、それとも高塚古墳を築造する財力がないか、許されなかった人たちの墓(渡来人?)かもしれません。
虎塚古墳がある茨城県の太平洋側から、福島県にかけての横穴墓には、多分に九州的な色合いが強い壁画が描かれている墓が多く見受けられます。
特に福島県の、「中田横穴」ゃ「泉崎横穴」などがそのような臭いがいたします。
ただこのような壁画が書かれている古墳は、この周辺の地域くらいで、先に書いた神奈川県内の横穴には、同じ壁画でも線刻画といわれる、釘状のようなもので彫られた形の壁画が多く、彩色の壁画は殆ど見受けられません。
このような線刻壁画の描かれた横穴は、近畿(高井田横穴)因幡(鷺ノ口横穴)讃岐というように偏った分布をしております。
大和にもそういった感じの古墳があるようですが、まだはっきりとは確認がされていませんが、今後判ってくると思います。
特に湘南地方の横穴には、近畿の高井田横穴とほぼ似通った、モチーフの絵が描かれていて、このあたりに何か共通点めいたものがあるかと思います。
虎塚と似通った彩色の壁画で、題材は少し違いますが九州的なのは、因幡にある梶山古墳です。
やはりこのあたり、海を介した交流が調べていけば見えてくるのでしょうか?


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横穴墓 参考HP
2006年4月19日 0:02:32 棘の紀氏
 「同一馬具セットを隣接する古墳・横穴間で分割して副葬する例は、それほど多く知られているわけではないが、全国的に散見され、7世紀代では、静岡県榛原町仁田山ノ崎古墳の馬具セットより、棘葉形杏葉と半球形隆起のある革帯飾金具の一部が分離されたと思われるものが、東方900mの榛原町鍋坂3号墳から出土している例がある。こうした「形見分け」の存在は、金銅装馬具を保有した首長の親族関係などを推定する手掛かりとなるだけでなく、飾り馬具の配布が、首長個人よりむしろ特定集団に対して行われた場合があったことを窺わせる。首長権の基盤にある共同体的紐帯など、古墳時代の集団関係を考える上で興味深い現象といえる。」
http://www.mahoron.fks.ed.jp/kiyou/2001_6_4.htm


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関東横穴
2006年4月19日 22:30:04 管理人
いろいろ関東の横穴について情報ありがとうございます。まだまだ関東も考古面では廻っていないところばかり、楽しみが多いですね。関東の考古と神話をみていくと、在地の勢力がいつごろまで、張り合っていたか?がきになります。



訂正 「鞆」トモでは有りませんでした「靫」ゆぎ(柚木?)うつぼ サイ セ でした。
2006年4月14日 23:23:35 棘の紀氏
訂正「鞆」トモでは有りませんでした「靫」ゆぎ(柚木?)うつぼ サイ セ でした。装飾古墳の「靫」ゆぎ うつぼ の図柄に「円」紋=「的」
「医」 イ  うつぼ:旧字体は、薬の意を示す「酉」ユウと他にうつす意 「病気をうつしさる巫女」の意、新字体では矢をしまっておくものの意・やを入れる道具。

「靫」ゆぎ うつぼ:はさむの意 矢をはさめる革ふくろの意 矢を入れる器具。

「靭」ゆぎ うつぼ:たえるの意 「任」からきている。

うつぼ・・・禹壺? 禹津牡?

雪野山古墳
 前方後円墳、TL70,R40,RH4.5,FW30,FH2.5
 位置:35°04′24″N 136°08′56″E
_1:後円部正面、墳頂に竪穴石室がある(埋戻し)
  雪野山山頂にある4C中頃の古式前方後円墳
  竜王町、近江八幡市、八日市市にまたがる
http://www.city.higashiomi.shiga.jp/subpage.php?p=5688&t=1136212856

雪野山古墳(八日市市):最古期の古墳における副葬品の状況や古墳をめぐる祭祀のあり方をしる貴重の資料の精密さに驚く!。
(特に石製品の加工が現代の旋盤などで匠が作ったのでは、と思うほど 銅鏡の目盛りの精密さは時代を超えている。)
多くの装飾古墳に描かれている「靫」ゆぎ うつぼ の現物 漆塗り「靫」ゆぎに
矢を入れる革のふくろ が多く目に付きます、中には「矢」隣にはエン紋(多く、鏡とか太陽・月とかが定説ですが、なかには「的」まとと仰る先生もいます。)

銅鏡が破壊されていることに(鏡割り 鏡開きなどの祭祀を感じ カガミ・・・カカミ(カカ=蛇 ミ=巳・蛇)を思い浮かべる。

雪野山古墳の副葬品は一見の価値が有ります、お奨めです。

 


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とも、ゆきの画像
2006年4月15日 0:37:49 かわかつ
いずれもかわかつHPのギャラリーの中にあります。
http://2004mmc-kawakatu.cool.coocan.jp/antick.html
上から四段目に二つ並んでいます。
「ゆき」は中世には「かち」とセットになります。併せて「かちゆき」、
よく歴史小説には出てきます。
装飾古墳のゆきは、あるいはかちとも呼ばれますが、未だ、確定されているわけではありません。特殊な台形の組み合わせによる絵で描かれています。またこの他に楯たてもよく描かれます。装飾画での楯とゆき、あるいはかちの違いは未だに確定してはいません。どちらとも言えるというのが一般見解です。

「とも」は弓を射る衝撃を緩和するための道具で、鹿の胃袋などをふくらませて肩にあてたものです。



「アマテラス」を漢字で 考
2006年4月14日 9:41:35 棘の紀氏
「 狩猟」祭= 蝋燭   「 狩猟」は地図造りの隠語(私的)
アマ 天 海人 雨 海士 海女 海部 尼
テル 照 輝 瑛 耀・・・・・・【燭】ソョク ソク(足?) ともしび 「火+蜀」

エルサレムはイスラム軍に占領されました。「エルサレムにあるキリストのお墓を異教の民から取り戻せ−」という号令をかけて、ヨーロッパの国々は「十字軍」をつくり、軍隊を遠い遠いエルサレムに向かって送ったのであります。立派な名目を掲げながら、この戦争もその実は、支配者たちの勢力拡大を狙ったものでした。王の命令のもと、兵士達は、ある者はいやいや、ある者は、手柄を立て、名をあげ、褒美にあずかろうとして、遠い戦場に向かってゆきました。
 けんか大好き、力自慢のラニエロが黙っているはずはありません。イタリヤ軍の隊長になり、先頭きっておお暴れ、数々の手柄を立てたのでありました。

 蝋燭
ラニエロは、そのころ始まった「十字軍」に加わりました。そして聖地エルサレムで大変な手柄を立てました。その褒美として、伝説でキリストの墓とされる墓に灯るともし火から、自分の蝋燭に最初に火を移す特権に預かりました。このともし火こそ、今度の戦いで彼が得た最高の戦利品でした。ラニエロは、このともし火をエルサレムからイタリアのフィレンツェまで、消さずに持って帰ることにしたのです。
http://blog.drecom.jp/jesusbanzaiuocc/archive/37

蝋梅 臘梅(ろうばい)
臘梅という名がつけられたといわれています(故に「蝋」の字を使われることもあります)が、異なる説も存在します。
12月の異称に臘月というものがあります。これは古代中国で(臘祭という 「 狩猟」祭が行われる月であったことからきた名称(または日。臘日は大晦日の意) だといわれています。臘月または臘日は猟が変化したものです。
http://www23.big.or.jp/~lereve/saijiki/57.html

燭台(メノラー)
七枝の燭台(メノラー)
七枝の燭台はユダヤ教の象徴的存在であり、古代の会見の幕屋やエルサレム神殿で使用された。
「メノラー」はヘブライ語で「燭台」を意味する。出エジプト記25章31節
http://www.seinan-gu.ac.jp/rad/koba9006.html
ブッシュが隠れユダヤ人であると疑わせる数々の傍証
http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/newversion/bushjew.htm


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2
2006年4月14日 9:50:17 棘の紀氏
錬鉄 七枝刀
http://www2.memenet.or.jp/kinugawa/hp/hp740.htm
七大天使と神々の系譜
http://www.interq.or.jp/emerald/nshzw/framepage24.htm
http://www.interq.or.jp/emerald/nshzw/newpage47.htm

参考 タイも日の昇る国 日本と姉妹? 
太陽がのぼる 日の出 シャム暹羅 タイ セン暹羅 
羅(目+糸 巻尺?+「隼ー+」 )=ラ(ム)=禹


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卑 巫女 考
2006年4月14日 23:54:49 棘の紀氏
 「卑」の文字に いやしい さや(筒)?巫女の副業?
革+卑=さや
木+卑=ふた
イ+卑=せむし(禹も  虫・・・蛇)

 巫女は豊穣神?
 「内宮の神様は男神で蛇神であり、内宮の神様に仕える斎宮(斎王)=巫女とし、神様が夜な夜な斎宮に通っていた・・というお話があります。」


文字 情報 デス・
日本で最初の「漢字」が使われた可能性もあり。
種子島広田遺跡の貝札の「山」の文字もその流れのひとつかもしれません
この文字は素人が模倣で彫ったものではなく専門家の掘った文字だと思います。
広田遺跡は上下2層の墓で出土土器から下層はBC200頃、上層はAD250頃と推定できるようですが、山の文字の貝札は上層からです。


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聖婚
2006年4月15日 23:16:10 管理人
神と巫女との聖婚については、先日読んでた論文にありました。新嘗祭では、天皇と神とが初穂・尾の食事をなめる(試食する)との見方と、さらにそこから発展して神と天皇との聖婚との見方があるそうです。聖婚の影響が記紀や倭人伝??などの儀式に見られるかどうかが、ひとつの系統の見分け方らしく、その辺の見極めはアマテラス信仰や鎮魂祭との兼ね合いで重要です。新嘗祭と同じく神そのものを食するミサとの類似性はことに指摘されているところですが、今日は復活徹夜祭といって、教会ではキリストの死んで墓穴に葬られ3日後の復活を待ち望む、ろうそくを灯したりして徹夜で祈る儀式の日なのですが、ろうそくや燭台がどう伝達していったのかも気になるところです。一度燃燈祭も見てみたいですね。あと、相嘗祭というのも、やはり伊勢や宮中の儀式が急激に制度化されてくる天武期に見られ始め、これは畿内の諸神社の神を代表する氏族が関係しながら、それらの神々の霊力を天皇が対等??との形で身に着ける?ことに意味が見出されているそうです。畿内制との兼ね合いでも考慮されているのですが、忌寸姓との兼ね合いも個人的には考えており、そもそも天武の時期というのはなぜ数年であれだけの、外来的な部分も含めて制度改革が急激に行われたのか、その辺がやはりひっかかることは確かです。


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参考HP 姓は姫、諱が旦
2006年4月17日 7:03:00 棘の紀氏
「死後の世界へと旅たつ魂を乗せる鳥のイメージは、このようにラスコーの洞窟壁画にも見出せる。こうした例は、探し出せば全世界に無数に発見できるだろう。空間的には、フランスと韓国、日本はユーラシア大陸を横断する距離だし、時間的には数万年という開きがある。」
鳥居とチントペキとラスコー洞窟壁画
http://members.jcom.home.ne.jp/lila/newpage23.html


「居の起源については諸説あるが、確かなことは分かっていない。天照大御神(あまてらすおおみかみ)を天岩戸から引きずり出すために鳴かせた「常世の長鳴鳥」(鶏)に因み、神前に鶏の止まり木を置いたことが起源であるとする説、インドの寺院のトラーナや中国の華表など海外に起源を求める説などがある。いずれにせよ、8世紀ごろに現在の形が確立している。」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85
(「常世の長鳴鳥」(鶏)(ケイ 形 刑 「鳥居型+(邪-牙)=鳥居の里?=河北省「ケイ」台:周公旦ショウコウタン(丹?)の子孫が封じられた国。 (「周公旦」:中国周王朝の政治家。姓は姫、諱が旦。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E5%85%AC%E6%97%A6

「荊 州 の 鼎」 「荊」ケイ いばら 棘?
http://f27.aaa.livedoor.jp/~sonpoko/rosyuku8.html
「始祖である禹の祭祀を奉じた。」斉太公(太公望呂尚)の特集
http://www.geocities.jp/sei_taikou/gaikoku.html



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棘津(地名)で身を売ろうにも買い手のつかなかった男
2006年4月18日 5:57:48 棘の紀氏
子「牙」。初代の斉公。姓は姜。東海のほとりの人。四岳の末裔という。その祖先が禹をたすけて呂に封ぜられたので、呂氏と称するという。「史記」には渭水の岸で釣りをしているとき文王に会い、王はその祖、太公(季歴)が待ち望んでいた人こそこの人だとして、太公望と呼び、師としたとある。ついで周公旦、召公奭と共に武王をたすけて、殷を滅ぼし周朝をたてた。
 (「牙」:さいとり 西鳥! 商品売買の中間 手数料を取るもの。)

太公望(〜前997年) 呂尚  たいこうぼう   りょしょう
http://page.freett.com/xnm13685/jinnbutu-ta.htm


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姓は姚。桃太郎の祖?
2006年4月18日 6:24:26 棘の紀氏
「丹朱というものがいたが・・・・」
http://page.freett.com/xnm13685/jinnbutu-sa.html#tannsyu
「笠をもって、鳥の翼のように羽ばたいて無事降りたという話や、父に井戸を掘ることを命じられたとき、危険を予測して側壁に穴を開けておいて・・・」(笠・・・・竹・・箕氏? 鳥  側壁に穴・・・)

香炉峰の雪

http://page.freett.com/xnm13685/index.htm
       
        おすすめHPデス。



土井が浜
2006年4月13日 7:25:19 とみた
かわかつさん、土井が浜に行かれましたか。弥生時代の墓地ですね。

弥生人が江南の淮河下流域あたりから渡来した民なんでしょうか。
顔を西側すなわち海岸の方を向けて葬る。弥生人が中国朝鮮から渡ってきたのでその来た方が西なんでしょう。
人骨の中に、全身にゴホウラ貝の腕輪をし、石鏃やサメ歯のヤジリを受けた男性や、胸に鵜を抱いた女性などリーダーやシャーマンではないかと言われていますね。


隼人研究者としては、沖縄のゴホウラを運ぶのは、隼人、是は森浩一先生の説。鵜飼は長江上流の蜀由来で吉野の阿多族すなわち隼人の裔も鵜飼をする民、これは早大の古賀先生の説。

土井が浜にはゴホウラ貝と鵜が出てくる。

この弥生人は隼人と関係があるのでしょうかね。

先般、放送大学で鳥取の砂丘の話が出ていました。
弥生時代はこの地も草原であった。中世から砂丘が発達したそうです。

土井が浜と鳥取砂丘は大分離れていますが、同じ山陰の日本海沿いということで、土居が浜も昔は緑の地であったのではありませんか。

サハラ砂漠だって、ゴビ砂漠だって昔は緑の時代があった。
アマゾンも今は緑の地、焼畑が進めば来世紀は砂漠化するといわれていますものね・・・



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2006年4月14日 5:11:31 管理人
鏡の話ですが、鏡が化粧用に使われたのは紀元前3,4000年前からだそうですが、日本の古代の鏡はそのうち、鈴がついて、物を映す鏡から、楽器方面へと変化していくそうです。その辺で儀式にも変化が??


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土井が浜
2006年4月14日 14:11:33 かわかつ
下の古墳記事にレス添付しました。


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美保の岬において天の鏡船に乗り来ませる神あり。
2006年4月16日 4:18:04 棘の紀氏
『神楽絵巻』改訂版 絵・文 逸見 芳春
http://www.bihoku-minpou.co.jp/kaguraT03.htm

なぜか 参考に・・・なりそう?



装飾古墳の「鞆」トモの図柄に「円」紋=「的」
2006年4月11日 18:39:07 棘の紀氏
少数派ですが「正解」   鴨。
 装飾古墳で気になる図柄に「鞆」トモ (国字);矢を入れる革のふくろ が多く目に付きます、中には「矢」の隣には「円」紋が(多く見られ、鏡とか太陽・月とかが定説ですが、なかには「的」まとと仰る先生もいます。)
それに「×」の文様。
『鞆』という字は象形文字の『丙』(ひのえ)は火・エネルギーをまたは、古文字から天秤・つくえ(紀氏的には冂 Γ の角に斜線をいれ向かい合わせた形「門」・穴?)

福岡県石人山古墳の石棺の文様は 割れた「鏡」の様な「円紋」に「×」の文様。
紀氏的には、円=穴=♀ 矢=←=♂ 「鞆」トモは矢(♂)がふくろ(穴・♀)に収まった「平安」の形。
「矢」は戦いや狩り(測量の隠語)に使用されるが『鞆』に収まっていることは「ライン」と「ライン」が「円」の中心で「×」交わる(四方からの距離が同じ=正確。「矢」を四方に射る神事は円(的)の中心・測量での「ポイント」を見つける作業が起源と考えます。
「矢」+「的」=矢的=「鞆」トモ(矢(♂)がふくろ(穴・♀)に収まった「平安」の形。)=矢的(大和国。) (^.^) 
  タックンさん いかがでしょうか? 


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九州式
2006年4月14日 4:44:10 管理人
いろいろ論文読んでいるんですが、横穴墓と九州式の伝播、横穴式古墳の導入と構造や副葬品からわかる葬送儀礼の変化が気になります。九州というと、長屋王木簡に見られる二系統の家令のうち、ひとつは仮説として、長屋王の父高市王の家令機関をうけついでおり、その妻方が宇佐関連の氏族で、木簡に赤染氏など九州系の氏族がでているそうです。装飾古墳というと、紀氏さんご指摘の文様ですが、太陽信仰の皇祖神としての導入がアマテラスとして入り込むのはいつなのかが重要だそうです。新嘗祭だったか、ニイ・ニエとして稲でなく、海からの幸を天皇に貢納することもあり、また三重の海人から采女とともに駈?使がともにいくことになるのも、ちょっとおもしろい研究視点として扱ってみられてはどうかと思います。


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壁画の相違と竪穴式
2006年4月14日 13:53:16 かわかつ
九州の装飾古墳が5〜6世紀隆盛を極めたことと、大和の高松塚などの壁画とは特に関係があったとは思えないところがあります。
大和の装飾画の始まりは高句麗・中国国境にある江西大墓(こうさいおおぼ)の壁画が天文図を天上に、四方の壁には四神が描かれているということから、北方大陸から伝わったものかと思えます。
また、正倉院の書物に「画工司」(えのつかさ)という中務省内に置かれた絵の専門家(福井県の画工司生江臣東人、画工司池守)がいたことからも、7世紀以降、特に聖武の時代に確立された朝鮮系の壁画装飾だと思えます。ですから、装飾古墳と大和の壁画とは、学習のさいには、きちっとわけて考える必要がありそうです。

そこで古墳の形式ですが、監理人さんが言われている「横穴式」というのは、厳密には九州では「竪穴系横穴石室」を持つ中期古墳となるかと思えます。
墳頂に置いた玄室の上に盛り土をし、横から入れる玄道を持つものです。
ちょうど八女の古墳群を総覧してゆきますと、古墳の変遷は一目瞭然となる訳で、時代によって古墳も変わってゆくことが理解できます。
竪穴式横口というのは九州の特徴的形式であり、それは大和以外の神奈川、吉備などにも見られます。土器などと同様に、九州型の移動が大和よりも周辺諸国に影響しているということになるのかもしれません。

天照大神に関しては、これはもう正史からしか出てこない神名ではないかと見えます。「先代旧事紀」に出てましたっけ。

とみたさん、土井が浜は、5年ほど前に参りました。山口県豊浦町は日本海側の漁村ですが、土井が浜はその西の端に位置し、現在資料館のある場所は浜から少し入ったところですが、かつてはそこも海岸だったようです。


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今回は
2006年4月14日 14:10:13 かわかつ
今回再訪問するのは、とみたさんの言われている海岸線のどこまでが砂浜だったかを確信するためです。土井が浜がかつて砂浜でなかったかどうかは存じません。というのは、土井が浜のおびただしい遺骨は砂の中から出ているからです。
ただ、遺骨の特徴は身長がわりと高く、それまでの日本人ではない可能性があります。つまり半島から海を渡った北方系新モンゴロイドである可能性が高い。
中国人を一括的に北方系と思われる傾向があるようなのですが、実は、黄河文明というのは南方系なのではないかと思います。
特に古い殷や商や周、秦あたりまではどう見ても南方系であり、江南文化と呼ぶべきものでしょう。北方系となると漢からでしょうから、中国四千年という表現はちとおかしいと思います。われわれは中国を語るとき、北京を中心とした漢民族の文明を思い浮かべますが、よくよく見れば、それ以前の文明は中華以前の南方系呉越の文化ではないのかと。三国史魏以降
ようやく黄河以北がメインになるのでは・?

日本の砂丘の研究にかかせないものに琴引き浜などの「鳴き砂」があります。これは海流の行く道を知る手だての一つなのですが、今、天然の鳴きすなのある浜がどんどん減少傾向にあります。主に日本海側に点在し、土井が浜から若狭へゆく途中にもいくつかの浜があります。太平洋側には東北地方に少しあることから、海流が青森沖を回り込んで抜けていることがわかるようです。


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装飾と漢字
2006年4月14日 14:14:45 かわかつ
もう少し時代的背景、九州装飾古墳の壁画が来た方向なども併せて考えれば、中国北方の漢字文化との関係がそもそもあるかないかは想像に難くないと思います。私は少し無理ではないかと思います。^^;


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紀氏さんが書いているのは
2006年4月14日 14:43:10 かわかつ
石人山古墳の家型石棺にある「直弧紋」のことです。
http://blog.livedoor.jp/warabite/
このサイトでよくお勉強してkださいね。
画像の方に拡大できるものを貼り付けます。以前、姫さんが探せなかった直弧紋の画像が手に取るようにわかると思います。
石人山古墳は筑紫国造磐井の祖父に比定されています。となりにある円フンが私が見に行った弘化谷古墳でこっちは磐井の息子・葛子の墓だと言われています。前方後円墳よりも円墳のほうが新しいという珍しい例です。
地形を地図などで確認されてくださるとわかりますが、久留米・八女といった有明側の地方は筑後川という大河と北の背振山にはさまれて、東西にしか身動きがとれない。
福岡市などの玄界灘、朝鮮半島から来るには筑紫平野を抜けのが一番早い。海の方は、島原半島が大きく邪魔をします。
筑紫平野は阿蘇山系によって内地区部はやや狭くなりますが、広大な平野で、筑後と筑前をつないでいます。
その面積は大和盆地など比較になりませんし、遠賀川と那珂川、筑後川を擁する一大穀倉地帯なのです。ここを捨てて、わざわざ大和へ行ったとすると、それは地形、風水上の選択であったとしか考えられません。

さて筑紫平野を抜けた装飾文化は三方に分かれます。
一方は筑後川沿いに浮羽郡朝倉から大分県日田市、玖珠町へ。これは巨大な久住連山によってここでストップ。久住をこえたところには湯布院がありますが、ここにはもう装飾古墳はない。ここは石人がありません。

一方は筑後川を挟んだ同じ有明海沿岸の熊本県海岸部から菊池・山鹿・阿蘇地方へ。これは石人をともないます。八代を堺に装飾古墳はありません。そこからは隼人がいたからでしょうか?

一方は平野を北上して竹原古墳のある遠賀川西側流域へ。遠賀川を堺にして、東側へは渡っていません。石人もありません。

ところが、九州の反対側、太平洋側の大分県臼杵市には石人があります。
したがって筑紫の君とは磐井のいた八女周辺、火の君とは阿蘇周辺、大分の君とは大分県海部郡の周辺にいたと推定可能です。
しかし、臼杵市へはどうやって石人文化が伝わったのでしょう?
熊本と大分の間には、海には隼人が、内陸には阿蘇山、九州山地、高千穂の峰、祖母傾山系、霧島などの険しい山塊が行く手を阻んでいます。
どなたか解答ください。


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装飾壁画
2006年4月15日 22:46:26 管理人
かわかつさんいろいろご教授ありがとうございます。壁画古墳にも、九州のそれと、大和の後代のそれとは区別することは大切ですね。そもそも大和の権力層が壁画古墳を作る際、九州などのそれを認識していたかどうか、その辺は明らかにできないでしょうか。アイデア的には九州とか・・・。ではまた上で。



銅鐸 穴 再チャレンジ
2006年4月11日 9:49:50 棘の紀氏
かわかつさん、おはようございます。
銅鐸 考 よろしくお願いします。

神在祭の起源
http://www.enjoy.ne.jp/~hisasi/1999-2-2.html
http://www.enjoy.ne.jp/~hisasi/1999-2-1.html
http://www.enjoy.ne.jp/~hisasi/1999-2.html

http://www.enjoy.ne.jp/~hisasi/1999-2-3.html
http://www.enjoy.ne.jp/~hisasi/1999-2-4.html
http://www.enjoy.ne.jp/~hisasi/1999-2-5.html
http://www.enjoy.ne.jp/~hisasi/1999-2-6.html

http://www.enjoy.ne.jp/~hisasi/index98-4.html


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参考HP いばら
2006年4月12日 4:59:05 棘の紀氏
 「検索で訪れた方へ。このページは、平御幸のエフライム工房の『私だけの古代史 第三部 法隆寺編』です。トップページから入り直して下さい。なお、第一部の酒船石編、第二部のエジプト編を読んでいないと理解できない部分がたくさんあります。新事実だけでも夥しい数が提示されますから、怠惰な飛ばし読みをせずに最初からご覧下さい。」

http://www.geocities.jp/atelier_efraym/horyuji14.htm


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下の質問で
2006年4月12日 19:45:10 かわかつ
とにかくいいときはいいと言いますので、たくろう歌って待っててください。^^鯰の写真、けっこうマニアックでしょ?
漁師の世界でうなぎは「鵜が難儀する」というスラングだそうです。なにしろ長いですからねえ。
うねうねの畝は田んぼの畝と一緒で、山並みのうねと同義。
「う」は宇宙で、ひとつ屋根の下を示すので、宇佐は宇宙を世界をたすけるの意。「あ」は呼びかけ。中国では阿Qというふうに「おい」と同義。親しみを込めて「阿紀氏」と言います。上海映画を見ていると「阿マーク」「阿ジャッキー」とひんぱんに使っていますね。


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ナイス ヒント!
2006年4月18日 8:02:26 棘の紀氏
「あ」は呼びかけ。中国では阿Qというふうに「おい」と同義。親しみを込めて「阿紀氏」と言います。

「阿部」氏は「部」=「口」が「台」「立」つのは「ム」=「禹」の里!
(部民は禹系?)
 私の住所は「部室」(ナイショですが畑の下には遺跡が・・・氷室の跡も・・・「部室」へむろ と読みます、こんど合併した旧「玉里村」には
「部室」ひむろ と読みます(真南に位置し やはり 遺跡が発見されています。)・・・・同じ「地名 文字」を「線」で結ぶと関連したラインが現れる事が有ります お試しください。
 ブ 部 分 武 歩 不 奉・・ 武+鳥=「鸚」鵡オオム・・・ 
・櫻がYHWH?   梅は禹?



朝鮮は、くま(禹系)とトラ(トーラ・法 系の合体した国?
2006年4月9日 8:05:32 棘の紀氏
「朝鮮の建国神話「壇君神話」のお話。

 昔、天帝の桓因(ファニン)は息子の桓雄(ファヌン)を人間界に送り、人間界を治めさせました。
 ある時、同じ洞窟の中で生活していた熊と虎が桓雄のもとへやってきて、「人間にしてください。」と頼みました。桓雄はヨモギ1束とニンニク20個を与えて言いました。
「お前達が、これだけを食べながら、100日間太陽にあたらなければ人間になれるだろう。」
 熊と虎は喜んで洞窟に入り、太陽にあたらないように暮らし始めました。しかし、肉食動物の虎はニンニクやヨモギでは我慢できなくなり、洞窟を出て行ってしまいました。100日後、熊は絶世の美女の姿で洞窟を出てきましたが、結婚するはずだった虎は人間になれませんでした。熊だった女は桓雄が天から下りてきた太白山(テベッサン)の頂上の神壇樹の下で子供を産ませて欲しいと願いました。女を哀れに思った桓雄は、一時的に人間の姿になり、女と一緒に暮らしました。やがて女は男の子を産みました。その子は壇君と名乗り、平壌に朝鮮という国を建国し、1500年間統治して1908歳で亡くなりました。」
 
 朝鮮は、くま(禹系)とトラ(トーラ・法 系の合体した国?)
キリスト教も同じでは?


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訂正 熊とトーラは合体出来ませんでした。(>_<)
2006年4月9日 9:17:57 棘の紀氏
古朝鮮〜天孫降臨
http://enkan.fc2web.com/kantan/kr/kr_02.html
 「天帝の桓因(ファニン)は息子の桓雄(ファヌン)を人間界に送り、人間界を治めさせました。」

http://72.14.203.104/search?q=cache:RSyrLTMQshUJ:members.jcom.home.ne.jp/tink/botan/flower1/hana3kagyou.htm+%E3%81%8A%E5%89%8D%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AA%E6%95%A3%E4%BA%BA&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=1&lr=lang_ja
「人間になりたい」という夢を持っており、それを桓雄天王こと神壇樹に祈願していたのでした。
 紀氏の妄想
 熊 女  =禹 乙
 トラ トーラ 契約(YHWH)
 桓雄天王=神壇樹・・・・・(エデンの林檎の木?・・・蛇?)
「桓雄天王」・・・・「桓」カン:いつもも変わらぬ(久)の意味、
いつも一定の場所に立てて目印にした木の意味。
(私的に「久」や「九」の古文字も「禹」を表す。)
棺を墓穴におろすために四すみに立てる柱。
【桓圭】長さの単位 九尺
【桓表】昔 宿場の入り口などに立てた木の柱(鳥居に似たもの)
【華表】国字:鳥居・・・・・(鳥居は華・カ・夏の国から渡来!)

【桓表】が「鳥居」「目印と長さの単位 九尺」に「墓穴におろすために四すみに立てる柱」、と・・・ポイントの関係文字・・(-“-;)
日本に似た天皇がいたような、
在位前685〜前643に【桓公】カンコウ(斎国十五代王が外国に逃げ、放浪後前685に帰国 斎候の位を継いだ。)・・・・外国て何処だろう?
 高井田3-14横穴の壁画(六世紀)の鳥居・・古代測量まであと少し。


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面白い!!
2006年4月9日 21:42:45 かわかつ
もっともっと教えてください。

昨日から福岡県八女市にいっておりました。
古墳の公開にあわせて一泊で、八女古墳群をすべて?回ってきました。
素晴らしい!!
有明海に面した筑紫国造磐井の本拠地になんと大伴氏の墓所を発見。
高良大社に神護石ついに発見。捜したかいがありました。整然。堅固。
岩戸山古墳、石人山古墳。去年特大の顔付の石人の出た鶴見山古墳、そして何十基もの丹塗りの石郭室を持つ童男山古墳に徐福が祭られる山、その名も犬城山。狗の文字、あちこちに。地名も狗、犬・・
長野の地名に石灰の出る山あり。神社はスサノオ神社。そして町全体には恵比寿さんの講が今でも開かれて。えびす祠が山ほど。
神の名前は祇園さん、それつまり祇王・・・つまり大山祇の神。このはなさくや姫の父にして、海幸彦ほすせり命の祖父ときたもんだ!!

筑後平野は北に開いた地形。南を山でふさがれた反風水の地形。ゆえに理想の場所を探して旅立ったのであろう。
有明周りの東進経路こそが隼人たちの行った海の道。
それは日本海ルート!
神武天皇はわざと逆コースを行ったことにしたのか?
久留米から高良を抜けて玄界灘へ抜ける陸上ルート。そこにあったのはなんと「日向峠」だった!!行き着いて夜明を過ぎ、日田市!ひたかみ国の最初の場所か?!
玖珠町、あばれ川筑紫次郎のわき出る扇状地は鉱物を流し出す。そこに住む女賊・五馬姫の伝説。夜須川は筑後にあった。そこの地名は山門郡。

まあこれは小説の世界でした。できすぎと言えるほどの海、海人、鉄の道。ヤオ族の道。
ま、今日はそんなところです。by筑紫哲也。


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筑後平野の人々は
2006年4月9日 21:54:00 かわかつ
確信しましたね。大阪泉州に入った応神天皇の先祖です。
そして継体天皇の祖先。
今城塚古墳の70パーセント縮小サイズが岩戸山古墳。どちらも「別区」がある。
岩戸山別区にたてられていた石人、石馬。そして呪術する女。
新羅とのえにしは可耶の海人族との関係。新羅は移住させ、百済は追いやった。それこそ秦韓、辰韓のあったところ。秦氏の半分は海人。半分は砂漠の民でしょう!!間違いなし。^^


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トーテム 日本海ルート
2006年4月10日 1:50:38 管理人
紀氏さん、かわかつさんこんばんは。
紀氏さんのご紹介の朝鮮神話、熊から生まれる王族というのは、先のミャオ族の犬から生まれるとか、大陸系の神話でしょうか。熊が王女、男系の神族に対しての、つまり女系からの影響がちょっと気になりますね。日本古代の場合、父系が2代一緒に住むことはなかったそうで、婿入り婚とかと女系のそれと関係あるみたいです。

かわかつさん、さっそく探索報告ありがとうございます。イワイの遠征にいったのは確か・・。いろいろ発見があったようですね!
日本海ルートというと、先ほど読んでた論文に、東北は日高見国??出羽柵や雄勝方面への、蝦夷遠征についてのものがあったのですが、昨年ご紹介したニギハヤヒつまり物部系の岩舟神社のあった岩舟は、新潟庄内から北上するには山という障壁があり、わざわざ海上ルートで北上して遠征したのが、斉明紀の阿部氏の船での蝦夷遠征と関係するそうです。物部氏というのは、やはり軍事氏族であったのではと感じました。先ほど読んでた論文のひとつに、近江令成立の話があります。天智の時に近江令の兵政官?というのがあったそうで、御史大夫など近江令のほうが、中国的な官がそのまま律令に導入されていることがあるそうです。その後日本的に変わっていったそうですが、そこには蘇我氏がかかわっており、中国的な律令とともに、中国的な儀礼もそのまま導入した可能性もあるのではと感じます。それがある意味馬の祈雨祭祀などとも関係するとか考えてみたりしますが、ともあれ、阿部とか物部氏とかが地方に派遣されるのは、制度的な軍事官職として国家の軍隊として派遣されたのか、あるいはそれ以前の豪族の恣意的な側面を有しながら派遣にあたったのか、その辺がイワイの乱に関してもちょっと考慮してみるとおもしろそうです。でも、イワイの乱って・・いつからヤマトの天皇の敵っぽい存在になってしまったのでしょう・・・。


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日本に似た天皇がいたような、RE
2006年4月10日 11:39:32 棘の紀氏
長岡京遷都 [784年/不運な偶然により失敗]
      光仁天皇の後継者たる桓武天皇(柏原天皇)は、皇別氏族氷上川継と京家・藤原浜成が謀叛の嫌疑で伊豆国へ配流された782年の氷上川継の変を契機として遷都計画を実行に移した。造長岡京使に任命された式家・藤原種継は、桓武天皇と同様母が帰化人血統だったためか、帰化人が多い山背国乙訓郡[おとくにぐん]を新都と定め、早々に長岡京遷都を断行した。しかし藤原種継は翌年、皇太弟早良親王の世話役の春宮大夫[とうぐうだいぶ]大伴継人により暗殺された。事件は旧豪族の大量断罪に発展し、さらに波及して暗殺教唆の嫌疑で早良親王の淡路国配流が決定したが、早良親王が憤死して終焉した。やがて長岡京では、皇太后井上内親王の急逝、式部省南門倒壊、大洪水など原因不明の災難が相次いで発生した。桓武天皇は早良親王の祟りを恐れ、早良親王を崇道天皇[すどうてんのう]と追号した
http://masmas.jp/kkks/Chapter5.html
「桓」雄天王 桓武天皇(柏原天皇)でした。(^○^) 


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紀氏さんお願いが
2006年4月10日 17:15:12 かわかつ
URLをドラッグしたときに、長いのは途中で折ってもらえませんか。読みにくくて。改行すればOKです。


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ありがとうございます。
2006年4月10日 22:40:32 棘の紀氏
URLをドラッグしたときが原因でしたか、今後気をつけます。
ところで、かわかつさん 「おもしろい!!! もっともっと教えてください。 」ですが???詳しく教えてください。
                   (^.^)(-.-)(_ _) 



飛鳥、祭祀
2006年4月9日 1:56:14 管理人
タックンさんおひさしぶりです。わたしもそろそろ出かけたいところですが、ぜひ、また遺跡探索のお話お聞かせください。奈良飛鳥というと、和田さんの論文がおもしろかったです。檜隈の地の漢氏の開拓と欽明陵周辺の話、葛城の御歳社と大年神系譜の渡来系祭祀が、蘇我氏と渡来系氏族との関連でどう成立したか、飛鳥川の氾濫跡と・・・、下道成立の延長の話、東南甘南備としてのミハ山の話・・いろいろ飛鳥の現地ならでは論点がおもしろいです。
先日の姫さんご指摘の羅城門外での境界祭祀と馬の骨に関してですが、どうも今日たまたま読んだ論文によると、馬を犠牲にする祭祀は祈雨の祭祀として、その門の外あたりで行われていたらしいです。門外での祈雨祭祀は、もともと中国の祭祀に期限があるそうですが、御歳神を祭る祈年祭は白い動物を祭り、二月で云々関連あるか・・。祈年祭は蘇我、女帝が行い・・・。
紀氏さんの槍の話ですが、さっき読んでた論文によると物部・鎮魂祭の祭祀に関して、石上・榎井氏が担当することになっていく過程で槍の祭祀導入に関する話がでてきていました。鎮魂祭の後に大嘗祭があり、これはアマテラスの隠れと、復活の視点と対応があるそうで、その辺の物語題材に死人のよみがえりの話が出てくるのは、やはり景教的視点とどうかかわるか気になっています。やはりとみたさんの探索されてるトカラ人は、なにかしら宗教をもっていたはずであり、拝火教かキリスト教か、仏教か、はっきり特定できないでしょうか。あと、物部系譜に関して、物部氏に二系統あり、両者の結合とともに、ににぎ、にぎはやひの兼ね合いが生じ、さらにその後海部、尾張氏・隼人等の系譜と、統合していくらしいです。物部氏の氏族書・先代旧事本記が、記紀に関係せずに、ダイレクトに儀礼に関係するとの視点もなかなか意味深です。海部・隼人、かわかつさんの春の探索もお聞かせくださいね。ではでは。


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津守
2006年4月9日 21:41:04 姫 MAIL
かわかつさんが津守のことを書いておられましたでしょう? 宮が遷っても、古い宮の留守番を置いといたというお話でした。  これは実際にそうであったと思います。 宮には薬草園があって、植物ですからそう早速と移せなかったと思います。 確か平安京へ遷っても薬草園は長く平城京にあったというようなことを聞きました。  この間の浄御原宮の発掘のとき、建物の柱なども藤原京へ運ばれて利用されたようですが、非常に丁寧に引き抜いてあり、主要な建物の区域は山土で綺麗に埋めてあったそうです。  また柱跡には石を置き、目印にしてあったそうです。 新しい宮に遷っても、正常に機能しなかった場合を考えて、そうしたのだろうと言うことでした。 何時の場合でも遷都するときは、前の宮をそのようにしてちゃんと保存したのですね。  津守町は古い宮を守る人たちが住んだ場所の名前が今に残ったものなのですね。 地名は歴史の証人ですね。

ところで、管理人さん、和田さんの論文は面白そうですね。 どうすれば読めるのでしょうか。  よかったら教えていただけませんでしょうか。


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論文収集
2006年4月10日 0:54:30 管理人
姫さんこんばんは。なるほど、遷都といえども、貴重な植物は移動が難しかったのですね。非常におもしろく感じます。元に戻せるように保存していおくという件、数多くの遷都記載から編み出されてきた知恵なのでしょうか。和田さんの論文は、『古代を考える飛鳥』吉川弘文館の中の「飛鳥の神々」です。本で売っているので、大きな書店だともしかすると手に入るかもしれませんが、もちろん、姫さまには他の方法をお教えします。
雑誌などの研究論文収集の方法については、日本古代史研究辞典あたりで分野ごとに、論文が分類されているので、その辺で目星をつけてから、大学図書館や国会図書館あたりになんとか社会人講座とかとたりしてゲストで入れるところを見つけて入って、雑誌コーナーで論文を見つけ出します。さらに、論文には、関係論文の引用があるので、そのまま孫引きして、一気にその図書館ですべて網羅していくのがベストでしょう。ただし今はコピー制度がかわって全部論文をコピーすると、怒られるので、2分の1だけコピーするようにします。あとは1万500円くらいの最近のスキャナでパソコンに取り込みそのままPDF化して題名と分野を分類して、ノートパソコンあたりに入れておくと、電車の中や旅行中も必要な論文を読みながら歩いて探索できるでしょう。分類ごとにまとめて再製本してくのも手ですね。マイナーで本になっていない雑誌の論文のほうが、貴重な視点を展開していたりすることも多々あるものですから、ぜひ、その辺まで調べておかれることをお勧めします。


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和田さんの本
2006年4月10日 16:53:40 姫 MAIL
管理人さん、論文収集についていろいろ教えていただきましてありがとうございました。
ちょっとできそうにもありませんので、とりあえず本になっている和田さんの「古代を考える飛鳥」という本、「飛鳥の神々」でしたか、これを読むことにします。
何も判りませんので、目下のところはあちこちの講義を聴きに行ったり、近くの古墳や神社を見て廻ったりして、勉強中です。  なかなか覚えられないのが難点ですけど、それなりに楽しんでいます。 また教えてくださいね。  ありがとうございました。


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こちらこそ
2006年4月14日 4:17:15 管理人
また興味深い論文ございましたらお知らせ、加えて可能なかぎりのご支援いたします。でも論文読んでいても、現地におられる方には、いかなり知識家もかないません。今後とも飛鳥の情報よろしくお願いします。



「シュメール 双魚」で検索
2006年4月8日 18:43:45 棘の紀氏
参考HP
黄道第1星座。 白羊(はくよう)宮。 設定者はプトレマイオス。 黄道第1星座と ... 起源は古く、メソポタミア時代の彫刻にすでに見られるが、 大きい割に明るい星はがないので、少年 ... 黄道第12星座。 双魚(そうぎょ)宮。 設定者はプトレマイオス。 現在、春分点(座標原点 ...
http://quasar.cc.osaka-kyoiku.ac.jp/seiza2000/data/
ノストラダムス "諸世紀" Part 1 【ノストラダムス"諸世紀"Part 1】 (*).(書籍{ ... いるので ノストラダム は(表面的には キリスト教徒だったが)ユダヤ教徒だから占星学 ... 黄経300°以上,黄経330°未満. 双魚(そうぎょ)宮:魚(うお)座=黄経330°以上,黄経 ...
http://www.geocities.jp/pandora1335/nstrdm1.htm
魚は欧州でも古くからオリエント地方などで豊穣の象徴とされていた。
また3ー5世紀になると、魚がキリスト教の象徴として使われ、カタコンベなどに描かれた。これは、ギリシア語で「イエス・キリスト、神の子、救世主」("Iesou Christos Theou Hyios Soter") の頭文字を取ると、「魚」('ichys')になることに由来している。
初期のキリスト教徒が迫害に苦しんでいる頃、「魚」は秘密のメッセージの具体化であった。そして、洗礼式の制定により、魚もキリスト教徒も(洗礼の)水なくして生きられない、という言い方がされた。
http://www.avis.ne.jp/~zuzu/culture/art/craft/pattern/2fishScale.html


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参考HP
2006年4月8日 18:51:00 棘の紀氏
「キリスト 双魚紋」で検索
洗礼者ヨハネ、そしてイエスもクムラン教団に属していたのではないかと推測されています。
http://www.pcs.ne.jp/~yu/twi/qumran/qumran.html
弾圧されていた時代から双魚の印はキリストを示すものになりました。一尾の魚であることもありますが、カタコンベに記された暗号としてのものはほとんど双魚です。ちなみにローマ教皇の帽子も魚の口が開いた形になっています。
偽典にはイエスは双子だったと解釈できるものもあり、そのため双魚なのだという説もあります。
地平線すぐ上に細い月(月齢18)があり、空の明るさのため実際には見えませんが、木星が隠されて、薄明終了後5分して木星が出現します。そしてその5分後には月も木星も沈んでいました。そして、月から8度ほど上にはユダヤを支配する星と解釈されていた火星がありました。地平線を見ていた人にとっては、空が暗くなると同時にとても明るい星(なにしろ木星ですから)が一瞬輝いて見えたはずです。人を導く星としては格好の現れ方ではないでしょうか

『RE『井吹里その後』』 管理人 2004年12月17日(金) 5:16:51 削除・編集 ... ヤソー耶蘇(ヤソ=キリストのラテン語Jesusの中国語音訳)キリスト教の伝道 ... キリストを象徴すること、現在でもキリスト教関連の物品には多く使用されていますね。 古墳出土の剣につく双魚 ...
http://www.asahi-net.or.jp/~RG1H-SMED/touhoku

「ジャイアンツ・アイズ(巨人の目)」というが、日本でもこの2星が並んで輝くのが目に付いたようで、猫の目、蟹の目、眼鏡星、にらみ目、かどぐい(正月に飾る松の枝)星、また、カストルは白色、ポルックスは橙色なので、カストルを銀星、ポルックスを金星と呼ぶ地方がある。キリスト教でも「アダムとイブ」ということがあり、文化が違ってもこの2星を対にして見ているのは面白い。
http://quasar.cc.osaka-kyoiku.ac.jp/seiza2000/data/


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ギリシア・ローマ文化が仏教に!
2006年4月9日 7:41:31 棘の紀氏
「このような富みや商業、さらに死者の霊魂を導くヘルメース神の図像は、アレクサンダー大王の東征により、中央アジア西部のオクサス河中流域のバクトリアに定着したギリシア人植民者によって、オクサス河からインダス河に至る地域へと伝播したのである。また、メルクリウス像はローマとインドの交易をとうしてパキスタンへと伝播した可能性もある。そして、この地方に移植されたギリシア・ローマ文化を継承したイラン系のクシャン族によって、ギリシアやローマの神々の像が中央アジアからインド亜大陸の北西辺境(ガンダーラ地方)にかけて知られるようになった。その実例は、2〜3世紀にこの地域を支配したクシャン朝の国王が発行した金貨や銅貨の裏面に刻印されている。その大半はイラン系(ゾロアスター教)の神々を表したものであるが、しかし、その図像はギリシア・ローマの神々のそれを借用しているのである。その一つにギリシア文字でファッローと記された男性神がある」
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/news_letter/29.html

   金沢大学文学部教授


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毘沙門天はヘルメス?
2006年4月9日 7:57:41 棘の紀氏
http://pezetairoi.hp.infoseek.co.jp/history/bisyamon.html
クシャン朝のカニシカ1世とフヴィシカ王が発行したコインに刻印されたファッロー神の図像には手に「杖」を持ち、頭部に一対の大きな翼が付いています。

 話が変わります。「はふる」
「はふる〔散・屠・放〕 四段。ばらばらに解きほぐし、切りはなすことをいう。「放(はふ)る」もまた同系の語。また「葬(はぶ)る」「散(はぶ)る」にも放・散の意がある。のち「ほふる」「ほぶる」、また「はふらかす」という。
・はふり〔祝〕 けがれを祓い散らすもの。「放(はふ)る」「屠(はふ)る」と同根の語で、犠牲を供して、けがれを祓い清める職にあるもの、神官をいう。(『字訓』)」

 ばらばらに解きほぐして、それぞれが培養・・・・新理論への豊穣 鴨



木+倉くら=
2006年4月8日 11:44:38 棘の紀氏
「 槍」やり(木+倉くら)「当て字で槍野(うつぎの)になったとする。」
桜野の多宝塔、道祖神
古戦場は桜野の南に位置する槍野(うつぎの)であるとする説もある。
槍野の地名は刀や槍で「ツキつくらをした」動詞形から発生し、場所を意味する「つつきの」に転化し「うつぎの」になり、当て字で槍野(うつぎの)になったとする。
またこの付近には城後平という地名が残り、陣屋、砦の跡ではないかと思われるという
槍野の峠には、草むらの中にひっそりと  「馬頭観音の石碑 」が立っていた。

管理人さん今日は、「 槍」やり(木+倉くら)「くら」が「うつぎ」(禹津木?)・・・・【空木・卯木】:ゆきにした科の落葉低木。初夏、白い花をふさ状につける。一名ウノハナ。材は堅く、木釘を作る。
「卯木 うつぎ」は土地の「境」に植えられています。「倉」「宮」(見・巳(ミ 蛇 禹ウ)・箕(ミ・古文字が私的に測量関係の文字に考えられる。)
「三宅」(ミヤケ)「宮家・屯倉」が三宮・三倉・三「禹津木?」・・・・【空木・卯木】・・・・津(境?)【空木・卯木】:土地の境などに植えられている。

「 槍」やり=「鉾」(私的に測量の道具。) 

以前 「門」「戸」「乙」が関係している事に「乙」の古文字が「へび」をイメージしている(禹も蛇、蟲チュウ・むし・キ・・・亀もへび・・・古代中国デ)
モーセの杖つえ(津江?)が蛇に変わる話(出エジプト記) 杖・・・王のシンボル?(定規・長さの規準から?)
「門」1対の「鉾・槍・木キ・(基・樹・規・己ワレはウを表す音・魚も台も卬あおぐ・・・・ なども)・几(鳥居をイメージ?・箕・埼・岐・伎・・・・」 

 管理人さんなら紀氏のこころ 理解できる!   鴨?



面白そうです。
2006年4月8日 8:57:45 棘の紀氏

黄帝はアッカド王サルゴンのことだ。 夏王禹はウルク王ウトヘガルだ ...
雲南のワ族には方舟神話がある。
ワ族は苗族の仲間だ。
苗族はかつてバビロンにいた。
古事記のオノコロ神話は方舟神話だった。
女〓氏の洪水はノアの方舟のことだ。
炎帝はラガシュ王シャゲングルだ。
黄帝はアッカド王サルゴンのことだ。
夏王禹はウルク王ウトヘガルだ。
序章 庖犠・女〓とシュメール人
第1章 大洪水の神話
第2章 最古の帝王たち―炎帝・黄帝・蚩尤・王倹
第3章 夏はバビロンにあった
第4章 殷もバビロンにあった
第5章 殷の暦法と考古学
終章 殷人と日本列島の古代
中国神話ルーツの謎―もう一つのシュメール神話
ISBN:4915157512


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ヤス?
2006年4月8日 9:17:03 棘の紀氏
鷲は天子の総称
夜須の地名は王の祖先にあたる中国古代夏王朝禹の都安邑をつけています、
http://www9.ocn.ne.jp/~aysk535/index2f.htm

対称に二匹の小魚が描かれ、人面と魚が合体した独特
な構成 古代の半坡人は、多くの彩陶盆に魚と漁網の文様を描いている。
トーテム崇拝が見える 彩陶魚文盆
この民族は、殷の先立つ前のヤンシャオ文化の頃から夏王朝の
祭祀影響が考えられる。
豚、犬、水牛、鶏の骨を鑑定したら、人工養殖
したのだと判明した。
http://6313.teacup.com/kojima/bbs

  「シュメール 禹」で検索、お試しください お奨めです。


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2
2006年4月8日 9:31:38 棘の紀氏
スメール から   日ノ本 への  解説   
慶応義塾 法律科 教授   吉田敬吾     
http://www.ani.gn.to/new_page_92.htm


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太田猿田彦大神・・・太田?
2006年4月8日 19:40:37 棘の紀氏
翁答えて曰く。我は太田猿田彦大神(おおたさるだひこだいじん)なり。天孫降臨しますによって、このところに迎え奉り、我が国に道引き申さん。常盤片葉(ときわかたは)に栄えまさん。しかるに瓊々杵命には妻なく、妻なくしてはおさまらず。よって伊予の国越智郡、大山祇命(おおやまずみのみこと)の息女、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)を天孫の峰に仲介申さん。これ夫婦婚姻の初めなり。
 この時、賽(さい)の神といつき奉るも本体は猿田彦の神を祀(まつ)るなり。彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)、天の釣り針を失い給いし時、荒芽のかぶたを取り、竜宮界に落とし、これ南海に船の初めなり。この時、船玉明神(ふなだまみょうじん)と祝い納めるも、本体は猿田彦の神を祀るなり。また、しゅうきくの庭に立ち、千日の毬(まり)を蹴らし給う摩利支天(まりしてん)、摩利の明神といつき祀るも猿田彦の神を祀るなり。庚申(かのえさる)の日は、農家にとり、いたって悪日なれば、これを善日になさんがため、庚申(こうしん)と祝い納めるも、猿田彦の神を祀るなり。また商人にとりては利徳幸いの神なり。身体不自由なる者には杖道引きの神なり。この神は悪魔降伏の神にましませば、神歌に曰く。」
神歌「八つの御名、八つの勲しあればこそ、罪咎(つみとが)払う白ひげの神。」
http://www.bihoku-minpou.co.jp/kaguraT01.htm


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須恵器は夜須町に渡来した会稽王が連れてきた
2006年4月8日 19:58:29 棘の紀氏
山隈窯跡と円筒埴輪 投稿者:歴研会 投稿日: 2月22日(水)17時53分36秒
埴輪〈はにわ〉とは、古墳の墳丘の外表に立て並べられた、素焼きの
土器の総称である。
円筒埴輪は、弥生時代の器台から発生したとされる
壺型・家型埴輪、円筒埴輪・壺型埴輪・鶏埴輪津古いけがき遺蹟出土
等は素焼きで造られている。「これに注目されたい」
須恵器は夜須町に渡来した会稽王が連れてきた須恵器工人穴窯式。
どちらも弥生後期の時期であること。
考古学界はここで見落としていて、知識違いはこれらの違いと同じで
あろう。
古代でも弥生には二つの民族独特の焼成法がありましたが学会はこれに
気が付いていません。認識不足で古代を記していたから大きな間違い
ばかりが、先行していったのが実情で児島説から認識されたい。
早まるな考古学先生方。
画像は三角模様の会稽工人穴窯で焼かれた埴輪とする。
http://www.kashikoken.jp/museum/special/05autumn/main.html



ご無沙汰です
2006年4月7日 20:21:32 タックン
先月末くらいから、今月末ぐらいまで決算、所謂棚卸という奴に手こずってしまい、遺跡歩きも出来ませんでした。
特に今回は年度末、九月の時とは違いより慎重に数数えに明け暮れていました。

自主的に土曜日に時間を決めて出てしまった日もありまして、今もう一段落でヘトヘト状態でいます。

どこの職場も人員が減ってしまい、一人一人の負担が増えてしまって、仕事を抱えております。

明日はやっとゆっくりと休めそうなので、古本屋やら生きたい博物館・図書館で資料をあさってこようと思っております。

かわかつさん、物怪さんとこには行きませんよ、ここだけですがあの方とは私は合いそうにはありません、ウマが合うのはここの方たち、特にかわかつさまで〜す。


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うれしいね
2006年4月7日 22:09:43 かわかつ
心が晴れますよ。
でもさまはやめてくださいませ。

じゃあ、復帰をお待ち申し上げます。無理しないように頑張ってください。



お奨めHP レトロ
2006年4月7日 18:30:47 棘の紀氏
焼尻紋次 
http://www.ainu.info/treebbs/0/index.html
だれもが気づかないナイスHP・・・鴨ン。


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焼尻紋次 
2006年4月7日 18:43:43 棘の紀氏
古代史の謎と言語
http://chance.gaiax.com/~member/lastbbs.cgi?x228mzk0@chance:1


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五十音図はスペイン語の影響?
2006年4月7日 18:58:29 棘の紀氏
http://principle.jp/bbs1/cbbs.cgi?id=brn&mode=one&namber=540&type=523&space=75


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「さか」の意味と語源  [焼尻紋次郎]  
2006年4月7日 19:11:05 棘の紀氏
[1541]   「さか」の意味と語源  [焼尻紋次郎]  07/27
 ナツイなも。ミナシャンさかしいへ(豊後弁 ; お元気ですけぇ)?
 おらはいま、「ネパール語 / 日本語・アイヌ語」の類似語彙の“総一覧表”つくりに
ケッケむくり……『かむなび・夏休み』ちゅうなり。

 先日出て来て「なにかあった、なにかあった」で思い出せなかった「さか」でしたが、
ネパール語に CAKKAR(町外れ、町と町の境)……再確認できましたので報告します。
 これは CAK がパーリ語的開音(母音づけ)を受けたものと判断できます。KAR がまわ
りを意味しています。
 「たまきはる」もそうですし、サイの神もそうでした。「出外れ・境界」という考え方
には古代人特有の(現代人の考え付かない)ナニモノかが、まだ潜んでいるようですね。

 この作業……あと2ヶ月ぐらいかかりそう。
 『ほにゃらか』もサボりがちなり。MAPHI(お許し)RA(強調末尾辞)。
  ポレポレよ http://ucgi.kamnavi.net/cgi-bin/yakbbs.cgi ポレポレ


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そんな言葉
2006年4月7日 20:02:20 かわかつ
使ったことがありません。おそらく地域が違うんでしょう。
かわかつは町中の生まれですので、田舎言葉を知りません。^^
神奈備サイトはそれこそ「さかしい」投稿者が現れて、一時、てんやわんやしていましたね。

アイヌ言葉面白そうですね。期待します。どうかネットで公表してね。

そろそろ桜も終わりですね。
皆さん、9日に装飾古墳の公開が各地で始まります。トラ塚はどうでしょうか?15、16日には王塚古墳公開です。こっちでは八重桜が咲き始める頃です。おいでになりませんか?

タックンは相当忙しいのでしょう。最近まったく登場しないですね。物怪氏のところへでも行ったのかな?姫さんなにかご存じない?
最近知り合った蕨手さんの情報で、かなり貴重な装飾古墳画像が見られるようになりました。



ビン越
2006年4月7日 9:04:11 とみた
トカラ人と隼人を追っかけています。
トカラ人は、アーリア人でシルクロードのタクラマカン砂漠には一杯いました。クチャ、ホータン、カシュガルなどにはたくさん跡を残しています。

隼人は、吉野川の吾田に植民し地名を残す鵜飼民。長江上流域の巴蜀の鵜飼やヤタカラスとのつながりに関心を持ちました。

一方、長江の下流域の越人と倭人とのつながりも関心を抱き、鯨面、断髪など日本人と共通の風俗は有名ですが、最近ビン越の関連を追っかけています。

司馬遼太郎の街道を行く”中国・ビンの道”を読んでおりまして面白い記事に出会いました。

ビン越のビンは門構えの中に虫です。つまり蛇です。

蛇が多く樟で有名な福建省です。武夷山には多種類の蛇が生息する。この断崖の洞穴には船形棺がたくさん置かれている。

つまり、独木舟を棺にする風習があった。ここは樟でも有名な地、樟の舟です。
古越族の墓なんです。放射性炭素測定では今から3445年前〔+-150年)、海洋民族なんです。マライポリネシアの海に広がっている。独木舟を操って太平洋を駆け巡る。

沖縄の糸満の漁師は、昭和初年ごろまで、独木舟に粟の袋を入れて紀州熊野沖合いまで漁に来ていたといわれている。

ビン越は百越(インドネシア民族或いはマライ・ポリネシア民族)といって、越人のルーツ、原卿です。古代中国の春秋・戦国時代までは長江下流は越人の国であった。


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ビン越 禹」で検索
2006年4月8日 11:58:06 棘の紀氏
 「
ビン越に攻められたが、封禹山を保守
http://www.geocities.jp/sei_taikou/gaikoku.html

匈奴の祖先は夏后氏(禹)の後裔で、淳維 という人物であるとされています(当然、実際は違います)。 しゅう ゆうおう けん ... 句践を祖とする、ビン越と東甌の伝。 ビン王無諸と東海王 ...
http://www2.odn.ne.jp/magu/kohsei/retuden.html


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丹は旦(水平線にテン)
2006年4月8日 12:26:00 棘の紀氏
 とみたさん今日は、他のHPでのご活躍 会の仲間としてとても嬉しいです。
「燕の太子丹は遼東に逃れ、衛満は燕の亡民を収めて海東(朝鮮)に集まり、真番を平定し、要塞を保有して漢の外臣になった。」の「燕の太子丹」が気になります。
 以前に「燕」(津羽目)が異界(未測量地域)を往復する「測量士」との考え(妄想?)はご存知と思います。
「太子丹」の「丹」に丹乳タンニュ= 水銀・乳=丹生ニュウ・壬生(水系)「丹」の形に鳥居(異界との境)を相変わらず感じます。
 
 とみたさんのお力で渡来と測量士の糸を繋げればと祈る  紀氏でした


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田がタンの音 驚きです!
2006年4月8日 12:53:47 棘の紀氏
 !!!!突然ですが
「田タン列伝 第三十四

 ちんしょう       せいおう      でん      いとこ  でんえい  えい   でんおう
 陳勝の反乱以後、順に齊王を名乗った「田タン」、その従弟の「田栄」、栄の弟「田横」

の伝。」

 「田」(私的に地図)が タン (・・・何か 有る!)
http://www2.odn.ne.jp/magu/kohsei/retuden.html


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天空の棺
2006年4月9日 13:55:53 姫 MAIL
とっても良い題名でしょう?
何年か前にNHKのドキュメンタリー映画があって、それに強いインパクトを受けたので番組の題名を覚えていたのです。  雲南省というのは、長江の上流に当たるのでしょうか?  よくわからなくて恐縮ですが、雲南省の、車も行かないような山奥の村の遺跡の紹介でした。  村の傍には、両岸を物凄い断崖絶壁で挟まれて流れる大河が流れていて、断崖に横穴墓が沢山穿たれていました。 中からは木棺がはみ出して、今にも落っこちそうな感じで覗いていますが、その横穴は上からでも2,30mはあろうかと言うところですので、容易なことでは見られません。 どうして河に面した断崖に危険を冒してまで墓を造ったのか、大変不思議とされていました。  
岸壁にはもっと小さな穴も無数に穿たれていて、多分始めは横穴ではなく、その小さな穴に杭を打ち込み、そこへ木棺を吊るしたのではないかということでした。  とみたさんのビン越人の独木舟の棺の風習を読んで、あの雲南省の遺跡はきっと越人のものだと思いました。


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天空の棺は役小角の投入堂 ?
2006年4月10日 11:15:53 棘の紀氏
役小角の投入堂と同じ目的のポイントデハ、
姫さん今日は、「雲南省の岸壁遺跡」ですが紀氏的に「測量でのポイント」と考えます。
役小角はまず「山」を「骨組測量」測量の規準となる「点」とした。(「細部測量」での「誤差」を見つけやすくする為。)
投入堂物語
http://www5d.biglobe.ne.jp/~mitoku/nagemono.html
重要文化財  国宝 投入堂 
http://www.hcvnet.jp/~fdi93712/homesit10_nageiridou.htm

「断崖に横穴墓が沢山穿たれていました。 中からは木棺がはみ出して、・・・」穴から木棺が・・・出産と黄泉の国への「船出」を重い浮かべました。木棺が「船」ならば「風葬」での「鳥」が案内役(ヤタガラス?サルタヒコ?)
「山」起点に一定の方角・距離にポイントの位置(目立つ・侵されない・不動)聖域?を「川」を下りながら定める。
京都の渡月橋を渡り右側の寺(不動か薬師・・・忘れた(-“-;)) 昔、行基が川の上流より来たそうです。
「角度」測量の話をしたところ、どこかの大学の教授らが来て測量をしていったそうです。

古代測量に鳥憑かれた紀氏でした。


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三徳山三佛寺の縁起
2006年4月10日 11:21:48 棘の紀氏
 「その開山は慶雲三年(706)にさかのぼります。役の行者が3枚のハスの花びらを散らし、「仏教に縁のあるところに落ちるように」と祈ったところその1枚が伯耆の三徳山に落ち、この地を修験道の行場として開いたのが始まりとされています。その後、嘉祥二年(849)慈覚大師円仁により釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来の三尊が安置されたので、天台宗三徳山三佛寺と称し、堂舎38、寺3千軒、寺領1万町歩、3千石を領していた。」
    
慈覚大師円仁(壬生氏・空海の親類)も来ていた・・・・測量のポイントだから。



境と祭祀と住民
2006年4月6日 21:31:49 管理人
姫さん墨坂神社と西峠についてお教えありがとうございます。昨日読んでた論文によると、峠は奈良以前は坂と書いたそうです。西坂が正解でしょうか。墨坂の坂は案外古いかもしれませんね。紀氏さんご指摘の西峠をもって、大和での外界と内界との境を現すとの件ですが、同じく昨日読んだ論文によると、狭義での大和地域は、三輪山から大和神社を過ぎて云々の地域を示すそうです。墨を大隈の隅とするご意見、おもしろいですね。大和の意味も、語源的に、先の論文では、トの音に、乙と丙があり、戸の意味と、なんだったかな??「」の意味があるそうです。その辺も注目ですね。かわかつさん大分の津守について情報ありがとうございます。先の会報引用の論文だと、難波津への移行に伴い、旧い和泉大津を守るから、津守氏では?という一説があったようです。この辺もかわかつさん的にもおもしろい課題ではないでしょうか。いろいろ論文もPDF化していくと、おもしろい論文に出会うもので、かわかつさんのお得意、山の民の中にいる海の民の件、山岳少数民族ミャオ族にやはり、山地部にインドシナ系の洪水伝承が見えたりするそうで、中間地帯というのが、漢民族も混じってもっとも複雑だそうです。遺伝子的には、この辺から日本に相当きているわけですから、縄文弥生〜と民俗伝承の解明は課題ですね。


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トの音に、
2006年4月7日 0:28:37 棘の紀氏
「トの音に、乙と丙があり、戸の意味と、」なんだったかな??「」の意味があるそうです。
 「丙」の古文字は「商」や「燕」に使われている。
「乙」(私的に禹をあらわす。)古文字では、「戸」の一部。

 「ト」・・(占いが思い浮かぶ。)
「門」(かど)から「角」を思い浮かべる。・・古文字にも「戸」が向かい合う。(私的に古文字の一部に二股(逆さのト)の「鉾」を感じる。)

 「問う」・・「門」+「口」(禹の父の霊)=口寄せ?ト(占い?)

「商」や「燕」に使われている。
「燕」は異界を往復する鳥?(門は異界との境・鳥居?)

「商」商い?・・・・(古文字では、商売関係に見えない?測量関係に見えます。
      結論:「ト」・「戸」 異界との境(ポイント)にある扉。

          如何でしょうか?


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!!火+赤=かしゃく・
2006年4月7日 0:56:43 棘の紀氏
「神武のヤマト入りのとき、西峠に焃炭を置いたと日本書紀にあるそうで・・・」から
焃火+赤=かしゃく・・「呵責」:責め(攻め)苦しめること。
                   叱り責める(攻める)こと?
                

             如何でしょうか?


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包囲した。!          包囲した       
2006年4月7日 1:29:28 棘の紀氏
炭を置いた・・・・スミ 「宦」に似た文字、イ・すみ:
すみ:室(古墳?)の東北のすみ。(鬼門?)あかりとり・光の通る道

「大和地域は、三輪山から大和神社を過ぎて云々の地域」への「光」・・・
「光」とは神武?火の神?キリスト教徒?・・・????
 (「光」の古文字: 頭が「火」の人?)
スミ・・隈:めぐるの意・・囲・・・囲む・・・包囲した。!                             妄想のキシでした。


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火+赤
2006年4月8日 10:41:42 姫 MAIL
この字ですけど、昨日墨坂神社へ詣でて、神社略記をもらいましたところ、火偏に、赫 と言う字で、炭を続けて「イコリズミ」と読むと書いてありました。 かわかつさんも紀氏さんも調べていただいたそうで、すみません。  橿原研究所は勝手に造語を書いていたのですね!!
それに、内容も神社のものと少々違うのですよ。
神社略記には、イコリズミとは、要するに山焼きのことで、神武が菟田から西坂にかかったとき、地元の勢力が火で対抗した時に、神武は菟田川の水で消火に努め、応戦したと書いてありました。

いずれにしても、この時の炭が墨に転じたことには、間違いはなさそうですが、間違った情報ですみませんでした。

現在の西峠の写真を撮ってきましたので、写真掲示板に掲載させていただきます。
 


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苗族と隼人#2
2006年3月11日 15:18:15 とみた
時代はいつか、これが問題。呉越戦争の紀元前5世紀。越が楚に敗れた紀元前4世紀。秦始皇帝の徐福伝説では、紀元前3世紀、前漢武帝の紀元前2世紀。いずれにせよ、沖縄のイモ貝、ゴホウラ貝も運んでいるので弥生時代からでしょう。


もっと下って、中国の三国時代の前後、五とう米道という道教が流行ったのは長江と黄河の間の漢中、そこに巴(今の重慶)の民が魏に味方してうごめく。そこから鬼道や神仙思想も入ってきたのではないか。

吉野は神仙思想の山でもある。日本海の宮津に近い伊根には新井崎神社があり、徐福が入っていて蓬莱の匂い、浦島伝説もある。


ヤタカラスは、やはり蜀がルーツ。扶桑の木に10個の太陽=カラスが止まっている(山海経)という話。ヤタカラスは熊野神社の祭神。宇陀のヤタカラス神社はもともとは地元勢力の神社であったものが8世紀に葛城建角身命に祭神になった。

そして、崇神天皇の御世、四道道将軍の一人、大彦命が北陸へ派遣されたとき、武埴輪安彦と吾田媛の謀反に気付きこれを奏上して成敗した。隼人の反抗と成敗。
河内政権の仁徳天皇には二人の妻。葛城系の磐之媛と日向隼人系の髪長媛ここからは大草香皇子・・・・

自信はありませんが、一つの推理です。



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蜀しょく ゾク いもむし 芋」考
2006年3月12日 7:42:07 棘の紀氏
「蜀しょく ゾク いもむし 芋」考
 とみたさん お久方ぶりです。
「蜀・ショク」の文字から想像を膨らませてみました。
古文字(甲骨文字)などから「目」と「巳」み・シ から成ります。
     (金文)などでは、へび(頭が矢 ▲形)ですから(←に関係?)
目・・・ 見る・・臣(測量士?)
「蜀・ショク」関連の意味からでは、
芋 ウ が音を表す。・・・(禹?はへびトウテム族) 曲がるの意味の「句」からきている。くねくねした蔓つる草  盛んに茂る様。葛(葛木?)
虫 (むし は蛇などのくねくねしたもの・・・私的には精子も)
蜀鳥・・・ほととぎす(私的に「じゃまもの」)  ・・・山時鳥--やまほととぎすー・便りを聞きたい 横切る雲--よこぎるくもー・恋路のじゃまもの ..
 とうまる の別称 ・・・(罪人を運ぶ籠?・・・・「禹」も囚われの巳・・だった。)
四川省(漢?)
牛の角(私的に「牛」聖牛 星座からと考えられる。うし・・・禹氏) 。 つの(角度 甲骨文字に多い・・・・禹の測量「記号」考える。)
むかで・・・(百足・・・・山師・・・・)
とんぼ・・・(秋津・・・・角度・・・・銅鐸の文様) 
イカル・・・(私的に怒る「夏」・・・・斑鳩  イカルか?)
ともしび 闇をてらす  火主 ・・・・(神?人の頭が火・・・「光」古文字。)
腕輪・・・(貝の腕輪は隼人の貿易品・邪馬台国は「牙」・・・・仲買人の国?)
弓矢を入れる袋 (古墳内の装飾に多い・茨城の虎塚古墳の壁画にも・・・他に蜀のゲイ(草冠に刑)によって落とされた 九つの太陽の画も)
斧おのの柄・・・(古文字に多い・・・・私的に「武人」測量士(軍人が兼ねていた。)「オノ」の音から 小野氏 鋤
他に
蜀ー草=葵(葵まつり・・・・水・・・禹は水神に龍?  ショク  荊いばら・・・「++」「鳥居」「2・偶数・・・禹は乙・・・神の次の位・陰


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つながり
2006年3月12日 7:46:02 棘の紀氏
小野氏
http://www8.plala.or.jp/furan/page004.html
猪と小野 (藤田氏 )
猪股党:猪股党は横山党と同族で、小野篁の後裔で武蔵守として下向土着した小野孝泰の孫時範が児玉郡猪俣に居住したことに始まる。
検校とは日御碕神社では正神主のことで、代々小野家が専掌した。小野家は家譜によると、素戔鳴尊の五世孫天葺根命の後裔で、一時は日置姓を名乗ったこともあったという。明治維新後は男爵を授けられた。

猪股党は横山党と同族で、小野篁の後裔で武蔵守として下向土着した小野孝泰の孫時範が児玉郡猪俣に居住したことに始まる。
 猪俣党は児玉郡、大里郡、比企郡に広まり、猪俣氏をはじめ藤田・男衾・甘糟・荏原・岡部・横瀬の諸氏が分かれでた。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hujita_k.html

猪氏は多田氏族を称する。 (白猪は?)
           漢字からのひろがり妄想・・・奥が深いです。
 とみたさんにワクワクの紀氏でした。


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猪と筑紫の君磐井
2006年3月12日 8:48:20 かわかつ WEB
ちょっとこれ調べとき。


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しばらくです かわかつさん
2006年3月12日 13:16:27 棘の紀氏
「『唐国の代官郭務粽等600人、送使沙宅孫登等1400人、合計2000人が船7隻に乗って、対馬に来る。」


285.7人乗船・・・・やはり、当時も大きい船が在ったんですね。


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唐?
2006年3月13日 2:26:46 かわかつ WEB
唐のように新しい時代ならそりゃあ大きい船はあったでしょう。
なんでまた急に船の話なんでしょう?
それよりとみたさんのお話をちゃんと読みましょうね。



苗族と隼人#1
2006年3月11日 15:16:54 とみた

隼人のルーツは長江中流域の民の苗族と深いつながりありと考えています。

神武東征軍の大和入りに協力する吉野の阿田の、鵜飼民。
鵜飼は長江中流域の巴蜀(巴は重慶あたり、蜀は成都あたり)がその起源。

隼人と犬の関係は・・・海幸が死んだ宮崎県の潮岳神社地方に子供が額に犬と書く儀式あり。

中国のバン伝説では・・・黄帝は犬戎と戦って勝てなかったが、黄帝の番犬が敵将の首をとって勝利したので娘を娶らせた。その子の子孫が苗族。
苗族の始祖神は黄帝の飼い犬。(これは少し深読み過ぎかも)

苗族は日本人のルーツである倭人と風習が似ている。
断髪、辮髪?、入墨、高床式建物(倉)、鳥信仰、鳥の羽飾りを着けた羽人の踊りや船漕ぎ(鳥取の淀江町角田遺跡の壷絵)。
洞庭湖の沼沢地域で船に乗った羽人(苗族)の描かれた銅鼓が出土している。
苗族は黄河民族=漢民族に圧迫されて雲南省の少数民族(テン王国)になったりミャオ族になったり或いは日本へ逃れた。

苗族は紀元前に長江下流の江南地区の呉越人とも交わっている。呉越人はもぐって魚貝をとる風習も持っているのは隼人と同様。


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隼人
2006年3月11日 17:17:50 かわかつ WEB
とみたさん、かわかつの意見とかなり近似値になってきました!

隼人が水没したかどうかは少し調べておいた方がいいかも。


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なんでもかんでもからむから
2006年3月13日 2:33:04 かわかつ WEB
もう少しからむ対象となる概念を選んで考察して欲しいな。
言葉のひとつひとつにいちいちからんでくるから、だんだん嫌いになるんだ。50も過ぎたら少し落ち着きましょうやお互い。


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おっと場所を間違えました。
2006年3月13日 2:34:51 かわかつ WEB
とみたさん、ごめんなさい。ここに書くつもりでなく、上のがちゃがちゃした人の下に書くつもりでしたのに。申し訳ない。



目立たないので 再
2006年3月11日 9:53:15 棘の紀氏
漢字での「墳」の文字 のクロス+++(3つ)が「鳥居」の形に繋がりました。
装飾古墳や石棺・木棺(船棺)などの□×○が「フンコ・じんだいこ(中国の)・フン」(「墳-土」を略した「墳-土-貝」=(鳥居の形)に太鼓が吊り下げられている八尺の太鼓 古く「墳-土」(フン)に通じた。:漢和中辞典より
□(鳥居=「円」型?の中に○=(太鼓・的)×はクロス(交わる)♀♂(的矢)矢と的・・・ヤマト・・・大和(^^;ゞ 
「鳥獣戯画」に兎と蛙(共に月に住む・・・・月氏?)が弓矢で的にしていたのが「□の枠に○の葉」(フンコ・じんだいこ)+「×」の形の様?
姫さんの写真「木棺(船棺)」の円紋には吊り下げられた痕跡(形)が見られます。円紋は「的」(古代 光測量の鏡は「的」・・妄想?)カナ?
           漢字は奥が深いです。


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「周溝墓」 考
2006年3月11日 11:23:27 棘の紀氏
「周溝墓に真ん中に小さい円墳があり、その周囲にも溝がある。」
「溝」:コウが音を表し・交え合わせる意の語源からきている。水を縦横に交え合わせるために作ったみぞの意。
私は、古墳などを囲む「溝」は古墳(測量台)構築の際の「水平」測る為と考えます。
「三角縁の鏡は、」横から見ると窪(凹)地の真ん中に山(凸)・・・・・(凹)地に水を張り「水平」を見る。(神仙思想「崑崙山」コンロンサンで「狩猟」(「田狩?」測量の隠語)を行う。
真ん中の山(凸)の穴が(無いのも在る)横の通る。アッリダード(穴を覗く・照準器)。(想像では「アッリダード」の周りに篭目型の位置に「鳥居」型の柱が在った・・・・鴨?
以前、古代中国の神器「鼎」カナエが穴を覗く・照準器「アッリダード」説を提唱しました。
「鼎」(この文字「銅鐸の似てません?)には「3本足」や「上下セパレート」(蒸し器)・通す「穴」が3箇所の物などが在ります。
(鼎は水を張ることでの水平を見られ、「3本足」なので調整が簡単・「上下セパレート」なので回転できる。)
(通す「穴」が3箇所(正三角形)・・・1つの穴から2つの穴を通し見られる(120度角の方向)三つで「360度」・三角紋が角度・方向)
「三角鳥居」の同様。(水上に立地・造営)
 以上  古墳(測量台)説でした、(象形文字の鳥・犬・猪・猿・(獅子)・鹿(羊?)・馬・牛なども測量関係動物。鼠(祖)・虎(トーラ・法)・「兎・熊・牛・龍・蛇などは(禹)」
天空の星(星座)をコピーする事から幾何学が発展したのでは?の妄想を擁いている・・紀氏でした。
 追伸
船での沿岸沿いからの測量での目印(山・入り江(津)・奇岩・滝(昔は木草などは焼却・見通を良くしていた。)
船体に「鏡」?岸壁を「鏡岩?」光の反射による「位置の測定?」。


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「ヤーホ」・・・「ヤーホー」
2006年3月11日 11:54:17 棘の紀氏
「イヤーホエ、鹿島の豊竹トホヨトヤ」防人、「鹿島立ち」祭頭祭3/9日
イ「ヤーホ」・・・「ヤーホー」・・・YHWO・「ヤーウェ」
 羊(ヨウ・ヤウ)
八坂神社 イヤサカー 厭さか 「厭」エン 冤罪・・・ 禹の罪

 音で引く「漢字」に意味、、、、奥が深いです。


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一つがいのウサギ兎
2006年3月11日 12:04:58 棘の紀氏

フィボナッチ数列の5-8-13
http://homepage1.nifty.com/metatron/zone-8/(KIN223)-831.htm

 又しても やってしまつた。(;゜゜) 


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2
2006年3月11日 12:23:58 棘の紀氏
中国もシビル暦と同じ構造の365日であった。
フュンク・ウレ数列とシリウス
http://homepage1.nifty.com/metatron/zone-8/(KIN236)-845.htm


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陳謝。
2006年3月11日 12:27:03 棘の紀氏
  「このページは、ホームページ開設者が閲覧することを許可していないため、ご覧になることができません 。 」
                    ゴメンナサイ!。


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周溝はテントの周りに
2006年3月12日 8:39:26 かわかつ WEB
掘る穴と同じ役目で、墳内への水の侵入を避けるための物ですし、まして「周溝墓」という言葉自体、考古学用語ですので、当時はございませんから、紀氏さんの妄想はやはり妄想でおわるでしょうよ。
なは、なはははは・・・いいかげんにまともな生き方をした方がええんとちゃいますやろか??娘さんが泣きまっせ〜〜。

やぽやほ言ってますが、どうせなら全部漢文で書き込みされてはいかがですか。感じ悪〜


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ついでに申しますが
2006年3月12日 8:47:16 かわかつ WEB
井上秀雄が言いますには鵜飼いという漁法は中国より日本の方がその発祥は早く、むしろ「日本から中国へ伝わった可能性が高い」そうですよ。

それから古墳が水平である必要があるなら、山頂を利用した初期古墳などはどうするので?
班築で固めればいい単純な盛り土構造に水平も何もあなた・・・
そういう常識のない思いつきをなくして書き込めば、少しは役に立つかもしれないのに。
・・・・・「う・そ・つ・き!」
トリビアはテレビだけにしましょうね。


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勉強が足りませんでした・
2006年3月12日 23:59:40 棘の紀氏
「井上秀雄が言いますには・・・」すみません、かわかつさん 紀氏は、
井上秀雄さんをぞんじません、何教の教粗餐(教祖)???ですか?信じるに値する方ですか?
「禹祖月」・・・月は禹  陰・・・・正しいです。

常識てなんですか?
過去、記紀が正しい・・・・?・・扶桑社の教科書が正しい・・・・
私の勉強が足りませんでした・・・・考えを扶桑社の教科書で学び名直します。


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井上秀雄
2006年3月13日 2:17:58 かわかつ WEB
元東北大学名誉教授、樟蔭女短教授。著書『古代朝鮮』『古代朝鮮史序説――王者と宗教』など

因みに上の言葉は海鳥ブックス8『古代海人の謎 宗像シンポジウム』田村圓澄・荒木博之編の中の発言から。だったと思います。

常識と申しますのは人の迷惑に気がつけることではありませんか?



佐賀県金立遺跡群探訪
2006年3月10日 21:55:31 かわかつ WEB
It`sかわかつWorldで展開しています。
装飾古墳画像付です。ここは吉野ヶ里のすぐそばです。


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装飾古墳
2006年3月11日 4:28:03 管理人
さっそくサイト拝見させていただきました。装飾古墳の中にみられる円文様、改めて驚きを感じますね。韓国の文様との比較もとても興味深く感じます。やはり海人だとすると、もっと華南と韓国や九州との間の地域に拠点や遺跡は出てこないものでしょうか。先の岩間墓の論文とか読んでいると、中国遼東半島あたりも気になるところですがどうなのでしょう。


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北方系モンゴロイド
2006年3月11日 5:34:20 かわかつ WEB
そう、今のところ暇がないけれど北方系モンゴロイドの遼東やシベリヤ経由縄文期渡海も気になっているのです。
特にアイヌや東北の原住民は、北方の島づたいにやって来たらしいけれどそれが蝦夷の中にどれくらい混じっていたのでしょうね。海人系が南から昇っていった時に彼らとの軋轢はなかったのか?

半島との架け橋である壱岐対馬、済州島は秦氏だらけですね。1世紀の遺跡が多いところだし、倭人の中継基地でした。彼らが、大陸経由の秦氏の原型たちと関わって、やがて自らも「秦氏」と名乗っていったと思うのです。その中に吉志なんかもいたかも。
あとその関連では島根の隠岐、宗像沖の島々、佐渡島なんかも気になるのですよねえ。
その後の渡航者が「渡来人」と呼ばれるわけですから、縄文期前後はここの趣旨に合わないんで申し訳ないんですが、やはりどうしてもプレ渡来?とでも言おうか気になりますよね。

大陸経由についてはとみたさんや管理人さんに今はおまかせしますよ。ちあとは北方系に詳しい方、引っ張ってこないとねえ。

私、いろいろな人間がここへ集まること期待していますし、それぞれジャンルのスペシャリストが育っていけばと考えています。プロデューサー的な視点で見守ってます。

それと次回出版されるなら、もう少し専門性のランクを落として募集しましょう。論文はあなた以外の好事家ランクの我々には荷が重いし、読む側もちと息苦しいかも。ああいう本格的な物はやっぱり本にした方がいいですよ。もちろんおひとりでやるとなって力が入ったのでしょうが、数人の同レベルで出すときは是非、論文あでいかずにエッセイや紀行文、途中経過の発表などでもOKにして欲しいです。
次が書きづらくって・・・^^;


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北海道式古墳
2006年3月11日 5:42:50 かわかつ WEB
実はこれについてちょっとタックンにもお聞きしたのです。
非常に特殊な古墳で、一言で言うと変形した周溝墓に真ん中に小さい円墳があり、その周囲にも溝がある。
一体誰の墓なのかわからない。

北のほうもちゃんと見ていますのでご心配なく。

ああ、タックン、掲示板へ返信ちゃんと見てますので。ちょっといろいろあって返事をのばしています。


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ぜひぜひ
2006年3月13日 4:46:09 管理人
かわかつさん、プロデュースよろしくお願いします。映画とかでもそうですが、お客にどう理解されるかはプロデューサー次第ですからね。北海道式古墳、初めて聞きました。わたしもすこし調べてみますね。壱岐対馬、済州島と秦氏との関係、まだあまり知られていないようで、非常に興味深いですね。今度夏にでも韓国方面でオフ会しましょうか。韓国行くようなそんな話がいろいろ夏にありそうなもので・・・。会報については、ジャーナル(雑誌)としていますから、ご指摘のように論文だけである必要はありません。いろいろな分野から、作品集めましょうね。私自身も、どちらかというと総まとめと展望との視点で書いていますし、もっとも視聴者の方のニーズに合わせた形で出版していきましょう。ではでは。



メーリングリストおよび会員登録について
2006年3月8日 19:52:20 管理人
こんばんは。遅れてすいません。先日お話ありましたメーリングリストおよび会員登録の件ですが、以下のページに登録方法を記載いたしましたので、今後ご希望の方は、その指示に従いご登録よろしくお願いいたします。
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/toraiabout.htm



今 気付ました!
2006年3月8日 13:44:12 棘の紀氏
敬称が無い!
(後頭部の血管に電撃が走り ・・・赤面と後悔)
「闇の日本史の竹内も・・・」 竹内「さん」に訂正してください!
(後悔 懺悔です。)
 横着者の紀氏・・・また やっってしまいました、切り取り 貼り付け・・・・・横着
ゴメンナサイ 闇の日本史の竹内さん 
管理人さん お願いします  「さん」 を付けてください。 


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紀氏さん・・・
2006年3月8日 17:31:43 かわかつ WEB
以前から言おうと思っていたことなのですが、余所の記事のご紹介は大変助かる面も多いのですけれど、安易なドラッグ&ドロップにあまり頼らない方がいいと思います。
やはり投稿者なりのかみ砕いた記事を別に用意して、コンパクトな中に自分の解釈を挿入して欲しい。
なぜならね、ご紹介頂く記事のあるコンテンツには、すでに他の人も行っていることがあるかも知れないので、その中であなたはあなたなりに、誰も気づかない部分だけをクローズアップしてあげれば良いわけ。
今のやり方は単なる情報の垂れ流しになってはいないかと・・・。
饒舌に過ぎると、多分ですが、誰も見なくなる可能性が高い。
掲示板なんて、所詮、一過の風に過ぎませんから、できうる限り、頭の中で分析、解体したのちに要点だけとりまとめてあげるのが、投稿者の優しさではあろまいかと思うのですよ。
紀氏さんの博覧強記は我々じゅうにぶんに存じておりますし、その興味の対象が広範囲にわたりすぎていて、何をいってっかわかんないというあなたの、「あせあせ」感もよくわかるのですが、やっぱりそれは自分自身にとって損じゃないかと思いますよ。もすこしスマートにいかないもんですか??
それより次回作、やってますか?^^


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それはさておき
2006年3月8日 18:42:01 かわかつ WEB
管理人さんの機関誌の中身、昨夜ちゃんと読み始めています。
少し気になったのは秦王国と周防との関係なのですが、周防国名がいつ頃成立したかがちょっと不明なのです。
あそこら辺は穴門の国で、豊後風土記や日本書紀では「沙婆都」となっています。周と防で周防になるのは平安以降じゃなかったですかね?

とみたさん、オフ会、今月末にしません?

桜の頃はけっこう予定が押してるんですよ。


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姫さん
2006年3月8日 18:44:41 かわかつ WEB
例の画像ありがたく使わせてもらっています。
HPではギャラリーに少し、ブログでは記事で紹介してあります。ありがとうございました。


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オフ会
2006年3月9日 0:10:48 とみた
かわかつさん、今月のオフ会ですね。

私は、皆さんご承知の通り、サンデー毎日ですから何月でも結構で

すよ。The more ,the betterです。5月なら喜んで参加します。

4月は私もいろいろなイベントに誘われております。


現役の忙しい方のご都合に合わせます。

創刊号というすばらしいものが出来たので、タイミングとしては早

い方がいいかも知れませんね。

会の運営は、やはり呑んで騒ぐより、皆さんが意見を言う学びの場

にして欲しいです。今回の開催場所はどこにされますか。管理人さ

んのご意見を聞かせてください。


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場所
2006年3月9日 19:19:10 管理人
どうも、ばたばたしてまして、お返事遅れてすいません。
オフ会の場所ですが、そうですね、個人的には四国の剣山とか西部から大分へは去年行き残しており、まだですね。あとは、敦賀方面、こちらも行ったことないので興味深く感じます。たまには山の上に登って、そうですね、ヤマトタケルの足柄峠とか、群馬と長野堺の軽井沢近く碓氷峠とか・・・、岐阜は伊吹山から琵琶湖方面、ありは吉野の金剛山方面なんかもどうでしょう。今回の創刊号もいろいろ論点があるでしょうし、次号に向けて、勉強会的な場所にしてもいいですね。



金銅双魚佩が・・・・
2006年3月8日 13:06:47 棘の紀氏
おどろきました [●_●] 
 十字架以前のキリスト教のシンボル「双魚・・・・金銅双魚佩」が私の地元 常陸の国とも関係していたのです。
「物部氏が上野国に移り常陸の久慈郡に移り陸奥の浮田国造となったという経路が推測されるのだ。この高島町には継体天皇と縁が深く金銅双魚佩が発見された。継体天皇と関係して真野にもたらされたとする説はやはり確率が高いのである。つまり桜井古墳は物部系の首長で金銅双魚佩が発見された真野の前方後円墳は大和王権の進出によってもたらされた。」
滋賀県高島町に宇伎多神社
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?p=%E5%BE%A1%E5%88%80%E3%83%9F%E3%83%8F%E3%82%AB%E3%82%BB&ei=UTF-8&fr=top&x=wrt&meta=vc%3D&u=www.musubu.jp/manoireukita.htm&w=%E5%BE%A1+%E5%88%80+%E3%83%9F%E3%83%8F%E3%82%AB%E3%82%BB&d=MhkhKm1aMXKD&icp=1&.intl=jp
参考HP でした。


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緊急報告 
2006年3月9日 10:23:17 棘の紀氏
( 毎度ご迷惑をおかけします、画像掲示板に記載もれ訂正がありました。)
滋賀県の大岩山遺跡位置図に古墳ラインと銅鐸ラインが繋がった。
棘の紀氏の仮説:銅鐸・(奇岩・石)・古墳・寺社などが30度・45度・60度・90度角で繋がる。(篭目紋・三角測量=古代測量・地図作りの仮説の立証!)
(大岩山遺跡位置図を見ていると悪癖が、つい三角定規を当ててしまった。)
位置図には、前方後円墳が2基
円墳が4基
銅鐸が3個
基本ライン: 天王山古墳(前方後円墳)ー甲山古墳(円墳)ライン
の延長に、大岩山古墳(円墳)ー銅鐸出土推定地ー大岩山第2番山林古墳ライン延長が30度角で交差。
基本ラインに天王山古墳(前方後円墳)ー円山古墳(前方後円墳)ー宮山1号墳(円墳)ラインが60度角で交差。
甲山古墳(円墳)ー宮山1号墳(円墳)ラインに大岩山古墳(円墳)ー宮山2号墳(円墳)ラインが60度角で交差。
円山古墳(前方後円墳)ー宮山2号墳(円墳)ラインに宮山2号墳(円墳)ー宮山1号墳(円墳)ラインが60度角で交差。
銅鐸出土推定地A(明治14年)B(昭和37年)C(昭和37年流水紋鐸)ABCが90度角。銅鐸出土推定地A(明治14年)ーB(昭和37年)の延長ラインに甲山古墳(円墳)が存在。
銅鐸出土推定地B(昭和37年)ーC(昭和37年流水紋鐸)延長ラインと天王山古墳(前方後円墳)ー円山古墳(前方後円墳)ー宮山1号墳(円墳)延長ラインが30度角で交差。
基本ライン: 天王山古墳(前方後円墳)ー甲山古墳(円墳)ラインと銅鐸出土推定地Aー(明治14年)ーB(昭和37年)ラインが60度角で交差。
以上 古墳ラインと銅鐸ラインが繋がった事で古代地図測量の事実が証明され「古墳のこころ」の仮説が立証された?(この先、何方様に確認依頼をすれば良いのやら?アドバイスのほど宜しくお願い致します。)
大岩山第2番山林古墳と宮山2号墳(円墳)が天王山古墳(前方後円墳)で30度角で交差・・円山古墳(前方後円墳)と宮山2号墳(円墳)が天王山古墳(前方後円墳)で30度角で交差・・・しかし合わせて60度にが成らない、天王山古墳(前方後円墳)んが長いことによる前方後円墳上の交点の位置の違い。)


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2
2006年3月9日 10:24:05 棘の紀氏
天王山古墳(前方後円墳)と円山古墳(前方後円墳の長さが違うのは、本来一直線に成らなければならないライン上の古墳が他のラインとの交差での誤差が生じ前方後円墳を長くすることで交わらせた。私的古墳(測量台)説。
   「大岩山遺跡位置図」があれば図解できるのですが・・・・残念です。
遺跡での銅鐸出土数では全国最多(1996年)
(これまでは滋賀県野洲町・大岩山遺跡の24個が最多)
斐川町・神庭荒神谷遺跡と共に、青銅器を用いた祭りや弥生時代
の出雲地域を考える上で極めて重要な遺跡と考えられる。
http://www.web-sanin.co.jp/iwakura/iwakura.htm
島根県教育委員会・加茂町教育委員会

二尾:水銀地名:舞鶴の地名
2-4 水銀地名2 (邇保・二尾) 2-4-1 二尾(舞鶴市下安久) 二尾という地名もや ... 残した戦争遺跡群) 安久(舞鶴市) 余戸郷(加佐郡余戸郷) 大岩山銅鐸出土地 ... 清川が海に流れ込む河口に位置している。 川か陸か ... (下の図は試みに「カシミール」で、海抜5メートル地点まで ...
http://www.geocities.jp/k_saito_site/kasagun5.htm

前方後円墳と前方後方墳
国立歴史民俗博物館 白石太一郎
http://www.inuyama.gr.jp/ssinfo/contents/aotsuka/shinpo/shinpo7.html


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メール届きませんでしたか?
2006年3月9日 10:43:17 棘の紀氏
「渡来人研究 第1号」の件なんですが、
購入いたしたく 一万円(送料込み)分ほどお分け下さい。
以前 販売促進に行きつけの床屋さんやお医者さんにもお届けしたいのでよろしく。(振込みサキ?もよろしく。)


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メール着てませんが
2006年3月9日 21:38:04 管理人
あれ、紀氏さんのところにすでに1部郵送していますが、届きましたでしょうか。今回は販売利益は目的としておらず、50部しか刷っておらず、古代史に興味ある方にお送りしたく感じていますので、もう一度ご考慮よろしくお願いします。


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やはり、届いてない!「祝い出版」再送信。
2006年3月10日 9:03:27 棘の紀氏
管理人さん こんばんは やっとパソコンが黄泉帰りました。(データの食べすぎ 
外科手術にてデータは(-“-;)・・・消滅。)
 今朝 黒猫さんが「本」を届けてくださいました。
「渡来人研究 第1号」出版 御目出当ございます。d=(^o^)=b 
5万前後で100部・・・・安い! 購入したいのですが口座番号お教えください
(一万円分・・・リイーズナブルなお値段で(^.^) )
今後の販売方法は?
私の出版社などは爺婆の化石出版社なのでインターネットでの販売には消極的(ネッ
ト販売でのトラブルが多発したらしい?)
アマゾンさんなどで「古墳のこころ」は「在庫切れ」(しかし出版社には注文なし
(;゜゜) )
私の著書 国会図書館のISSN登録・・・・(爺婆化石出版社に問い合わせたとこ
ろ登録済みとのことでした?)
「総評を書く形式で考えています。ととみたさんは最近お見かけませんが」(とみた
さんは「神奈備」さんでご活躍デス(^◇^) )
「渡来人研究 第1号」の出版で古代史の世界的解明が促進することとお喜び申し上
げます。
口座番号の件・・・・よろしく。
          紀氏でした   ヾ(^_^) 


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了解です。
2006年3月10日 12:40:56 管理人
紀氏さんご確認ありがとうございました。それにしてもずいぶんかかりましたね。留守だったのかな。10部まではお送りできないと思いますが、またもう少しお送りいたします。販売いろいろ考察中ですがまた後日報告いたします。いつもお世話になります。


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鳥居=「円」型?の中に○=(太鼓・的)!
2006年3月11日 2:43:53 棘の紀氏
「祝い出版」は、
3/4
18:37にREにて返信してたつもりでしたが?
ずいぶんかかりました(^^;ゞ 
代金支払い用の口座番号の件・・・・よろしく。
          紀氏でした   ヾ(^_^)

 漢字での「墳」の文字 のクロス+++(3つ)が「鳥居」の形に繋がりました。
装飾古墳や石棺・木棺(船棺)などの□×○が「フンコ・じんだいこ(中国の)・フン」(「墳-土」を略した「墳-土-貝」=(鳥居の形)に太鼓が吊り下げられている八尺の太鼓 古く「墳-土」(フン)に通じた。:漢和中辞典より
□(鳥居=「円」型?の中に○=(太鼓・的)×はクロス(交わる)♀♂(的矢)矢と的・・・ヤマト・・・大和(^^;ゞ 
「鳥獣戯画」に兎と蛙(共に月に住む・・・・月氏?)が弓矢で的にしていたのが「□の枠に○の葉」(フンコ・じんだいこ)+「×」の形の様?
姫さんの写真「木棺(船棺)」の円紋には吊り下げられた痕跡(形)が見られます。円紋は「的」(古代 光測量の鏡は「的」・・妄想?)カナ?
           漢字は奥が深いです。



滇王国から長江へそして(1)
2006年3月7日 13:18:52 とみた
姫さんから寄せられた巣山古墳のあまりに見事な写真に思わず驚嘆。石寨山に話が及ぶ、そして謎の青銅王国である滇王国の謎解き・・・これからは私の最近の連想。隼人の話、鯰信仰とのかかわり、トカラ人、スキタイ人人との接点です。

出典は、徐朝龍さんの長江文明の発見。安田喜憲さんの、龍の文明太陽の文明。古賀登さんの四川と長江文明。鳥飼憲三郎さんの中国古代と倭族に因ります。

滇王国は雲南省の昆明に近い。紀元前4世紀戦国時代の末加羅秦漢時代の初期が盛時。

紀元前109年、前漢武帝により攻められ帰順した。滇王の印を受ける。

志賀島の倭奴国王は紀元後の後漢の光武帝から57年に金の印を受けた。印のつまみの蛇紐が滇王印に似てた。ここまでは承知の介ですね。


滇王国は母系社会。敵は遊牧的な昆明勢力。雲南は青銅期が始まるのは殷の終わりから西周初期つまり紀元前1000年ぐらいでしょうか。本格的青銅時代を迎えるのは紀元前5世紀。

楽器に龍舟(ベーロン)競渡や羽人踊り、飛ぶ鳥、貯貝器の当時の財産である子安貝が入っている。

注目は、稲作の文化中心です。ベーロンは沖縄で行われていること、宮古島では子安貝が取れること。羽人は装飾古墳など日本でも遺跡で見られることなど、倭人と共通している。

高床式建物や、千切りもあるはずです。

私の注目点は、古来より遊牧部族が南北に走る山脈の渓谷に沿って北方草原地帯と雲南高原との間(遊牧文化の南北回廊)を行き来していたことです。青銅器の随所に馬や騎馬の造形がある。

遊牧と農耕が混合していた王国です。スキタイ、チベット、モンゴルが混在しているのではないか。

きたの草原アルタイ国は、スキタイ的なグリフィン(鷲)とチベット的な鯰の二つがシンボライズされた国旗、国章になっている。

中国の神聖な大穴、天坑は桂林から西南へ400kmの地、鯰はいた。(これはあまり説得力なし)。滇王国はそれほど遠くない。


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シ真(テン)国から長江へ(2)
2006年3月7日 14:21:23 とみた
続きです。肝心のテン=シ真が文字化けです。

長江の上中流の蜀は戦国時代、秦に攻められて紀元前316年に滅びる(紀元後の三国志の蜀は魏に滅ぼされるのは263年)。蜀相は殺され船棺に遺体を乗せて葬される(死者は舟で川を渡る)。使用した木は楠。

船棺遺跡の舟は全長19m(2004年東京上野の博物館で展示)。

鵜飼と養蚕は長江中流域の巴蜀がルーツ。隼人は長江を渡った民かもしれない。

大和の宇陀と阿多。吉野川沿いに吾多(阿多)の地あり。この民は鵜飼をする。神武東征の大和入りに登美族をやぶる。鵜飼民の応援あり。ヤタカラス=木に止まった9羽のカラス=太陽は長江上流、の蜀のゲイ(草冠に刑)によって落とされる伝説あり。熊野神社の祭神ヤタカラスの鳥信仰と関連。

鯰は紀氏さんのHPによれば、呉楚の民の鯰トーテム。
紀元前1000年、殷から周へそのときキョウ=羊に八=遊牧の民チベット系民が応援した。

姫姓の太白が長安近くの陝西の地から江南の呉に移っている
まさに長江流域の民これが日本へ。江南=呉越=苗族=倭人

この倭人は追われて雲南へ或いは日本へ

隼人は沖縄のゴホウラ貝やイモ貝を沖縄から北九州、あるいは日本全国、ひょっとしたら朝鮮に運んでその貝は貴人の貝輪の装身具になった。日本に青銅器が入ってくるとその貝輪は廃れた。


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テン王国
2006年3月10日 12:37:55 管理人
とみたさん貴重な情報ありがとうございます。テン王国、ちょうど昨日たまたま家で整理していてみつけた論文に、量博満氏の「石中誕生譚と石製墓」があり、その中で、テン王国の墓制として、岩間に死体を放置する特殊な葬送方法を指摘しておられました。詳しくは後で報告しますが、積石塚などとの流れも考察されており、ぜひ参考にしてみてください。日本にもそういう墓制度ありますよね。



巣山古墳展示
2006年3月7日 10:42:18 姫 MAIL
写真にたくさんのレスをいただいて、ありがとうございます。 舟形木製品の写真を掲示板にもご紹介しましたが、直弧文がどのようなものかわかりません。 持っている弧文の写真は一枚だけで、これは「弧文円板」というのだそうですね。 この弧文円板は、お伺いしようとかわかつさんの画像掲示板に載せさせていただきました。 直径が50cmほどの丸い板に模様が刻まれているものです。

木棺の蓋や、舟形木製品の写真ですが、いずれも私が撮影したものです。展示場にはパネルで写真が展示されていて、そちらの方が模様などはっきり見えますが、それを使うといけないかもしれないと思い、私の撮影した写真をお送りしました。 
パネルの写真も撮影してきましたので、模様の部分を大きくしてご紹介したほうが良いでしょうか??


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展示公開されているのなら
2006年3月7日 12:34:50 かわかつ WEB
撮影などには問題ないでしょう。送っていいんじゃないですか?私もチブサン古墳で野外に展示してある写真を写したものをHPでつかっています。

直弧紋は検索してみてるのですがないんですねえ。
今は円紋だという考えになりましたから気にしないで下さい。
もしあったら参考までに書き込んでおきます。
江田船山の家型石棺はそうじゃなかったけか。


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石人山古墳でした
2006年3月7日 12:44:40 かわかつ WEB
石人山せきじんさん古墳家型石棺に描かれた同心円は×印と交差しています。松本清張は鏡を割った形だろうと書いていますが、私は違うなあと思っていました。今、もういちど見返すと、姫さんの送ってくれた円紋と×が重なり合ったものではないかと思えてきました。

http://www.interq.or.jp/www-user/fuushi/2-trip/2a1-yame-1.htm
入ってすぐに画像があります。



姫さんすごい画像
2006年3月6日 22:58:16 かわかつ WEB
画像掲示板にタイムリーな画像。また竹内さんところにも!
相変わらず精力的に動いていらっしゃる。またお借りします。

とみたさん、神奈備さんとこから新しい人をここへひきこんでくださいよ!オフ会大賛成ですが、今月末はお忙しいのかし〜ら?

藤井さん、初めまして。大阪で藤井とくればもう藤井寺の井真成ですが、今度、大和の方で井姓の記された遺物がでました。大和も名乗りを上げましたよ。私のところの豊後竹田市も井姓の本家だと言っています。さあ、どうしよう?^^

今回、藤井さん、そして塊状鉄さんが新しくご来訪されています。是非、オフ会にお誘いしたい。mailing listへどうぞと言いたいですね。
さらに、泊瀬さんにもそろそろ重い腰をあげてご登場願わねばならんでしょう。
管理人さん、いかが?


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そうそう姫さん
2006年3月6日 23:00:35 かわかつ WEB
直弧紋というのをご存じでしょうか?いちど探して見てください。おやっと思うかも。


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MLリスト参加フォーム
2006年3月7日 0:42:56 管理人
そうですね、明日までにメーリングリスト参加フォームを作っておきますので、ご希望の方はその記載にしたがってお手続きよろしくお願いします。オフ会は、私はいつでもOKです。


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参考になれば
2006年3月7日 2:29:25 棘の紀氏
 姫さん今晩は、毎度 迫力の映像ありがとうございます。
どこかで見た文様と資料をあさり見つけました!
石寨山古墓群遺跡からの出土品「鋸歯紋 剣鞘」の文様に似ています。
鋸歯紋は中国の戦国時代だそうです、ドーナッ型にS字状渦紋が描かれています。
鋸歯紋
http://wadokan.ocnk.net/product/9
石寨山古墓群遺跡
http://www.mekong.ne.jp/directory/wat/shizhaishan.htm
参考になれば幸いです。


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円は【璧】  かも?
2006年3月7日 3:05:12 棘の紀氏
円は鏡では無く「璧玉 」(漢玉璧 の形)と考えます。
漢玉璧
http://page11.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/n26573007
「璧(へき)とは、薄い環状に磨いた円形の玉(軟玉)のことで、周代から漢代にかけてのトラディショナル・デザインだった。」
http://www.ne.jp/asahi/lapis/fluorite/essay/fav/kashinoheki.html

【璧】  (壁の土では無く玉。)天を祭るのに用いる。・・・・・・(「古墳のこころ」 より)


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直弧紋
2006年3月7日 3:12:33 管理人
姫さん先日の船型木製品の大きな写真ご紹介いただきありがとうございました。なるほど、あの円形は直弧紋だったわけですね。紀氏さんご紹介の石塞山遺跡では、ドンソン文化圏の南方三角鋸歯紋と遊牧系?蕨手紋やマガマゴク人像のぐるぐるした円形図形それとの組み合わせは、この地域の月氏等の遊牧製鉄集団の南下と海洋タイ系民族との融合との兼ね合いからくる特殊性が、後々、後漢鏡や三角縁神獣鏡へと民族集団の移動とともに、南朝鮮から日本にかけて、影響を及ぼしてくるのですね。紀氏さんご紹介のHPに、志賀島の金印の蛇紐が、雲南石塞山遺跡出土の漢王からの印の蛇紐と同じ系統に属するとの点は、先の鯰と蛇祭祀のそれと関連して、石塞山遺跡の図録に掲載されている、貯貝器(銅鼓?)の上にミニチュアの高床式神殿とその祭祀風景の間にみられる蛇を掲げる祭祀との兼ね合いで、興味深く感じるところです。蛇を掲げる祭祀といえば、旧約のひとつの祭祀ですが、つまりともかくこの流れの文化に、その船形木製品で祭祀した集団がどっぷりつかっていたということが、きっといつか明らかにされてくるのではないでしょうか。弥生系という話もありますが、弥生式土器に今いち、この三角紋が出てこないのですが、出雲系になって銅鐸に初めてでてきますし、紀氏さんお得意のオオ氏の壁画古墳になるともっともはっきり特徴が現れており、DNA遺伝子の解析でも、南方海流文化圏の渡来人は5,6世紀であるとの分析を考慮すると、だいたい流れが見えてくると思います。この辺研究会のみなさん各自で、さらに分担して分析して次号の原稿で報告してみませんか?


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【璧】 
2006年3月7日 3:23:18 棘の紀氏

「玉に魅了された古代中国人は、玉には生成力・再生力といった霊力があると信じていました。護身や魔よけの目的で身に帯びたり、家屋内に吊るしたりしておりました。玉の呪力を食べることで体内に取り入れることも行ったし、再生力を期待して、副葬品に使われたりしました。漢代の死者に着せた玉衣はあまりに有名です。」
玉(ぎょく)の話
http://www.c-able.ne.jp/~s-town/gyoku.htm
「璧とは、このように円盤状をなし、穴の小さいもののことを言います。ほかに穴の大きい「環」などがありますが、いずれも腕輪から発展したものです。神への捧げものや権力者同士の贈り物に使われ、権威を示す意味を持ちました」
http://www.sankokan.jp/selection/a/china/achn006.html


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このページを
2006年3月7日 5:40:18 かわかつ WEB
見比べてみて。左下画像の中に。

http://kyuhaku.jmc.or.jp/index.php?g=d_frame2.php&index=&PCD=43&KNO=83&SEQNO=1&SCHOOL=ju


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姫さん、もうひとつある画像
2006年3月7日 5:50:30 かわかつ WEB
竹内さんところに送った手書きの解説図ですが、お手数なんですがあれをここへ送ってくれませんか。

直弧紋だとは申しませんが、連続円紋に近い感じがします。とくに上のURLにある、せごんこう1号古墳の壁画は周囲の囲みの形はやや違いますが、非常に似ている。
もしや熊本に関係ある海部の管理者かも知れんです。タックンはどう思う?


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同心円紋と連続三角紋です
2006年3月7日 8:29:46 かわかつ WEB
従ってこの被葬者は海部関係に違いないと考えます。


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古代中華思想
2006年3月7日 12:19:24 棘の紀氏
古墳などの円紋は「穴」に対する 古代中華思想が影響していると考えます。(古墳こころ P169参照。)
また、中国神話に次のような話があります。
 万物の起源である「道(タオ)」の混沌とした状態から盤古という万物の祖を生み出した。盤古の死後、息は風・雲・左目は太陽・右目は月・手足は山・血は河に肉は土になった。髪は星に体毛は草に、歯や骨は金属に汗は雨となった、後に水は元虫になり、やがて龍に、石からは太元玉女(たいげんぎょくじょ)がうまれ、太元聖母となった。
太元聖母は気と通じ合い天皇(てんこう)を産み、天皇は地皇を産み、地皇は人皇を産んだ。(学研「道教」の本より)
 万物の起源である「道(タオ)」の混沌とした状態から盤古という万物の祖を生み出した。盤古の死後、息は風・雲・左目は太陽・右目は月・手足は山・血は河に肉は土になった。髪は星に体毛は草に、歯や骨は金属に汗は雨となった、後に水は元虫になり、やがて龍に、石からは太元玉女(たいげんぎょくじょ)がうまれ、太元聖母となった。
古代の蘇えりの思想には「穴」円・渦(巴紋)・(ホワイト・ブラックホール)が影響していると考えます。
死=太陽(現世)→(船で移動・鳥が案内)→月(黄泉の国・蛙・返る)
古墳内の円紋を「的・穴」と考えられる。(北斗七星は的・♀と矢・♂との考えから。)

新羅の線刻紋土器(ドーナッ型に星座?のような図が描かれている。)
穴を「太一」(北極星)に合わせ「星座?のような図」の位置を合わせる事ににより「何か?」を知ろうとしたのでは・・・・の妄想。


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2
2006年3月7日 12:20:06 棘の紀氏
「出雲神族と方位線 熊野大社 出雲国内での出雲神族の方位線を考えるとき、問題になるのは熊野大社の場所である ... 氏も三屋神社の線刻石は線刻石に神性があるとい ... 大社の神紋はもともとの出雲神族の神紋では亀甲に ... 若狭・近江から大和に進出し、新羅系と結んで一大勢力になる …」
出雲神族と方位線
http://hw001.gate01.com/sangatu/izumosinzoku.htm
古代史新聞 4月号
鉄やじりに円形の線刻
http://www.yu-ji.com/shinbun2.htm



水のライン
2006年3月6日 10:30:42 とみた
紀氏さん お久しぶりです。

闇の日本史の竹内さんが、直線と距離で計算式を提供されましたよ。ここで許しを得ないで紹介(下記添付)するのは違反行為かも知れませんが・・・彼の説だということだけを明記して、サポートする話に膨らめば歓迎でしょう。(後刻許可を得ます、もしヒントがあれば、それも闇の日本史で紹介します)

東大寺のお水取りの行事にあやかっての話です。若狭のお宮から水が発して東大寺の水取りにつながる。若狭の小浜から京都の若狭川・晴明神社。桜井の安部の文殊院が直線状にあるということを書かれていました。若狭小浜は大化改新前から膳氏の土地。安部文殊院は阿倍氏の氏寺。安部倉梯の創建。近くに倉橋山がある。

膳氏と安部氏は同属。
太陽のレイラインだけでなく水のラインです。風水か陰陽道か

謎があります。

飛鳥は水の王朝、纏向きから豪族の飲み水の水道の遺構も出土しています。これは私が最近読んだ、千田稔さんと武内誠さんの本からの引用です。


<<以下は闇の日本史 竹内さんの問題提起です>>
昨日行われましたお水送りの場所は岡野本「陰陽師」でも出てきましたし、山を越えれば
天社土御門神道本庁と晴明の関係筋が見えます。ここから二月堂まで線を引きますと
細い線の上には載ってきませんが、ほぼ京都の若狭川・晴明神社・水薬師、さらには
二月堂を過ぎて丁度延長線上に安倍文殊院があります。
この地図はメジャーが使えて距離を測定する事ができますので図ってみました。
 鵜の瀬→京都・晴明神社 = 43.3Km(直線距離)
 鵜の瀬→二月堂     = 83.6Km
 鵜の瀬→安倍文殊院   = 104.2Km

京都晴明神社はだいたい二月堂の半分の位置にあるです。
昨日水が送られ13日未明に奈良に水が到着しますので、仮に奈良に13日19時現着
だとすると、各々の到着時間は
 京都・晴明神社 = 3/08 11:44
 二月堂     = 3/13 19:00
 安倍文殊院   = 3/16 12:03


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闇の世界史に光?
2006年3月6日 13:04:22 棘の紀氏
とみたさん今日は、神奈備さんのHP拝見しています。
とみたさんの登場にワクワクの紀氏です。
闇の日本史の竹内も素晴らしい方ですね、宜しくお伝えください。
「水のライン」ですか、貴船神社の宮司さんも下鴨でしたか・・・
京都の南北ラインのお話をしていました。
兎に角(禹)旧約聖書出エジプト記のYHWHとモーセの山での「狩猟」(スガル峰?「狩」は測量の隠語?)
イエズス会?シオングループ?の世界地図の作成 ダビデの星(横線は南緯北緯30度の東西ライン(ギザ〜日本〜)斜線は球体を平面にすると南北に行くほど大きくなる割合を図案化・・・・(まとまらない紀氏の妄想。)
今晩のTBS PM9:00 禹(モンゴロイド系?)の測量隊がアマゾンに・・・・・またまた 妄想の紀氏でした、今後も宜しくお願いします。


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今 気付ました!
2006年3月8日 13:42:25 棘の紀氏
敬称が無い!(後頭部の血管に電撃が走り ・・・赤面と後悔)
「闇の日本史の竹内も・・・」 竹内さんに訂正してください!(後悔 懺悔です。)
 横着者の紀氏・・・また やっってしまいました、切り取り 貼り付け・・・・・横着
ゴメンナサイ 闇の日本史の竹内さん 
管理人さん お願いします  「さん」 を付けてください。 



最重要HP!
2006年3月6日 10:22:47 棘の紀氏

呉人が大ナマヅの皮で冠を作っていた
「弥生の興亡 三、帰化人の真実 塚田敬章 第二章、各種伝承から探る弥生時代 一、鯰 ... ナマヅの皮で冠を作っていたのもこのことに依拠するのでしょう。 澤の右半分、睪(えき、ヤク)は、元々、鯰の象形 …」
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/5/kika_3.htm#一、「2、鯰とシャクシ
弥生の興亡 三、帰化人の真実 塚田敬章
「鐸も子孫繁栄、豊穣を祈る祭りで打ち鳴らされた」
備考
益(えき、ヤク)という音に通ずる
頭立に唐猪(ヤク?)の毛が使われている点。
(猪(獅子)はヤク?・・益=ヤギ?・・・商人?))



鯰?「なまず」考
2006年3月6日 1:08:39 棘の紀氏
 黄泉帰りました またお邪魔いますのでヨロシク。
下記は「なまず」の漢字です。
「魚+危」・「魚+シ(匙-ヒ)」・「魚+(堰-土)」・「鮎」(なまず・あゆ)
「鯰」は国字です。「念」・・・・(なぜ?)
「魚+危」・・・なまずは危険な魚(キリスト系)・・・・始皇帝(「魚+危」は始皇帝が作りし文字?)はキリスト系(ユダヤ?)が嫌い?

「魚+シ・ゼ・これ(匙-ヒ)」魚の皮で冠を作った。「匙-ヒ」是:古文字で匙さじ(「ヒ」さじ・スプーン?)の象形。「北」にも「ヒ」北斗七星(ヒシャク・掬う・救う」・・・「ヒ」さじ・スプーンも同じ! ( 「掬」う・・「菊」-「++草冠)・・似ている!鞠・・・まり ア!)
「魚+(堰-土)」「堰-土」エン:隠す・穴?に日と女・・・(アマテラス????)
(日本の「鮎」あゆ ・・「魚」はキリスト系 「占う」口は甕棺(亀)  「ト」は槌つち・椎つち(木+隹とり)「口」=(台ーム)・・・(測量士と古墳・塚?)

洞窟のなまず・・・地底・・・黄泉?(地球の主?   中東の方は髯がお好き。)
アマテラスの岩戸は古墳・・・鴨。


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パソコン
2006年3月6日 2:31:24 管理人
きしさんパソコン直ってよかったですね。なまずとは、かなり地震によく反応するそうです。地震国ならではの観念ですね。中国では??


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参考HP
2006年3月6日 9:54:48 棘の紀氏
変身物語』(オヴィディウス)巻1  「大いなる母の骨を背後に投げよ」との神託を得たデウカリオンとピュラは、「大いなる母」は大地、「骨」は石のことと解し、石を後ろの方へ投げると、そこから人間が生じた。
http://www.aichi-gakuin.ac.jp/~kamiyama/u.htm
「大いなる母」は大地、「骨」は石のこと・・・・・・(さざれ石・巌・化石?)
パネーデース王が「戦争と殺戮を歌う者よりも、農業と平和を勧める者を勝利者とすべきだ」と言って、ヘシオドスに冠を与えた。  
昔羅馬(ローマ)でも、死霊を退けるために黒豆を背後へ投げる祭があった。我が国の豆打ちも、もとは背後へ打つものだったそうだ。
「新羅本紀」第12敬順王9年  昔、中国の皇帝の娘が夫なくして孕んだので、人々が疑い恐れて海に流した。彼女は辰韓にたどりついて子を生んだ。その子が海東(朝鮮)の始祖王となった。
『鵺(ぬえ)』(能)  源頼政に退治された鵺(*→〔矢〕2の『十訓抄』)は、うつほ舟に入れられ流された。その亡魂は舟人姿になって、旅僧に身の上を語り、供養を請うた。
『八幡愚童訓』上  道鏡は和気清丸(清麻呂)を「ワカレノキタナ丸」と名づけ、両足を切ってうつほ舟に乗せ、海に流した(*舟は豊前国宇佐宮の浜に流れ着き、宇佐八幡の霊験によって、和気清丸の足はもとどおりになった)。
『西京雑記』  滕公が車で東都門に行った時のこと、車を引く馬が急に鳴き出し、足をかがめて進もうとせず、前足で地をかいた。士卒がそこを掘ると石棺があり、古体の文字で「三千年後に滕公なる者がここに葬られよう」と記してあった。


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参考HP2
2006年3月6日 9:55:29 棘の紀氏
『出エジプト記』第14章  イスラエルの人々が、モーセに率いられてエジプトを脱出する。モーセが神に祈ると葦の海(あるいは紅海)が二つに分かれ、イスラエルの人々は海の中のかわいた地の上を行く。ファラオ(パロ)の軍があとを追って海に入るが、水がもとの場所へ流れ返り、エジプト軍は全滅する。
『太平記』巻39「神功皇后新羅を攻め給ふ事」  神功皇后が高麗の軍と海上に戦った時、龍宮より得た干珠をまず海中に投げ入れると、潮が退いて陸地となった。高麗の兵が船を降り徒歩になったのを見て次に満珠を投げると、潮が十方からみなぎり来て数万の兵が残らず波におぼれる。

巨人オリオンは、一説では海神ポセイドンの子である。ポセイドンはオリオンに、海上を自由に歩く力を授けたという。・・・・ (航海術?)

炎帝神農氏の娘女娃は、東海に遊んで溺れ死ぬ。彼女は、化して精衛という小鳥になり、つねに西山から小枝・小石をくわえて運んで来ては、東海を埋めつくそうとする。
http://www.aichi-gakuin.ac.jp/~kamiyama/to2.htm#tori3
「竹青」  魚客(または魚容)という男が呉王廟で眠り、夢で呉王から黒衣を授けられ、着るとたちまち烏に化す。竹青という雌烏と結婚して楽しく暮らすが、人の投げた石つぶてに当たって死ぬ。目覚めると魚客は呉王廟で寝ていた。後、魚客は人間の姿をした竹青に再会し、黒衣を着て烏となり、遠方の竹青の所まで飛ぶなどのことをする。

『物語要素事典』2006年版より


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鯰信仰の早トチリ
2006年3月6日 10:53:04 とみた
紀氏さん 鯰応援ありがとう。

私は昔、幼少のとき中仙道の生津村(ナマズ)に住んでおりました。元伊勢の美江寺が近くにあります。

ナマズもいましたね。

てな、話はさておき。チベットの羌族のナマズの巴からチベットと鯰のつながりを連想して、先日NHKの天坑という中国西南の大きな洞穴の話をテレビで期待しながら見たんですが、洞穴の地下水の川にひょっこり鯰がいたことはしかと確認しましたが小さな鯰でした。

住民は広西のチワン族という少数民族が住んでいるようです。

チベット族も沢山支族がいますので、このあたりも昔は十分いた
ことが想像できますが、少し説得力がなさそうです。

あまり期待しないで考察を続けます。



ブログに紹介
2006年3月5日 23:37:39 かわかつ WEB
『渡来人研究』創刊号、手元に届きました。素晴らしいですよ。
これほどのページ数になっていたとは!
ブログとHPティブレイクに紹介とリンクを貼りました。

また、HP自体の入り方も少し凝って見ました。是非、頭のTOPページから入って見てください。

http://2004mmc-kawakatu.cool.coocan.jp/

http://2004mmc-junsouda.cocolog-nifty.com/40sugitecpkayo/


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ご紹介
2006年3月6日 1:42:44 管理人
かわかつさん、ご確認・HPでのもったいないお言葉・ご紹介ありがとうございます!取り急ぎ。


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創刊を祝す
2006年3月6日 7:14:22 とみた
管理人さん 渡来人研究会創刊 おめでとうございます。

やりましたね、やはり熱意と執念に感動。

安価に仕上げる方法は工夫次第であったのでしょう。装丁・体裁も

良さそうですね。仏作ったので魂を入れる。新しい皮袋には新しい

酒を入れましょう。

今年5月あたり、オフ会を開催して創刊号を俎上に載せ

ワイワイやりながら披露会にして、お祝いし、かつそこで誤謬を推

敲し、新しいテーマを見つけるなど作業をして発展させる方向を検

討しませんか。

私も新しいテーマでそれなりに勉強を重ねております。


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2006年3月6日 21:29:43 管理人
とみたさん、創刊お祝いくださりありがとうございます!
ほんとに、当初は数十万と踏んでいたので、終わってみると50部2万8千円で製本できたのは、今後の続刊行に向けても新たなお酒をいただいた気分です。ぜひ、5月?あたり、オフ会でまた楽しくやりましょう。季刊で出版する予定なので、そのころには夏刊に向けて、話し合いとかレジュメの勉強会をしてもいいですね。ぜひとみたさんも、トカラ人とかよろしくお願いします。今回の創刊号では、過去のご意見を総合し、そこから大まかな展望を示すことができたと思います。いろいろテーマがありましたが、その展望をさらに、みなさんのご興味に合わせて、興味のあるところを選んで、創刊号からどんどん研究を深めて行ってくださると、研究視点の継続性がでてきてよいのではと思いますので、ぜひよろしくお願いいたします。



日本人とは
2006年3月5日 10:33:40 藤井 享 MAIL
始めての者で失礼します。最近「シルクロード渡来人が建国した日本」という本を見て衝動買いしました。が、難読でしょう。大阪に長く住んでいると、としのせいか、お前たちはナリスマシ日本人なのだ。私は由緒ある苗字、山口県の結構多い藤井族の中の一人でもあり、由緒ある緒方の遺伝子も混じっているのだ。と、心の中でぼやく事が多くなりました。近畿地区は顔つきからして明らかに近代において大阪に移動してなりすました系の子孫が多いのでは、逆に古代からより、天皇を代表とする北九州の倭国の時代に渡来してきた人々の方が人間的にも優れた人たちが多かったのではと思います。私の父は鼻も高く明らかに顔がインド人?系の顔をしていました。この系統の顔は日本に多く存在すると思います。由緒ある系の姓をもっている人たちが全てとは言い切れませんが、遠く、エジプトを起源として日本人の先祖(重要点は日本語を話す種族である事)がはるばる南朝鮮までやってきたと思います。大局としての流れは以下のサイトでつかめます。
http://www.medianetjapan.com/2/20/lifestyle/mitwirkende/neuemensch/soukanzu/filename.html


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藤井氏
2006年3月6日 2:29:28 管理人
藤井さんはじめまして。藤井氏というと、確か吉備津(彦?)神社のほうにも祭祀家として出てきますよね。
人間的にいいかどうかはわかりませんが、サルから人類への進化と歴史の視点は重要だと思います。昨日はミサの聖書朗読箇所で、ノアの箱舟に乗って生き残った8人から人類が再生したことがありましたが、ほんとうそんなに大きな巨大津波が人類を襲ったのか、これからまた起こるのか気になります。昨夜の深夜のNHKの地学の番組では、十勝沖地震についての特集で、地面に長い棒を突き刺して、土の層を取り出し、年代別に整理していくと、泥の層が数百年ごとに出ており、これが大津波によってもたらされた泥層を示しているそうです。と話はそれましたが、もうひとつ、おとといのテレビでやっていたのは、相手への求婚の歌を歌うことから、人類が言語を話すことが始まったとの話で、人間の進化と歌とはもしかして切り離せないのかもとか考えてみますが、古代史での歌ってなんだったのでしょうね。


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楽浪郡・帯方郡
2006年3月6日 2:44:42 塊状鉄
>倭国の時代に渡来してきた人々の方が人間的にも優れた人たちが多かったのではと思います。

楽浪郡・帯方郡は前108年〜314年まで朝鮮に存在した中国の先進地域で朝鮮を実質的に支配していました。この当時、いわゆる渡来人と言うとこちらの方と思われます。
楽浪郡・帯方郡の研究(邪馬台国研究会Web)
http://inoues.net/study/rakuroh.html
寒冷期の人の移動は樺太・北海道経由の北方経由もありこちらからの移動が多いのではないかとの説も有るようです。言語もウラルアルタイ語属とか言うようですから北のような感じもします。
思いつきで失礼します。



製鉄集団の渡来(1)
2006年3月5日 1:30:13 塊状鉄
「韓国製鉄・鍛冶遺跡探訪の旅Web」を再度見直したところ、6世紀ごろの朝鮮における日本の最重要地域は梁山(ヤンサン)市付近ではないかと単純思考ですが思いつきました。
写真の解説を見ますと、梁山市に鉄鉱山と2箇所の6世紀の製鉄遺跡が有ります。
梁山市の2箇所の6世紀の製鉄遺跡はここに製鉄集団がいたことを示し、最重要の鉄鉱山が有ればここが、この時代半島に求めていた鉄の生産地です。
伽耶地域の地図を見るとこの地域は新羅との国境の近くですが、金官伽耶となっています。参考の<<韓国地図>>を見ますと梁山市は金海地域から洛東江を渡って東岸です。
整理してみますと、前にWebで写真を紹介した遺跡は以下のものです。
1)慶尚南道の<梁山市>勿禁邑鉄鉱山
(勿禁邑(ムルクムップ)の直訳は「禁ずるまでもなく村」でどんな意味でしょう。)慶尚南道梁山洛東江に面していて鉄鉱石は船で搬送されていた。(前に掲載)
http://kkuramoto.web.infoseek.co.jp/File0038.jpg
2)慶尚南道 <梁山市> 佳村里製鉄遺跡
 <6世紀製鉄遺跡>は共通して山の端で平野が開ける小高い丘に立地している。(前に掲載)
http://kkuramoto.web.infoseek.co.jp/File0036.jpg
3)慶尚南道 <梁山> 凡魚里製鉄遺跡
 <6世紀>いずこの遺跡も開発によって消滅の運命にあるようだ。(前に掲載)
http://kkuramoto.web.infoseek.co.jp/File0037.jpg
「伽耶南部の小国が大伽耶に不信をもち、再び金官伽耶を中心にして連盟王国と作ろうとしたので、新羅はこの地域に百済と倭の勢力の影響を及ぶことを恐れて、急遽、軍隊を起こして併合した(532年)。」
http://members.tripod.com/textbook_korea/3_1.html


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製鉄集団の渡来(2)
2006年3月5日 1:33:50 塊状鉄
532年に金官伽耶が新羅に併合された後も伽耶に拠点を置き562年まで日本は頑張っていたようです。製鉄技術者は梁山製鉄・鉱山地域にいたと思われますが、532年頃にこの地を離れたのか、562年にこの地を離れたのか渡来の時期に興味があります。562年頃であるとすると30年間も梁山製鉄・鉱山地域を新羅から守らなくてはなりません。ここは最重要地域ですが、梁山製鉄・鉱山地域を放棄しても製鉄集団を日本に引き上げれば半島との関係を絶っても問題ないと思うのですがご意見をお聞かせください。それとも、先に日本に移った金官(鉄官のお役人かも)の偉い方達が楽浪・帯方郡+遼東郡の再興を夢見て、最後まで許可しなかったのでしょうか、当時も大変にもめたのではと考えてしまいます。(任那日本府、吉備など出てきそうです。)
遺跡写真から考えた思いつきの妄想です。
<参考>
<伽耶地図>
http://inoues.net/korea/korea_fukusendo29.jpg
掲載ページ 伽耶新羅の旅(邪馬台国研究会Web)
http://inoues.net/korea/korea_fukusendo.html
<<韓国地図>>釜山広域市の北方に隣接する梁山市。
異国ですから地図で各場所を確認してください。
http://www.watanabesato.co.jp/wldculture/korea/kw.htm#r17d16
思いつきの長文ごめんなさい。


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引き上げ
2006年3月6日 2:16:52 管理人
塊状鉄さんこんばんは。ご指摘562年の製鉄集団の引き上げと渡来の関係大変興味深く感じます。ぜひ、その辺にテーマ絞って論を展開されたらきっとすごい事実に出くわすのではないかと感じます


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任那加羅?
2006年3月6日 23:17:06 塊状鉄
日本書紀の「欽明紀」などに載っているようですから、「引き上げ」勉強してみます。
追加。
金官伽耶の新羅との国境線は梁山を含め洛東江の東岸に河口まで広がり釜山にまで至り、守りにくい背水の陣の金官伽耶の最重要防衛線であったわけです。新羅の首都慶州から自領内を60km南下すると最初にぶつかる国境の町が梁山と言う事になります。製鉄の重要拠点でも有りますから新羅から金官伽耶を防衛するために強固な軍事都市となっていたと推定されます。ここを日本が防衛していたとしても合理性があります。日本にとっての最重要な鉄関係の施設と製鉄集団があるのですから。釜山も軍港・積出港として機能していたかもしれません。<伽耶地図>参照
広開土王碑 第二面】(抜粋)
(最近本物と確認されています。事件直後の西暦414年製作碑文です。)
「十年庚子教遣歩騎五万往救新羅従男居城至新羅城倭満其中官兵方至倭賊退 □□□□□□□□来背急追至任那加羅従抜城城即帰服安羅人戍兵□新羅城□城倭満倭潰城大」
おおよその意味は「西暦400年に歩兵・騎馬5万人をもって新羅城を奪還すると、撤退する倭兵の背後から任那加羅(伽耶)まで急追した。」これより、任那加羅が新羅との国境付近とわかります。金官伽耶・新羅と日本の関係を考えると金官伽耶の国境前面で新羅との国境付近(洛東江の東岸)が任那加羅だったのではないかと考えてしまいます。そうでなければ、慶州−梁山の約60kmは道が悪く迂回したのでしょうか。新羅の領内ですから任那加羅との国境に軍事防衛線を築くはずで、これを維持するために慶州と最前線の軍事防衛線を結ぶ道路整備をするのではと考えられます。たぶん直進したのでしょう。この地域には絶対強力な軍事力が必要です。日本はどうだったのでしょう。
金官伽耶が532年に滅んでから洛東江の東岸、任那加羅は新羅に浮かぶ小島で釜山が日本と繋がる窓のような状態だったのでしょうか。



鯰信仰
2006年2月27日 13:01:42 とみた
昨日、松原龍源寺の住職が、NHKテレビでキルギスの人は日本人と似ているし、子供は日本人に親近感を持っていると申されていた。ここは中央アジアのシルクロードの地、玄そう三蔵法師の通られた道でもあります。
歌手の加藤登紀子さんも、キルギスに近いカザフへ行ったとき。昔大きな湖(バイカル湖、ハナス湖、セリム湖?かな)に住んでいた民で、東へ行った魚を取る民が日本人、西へ行った民がカザフ人とか地元で言われた。

こんなことが気になって、やはり高地の草原の道アルタイを訪れた人の紀行文をみた。

やはり日本人に大変似ている顔つきをしていてやはり親近感を持っているとのこと。

(近時の戦争でドイツ人やロシア人が入植しているが)

日本の青銅器文化の起源とかとも言われている。

アルタイは今は南ロシアだけど、カザフ人が多い。中国やモンゴルカザフスターンに接している土地。

ここからが、本題です。アルタイ山脈のバジルカ古墳から出土した王(bc5世紀)の遺体に鯰とグリフィン(鷲)の刺青が入っている。

山脈で発見された木管の蓋に大鯰とグリファンの文様がついている。
今でも鷲を使った狩は行われているのでグリフィン文様は肯定できる。グリフィンは、ちなみに遊牧民族のサカ族のシンボルだそうです。

チベット系の羌族てい族のシンボルが鯰だそうです。大きな鯰がいるそうですね。アルタイの馬の鞍敷きに大きな鯰のフェルトがついている。
羌族は紀元前7世紀あたりから2世紀あたりまで中国で大きな勢力だったし青海省や黄河の湾曲部にも多数いて、周が殷を滅ぼしたときも応援したので肯けます。

NHKで中国の西南の地の天坑の特集を来月早々にやるらしいのですが予告の画面で、巨大な洞穴に大鯰が見えました。

昨秋シルクロードへ行って中国の西端のカシュガルを訪れた余韻でさらに西へ北への思いがあり,そこがキルギス、カザフまたアルタイの地。また河西回廊の南北にチベット族が居り雲南貴州からアルタイまで影響していたのではという思いがテレビを見ていてこみ上げました。

モンゴル民族はチベット仏教を今でも信じている。

そのチベット族は鯰を信仰しているとは初めて知りました・・・・日本へも鯰信仰が流れているような気がするのですが、どなたかご存知でしょうか。


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お勧め本あります
2006年2月27日 21:01:53 かわかつ WEB
なまずのことはよく存じませんが、ひとつだけ気になることは、管理人さんも気にしておられる地震に関して、ナマズの上に乗った鹿島の建雷槌神の絵です。
地震というものは大地の鳴動で、これほど大きな御霊振りは古代人にとってなかったことだろうと思いますよね。現代でさえ、地震のメカニズムは完全にはわかっていない。つまり地震は今日でもまだ科学を超えた存在・・・つまり怨霊と同じ観念なのだと思うのです。したがって例えば、地中に呪物を埋めて、大地の地母神に平穏を祈ったりしただろう。銅鐸でもいいし、独古でもいです。

それぐらいです、今のかわかつには。
ただ、チベットへ移っていったベトナム、あるいはミャオ族があったことをTBS特派員だった古代作家の田中勝也が書いています。
ブログでも最近読んだ本として紹介しています。古い本なので、図書館にあるはずですよ。一度覗いてみてください。

田中 勝也著 「読み解き異端古代史書 (Culture index)
        史書に秘められた古代の闇を探る」

税込価格 : \1,575 (本体 : \1,500)
出版 : 大和書房
サイズ : B6判 / 252p
ISBN : 4-479-40006-0
発行年月 : 1994.7
みなさんも一度おためし下さい。

管理人さん、こないだからお勧めの本、ISBNわかりますか?


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田中勝也
2006年2月28日 7:33:44 かわかつ WEB
この本をおすすめするのは主に前半部分に、マレー半島からチベット方面へ移住していった者たちの伝承が紹介されているからです。
推測するに古モンゴロイドの南方人たちはマレーやインドシナから新天地を求めて東北方向へ陸上がりしているわけです。途次残っていった民族の中にミャオやヤオ族がいた。そういう証明を細かい伝承の分析でやっているのがこの本なのですが、南にとどまらず北方の伝承やアイヌの古語、伝説と日本の伝承の類似性にもかなり詳しく、民俗学と言ってもいいほどの知識に溢れています。
ただし後半に古史古伝が引用されてきてやや信じがたい部分もあるので、ご注意を。
ご指摘の羌ですが太公望は羌人です。
闇の・・さんと重複しますが、太公望とは呉の太伯のことです。中国のかつての呉のあたりにいた白水郎はその子孫だと言ったと中国の史書にあります。
鯰などという南方の淡水地帯に住む生き物がチベットあたりにいるはずはありませんから、おそらく暖かい低湿地帯に住む人々が持ち込んだ伝承がなまずトーテムとなったのでしょう。
ちなみにチベットでは、古モンゴロイドと新モンゴロイド・・・つまり南方系と北方系の融合があったと言えましょう。おそらく彼らは陸路、北上し、その途中には日本にも立ち寄ったやも知れません。
なんとなれば、アイヌもまた顔に入れ墨する風俗を持ち、彼らの使う単語は多く日本語に影響しているからです。


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秦氏との関係
2006年2月28日 7:40:22 かわかつ WEB
この本にはまた、秦氏との関わりも書かれていますので、渡来人研究にもかなり参考になります。
モンゴルの伝承ももちろんあげられており、粛慎や、また倭国があちこちに隣接していたという史書の矛盾も解明されています。

では今後のご発展をお祈りいたします。かわかつ敬白


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鯰信仰とNHK番組”天坑”
2006年2月28日 11:58:03 とみた
かわかつさん、こちらでも闇の日本史と同じものを案内します。

斉明朝に須弥山の石造を作るトカラ人を追っかけていたら、アーリア人とルーツが同じで、西域に広く住んでいることがわかりました。トカラ語を話すトカラ人。そしてサカ人、ソグド人を追いかけているうちに中央アジアのサマルカンドあたりとか、バルハシ湖、アラル海などシルクロードのオアシスの道、草原の道に出くわします。烏孫、月氏、サカ人の世界です。

古代の紀元前の岩絵がいたるところで発見されています。草原の道はカザフとか、アルタイとつながっています。
これが横の道とすると、縦の道がチベット族の道に見えてきたんです。青海省に沢山チベット人が今もいます。古代はもっと大勢力だったと思います。スキタイ人は紀元前8世紀から紀元前4世紀の間、匈奴が紀元前4世紀から紀元後2世紀ぐらいでしょうか。チベット族はこの間も大きな勢力でした。

ついでに脱線します。青海省の西寧から青海湖を通ってチベットのラサまで今年中に開通します。なんと鉄路の標高平均4000m強です。そこを2000kmも走る鉄道です。

黄河と長江の水源はいずれも青海省からスタートしています。まさにチベット族のルートです。

NHKで3月2日(木) 20時〜21:50 ハイビジョンで神秘の巨大洞窟”天坑”の特集をやります。

中国南西部の山岳地帯で巨大な穴が次々発見されている。最大級のものは直径・深さともに600mに及び、これらの穴は、神があけた巨大な穴という意味で”天坑”と呼ばれている。この探検をやったそうです。この地下洞窟は川が流れ総延長700kmだそうです。

目が退化し角とヒゲを持つ盲魚など不思議な世界です。
日本でも、鍾乳洞とか、地下湖はありますが規模が違うんでしょうね。

この予告をテレビで見て盲魚が鯰に似ていたのでオヤと思った。チベット系の羌族のシンボルが鯰であることを思い出した。モンゴルの国旗や国章の中心には二つの鯰の巴があり、チベットの国章にも鹿と鯰の巴がある。


チベット人も山岳地帯にいるので、鯰信仰と関係が無いかな?この連想が発端です。


アルタイもチベットもどこかで日本人渡来ルートと関係がないか、追いかけます。

管理人さんが以前指摘されたように、月氏は匈奴に追われて分裂し一部は中央アジアへ他方は雲南とタイ・ビルマと朝鮮へ移動。これも追っかけたいですね。


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盲魚
2006年2月28日 18:23:48 かわかつ WEB
暗い地下で視力をなくしたキャットフィッシュの仲間ですねえ。それで放映を見てギーギー鳴くようなら鯰の一種でしょう!
とみたさん、いよいよ中華大兄という道を邁進されておられるようで、お話をお聞きするのが楽しみです。
最近、本屋に世界史と日本史対応型の年表が出ていました。中国、東洋史との対応型が出るともっと身近にモンゴロイドの行動暦学や歴史が面白くなるでしょうね!


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始皇帝
2006年3月1日 4:51:03 管理人
地震と怨霊観念、かわかつワールド新展開ですね!期待しています。地下というと、雑誌ニュートンの最新号に、始皇帝の地下宮殿について特集されていました。ともかく、サッカードーム二個分の広さに、兵馬、金属の馬車や、水銀の海、そして金の鎧?で包まれた始皇帝の遺体があるとか、そうとうなスケールです。彼は騎馬民族出身だったのでしょうか・・それともとみたさんおっしゃる月氏、烏孫・・トカラ人あたりから・・。ぜひお見逃しなく!



船の図象
2006年2月24日 21:18:39 タックン
船の図を描いたものは、円筒埴輪の表面の線刻にとどまらず、鳥取県内から発見されている横穴式石室などには、石室内に線刻画でかなりの数が描かれているのが報告されています。
特に鳥取県内に分布している、装飾古墳といわれる古墳は、九州などの鮮やかな色彩で描かれているものとは違い、線刻画と呼ばれた簡単に言うと、釘状の器具で石の表面に引っかいた状の絵が描かれたところに、特徴があります。
これと同様な例が、河内に存在する有名な「高井田横穴群」やその近くにある「玉手山横穴群」で、此処にも史跡に指定された横穴に、船に乗っている人物の線刻壁画が描かれているのです。
船という乗り物に、古代人は特別な意味を持ち、あの世に旅立つ乗り物また冥界に行く途中にヘキ邪を払うために、古墳の中にこの図象を描かした?という感じでしょうか。
最近装飾古墳の被葬者に関するある論文を読みました、この中で著者は元来九州の肥後を本貫地とした、大和朝廷の水軍の巫者的水先案内人であったのではないか?といわれていますが、小生もその見解に賛成しております。
何故かというと、大和朝廷が進出して行った軍事上の水域に、このような絵の形態は違うけれども、その海岸部沿い或いはその周辺の地域に、装飾古墳が分布しているのに注目するのです。
ただ線刻壁画の分布している、鳥取県内にあって異色な九州系の彩色で描かれている、梶山古墳などは在地の被葬者とは違い、遥か九州から来ていた人物の墓ではなかったか?とも考えています。


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古代の船
2006年2月26日 3:42:55 塊状鉄
船は短期間で朽ちて残りにくいので、絵などに頼るしかないようです。東アジアで船の発達が遅れていたとの話を聞きますが、疑問に思っています。地中海地域では帆船や大型構造船が紀元前の大昔から有ったそうです。こちらで話を伺いますと、古代から遠方の渡来人が中国に入っていたようですから中国でこれら渡来人の情報で造船すれば朝鮮半島、日本へと航路を延ばせば大型船が日本まで来ても可笑しくないし、造船・操船技術が伝播しても不思議ではないと思います。っしかし、これらは妄想で古代中国との往来は帆のない手漕ぎの船でしょうか、いつも考える疑問です。
古墳の船には水先案内人のカラスが絵が描かれていたようです。
実際にもカラスの飛ぶ方向で陸地を知った。
蛇足でした。


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鉄と舟
2006年2月26日 5:55:37 管理人
下記かわかつさんの情報ともつながるのですが、鉄と舟の視点は重要ですね。伊吹山や奈良時代の東北への渡来人移住の件も鉄がらみでしたが、その移住した集団はどうも舟を利用していたような節があり、この辺密接に運搬手段として古来からむすびついていたのではないでしょうか。


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関連するのかどうかは
2006年2月26日 22:24:10 かわかつ WEB
知りませんが、たまにはかわかつの料理ブログからうんちくを・・・

http://2004mmc-junsouda.cocolog-nifty.com/40sugitecpkayo/

覗いてやって下さい。


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山幸
2006年2月27日 2:18:18 管理人
いやー、かわかつさんスケートマニアだったんですか!荒川静香よかったですねー。と、かなりかわかつさんブログ面白いですね、のめりこんでしまいました・・。山に登った海人・・・、ぜひかわかつさんの著作に期待です。


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殖民都市
2006年2月27日 2:28:20 塊状鉄
古代朝鮮にあった中国の楽浪郡、帯方郡は朝鮮半島を実質支配していたようです。このような状況から推測しますと、この地域、および日本と海上交通を通じて交易をしていたものと推定されます。
この時期に鋳鉄製の鉄材・鋳造品が日本に大量に流入しています。
地中海の例では海上交易の発達に伴い、要衝に殖民都市が形成されたようです。同じように考えますと三韓地域にも殖民都市の形成が考えられます。特に日本への渡海のための風待ちの港である金海周辺は重要な殖民都市ではなかったかと思われます。
韓国の方には怒られそうですが。
金海周辺には勿禁邑鉄鉱山が今は操業していませんがありました。
勿禁邑鉄鉱山:現在の梁山市の洛東江に面していて鉄鉱石は船で搬送されていた。
これらの鉄が周辺で製鉄されていたようです。
殖民都市の周辺から鉄鉱石が出たので楽浪郡、帯方郡の支配の下で高度技術を持った、製鉄集団により製鉄が始められたのではないでしょうか。これらの鉄を周辺の国が交易で入手していたのではないでしょうか。魏志倭人伝には楽浪郡、帯方郡に鉄が送られていることが記載され楽浪郡、帯方郡の支配による鉄であることが推測できます。
海上交易が発達していれば情報伝達も早かったのではと推定されます。楽浪郡、帯方郡が滅亡後に船で難民が伽耶地域に流入して殖民都市を起点にして日本を鉄供給で釣って、軍装等を供給して復興運動に走ったなど夢想してしまいます。
論拠のない空想でした。


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勿禁邑鉄鉱山写真)
2006年2月28日 2:13:18 塊状鉄
追加。
地中海の殖民都市の歴史は映画「スターウォーズ」のモデルとか聞いたことがあります。
勿禁邑鉄鉱山の写真がありましたのでご紹介します。
「慶尚南道 梁山洛東江に面していて鉄鉱石は船で搬送されていた。
最近まで採鉱されていたが今は採算が取れず鉄鉱石は止めているとの事だった。」
勿禁邑鉄鉱山写真)
http://kkuramoto.web.infoseek.co.jp/File0038.jpg
製鉄遺跡からの出土品・羽口、送風管(国立金海博物館)
(カマクラ型の溶鉱炉の大型羽口と思われ、銑鉄を生産していたと思われる。)
http://kkuramoto.web.infoseek.co.jp/File0034.jpg
掲載ページ「韓国製鉄・鍛冶遺跡探訪の旅Web」
韓国の各地の製鉄・鍛冶遺跡を写真で一度に見ることができます。
http://kkuramoto.web.infoseek.co.jp/kankoku.kaji.htm
勿禁邑鉄鉱山は石灰岩がありそうですから日本(吉備)と似たような鉱山なのでしょうか。
話は変わりますが、先に古墳でクスの木が出ていましたが、やはり最高級品は槙だと思います。船がらみですと、槙ハダなどと言って内側の皮が船の防水材に使用されるようです。やはり耐蝕性でしょうか。クスの木は船の船底の材料として貴重な材料でした。大きな継ぎ目のない丸木舟のような丈夫で軽く、腐食しない船底を作るのには非常に貴重な材料でした。クスの木の船は足が速いとされていました。日本には近世までクスの巨木林が沢山あり需要をまかなっていました。日本ではいい船が作れたようです。


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スサノオ伝承・土の船
2006年2月28日 8:04:14 かわかつ WEB
日本書紀にはスサノオがまず朝鮮に降臨し、そこから土の船に乗って出雲へ入ったとあります。
土の船に乗ってということは、つまりスサノオはこの時点ですでに死んでいるということだろうと思います。
といいますのは、アイヌの伝承には、死者を土の船で葬送したというものがあるのだそうです。また、太平洋側の古墳から舟形埴輪が出て参りますのも、そういう船に乗せて御霊を送るという儀式があったことを示唆していると思われるからです。
四国、高知の四万十川から出た舟形の木製呪具もやはり船葬送を証明していると言えます。
今回の大型の樟製船の裏側に大きな日輪がありますね。
それと朱やその他の色彩がほどこされているのはどう見ても海人系。
タイやベトナム、ミャオ族などの間に複数太陽伝承・・・すなわち射日伝説が多く残っています。九つの太陽があって英雄がそれを射落とす話です。
説ブログで紹介の熊本のチブサン古墳に描かれた呪術師と複数の太陽・・あるいは月・・月を射落とす話も実はあるようです・・・もまったく彼らの伝承と合致しています。
樟の船はゴンドラ型だそうです。
両側のともが大きく反り返った船です。そこに鳥が乗っていればもう竹原古墳や珍敷塚とまったく同じ構図ができあがろうかと思えます。
しかしエジプトにもまったく同様の壁画があってみたり、例のドンソン文化の銅鼓の絵柄なども考えれば、どうも偶然の一致ではないようにも思います。
アメの稚彦のはなしでも鳥による死体処理・・・鳥葬を思わせる記述がありますし、この辺は異文化の融合があったと思えますね。
それが鉄と関わるのはさて・・・運搬でしょうか。海人の水先案内でしょうか??

話変わって雄略ですが、葛城一族をなぜ滅ぼしたのか?
一言主と友になり酒をのんだ間柄のわかたけは、どこでどうして葛城氏を全滅させてしまうのか?
これも鉄資源に関わりがあったのでしょうか。


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製鉄、葛城氏
2006年3月1日 4:45:11 管理人
韓国の製鉄サイト詳細、とても新鮮に感じます。もっと勉強させていただきます!
そうですね、なぜ雄略が滅ぼしたのか、理解が難しい気がしますが、きっとかわかつさんなら説いてくださるような気がします!



古代であそぼから
2006年2月24日 1:01:40 かわかつ WEB
古代であそぼサイトの、以前紀氏さん紹介ページから関連記事を転載しておきます。

岩手で「高度な製鉄技術なしで鉄となる餅鉄」が発見された。
今も餅鉄の現物がみつかっており、釜石市では餅鉄による製鉄を観光行事として行っているようです。

餅鉄は純度の高い鉄を含んで産出する自然鉄(磁鉄鉱)です。
他にも、琵琶湖の湖成鉄、関東の鬼板、湖岸などに生ずる高師小僧(褐鉄鉱)があります。
特に餅鉄は純度が高く鉄の含有量が70%に達し0.17%の炭素を含む理想的な組成のようです。


秋田や岩手でも鍛錬が行われ、それが後の蕨手刀など東北の製鉄技術につながったかもしれません。
自然鉄に依存するものではあるが、BC50頃に最初の製鉄がはじまった。

金属資源探索部隊がさらに山奥深くにも送り込まれるようになります。
この頃の利根川や霞ヶ浦への入植者も金属資源の探索者だったのではないかと思います。
千葉県の菅生遺跡ではAD1頃に鉄斧がでています。探索者達がもちこんだものかもしれません。

餅鉄発見による秋田や岩手内陸への大量の人と弥生文化到来が周辺の東北縄文の様相を一変させます。
蝦夷は出雲と東北縄文の融合によって誕生した人々。

敏達紀に大和政権に降伏した蝦夷のオサが三輪山に対して誓いをたてた。
敏達天皇ではなく、「出雲の王」に誓いをたてたのは出雲の主が蝦夷の主でもあったからに他ならないと思います。
蝦夷の中枢地域であろう岩手と秋田にハタの地名が分布しているのも納得できます。
自然鉄の量はわずかで弥生時代が終わらぬうちに取りつくされてしまったと思います。

台湾のヤミ族は小舟のことをタタラ(tatala)と呼んでいます。
(ヤミ族はフィリピン北部のパタン諸島から移住してきた人々のようです)
日本のタタラ製鉄でも大船、小船と呼ぶ構造呼称があります。
タタラとは舟の意・・その可能性は高いと思います。


http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/kk10.html


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自然鉄
2006年2月26日 3:08:40 塊状鉄
しばらく覗いていませんでしたのですみません
>自然鉄に依存するものではあるが、BC50頃に最初の製鉄がはじまった。
餅鉄は高純度の磁鉄鉱(Fe3O4)ですから貝殻とか砂を混ぜないと製鉄できませんが、炭を使ってたたら製鉄と同じ方法で還元して鉄(Fe)となるようです。ノロの材料がないと鉄が出てこないようです。(私は素人ですから専門家に教えてもらいました。現在の製鉄でも石灰を加えているようです。)
鉄は酸化されやすいので、非常に自然鉄は珍しく、通常は隕石(ニッケルが多い。)によるものではないでしょうか。
朝鮮の鉄鉱石と日本の鉄鉱石朝鮮の鉄鉱石の純度が低ければ簡単ですが、そう簡単でもないようです。この件はまた改めて。



巣山古墳
2006年2月22日 20:53:16 タックン
この船形状の木棺の、葬送図のようなものが、奈良県内の古墳から出土している、円筒埴輪の表面に描かれていて、どのように使われていたかがおぼろげながら知られていますが、実物が出土したのは今回が初めてのようです。
この前の昭和天皇が亡くなられたときに、葬儀の儀式の中の一環で「御船入り」という儀式がありました。
現代のこの御船入りは、銅製の舟形の柩状の中に一定期間入れられたようで、これも古代からの今回の木棺の葬祭礼の伝統を受け継いでいるのかな?と新聞を見ていて感じました。
ただこの葬礼がどこのお墓(古墳)でも行われていたかというと問題が少し残ってきます。
然し実際に、京都などの古墳から出土している円筒埴輪などにも、今回のような船の絵などが、線刻などで描かれている類例があるので、巣山古墳などと同時期の大型古墳などには、このような葬祭の仕方が行われていたのも否定はできないかもしれません。
今回巣山でこのような例が出てきましたが、他の大型古墳の類例が確認されていないので、このような特殊な葬例は、大和だけだったのか?或いは冒頭で書いたように、皇族だけの葬祭だったのかがひかかってくるのです。
というわけでこの古墳は、ただの豪族の古墳とはいえない、私は皇族飛躍すれば、天皇陵級の古墳と考えております。(ひょっとしたら天皇陵と思いますが・・・・)


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たぶん私も
2006年2月22日 22:58:01 かわかつ WEB
天皇陵だと思いますね。


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船棺? 参考HP
2006年2月23日 2:47:54 いばらの紀氏

 「亡骸を納める棺を舟と言い」
http://www.za.ztv.ne.jp/vgv7ynpq/homepage/zatugaku/zatugaku-list/hune.html
 「2回の発掘調査で男根と女陰を象徴する立木、船形の木棺、ミイラ、大型木製彫像、小型木製人面像、花紋が刻まれた木製の矢、弓、麻黄の束、紅が塗られた牛の頭などが発見された墓地が3000年前の古代文明遺跡である・・・」
http://www.china-news.co.jp/culture/2005/03/cul05031901.htm
棺の物語
 「古墳時代の棺には木棺、箱式棺、船形棺、長持形石棺、家形石棺など、さまざまな材質や形があった。」
http://www.osoushiki-plaza.com/institut/dw/199506.html
 「水面に木棺が整然と浮かんだ様は、さながら埠頭に船舶が並んだようであったという   魚紋帯などの装飾品」
http://www4.kcn.ne.jp/~ntsuchi/kofun-Z.html


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久しぶりの感動=霊柩船
2006年2月23日 21:11:47 とみた
お久しぶりです。
今日昼にレストランで新聞を読んでいたら、巣山古墳から古代の霊柩船出土という記事を発見。4世紀後半、と随書倭国伝の通りだということで感動ものでした。

やはり考古学的な発見とそれを裏付ける史書の正当性が確認できると、勇気付けられます。


@船といえば連想するのは、エジプトの太陽の船、紀元前3000年のことです。ファラオが死後太陽神ラーの子として太陽の船に乗って冥界へ行く。これは木造船。

Aシルクロードの楼蘭近くの小河墓から出たコーカソイドの女性は
船を伏せたようなに棺に乗ってミイラで発見されている。これは紀元前2000年ごろ
でやはり木(胡楊?)の船。

B長江上中流域の蜀では、死者が船で川を渡る。船棺遺跡が発見されている。楠の船、全長19mの船であった。紀元前300年ごろの戦国時代です。

巣山の古墳の船の葬とは、中国に前例があるのでしょうか。
埴輪にはどうでしょうか。船形棺との関連など興味津々です。

情報をいただきたいですね。



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みなさまこんばんは
2006年2月24日 0:39:03 かわかつ WEB
とみたさん、久方ぶりです。
仰るように「隋書」が今回証明されました。どちらかというと学会ではさわらぬ神にのような扱い?だった「隋書」が考古学の俎上に載せられたのは喜ばしいことです。
埴輪ですが、舟形埴輪は太平洋側ではけっこう出ています。私の住む豊の国の海部郡や国東郡、あるいは東国の海部関連の土地からですので、これらは中国南部からインドシナを経由して北上した古モンゴロイドたちのものではないかと考えられます。
以前、とみたさんも言及された中国南部のミャオ族などがやはり日本人の縄文期源流として最適合するようです。
紀氏さんの紹介サイトに頻繁に出てきますが、中国は「南船北馬」、日本は「西船東馬」ですから、西日本にはのちの海賊和冦たちの血脈がそうとう早くから南方から入ってきていたようです。
熱帯ジャポニカの到来と同時に、九州・東国の装飾古墳を作った民、千葉や茨城の海上郡、吉備の秦原村、相模の秦野などに彼らは先住していたのでしょう。そこへ鉄を求めて渡来系氏族がやってきて軋轢と同化が始まったのが日本の国家形成のきっかけになったのではないでしょうか?

呉国との関係がやはり古くからあったことは間違いなさそうです。中国の発掘もかなり楽しみですし、巣山の船遺物のデザインがどんなものであったか早く知りたいですね。装飾古墳デザインの来た道の開明につながるかも知れませんしね。


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2006年2月25日 1:03:48 管理人
こんばんは。とみたさんおひさしぶりです!なんで、鳥に乗っていかないで、舟だったんでしょうね。鳥は小さいから案内役だったのかな。馬はやはり稀だったのか。今気になっているのは、朝鮮で、城の外に墓を設け、霊廟は山頂につくるという葬方ですね。死体と魂とは別物だったのかもしれません。
あと、昨日は、事務所の大スクリーンで荒川静香の金の演技見てました。前見たときは、真央ちゃん金だったので、二連続で金を見れたのは、幸運ですね。
なんだかやる気が出てきます。今年も渡来人研究がんばりましょう!


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?外圧?
2006年2月26日 20:01:01 危死
「ホスト 'pop.jp.bigplanet.com' が見つかりません。 サーバー名が正しいことを
確認してください。 アカウント : 'pop.jp.bigplanet.com', サーバー :
'pop.jp.bigplanet.com', プロトコル : POP3, ポート : 110, セキュリティ (SSL)
: なし, ソケット エラー : 11001, エラー番号 : 0x800CCC0D」
管理人さん 
変です
私のパソコンが順調に作動しません、
メイソンからの外圧?
彼らは何を恐れているの?
ハルマゲドン?の勝敗を恐れている?
私たちのHP・・・・凄いの鴨?


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メール設定
2006年2月27日 2:20:42 管理人
メール設定ですね。たまに私のも出てくることありますから、サーバーでもダウンしているのではないでしょうか・・・。ところでうちのサイトはMSNに完全に引っかからなくなったんですけど、なんでかな??登録しなおしても、修正しても駄目みたい・・。


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枚方市の百済寺
2006年2月21日 21:50:37 かわかつ WEB
管理人さんが行った伽藍跡の発掘状況です。

http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200602170016.html

なぜニギハヤヒの磐船街道の入り口にあったのか。聖武天皇に重用された百済王氏とは豊樟の関係はあるのでしょうか?


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うちの大学調査隊
2006年2月21日 21:55:11 かわかつ WEB
バーミアン以西の仏教遺跡を調査中の龍谷大学の調査報告懇親会が開かれます。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060221-00000240-mailo-l36


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滋賀県野洲町
2006年2月21日 21:56:52 かわかつ WEB
歴史博物館にて地元の出土品が公開されています。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060219-00000003-cnc-l25


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奈良・巣山古墳、類例ない大型木製品が出土
2006年2月22日 18:02:21 かわかつ WEB
読売新聞から切り抜き

奈良・巣山古墳、類例ない大型木製品が出土

 奈良県広陵町の国特別史跡・巣山古墳(4世紀後半)の周濠(しゅうごう)から、表面に文様が刻まれ、朱が塗られた類例のない形の大型木製品が出土し、町教委が22日、発表した。

 木製品は船の形に復元でき、埋葬前に遺体を仮安置する「殯(もがり)」の場から古墳まで遺体を運んだ霊柩船(れいきゅうせん)の一部とみられ、古代の葬送儀礼を実証する発見となる。

 杉製の部材は長さ3・7メートル、幅45センチ、厚さ5センチ。復元すると長さ8・2メートル。魔よけを意味する三重の円と帯状の文様が刻まれていた。クスノキ製の屋根状のもの(長さ2・1メートル、幅78センチ、厚さ25センチ)の復元長は約4メートル。表面に直線と弧線を組み合わせた「直弧文」と三重の円が刻まれ、一部に朱色の顔料が残っていた。

 組み合わせると、先端が反ったゴンドラ形の船に棺を載せたような形になる。中国の史書「隋書倭国伝」(7世紀)に「貴人は、三年外に殯し、葬に及べば、屍(しかばね)を船上に置きて、陸地にて之を牽(ひ)く」と記述され、形状が合致する。

 巣山古墳は全長約220メートルの前方後円墳で、被葬者は大王(天皇)級の有力者とされる。出土品は3月4、5日に町文化財保存センターで一般公開される。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060222-00000111-yom-soci

遺体を朱塗りの舟に乗せて運ぶもがりの儀式があきらかになった。舟が魂を運ぶものだったのなら、もしや鳥の遺物も出てこないだろうか。
いずれにせよ海人系の儀式形態が取り入れられたか?
親王クラスの葬儀であったのではないかと思う。天皇家と海人はどうしても切っても切れない。
渡来系氏族はやはり究極の統治手段として先住海人族の中から大王を共立していたのではあるまいか。
圧倒的多数の先住民たちを納得させようとした時、懐柔すべき一族の中からこそ傀儡大王を選んだはずである。この国に海人系の習慣が根強く残り、さらに天皇家の背の低さ、あの鼻濁音の強いイントネーション、日本書紀の南九州起源の伝承、そして山の民が天皇の眷属を名乗ったわけがすべてつながってくる!

天皇とはもしや葛木一族?まさか。


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百済王一族
2006年2月23日 0:40:32 管理人
百済寺遺跡からの百済王一族の反映ぶり、今ちょうど原稿で百済王一族氏と高麗王氏のところを読んでいじっていたので、いい感じです。官営の大寺院に用いられた最上級の工法「壇上積(だんじょうづみ)」が見られるのは、百済王族への配慮でしょうか・・・。
霊魂を運ぶ船の儀式、注目ですね。なぜそれにしても周壕から出てきたんでしょう・・・。



参考HP
2006年2月21日 2:06:26 いばらの紀氏
金砂大田楽とレイライン vol3―水戸光圀と北茨城ライン―
http://www.ley-line.net/kanasa/kanasa_03.html


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参考HP
2006年2月21日 2:21:22 いばらの紀氏
「田=聖なる意味と巫女という意味があると樫原考古学研究所が発表している

田=田んぼ=稲作=米という意味につながり、アマテラスという絵巻でも、穂を持ってる
田という意味には大きな意味が含まれてるのを忘れちゃ困るんです
田と巫という字も良く考えると似てるとは思いませんか?」

http://www.hisatuhime.com/hitatimei.htm


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参考HP
2006年2月21日 23:51:23 いばらの紀氏

今晩は、地図関係「鶴亀」の「鶴」折鶴の展開図が「世界地図」作りの参考に?
  「よく折り紙で折る「鶴」ですが、その折り目にすごい秘密があるそうです。正方形の折り紙の斜め対角線で分けられる4つの三角形の各内心に相当する点がmちょうど折り目になっているそうなのです。折り紙の「鶴」恐るべし。」
此の國マナコ  さんのHPです。
http://kihitsu.web.infoseek.co.jp/cgi-bin/joyful/joyful.cgi?page=550
http://www.bukkyo-u.ac.jp/BUCD/world/html/ouryou/12_11/2000_11_02_ouryou.html

THE ART OF MANIPULATION 会議室a
http://kihitsu.web.infoseek.co.jp/cgi-bin/c-board001/c-board.cgi?cmd=one;no=836;id=
snake drive
http://kihitsu.web.infoseek.co.jp/cgi-bin/joyful3/joyful.cgi

奥が深そうなHP鴨


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奥が深いHP
2006年2月22日 0:33:05 いばらの紀氏

THE ART OF MANIPULATION
─大地の接触を回復する─

http://kihitsu.web.infoseek.co.jp/

「両側の柱にたいして、螺旋にエネルギーが昇ってくるために、二匹の蛇と表現されます。(この辺のことは、フリーメイソンの会員の著書できっちりばらされています。」

http://kihitsu.web.infoseek.co.jp/cgi-bin/c-board002/c-board.cgi?cmd=one;no=11;id=

             お奨めいたします。


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なんか
2006年2月23日 0:31:10 管理人
深いですねー。特にこちらのHP深いですね。http://kihitsu.web.infoseek.co.jp/cgi-bin/c-board001/c-board.cgi?cmd=one;no=836;id=
目って、外を見るものでなかったんですか・・。拝火教の火を凝視する信仰形態、日本の燃燈儀式につながりあるそうですが、はてさて、凝視するとは・・。例の一目神とタタラとの職業病説は東西で有名ですが、凝視するという意味となると・・・。ではでは。



参考HP
2006年2月21日 1:14:10 いばらの紀氏
「彼の仮説は、ギザの“グレート・ピラミッド"を中心に、地理度 15度ずつの間隔を持つ同心円の円周上に、世界のピラミッド・ゾーンが位置する、との奇抜な着眼に基づいている。
 とくにギザから90度、120度、180度の円周線を重視して、90度線上のピラミッドとしては、中国南部のピラミッド群、120度線上ではメキシコの“太陽ピラミッド"、さらに180度線上では南太平洋ツアモツ諸島のピラミッド群を引例している。」

ピラミッド・ゾーン(通信ネットワーク)説   ムー36号 南山宏著
http://olive.zero.ad.jp/~zbd85319/seiti.shtml

「ポーリッキーは「古代の地球上で何者かが、“グレート・ピラミッド"を中心として世界の要所要所に配置した巨石建築物群による、壮大な通信ネットワークを構成していたのではないか」と想定る。」・・・・・
・・・・・もうすぐ 謎が解ける鴨。


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参考HP
2006年2月21日 1:50:58 いばらの紀氏
。「セム族の神々の至高神として、エルはその地租の知の神々、つまりバール神とともに、シリア各地で崇拝された。そして、エルの添え名のひとつに、実際、『雄牛』というのがあった」 [註1]。白い月-雌牛神である ヘラ-エウロぺ-イオの夫であった雄牛神 ゼウスと同様、エルも アシュラ(セム族の聖なる雌牛)と結婚した。エルは太陽神エリアス、すなわちヘリオスと同一視された。エルはイエス時代になっても、なお、セム族の人類の父であって、イエスは十字架上からエルに向かって叫び、エルを父と呼んだ(『マルコによる福音書』第15章 34節)。
http://66.102.7.104/search?q=cache:SnFotXDRBfwJ:web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/bull.html+%E9%9B%84%E7%89%9B%E4%BF%A1%E4%BB%B0%E3%81%AF%E3%83%9F%E3%83%88%E3%83%A9%E6%95%99%E3%81%AE%E6%A0%B8%E5%BF%83%E3%81%A7%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%9F&hl=ja&ie=UTF-8&inlang=ja%20target=nw


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円形
2006年2月21日 2:44:51 管理人
紀氏さん、こんばんは。引用先等こういうふうにつけてくださると大変助かります。ご配慮ありがとうございます!
世界地図でのピラミッドの位置、すごいですね!地図にすると、直線で結んでも円形になってしまう、おもしろいです。西部中国から日本程度の距離でも、地図を作成しようとしたら、すこしゆがんでいたのかもしれませんね。



加耶の古墳から楠製木棺
2006年2月20日 18:03:10 かわかつ WEB
今日の朝日新聞に。
加耶の古墳に使われていたのは日本産くすのきらしいです。加耶の鉄との交換貿易の可能性もありそうだと書かれていました。
これによりこれまでの朝鮮古墳出土の木片を再調査したところ、なんと今度は高野槇の木片が出ていたこともわかりました。これ重要!
高野槇の木は日本特産だからです。
少なくとも半島から木棺用に日本の材木が輸入されていたことはあきらかになりました。

これは不確定でしょうが、もし当時の朝廷がまだ国内で鉱脈を見つけていなかったとしたら、交換貿易もあり得たという推定ができるらしいのです。ということは5世紀〜6世紀の両国の関係はわりと良好だったと言えそうです。

3世紀には加耶の鉄は周辺各国が自由に採掘していたというのが魏志の記述にあります。つまり当時は貿易ではなかったということになるかも。
日本の砂鉄と、鉱脈からとれる鉄とではかなり純度や加工のやり方が違うと思いますが、そこんとこどうなんでしょうか。


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中国山地
2006年2月20日 20:02:57 タックン
岡山県美作から、広島県の備後山中には、古代からの製鉄遺跡が発見されて、一部は発掘がされています。
以外なのは、備前和気町域にも製鉄遺跡が発見されて、過去に調査がされています。
特に近年まで、カンナ流しの製法で、広島県の山中に当たる今の東城町の辺りはこの製鉄場の遺跡が沢山見つかっております。
この辺りの製鉄の製法が、何時の時代くらいから始まっているのかは、これからちょっと勉強します。
ただ早い時代から、この周辺では鉄が取れるということで、古墳の副葬品などからは、製鉄に関連する道具・鉄を取った後の金糞などが、副葬品として納められています。
中国地方ではありませんが、播磨の西の端にあたる少量のウランが取れる人形峠などや、生野銀山など近代にも採掘していた鉱山があることから、中国山地で古代から鉄の採掘をやっていたのも頷けるところです。
話は変わりますが、姫さま昨日は友史会でお会いいたし、お昼弁当を一緒にとなりましたが、私の個人的な都合で、平城宮資料舘でかえらさせていただきました。
誠に恐縮ながら、お許しくださいませ。
この場をお借りして、お詫び申し上げます。
今度の、友史会はご一緒いたしますので、その際は宜しく御願いいたします。



吉備の鉄原料(2)
2006年2月20日 0:15:23 塊状鉄
長文で切れてしまいました。
繋がらないので書き込みさせていただきます。

蛇足ですがフイゴが高温を得るためには不可欠ですが、8世紀以前は蛇腹に取っ手のついたようなフイゴを2個組み合わせ上下を固定して間の仕切りにテコ棒を取り付けて上下させて常に送風するフイゴを複数の羽口に一個づつ付けて多人数で送風していたようです。8世紀からは良く知られた踏み鞴(たたら)となり送風能力は増加したようです。
自然風での製鉄は専門家の方も不可能と言っておられますので、ヒッタイトがどのように送風したかは興味が有ります。思いつきですが中央アジアですから天然ガス噴出口からガスを引いて空気と混ぜて燃焼させれば簡単に高温出るし、炭と鉄鉱石炙れば高温で製鉄できるんではと、とんでもない事を考えてしまします。(冗談です忘れてください。)
高梁川支流成羽川中上流域鉱山(特に成羽川流域はスカルン鉱床が広がる。)
山宝鉱山(磁鉄鉱採取現在は廃鉱)
山宝鉱山(直線距離で総社市秦村まで22km。)
http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=34.46.17.004&el=133.30.8.793&la=1&fi=1&sc=7
山宝鉱山案内地図
http://www2.odn.ne.jp/cyber-crystals/jpg/sannpou1.gif
石について
http://www2.odn.ne.jp/cyber-crystals/okayama1.html
山宝鉱山探訪(鉱山の写真と鉱石(磁鉄鉱))
http://www1.harenet.ne.jp/~xb-35/kurayosisen/sanpou_1.htm
山宝鉱山地図
http://www.its-mo.com/y.htm?m=E133.30.10.319N34.46.15.792&l=10
金平鉱山
岡山県川上郡備中町大字平川6477/上郷・広島県神石郡豊松村宮尾(県境に有る。)
Fe(磁鉄鉱),CuS/石灰石 トラックレス坑道式、稼行中。現在は石灰石のみ採掘。
金平鉱山(カルファイン金平工場(じてっこう))
http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=34.47.52.330&el=133.22.43.050&la=1&fi=1&sc=3
金平鉱山(直線距離で総社市秦村まで約30km)
http://www.mapion.co.jp/c/f?grp=all&uc=1&scl=1000000&el=133%2F22%2F42.352&pnf=1&size=800%2C700&sfn=all_maps_00&nl=34%2F47%2F51.837&
高梁川の高瀬舟(これは新しいものですが川舟での交通が発達していたようです。)
http://bitchu.fc2web.com/kawa/takasebune.htm

大変に申し訳有りません。
今後注意いたします。


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ヒッタイト製鉄現場の特定
2006年2月20日 1:17:16 かわかつ WEB
を研究されている方の地図を画像の方へほりこんでおきます。

http://8811.teacup.com/toraijin/bbs


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鉄鉱石の道はヤマトタケルの道
2006年2月20日 1:32:10 かわかつ WEB
うらさんとお会いしたときに鉄鉱脈のあった話を聞いておりましたが、やはり出雲のような砂鉄ではないようですね。
ヤマトタケルが最後に行こうとしたのはもしや南部地方ではなかったかという説が最近出てきていたりしますが、釜石に新日鐵があるように東北・岩手なども蝦夷征伐との関連で考えられます。
管理人さんが常々言われている雄略天皇の件も、やはり雄略期には可耶の鉄採掘は相当佳境に達していたらしく、雄略がヤマトタケルのイメージを持っているのも納得できます。
塊状鉄さん、ハンドルそのままに、かなりの鉄マニアでいらっしゃるようですね。今後もよろしくおつきあい願います。

管理人さん、菅家が左遷された後、都で熱病が流行、藤原4家にかわって台頭したのが橘の諸兄と今一人、吉備真備でしたね。
やはりこのあたりに吉備の鉄の力がかなり働いたのではないですか?


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南部
2006年2月20日 6:52:32 管理人
塊状鉄さん、かわかつさんこんにちは。タタラの信仰が日光に入るのも、8世紀代でしたかな??日高見国の件ですが、釜石まで行っていますか。7世紀代だと、新潟岩船神社は物部の進出で行ったのではと考えていますが、仙台を越えるかどうか、気になりますね。また後でゆっくりご紹介のHPなど拝見しながら、その辺考えてみます。



吉備の渡来文化展
2006年2月17日 23:44:47 うら
久し振りにお邪魔します。

先日、県立博物館に吉備の渡来文化展に出かけてきました。

縄文時代の籾痕の付いた土器から始まって、吉備真備頃までの外来文化に関する遺物や遺跡の情報が展示されていました。

私が特に興味を持ったのは、吉備では数少ない環濠集落と金銅装環太刀の柄頭です。
清水谷の環濠集落は6棟の竪穴住居が全て韓国扶余の松菊里型住居だそうです。
このことから、弥生時代の早い時期に、吉備の地域と朝鮮半島との交流もしくは移住が想像されます。

又、双竜環頭柄頭が、大谷1号墳出土の物も二子塚古墳の物と同じ図柄だということです。
6世紀の後半吉備の各所に大和との結び付きを示す勢力の存在を知ることが出来ます。


分銅型土製品は、住居跡から発掘されることが多く、お守りという説が有力なようです。吉備から多く出土しているようですが特に、現在の山陽団地の開発で最も多く発見されています。


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吉備の魅力
2006年2月17日 23:57:31 タックン
近畿地方に匹敵する文化、前は結構はまっておりまして、何回か岡山に足を運び、いろいろ見学しました。
今考えているのは、岡山県内の備前地域の古墳に足を運ぼうかと考えており、旧邑久町地域と、牛窓町地位の古墳に行きたいと思っています。
特に、築山古墳の家型石棺は、特徴のあるほかの岡山地位の石棺とは少し違う石材を使っており、交流の跡が何かを物語っていそうです。
分銅型土製品は、瀬戸内地方の遺跡から多く出土し、四国川の遺跡などでも普遍的に出土していますが、香川・愛媛に集中しており、他の四国地方などでは出土数が極端に少ないのがこの辺の謎の一つです。
古墳文化なども、畿内に順ずる企画の古墳なのですが、副葬品などに在地的な特徴が観られ、調べていくと謎が多い地方の一つです。


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備前地方
2006年2月18日 0:53:03 うら
築山古墳の石材は・・たしか・・二上山のピンク石かと記憶していますが・・・?  あの近くには箸墓の二分の一サイズの浦間茶臼山古墳もあり、早くから大和との関係をいろいろと想像させます。
築山古墳の山上には美和神社がもあります。
吉井川の下流で、福岡県の名前の元になった福岡の町もあり、上流から運ばれた砂鉄を利用したであろう刀作りも、長船の名刀で有名です。 
旧長船町にも沢山の古墳がありますし、東隣は6古窯の一つ備前焼の産地、備前市になります。
もっと書きたいのですが、今日は、もう寝ます・・。


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6世紀後半
2006年2月18日 0:59:19 管理人
うらさんおひさしぶりです。タックンさんこんばんは。
吉備と大和とのつながり、6世紀後半というと、蘇我氏等の屯倉関連での進出の時代と重なるでしょうか。
先ほどはわたしのほうは、国会図書館にひさしぶりに向かい、ヤマトタケルと雄略、神功、住吉関連の論文を一気に仕入れていました。蘇我氏と推古天皇、武内宿根と神功皇后との伝承比較の類似性や、タックンさんからもお教えいただいた雄略、ヤマトタケルの類似性なども読んでいるのですが、蘇我の進出伝承と、武内宿根の伝承とは、相互関係にして論証する可能性もあるようで、武内宿根の行動から、吉備を捉えていくとどうなるのかと思いますがどうでしょう。あと最近は慶州博物館の資料を読んでいるのですが、吉備のそれとは、馬型など新羅ともずいぶん交流があったそうですね。分銅は日本製でしょうか・・・。


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資料を集めて
2006年2月18日 19:32:55 タックン
以前から岡山県内の市町村史、考古関連の資料を集め続けていて、これを基に幾つかの地域を歩きました。
部分的にではありますが、造山・作山古墳の有名な地域の古墳をはじめて行ったのはもうかれこれ20年くらい昔でしたが、造山の圧倒的な大きさに日頃近畿の古墳を見慣れている私にとっても、その大きさに圧倒されてしまいました。
築山の石棺、そうですね後で調べてみると、阿蘇ピンク石のものだと気がつきました。
私が特に吉備・美作の地域に興味を持った理由の一つは、美作地域に多く出土している、陶棺に興味を持ったのが始まりです。
近畿圏内でも、この棺は幾つか出土はしていますが、岡山県内ほど集中している地域は他にあまり殆どないといってもいいようです。
陶棺の被葬者は、これまで白猪屯倉などとの関連が言われてきていますが、私はそれとともに原料材の調達が容易であったのではないか?と考えており、事実備前伊部の地域は後世、備前焼の一大生産地として発展してきています。
また近くの、寒風古窯跡群など須恵器の生産に適した場所も多くあり、窯産ができうる諸条件が整った地域であったと思われ、こういった特殊な葬法が生まれていったと考えるのです。


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みなさん、こんばんわです
2006年2月18日 20:07:28 かわかつ WEB
やっぱり岡山にももう一度行きたいと思い始めました。今度のオフ会は岡山・牛窓はどうでしょう。^^

カーリングの可愛い人たちを見ていたら、なんだか若返った気になりました。最後の「かた、勝ったあ〜」の小さいガッツポーズ、いいですねえ。

新しい方も来られていい感じですねえ。
とみたさんの声も聞きたいところです。^^


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牛窓
2006年2月18日 21:17:01 タックン
此処にいっぺん行きたいと思っていますが、なかなか機会がなく行けずになっております。
オリーブ園の中に、古墳群があり見学出るそうで、その他にも多数の古墳が良い状態で見学出きるそうです。
お隣の、旧邑久町域には、寒風古窯跡群の中に資料館も最近できているそうで、見所も多いと思います。
最近備前地域の考古に興味を持ち、古書店で探しまわり念願の「和気郡史・通史上巻」を購入してこれを参考にしております。
とかく岡山県というと、造山のある備中の地域がクローズアップされていますが、備前地域も鶴山丸山古墳のように、過去に著名な古墳・遺跡も豊富で、見逃せない場所です。


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播磨
2006年2月19日 2:13:19 管理人
牛窓って播磨と吉備の間あたりのようですね。さっき読んでいた『古事記・日本書紀U』日本文学研究資料刊行会編の金井氏の論文「ヤマトタケル物語の伝承氏族」に、この伝承および神功皇后伝承(双方とも原稿で関連)に関係する氏族として、息長氏を考えておられるようです。それで、息長氏の拠点として、継体と関連する近江方面と、播磨・吉備関連について記されています。この息長氏については、以下HPに記載されていますので、ご参照ください。息長氏・・・、かわかつさんお得意の海人なのでしょうか。http://homepage2.nifty.com/amanokuni/okinaga.htm


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息長氏
2006年2月19日 10:57:55 かわかつ WEB
う〜ん、息長の「おきなが」ですが、どちらかというとふいごの息が長いで製鉄関連は間違いないと思います。
あめのひぼこにつながるかと思いますが、渡来系でしょうね。
おそらく加耶の倭人の血筋はあるのではないかと思えますし海人の血も混じってるのかも。。神功皇后がどうしてもネックですね。
近江も行かなければなりませんが、ここの野洲氏と小野氏がちょっと謎の関連があるかも・・・


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吉備と鉄原料(1)
2006年2月20日 0:08:33 塊状鉄
私も吉備には興味を持っています、特に古代製鉄に興味を持っています。
その中でも原料とかに特に興味が有り自分なりに考えています。
夢想ですが書かせていただきます。
吉備の鉄鉱石はスカルン鉱床により生成した磁鉄鉱ですから小さい鉱床が沢山あったと思うのですが、それらを集めても連続操業するためには、はっきり跡の残る鉱山等が必要と考え調べています。
岡山県の高梁川は流域にスカルン鉱床が広がり、特に支流成羽川中上流域は以下に紹介します磁鉄鉱の鉱山も有りました。このような地勢から推定して高梁川下流域では上流から流れ下った岩鉄が堆積して採取可能であったと推定されます。特に総社市福谷や秦村付近は河川が谷から平野に出る部分で重い岩鉄が堆積しそうです。岩鉄は小割された状態で得る事が出来て焼いて更に小さくすれば原料鉱石となります。しかし鉱山から掘った鉄鉱石の岩塊はそうは行きません。良質なほど硬く大変な労働と思われます。品質が悪いほうが柔らかく加工しやすかったと思われますが、初期の吉備の製鉄では炉の高さが低かったようで炉内温度が低く不純物が溶融できずに鉄中に残留して後での精錬でも不純物が取りきれないために、手間がかかっても不純物の少ない鉱石を使用していたと推定されます。7世紀中頃には炉が小型化して炉高も高くなり温度も上がって原料の制限も無くなったと思われます。その代わり鉄への浸炭は進み硬い鉄へとなったようです。
こうなると入手しやすい海砂鉄・川砂鉄などに多いイルメナイト(融点1365℃)も溶解できるようになれば鉄鉱石を掘って焼き・破砕して原料鉱石に加工するより加工のいらない砂鉄が有利と成ってきたと思われます。しかし、浸炭が進むと脆い鉄となり脱炭素加工を鍛冶炉でしなくてはならなくなり手間がかかるようになります。その後精錬処理となるようです。イルメナイトが少ない砂鉄で、低い温度で製鉄すれば更に良い事となります。
原料には一長一短あり、入手しやすく手間のかからないものが残ったようです。



楽浪郡・帯方郡
2006年2月17日 23:41:33 塊状鉄
初めて書き込みさせていただきます。
宜しくお願いいたします。
製鉄技術について調べているのですが、古代では中国が世界最高の技術を持っていたらしいのです。朝鮮に中国の楽浪郡・帯方郡が有りお隣の遼東郡には鉄官が置かれ民生用の鋳鉄材や鋳鉄製品が生産され輸出されていました。2〜3世紀頃から塊状鉄が中国でも生産されるようになり楽浪郡・帯方郡でも生産されたようです。しかし312、313年には楽浪郡・帯方郡が高句麗の攻撃で滅んでしまいます。楽浪郡・帯方郡在住の製鉄技術集団などは高句麗の意のままにならず、中国の元高級官吏などによる間接統治にもなじまず、お隣の百済、伽耶地方に大量に流出して鉄・兵器の製造に携わり両者ともに強化され高句麗との戦争が始まったようです。楽浪郡・帯方郡の遺民にとっては百済、伽耶、日本を巻き込んでの楽浪郡・帯方郡再興運動。高句麗、新羅ー百済、伽耶、日本による楽浪郡・帯方郡製鉄技術集団の獲得競争となり150年以上続く事となったようです。6世紀中ごろ伽耶が滅んで終わる事となりますが、それまでの間に楽浪郡・帯方郡製鉄技術集団等のかなりの獲得に成功したようです。結果的には日本の大勝利で和鉄生産技術の獲得となるようです。
始めから情報管理のうるさい中国の楽浪郡・帯方郡製鉄技術集団の鉄と鉄の技術の獲得を目的として技術者を日本に誘導したとすれば単なる渡来人とは違うように思うのですがいかがでしょうか。
日本では違和感のある考え方ですが、朝鮮ではそうではないようです。(もちろん日本は痕跡も有りません)だだ技術集団は短期間に技術を習得した朝鮮の方となっていますが、中国のチベットや新疆ウイグル自治区などでは現地人の生活は変わらず,中国人の技術者や移民の大量流入による中国化で古代が特別とは考えにくいと考えております。
素人の夢物語を書いてしまいましたが、楽浪郡・帯方郡技術集団等の末裔が渡来人の多くと考えてもいいのでしょうか。


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教えてください!
2006年2月18日 0:20:32 うら
製鉄技術についてお調べとの事ですので、お聞きしたいのですが、ヒッタイトは鉄の王国といわれていますがその辺のところから詳しく教えていただけませんか?
それに、帯方郡が滅亡する前に、後の伽耶に倭等の諸国が鉄を取りに行ったそうですが、朝鮮半島東南部の製鉄はいつ頃始まったのでしょうか?
私も製鉄については興味がありますのでよろしくお願いします。


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製鉄と渡来人
2006年2月18日 0:35:40 管理人
塊状鉄さんはじめまして。朝鮮、日本での製鉄の略奪合戦から、渡来人とのかかわりなど、貴重な情報ありがとうございます。確かに製鉄技術者を従えた東漢氏の伝承は、帯方郡から、朝鮮三国にちらばり、そのうち危険を感じ、日本の王を慕っていたとの記事が続日本紀に見えますね。ご指摘の解釈の仕方としては、逃亡というよりは、招待という形になるでしょうか。招待のほうは秦氏の弓月君の伝承がそれに近い形をとりますね。ただ秦氏は精銅技術者を従えたとされていますから、はてさてその辺の解決が問題ですね。
中国や朝鮮三国で武器製作の技術者を従えた国力や国防を強化した事例、今日もそういえば本屋でそのようなことが某雑誌書いてあったのを読んでました。中国の漢書温・伝の解釈からにローマ兵が匈奴に捕虜になり、その後中国の捕虜となって云々・・。研究している方がいるそうです。ローマ的な布陣や丸太を利用した構造の防衛拠点が記されているそうで、現在でもその地域の人は、ローマ人の子孫であると信じているとか。中国的といえば西域の傭兵が皇帝の周囲を警備していたことは有名ですが・・。ともあれ、日本で天皇周囲の防衛を担当したのは、物部という説もあります。石上神宮の剣類は、神宮という用語に現れるように単なる氏族の社寺ではなく、王権レベルの管轄にあり、地方の豪族の服属の印として、神宮に剣を奉納したという泉谷康夫氏の論説もさっきちょうど読んでいました。ともかく、精銅から製鉄へ、製鉄技術を得たものが、きっと権力を拡大していったのでしょうね。その製鉄集団の特定、渡来理由、時期、とても重要だと思います。


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伽耶の鉄
2006年2月19日 4:36:09 塊状鉄
>それに、帯方郡が滅亡する前に、後の伽耶に倭等の諸国が鉄を取りに行ったそうですが、朝鮮半島東南部の製鉄はいつ頃始まったのでしょうか?

書き込み有難う御座います。
今後とも、よろしくお願いいたします。
製鉄は素人ですから付け焼刃です。
ヒッタイトは良く知りませんが初歩的な塊状鉄製鉄ではなかったかと。
伽耶では早ければ紀元前1世紀遅くとも2世紀とされていますが、4世紀以前は生産量は少ないようです。しかし、中国の鉄か朝鮮の鉄かの問題が残ります。朝鮮の技術で中国の鉄と同等の品質の鉄を製造可能かと言う問題があり、国家管理から出発していますので、中国が技術を教える事はまず無いと思われますので中国の鉄の可能性が高いのではないかと夢想します。古い時代ですと溶鉱炉製鉄ですからとても困難です。



ダビデの☆は陰陽 上下転換有り。
2006年2月16日 18:45:15 いばらの紀氏
希少価値
正三角形を考えていましたら、「価値・勝」・・・勝組を思いました、
メイソンのピラミッドの頂点 「目」アイ(愛)です。
価値:あるもの・ことがどれくらい役に立つか、またどれくらい大切かという程度。またその大切さ。値打。
価値判断:物事の値打を決めること。規範となる価値を基準として妥当性や有用性を測ること。
メイソンはピラミッド社会を構築しようとしているらしい?
カースト社会を目指していると考えます。(能力基準の上下社会?)
メイソンはお金(財力)の多少による基準をイメージし三角形の頂点は、金持ちと?いや「目」?が頂点の社会を目指している?(「目」=「アイ」=「愛」であって欲しい。
「物」の価値は「希少」:(少ししか無いこと・なかなか手に入らないこと。)
これまで、年齢別人工割合はピラミツド型でした、年長者は希少価値?でした。
しかし、日本は逆ピラミッド型、赤ちゃんが希少価値の時代に向かっています?
「価値」・・・「値打」の基準とは?
「少ない」(珍しい・なかなか手に入らない)から?
「個性」(個人の特性)は千人十色・・・・・個々が最高なのです。
篭目紋(ダビデの星)は二次元的なグラフ?三角形は「王」(権力の頂点?)逆三角形は「柱?」(万民を支える「究極の愛」
「円」は丸く収まる。
「球」は(救)・・キュウ(九)・・古代中国での最高の数カズ(夏豆)
三次元(サン太陽)での三角形は球(救)掬う・社寺・スプーン・柄杓(北斗七星)昴(日+卯ボウ)ボウ=鉾・牟・坊・暮雨・虻・貌(鬼頭・虫)・・・・漢字は奥が深いです。


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参考HP
2006年2月16日 19:56:40 いばらの紀氏
中国では、奇数は縁起のよい陽の数とされ、一番大きな陽の数である九が重なる9月9日を、「重陽」として節句のひとつとしてきました
中国ではこの日、茱萸(しゅゆ=ぐみの実のこと)を袋に入れて丘や山に登ったり、菊の香りを移した菊酒を飲んだりして邪気を払い長命を願うという風習がありました。

重陽の節句は別名、菊の節句とも呼ばれます。
http://6312.teacup.com/kojima/bbs


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三角形
2006年2月17日 2:33:13 管理人
わたしも三角のこと考えてました(汗)
三角は時代や世界を問わず普遍的な何かを人間にもたらしているのかもしれませんね。
価値観の話、キリスト教の原始的な価値観は、現世の利益にあらず、天国に積む富にあったりします。もっともそこもいろいろ宗派もありますし、時代とともに変わる部分もありますが。ともかく現世でいくら権力や価値があっても、死んでからそれをもっていけるわけではないのでして・・・。ただ、死んでもっていけなかった代物については、歴史家は後世大喜びしていたりします。慶州博物館のそれはそれにしても価値がありますね〜。



私これからは
2006年2月15日 18:31:13 かわかつ WEB
投稿は画像のほうにいたそうと思います。


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まあまあ
2006年2月17日 1:44:09 管理人
そういわずに、気楽にやりましょう!


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気楽にやりましょう
2006年2月17日 22:48:39 タックン
かわかつさんの、この前のオフ会の前に気楽に集まりましょうと言われた言葉で、私も緊張がほぐれましたです。
気楽に皆さんと、意見交換いたしましょうよ!



来月あたり
2006年2月14日 22:39:31 かわかつ WEB
雪もそろそろ終わりでしょうか?山陰〜越前越後ラインを攻めてみようかと考えています。皆さんいかがですか?
今回はタックンに習って新幹線ではない汽車の旅も満喫したいと思います。ちょっと長旅になるかも・・・
スケジュールを組んだら流しますので、それぞれ開いた日に出会って一期一会の探索というのはどうでしょう?こちらはスケジュールにのってとことこ行きますので、それぞれ出会えるときに出会ってあとは別々。もちろんゆとりのある方は汽車にのっていき、車中でオフ会なんていいですな?


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四万十川の舟型遺物
2006年2月15日 0:01:28 かわかつ WEB
高知県の方では小舟の形の木製遺物が出ていますね。こりゃまたなんに使っただろう?

http://white.ap.teacup.com/soudasui/32.html#comment


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ぜひ
2006年2月15日 2:50:25 管理人
また、そのころにオフ会探索したいですね。今日ぐらいの暖かさならバイクでもいけるんですが・・・。


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15世紀の舟の道
2006年2月15日 2:53:39 管理人
どなたか磐舟の道の観念について知りませんか?その空の道がおもったより、正確な道を求めた観念だったのではと考えはじめています。舟の信仰の伝承、古事記の世界からそうですが、古代人にとってなんだったんでしょうね。



古代の祭祀具
2006年2月14日 20:26:25 タックン
銅鐸に限らず、弥生・縄文の頃の祭祀具では、用途不明なものが数多くあります。
特に、銅鐸と同じ時代の弥生の瀬戸内の遺跡から多く出土している、分銅型土製品なんかも謎の遺物の一つで、丁度はかりの分銅の形をしており、上面のところには人間の顔のような図が描かれています。
特に出土地は、瀬戸内海地方の遺跡や、九州の瀬戸内側の遺跡から多く出土していますが、近畿地方の遺跡からも出土例があります。
縄文時代にも、独胡石など中部地方からの遺跡から、これまた用途不明な遺物が多く出ております。
現代の感覚から考えると用途不明なんですが、当時の時代の感覚で物事を考えていったら、自ずとこの遺物の謎が解けてくる日も近いんではないでしょうか。


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機織
2006年2月15日 2:48:04 管理人
分銅型土製品、検索してみましたら以下のサイトがありました。http://www4.ocn.ne.jp/~yoshida3/houkoku6.htm
機織の際に糸を垂らしたのでしょうか。解説にあるように弥生時代に機織というのも、ちょっと意外ですね。呉文化の流れとして捉えれば確かに納得行く部分もありますが・・・。
逆に現代のものを彼らが見ても、何のことやらわからないでしょうし・・。用途不明というと、慶州博物館のそれに、大きな鈴が三つ繋がった輪がありました。


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「目」を横にした文字がまた、「羂」ケン・・・犬・隼人?
2006年2月15日 10:00:40 いばらの紀氏
「分銅」の遺物は・・・・不動明王(不動のポイント・測量士をデホルメ?)
不動明王の立像に矜羯羅<こんがら>童子、制迦<せいたか>童子の二童子を随侍させた不動三尊像である。
 役小角(エンノオズヌ)に似ていません?
http://www.e-obs.com/rekisi/kodai/heian2/maki-fudo.htm
 「羂索」 けんじゃく (「ケン」の音には測量に関係する漢字が多い。)
(測量での 「下げ振り」地上の点と平板上の点を、同一鉛直線無い正しく一致させるために用いる。)
 「羂索」とは、戦いや狩猟に用いる環のついた投網。菩薩の網でもれなく苦悩するすべての人々を救いとります(狩猟は測量の隠語?)
下野国都賀郡(今の栃木県下都賀郡)で、壬生氏に一人の子供が生まれた。これが円仁である。
http://machi.monokatari.jp/index.php?itemid=1906
実忠は新薬師寺に「華厳曼陀羅」とも称すべき頭塔(土の七段ピラミッド)なども造っている。
http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r18-54.htm

参考HP・・・・
http://www.kjk.ne.jp/~states/cgi-bin/ken1.cgi?page=30


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船は冥界間の乗り物。
2006年2月15日 10:13:38 いばらの紀氏
船は冥界との乗り物。
古代エジプトにおいて死とは来世への旅立ちであり、 輪廻転生に基づく死生観が文明に非常に大きな影響を ... 再生、復活を遂げることを願う古代エジプト人の死生観が反映されています。 棺に描かれた神々は、左上から順にラー ... 第 98章 死者が冥界で船を使い、天界に行くことが出来るための呪文 ...
http://oleanderbbb.hp.infoseek.co.jp/Funeral.htm
棺には古今東西、材質とその ... 省の船型棺もくり抜いて作られている。
http://www.osoushiki-plaza.com/institut/dw/199506.html
参考HP・・・・
http://members.jcom.home.ne.jp/3225202301/d-01.htm


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参考HP・・・・最後まで読めない?為に。
2006年2月15日 10:20:47 いばらの紀氏

天狼星とソティス暦 KEN1 - 2004/01/05(Mon) 00:13 No.464


SERAVさん、返信ありがとうございます。
今年も宜しくお願いいたします。

 おおいぬ座の「シリウス」=天狼星は、狼の目のように青白く輝くことから、このように呼ばれています。

 前述のとおりこのシリウスは、古代エジプトにおいて、特別視されていたのは、一番明るい星であったからだけではなく、シリウス星が太陽に近接して、約70日間姿を隠した後、日の出直前に現れると、それから程なくして、彼らの生活に大きな影響を及ぼすナイルの増水が始まることが知られていたからです。

 このシリウスが、「ヘリカアル・ライジング」(日の出前出現)する日は、古代エジプト暦の元旦でもありました。ユリウス暦でいうところの7月19日頃です。このソティスの出現と、ナイルの増水開始時期を元にした、一年を365日という暦を古代エジプト人は知っていました。更に、「ヘリオポリス」の創世神話によれば、トト神が月と争い、12の同じ日数からなる月の毎日の1/70を勝ち取り、月を元にした暦の一年360日にこの日を付け加えて、一年を365.1428日としたとされています。現在の暦にも劣らない暦でしたが、実際にファラオが使用した公式の暦は、一年=365日であり、四年に1日のずれは考慮されていませんでした。そうして元旦は、ソティスの出現、及びナイルの増水から 次第にずれていきました。これが、再び一致するまでの1460年(365×4)は、ソティス周期と呼ばれています。

 このシリウスが神格化された女神が「ソティス神」(ソプデト女神)です。頭に星を持つ女性、あるいは、二本の長い羽根が先の尖った一対の鋭い角で囲まれた被り物を被っているエジプト風の服を着た女性として表現されています。また、大きな犬として表されることもあります。「アビュドス」で見つかった第一王朝の王「ジェル」(紀元前3000頃)に描かれた最古の表現では、角の間に植物のある雌牛がうずくまった姿で表現されています。植物が年を象徴するものであることから、エジプト人は紀元前3000年初頭、既にシリウスと太陽年の始まりを結び付けていた可能性があるという指摘もあります。このソティスは、古い星の神ですが、非常に早くからイシスと同一視されてきました。これは、オリオン座が天空に描かれたオシリスの像であるとされた信仰によって、容易に変化していった結果と考えられているからです。


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シリウス
2006年2月17日 1:48:12 管理人
北斗七星の話は日本の信仰でもよく出てきますが、シリウスの話は珍しい?ですね。恒星の中で一番明るい星がシリウスですが、昔から狼なのかな?
あとキシさんにひとつ注意なのですが、引用はやはり「」をつけて元ホームページの出所も必ず記してください。また長文の引用はできる限り避けてくださいね。検索サイトにもひっかかるので、そのHPの作者の方が見ることも多いと思いますし、著作権の問題にもなりかねませんので、よろしくお願いします。


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ごめんなさい <(_ _)>
2006年2月17日 13:56:08 いばらの紀氏
 横着者でした、気にはしながら つい 甘えが・・・・
反省し 以後 気をつけます。
関係者の皆様、謹んで お詫び申しあげます 御免なさい。<(_ _)>


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わたしこそ
2006年2月19日 2:30:25 管理人
キシさんにわかりやすいように、もっと丁寧に文献を引用するように心がけるようしなければと反省していますので、今後気をつけていきましょう。



銅鐸を考える。
2006年2月13日 18:33:38 いばらの紀氏
鐸タク:すず 大きなすず。昔命令を発する時に鳴らして大衆を戒めたもの。文教には木鐸、武事には金鐸を用いた。
睪エキ: 覗(うかがい見る)・択ぶ・伝達・ねぎらう・集まる所・訊ねる・袴はかま襦袢じゅばん・あきらか・よろこび・つづく の意
    : 袴はかま襦袢じゅばん ( 「睪」の字形からと考える。)
    : 覗(うかがい見る)・択ぶ・伝達・訊ねる・あきらか( 「罒」の字形からと「タク」の音から「神託」のタクをイメージする。)
        (御神楽で巫女さんが使う柄の付いた「神鈴」と同じく天(神)に向けて「舌」(呼びかける)覗う。)
    :ねぎらう・集まる所・よろこび(祭祀などに関係?「昔命令を発する時に鳴らして大衆を戒めたもの。」)
    :つづく の意(  ?  )
罒モウ:(私的の「目」を表していると考える・メイソンのシンボル・比叡山の「叡・あきらか」の古文字には「罒」が2つ使われている。)
「大衆を戒めたもの。」・・・・神託とし 神の代理人(神官?巫女?王?)の権威を向上させた。

「魚」キリスト教のシンボルの古文字が「銅鐸」に似て見える・・・紀氏です。
「ちゅうとヒレがつながっているのは・・・」のヒレが鰭(古文字では「羽」にも見える。)
ユダヤ系の儀式「バプテスマ」は水に頭まで浸けられる(臨死・蘇えり・胎水?・・メイソンの入会儀式?修験道の山イリ?)
鯉が滝を登り龍と成る。(ユダヤ教では世界統一に限界を感じ水神・バール禹?と手を結ぶ セム系モンゴロイドの乳で育ったローマ帝国はキリスト教で世界統一を目指すがキリストの死後分裂)・・・紀氏の妄想(マリアは豊穣神?)

バール神は、YHWHが言う「悪魔」(風水占い・生贄・医学・水神・科学者・・=禹・・人望がYHWHより有る。)
「河」は禹の治水以後の黄河「可=丁(水路)+口(禹の父の甕棺) 禹は口の霊に亀(瓶)「占い(ト+口)」をしたり天の神(申さるの申す言を尋ねた。)


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連想ゲーム
2006年2月13日 19:37:11 かわかつ WEB
紀氏さんの着想はおもに連想ゲームですな。脈絡がない。
鐸、宅、託・・・とだじゃれから始まる。おつかれさんどす。
魚の絵なら江田船山の剣はいかが?


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脈絡は辞書の中に。
2006年2月14日 1:16:33 いばらの紀氏
かわかつさん今晩は、
「「目」のを横にした文字「モウ」+下に「幸」の文字: 覗(うかがい見る)・択ぶ・伝達・ねぎらう・集まる所・訊ねる・袴はかま襦袢じゅばん・あきらか・よろこび・つづく の意」(これらの意味は【角川漢和中辞典】より関連文字など抜粋しました。(脈絡がない様ですが漢字の同音や同系(形)の使われている漢字や(熟語)の中に現在は使われなくなった古代の意味を蘇えらせます。
漢字の訓読みなどは、秦氏が駄洒落のように作成した読みも在ると考えています。
国字ハタハタ 魚+雷・・・(雷は秦氏・・魚はキリスト系?)
 横着者の紀氏ですので脈絡が舌足らず銅鐸です? オヤスミナサイ。


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木鐸
2006年2月14日 2:49:56 管理人
文教には木鐸、武事には金鐸を用いた。という紀氏さんご紹介の部分に注目でしょうか。祭祀だけでなく武事にも使用されたというのがおもしろいですね、下記でいろいろ書きましたが、かわかつさんご指摘の石上の武具埋めの習慣との木鐸との関連は??木鐸っていったいどんなだったんでしょう。
紀氏さんの文章っていつも下から上に読んでいくと、最後に結論にたどりつくケースがありますね。う〜む紀氏さん流、どうなってるんでしょう、奥深いなぞです、はてさて。


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魚+神=
2006年2月16日 19:06:54 いばらの紀氏
 追伸
ハタハタ=魚+神=秦旗幡・・・・羽田?こまつた(-“-;)
秦 秦氏が神?    文字を作る者は自らを「魚」+「神」
秦氏の末裔は今?



下の銅鐸記事続きです
2006年2月13日 2:15:46 かわかつ WEB
唐三彩などへの流れとして美術史的な流れでもかなり面白そうですが、管理人さんの言う、磁器から銅への変遷があったかどうかも今後の課題でしょう。またこれは古代であそぼサイトのs-tanさんのご意見ですが、鉄鐸さなきと銅鐸鋳型との徹底比較もまだできていないのではないかとも思われますが、その辺、誰か本書いてなかったですかね?

それにしても青銅器文化時代に銅資源が使い果たされたなんてことはないでしょうねえ・・・それで変わりに磁器?はてさて磁器だけに直に解明とはいかないようですね。^^


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銅鐸の進化
2006年2月13日 3:34:02 管理人
銅鐸についてのHP探してましたら、以下のサイトありました。http://www.highlight.jp/kougindani/13.html
http://www.highlight.jp/kougindani/13.html
銅鐸の吊り手(鈕)に外縁がついていないことが最古式の特徴だそうです。だんだん大きくなって、補強された形があの形なんですね。逆にいうと、やはり元は小さかったのでしょう。古墳時代後期の馬鐸の形は以下のとおりです。http://www.saimaibun.or.jp/database/data/94-1.html
今手元にある慶州博物館資料の紀元前1世紀の馬鐸ですが、取っ手部分は、中国のそれに近い形ですね。いや、2種類あります。日本の銅鐸みたいに取っ手部が円柱端から端へと架橋しているタイプと、中国出土のように、円柱上部に小さな取っ手を取り付けたようなタイプとがありますね。これは銅製です。古墳時代後期のそれとは、円柱底が上に湾曲している点で同じですが、湾曲していないタイプの馬鐸も博物館資料に見えます。
この古墳の馬鐸は渡来人がもってきた時代の朝鮮経由でしょうから??似ていて当然でしょうか。陶磁器ではないことは確かですね。あと中国のそれは鈴が取っ手についてますね。これなんで着いているんでしょう。はてさて、おもしろい話題です。


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資源
2006年2月13日 3:40:31 管理人
かわかつさんご指摘、資源の問題は、ひとつ考慮にいれておくべきかもしれませんね。陶器にしろ銅製品にしろ、あるないは重要ですね。


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慶州
2006年2月13日 3:56:42 管理人
その後慶州博物館の資料をひさしぶりに見ていますが、ローマングラスとか魚飾りとかもそうですが、慶州安渓里の馬鐸、これやはり先ほどの埼玉深谷の東川端出土の馬鐸と同じですね。四角の中にバツ印という文様まで同じです。新羅からの輸入ものでしょうか・・・。5〜6世紀となっていますから、渡来人が埼玉までもたらしたんでしょうか。この安渓里古墳からは、ローマングラスが出ているんです。忍海とか仁徳陵からの古墳からローマングラスの出土は有名ですが、埼玉のほうはどうなんでしょう。皇室系の毛野一族はどう関連するかな??ガラスの専門家・由水氏の「ローマ文化王国ー新羅」ぜひ、早めにみなさん購入してくださいね。知らないと知ってるで大変な差が出てきますから・・。


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鈕とヒレ
2006年2月13日 6:54:28 かわかつ WEB
今回の鐸に限らずですが、日本の銅鐸のもっとも大きい特徴は、鈕・・ちゅうとヒレが連続して周囲を取り囲んでおることだと思うのです。
そして管理人さん指摘の舌・・ぜつのあるなしです。

ぜつのあるのは「聞く銅鐸」というものですが、音が出る。実際にレプリカを吉野ヶ里で振ってみましたが、がらんがらんという音がします。あそこの鐸はわりあい小さかったようですね。

ちゅうとヒレがつながっているのは、なんとなく天女が羽衣を着てる時に首に巻く布っきれ・・・これもヒレという・・・を感じます。
中央の身の部分が天女になるわけですが、こういうヒレを実際に呪具に使っていた記録は、物部氏のニギハヤヒの十種の神寳・・とくさのかんだからと読みます・・・アメノヒボコの八種の神寳、そしてスサノオが持っていて、大国主が使ったヒレです。

どれもまあマニアックな神話の登場人物ではありますが、銅鐸と関係があったかどうかは別として、全員出雲系。
またアメの羽衣説話は浦島伝説と同じ丹後地方の話で、つねにセットになった南方系説話に分類されます。

物部氏の呪文には「古部ゆらゆらと振るべ・・・」があるわけですが、この「振る」が「布流」「布留」「布津」となってゆくんだと思います。
御霊振りの儀式は鳥の羽振りを模していて、両手を振るわけでして、こうやって魂の回帰をうながしていると考えられています。
銅鐸は音を出しているうちはなにかこうゆう呪術に関連したかとも思えるのですが、舌がなくなるともう、どんどん巨大化して置物みたくなっちゃって、一体どんな使い方なのかわかんなくなってゆく。



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続き
2006年2月13日 6:55:41 かわかつ WEB

松本清張は日本人はなんでも大きくしてしまうところと、極端に精緻に縮小化させるところと両極端な指向性があると書いていますが、銅鐸は巨大化してゆきますね。

紀氏さんじゃないけど、置いといて、穴から覗くなんて意味のない考えのもありますが、それならなにも銅鐸じゃなくてもいいわけ。ドーナツの穴が食べたいみたいな奇説だけど、まあ紀氏さんらしくて憎めない。

まだ羽衣説、物部出雲系説の方が文化系的には近似値でしょうかね。

朝鮮式銅鐸も宇佐で現物見ましたが、どう見ても形が違う。鈕が小さいんですね。ぜんぜん意味合いが違うと思うのですよ。あるとないとでは。
あれほど大きなヒレをつけるのはなにかしら大きな意味があったはずです。ないということは使用目的が違うのじゃないかな。
鈴のついた鐸の画像がちょっとわかんないのですが、鈴はお神楽で使う10コくらいついた山形になった神鈴しんれいがありますね。あれを振ってるのはたいがい童か女神なのですが、気づいてました?
御霊振りは女神が神懸かりして行うのですが、やがて地鎮のまつりごとに使われたと思います。大地が揺れるのは巨大な御霊が揺れ動く・・つまり神が怒っていると思うから、ああやって鎮めるんでしょう。

銅鐸は持って踊るには重すぎますね。見てた方がよくなったんでしょうか?それにしても捨てているのがわからない。
溶かして再生していないということは、必要なくなったということでしょうが、日本人の銅利用は仏像にも広がってくのだから再生すればよいものを?もっとも時間的にあいだがあいた時代ですから関係はないですけど。
なにか応用すべきでないという発想があるような。

呪具だからということですね。祟りがあるんでしょうかね、祭具には。しかしなにも壊さなくても。
だから捨てたのは別の信仰保持者かな。それとも壊れ方で占った?謎。


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最後はヤマトタケル
2006年2月13日 7:23:52 かわかつ WEB
同じ出雲系なのにヤマトタケルはヒレ持ってかないですね。ありゃどうしてだろう?しかも途中で剣も置いてゆく。あれじゃあ祟られます。
どうして草薙剱を熱田においてゆくのか。
熱田は尾張氏の国ですから、剣の神様、大和の天の香具山に関係あり?
天香語山命も剣を神武に渡します。あれって草薙じゃないのかな?
やはり草薙剱でしたね。
こうしてみると神庭から大量の剣と銅鐸が出てきたのも何か神霊をかんじませんか?^^

そう言えば神功皇后は安曇の磯良に潮干玉と潮満玉を渡しますが、ヒレは使わなかったですかね?

今日は管理人さんの記事の紹介からつい発想が涌いてきてしまい、長々とお邪魔しました。ではまた。バイ茶


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鈴、ひれ
2006年2月14日 2:44:13 管理人
鐸、鈴とかヒレとか、そういわれてみると、銅鐸のそれに似ていますね。出雲とはということは、鈴、ヒレ伝承の流れを追っていくと、銅鐸のそれの流れも出てくるのでしょうか。鈴、ヒレは天の日矛の新羅までは流れはわかりますが、それ以前はどうでしょう。それとなぜ埋められたのか・・、いろいろ諸説あるようですが、武具を埋める石上の習慣は注目ですね、でも銅鐸は武器ではないですが、確か中国の戦いには、太鼓もあったのは確かですね。はてさて、埋める思想、考えると難しいですが、先の中国の銅鐸?は、墓から出てきたそうです。朝鮮の馬鈴や馬鐸も墓でしょうし,出雲の埋め方がやはりおかしいのでしょうね。はてさて・・。



甲府へ
2006年2月9日 0:05:06 管理人
今日はバイクで甲府は酒折宮に行ってきました。原稿の関係で、ヤマトタケルの行った酒折宮に行かねばならなかったのですが、一宮御坂インターで降りてすこし行くと、山梨県立博物館に向かいました。ここすごいです。最新技術の立体映像とか、足の下がガラス張りになっていて、そこに映像とかが映っていたり・・・数ヶ月前にオープンしたそうですが、一度ぜひ行ってみてください。そこで、甲府関係の書籍も検索して、山梨県誌とか、石和町誌とか関連文献をコピーしてもらって、物部神社と酒折宮に行ってきました。そうとう、この酒折宮の位置、なぜここなのか議論があるようですが、研究報告原稿の結論では、同じくヤマトタケルが行った草津の真南に位置するのがこの酒折ということになります。雄略の甲斐の黒馬の話や、物部神社などの資料をみるに、そのラインが、書紀編者の適当な作成というよちは、どうも屯倉関連のときに、実際に測量された形跡のような気がしてきました。古墳時代後期よりは、新しいと思うんですが・・・、微妙な線です。古事記と日本書紀でヤマトタケル伝承の拠点記載が異なるのもちょっとおもしろく、古事記のほうが古いらしいです。原稿ができてから、これから参考文献を追加していく作業、これがひと苦労ではありますが、今、本井田菊士氏の日本歴史最新号の古墳文献も見ていますが、その辺よい文献あったら教えてください。あと帰り際に温泉を探していたら、バイクが強風に吹かれて、ポケットのガムが落ちて、拾ったところの目の前が、日帰り温泉OKのところでした。湯村温泉、1200円で露天風呂にも入れますがお勧めです。


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かわかつさんも
2006年2月10日 23:26:32 管理人
最近いろいろ探索なされているようですね!以下かわかつさんHPのブログです。
http://2004mmc-junsouda.cocolog-nifty.com/40sugitecpkayo/
それにしてもめちゃめちゃうまそうな料理ですね、急に夜飯を食べたくなってきました。さすがです。


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見てくれたのね
2006年2月11日 18:15:18 かわかつ WEB
管理人さんありがとう。寒い間はおじさんは動きが鈍くなるので、最近ようやく動き出したところです。たまによければコメント入れて下さいね。


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古代史ブログは
2006年2月11日 18:22:23 かわかつ WEB
報告書リンクはこちら。http://white.ap.teacup.com/soudasui/

ところでドキュメントの圧縮ソフトLhazの使い方どうやるんでしたっけ。それと以前ご紹介のフラッシュ、こっちもわかんないのでダウンロード後ほったらかし。ーー:わっかりません。
まずHP用のドキュメントを圧縮して、それを外付けに移すのだったかなあ。
NPの中にもデータを持っておきたいのだけれど。それを圧縮で保存するのかなあ。有料でいいから、やってくれないかなあ。


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今起きました
2006年2月12日 0:17:30 管理人
かわかつさん、当方HPおよび会報について、丁寧にご紹介いただき恐縮しております。管理人も詳細な分析力、ほんとにお褒めになるほどのものはなく、先ほどから、熱田→碓氷峠ラインの拠点の位置を間違っていたことに気づいて、さっそくライン角度を修正しているところです。どうも碓氷峠や神坂峠、自然物のラインは、当然なのですがあまり正確ではなく、神社のラインが正確です。古代の道と峠と、ラインとの関連、もっと追及できるのではと考えているところです。

圧縮ソフトについてですが、こちら試してみます。
ファイルを送信するのには、おとといいい転送システムを聞きました。100MBまで無料で送れる「FilE'o COOL」というのがあるのですが、これ便利です。これなら圧縮の必要もなくなりそうです。
http://www.fileocool.com/
フラッシュについては、ぜひ本屋でたくさん売っているので、ひとつ購入なされてからやってみてくださいね。覚えてしまえば、ワードより簡単です!!


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ほほう、
2006年2月12日 8:54:06 かわかつ WEB
これが話に聞くいわゆるドキュメントの倉庫って奴ですか。この差出人は自分自身でしょうけど、受取人って・・・??
見ず知らずの人が無料で倉庫を貸してくれるんでしょうか?!
しかしこれなら写真なんかもあづかってもらえて大助かり。外付けディスクよりいいですねえ。

ところでファイルを圧縮するソフトはやはり必要です。私のサイトのソースご覧になってあまりの複雑さに驚いたでしょう?あれを一気に圧縮ファイルに変換したいのです。


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さて圧縮しましたが
2006年2月12日 9:59:04 かわかつ WEB
この圧縮した内容をサイトに反映させるにはどうするの?


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反映
2006年2月12日 15:45:50 管理人
受取人は、私でも紀氏さんでもご自身でもOKです。
圧縮したファイルは、アップロードできるものとできないものがあるのではと感じます。ソースの複雑さは、あまり重さに動きや容量に関係ないので、気にしなくて大丈夫ですよ。フラッシュを使用すると、その辺の複雑なプログラムが省けるかもしれません。
ところで、下記の中国呉地方で日本式銅鐸が出た件、なにか調べてみました??大変なことではと感じるのですが・・・。


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西日本新聞が
2006年2月12日 18:53:51 かわかつ WEB
金関さんのコメントを載せていますね。
見た目はちょっと日本のものとは違うようですが、どちらかといえば朝鮮式に似てない?上の記事の方の言うように「日本式」というのはやや早計でしょうが、呉越の時代でしょうか。BC7〜2の遺跡らしいけど、その時代に銅鐸という概念があったとすると、その影響はのちの時代に倭国に来たのかも知れないですね。
もう少し様子を見ましょう。

しかし湿地の多い江南地方でよく錆びずにあったものですね。
むしゃくから出たのか。あのへんもまあ我々のルーツでしょうね。
大林太良はあの辺から南下したのがインドシナの人と混血して、そこから列島へみたいなことを「海の道・・・」に書いてるんですが、それは考古学的にはどうなのかな。
私は逆だと思ってました。

昨夜の世界不思議発見!でラオスの甕棺のことやってましたが、あっちにはおにぎりの原型があるんですね。
着物もなんとなく日本のに似てます。
ミャンマーにカメラマンの同級生がいるので、時折なにか出なかったか聞いてるんですが、忙しそうなのでまだ聞けてません。あそこはも仏教の影響もろに受けてますから難しいかな。
タイは天皇家が相当昔から親密につきあっていますから、血族関係があったりしてね。いや、わかんないですよ。事実は小説より奇なりですから・・・ http://www.nishinippon.co.jp/media/news/news-today/morning_news033.html


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追記
2006年2月12日 19:07:16 かわかつ WEB
中国の史書「国語」には銅鐸があったという記載があるのですね。知りませんでした。呉人が倭人のルーツだというのは納得できます。特に筑後や有明海周辺には呉の影響があると思いますから。
それが記事にある時代に起きたいくさの影響でかどうかは定かではありませんが説としてはおもろいですね。
金関さんの言う「銅鐸鈴起源説」はにわかに信じがたいです。どっちかというと鈴は北方系じゃないかな。銅鐸が先だと感じます。どっちにせよ鐸も鈴も「みたまふり」の祭祀、同時にカウベル的に応用されたのが呪術の道具として単独に進化していったと考えますね。
吉野ヶ里なんかでも鋳型が出ましたけど、レプリカを見ると真っ赤な赤銅色なんですね。新しい10円玉の色。あれが錆びて色あせてくるともう呪力がなくなるんだ。もう使えなくなったっと思います。

写真を掲示板にはっときますね。


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あれ?これ銅鐸じゃない
2006年2月12日 19:32:12 かわかつ WEB
青磁だって。陶器じゃないの。

http://white.ap.teacup.com/soudasui/


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教えてあげた方が
2006年2月12日 19:42:29 かわかつ WEB
銅鐸と磁器鐸じゃだいぶん話が違いますから、本人にそっと教えてあげた方がいいかもね。記事を訂正するにこしたことはないでしょうね。


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銅鐸
2006年2月12日 22:19:23 管理人
かわかつさん、いろいろ情報ありがとうございます。かわかつさんのブログで写真と記事と論説確認させていただきました。
大きさとか形は、似たような感じですね。銅製ではないとのことで、もしそうだとすると、なぜ銅に変化したのかという説明が必要になりそうですね。韓国の金海の博物館でみた、馬鐸は小さいながら銅鐸と似ていたのを覚えていますが、はてさて、呉→韓国南部→北九州の流れもありますが、どう考えていくか、ちょっと話題になりそうですね!


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そうですね
2006年2月13日 2:15:11 かわかつ WEB
一杯なので上に参ります。



参考HP
2006年2月8日 10:01:53 いばらの紀氏
、『真福寺本古事記』下巻は「大集」と、仁徳天皇を小馬鹿にした表現で始まる。
文中では、「太雀」とも書いている。
序後半の記述でも、敬称を付けず「大雀」と呼捨てにしている。
その訓みは、応仁記に「意富佐邪岐」とある。
『古事記』作者は、「意は、富を佐く邪な男」と皮肉っている。
中巻冒頭に記される神武天皇を、「神倭伊波禮毘古天皇」と呼ぶのと対照的だ。
そもそも「雀」の原義は、「小さな鳥」である。
「大雀」という矛盾した表記自体は、尊ぶべき天皇の名として不適切だろう。
この事実が、『古事記』は天皇家のために叙述された書物でないことを物語っている。
では、『古事記』は誰のために書かれたのか?
http://www.neonet.to/kojiki/seikai/00r-jobun01.htm

日本人の祖先は、徐福集団の若男女だった。
徐福は東渡に際し、「不老不死の妙薬と交換する」と始皇帝を騙し、もと齊・楚・燕・韓・趙・魏の良家から選抜された各500人の子女を与えられた。
その意味で徐福は、古代中国最大のペテン師といえるだろう。
交換はもとより、帰国する気もなかったに違いない。

果として神武天皇は、その初代として祭り上げられている。
逆に言えば、「玖」は神武天皇と対峙する勢力。
反神武一派と考えられる。
http://www.neonet.to/kojiki/seikai/00r-jobun01.htm

『古事記』作者は、古代インド「シヴァ」と古代中国「禹」の伝説を参考資料として、上代日本「天」の歴史を記述したのである。


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参考HP
2006年2月8日 10:21:17 いばらの紀氏
『山海経』には無支奇なるサルは登場しないが、『岳[水竇]経』などによると、無支奇というのは洪水を起こすサルだそうで、中国の治水事業を成功させた禹という王様が、このサルを殺して湖に沈めたということになっている。そして禹は『山海経』の著者とも言われている。

http://www.chinjuh.mydns.jp/sengai/simio/p10.htm
◎珍獣のアレ「西遊記の源流は山海経にあるのか?」
http://www.chinjuh.mydns.jp/sengai/mito/lg021028.htm

サルを表す漢字

韓に対抗する斉の君主に田氏一族が立ち、その田氏一族
http://www.kt.rim.or.jp/~r_kiyose/review/rv0517.htm


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参考HP
2006年2月8日 10:32:36 いばらの紀氏
「越王句践(こうせん)。その先は禹の苗裔(びょうえい)にして、夏后帝少康の庶子なり ... 年に奴國王が光武帝からもらった金印にはっきりと漢字は刻まれているし
http://inoues.net/yamahonpen3-5-2.html
邪馬台国大研究・ホームページ


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山海経
2006年2月8日 23:50:31 管理人
に猿が出てくるんですね。うーむ。


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石信仰の源?
2006年2月10日 10:10:45 いばらの紀氏
禹の妻は食事を運んできて、熊の姿をした禹を見てしまった。
 見てはいけない姿を見てしまった塗山氏の娘は、そのことを恥じて崇高山の麓へ去り、そこで石に変わってしまった。
 このとき塗山氏の娘は懐妊していたが、やがて産み月になった時に禹が訪れて「わが子を返せ!」と叫んだところ、妻の変わった石の北側が破れて男の子が産まれた。
http://homepage3.nifty.com/kyousen/china/3k5t_jis/3k5t_13.html、禹が渭水の難所・竜門を開鑿した時に、岩の中の空洞に行き当たり、その奥で人面蛇身の神人と対面した、という説話が伝えられている。
 この時、禹と対面した神人は伏羲だとも言われている。


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YHWH+バール(禹)=二匹の魚(龍)
2006年2月10日 10:20:28 いばらの紀氏
「禹」という文字の古い形は二匹の蛇(龍)が交差した形をしており、夏の民族が二匹の龍をトーテムとしていた可能性も高い。

「キリスト教」のシンボル十字架の古い形は二匹の魚(鯉 瀧上り 龍と成る)が交差した形をしており、キリスト教徒の祖民族が二匹の龍(魚)をトーテムとしていた可能性も高い。

三位一体にローマ帝国の思惑が・・・・


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箕(巳)氏朝鮮・熊関連HP
2006年2月10日 10:27:19 いばらの紀氏
http://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/kougi/asia/asia_note-koki.pdf#search='熊%20禹'


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地震と禹と京都大学 尾池和夫総長
2006年2月10日 10:49:10 いばらの紀氏
 地球を測るという仕事は、古く紀元前2000年頃にエジプトのピラミッドの水準測量が知られており、地球の現象に人が関わる仕事は、中国で夏王禹が黄河の治水に成功したというような歴史があり、その延長上に、この村での研究があるのです。
http://www.kyoto-u.ac.jp/uni_int/01_sou/041014.htm

天文地理をつかさどる羲氏・和氏
http://www.geocities.jp/ieiri5/nikki19.html

猪は北斗七星?
昔、一行という坊さんがいた。広く学んで術に長けていた。が、一人の老婆が良く世話をしてくれた。ある時、老婆の息子がふとしたことから人を殺して裁きにかけられる事となった。老婆は一行にどうか息子をたすけてくれと頼んだ。そこで一行は、二人の寺男にかくかくの町の角に、荒れ果てた園がある。その園に行って午から夕方にかけて豕が七匹やって来るからそれを捕らえて来いと言いました。二人の寺男は言われた通り園にかくれていますと、七匹の豕がやって来ました。そしてそれをすべて捕らえてしまいました。あくる日、一行は朝早くから帝に呼ばれました。帝は「太史の申すところによると、昨夜から北斗七星が急に見えなくなったという事じゃ、これは何かの前兆であろう。教えてもらいたい」といった。そこで一行は、「それは大変なことでございまする。魏の時代に煢惑星が見えなくなったということは承りましたが、北斗七星が消え失せたとは、前代未聞の珍事。これは天が陛下を大いにいましめんとするのに違いありません」と答えた。さらに、それを和らげるには大赦を出さなくてはなりませんと告げた。そこで帝はすぐに詔を出して、ことごとく罪人をゆるしてやった。こうして老婆の息子は危うい命を助かった。そして一行は北斗七星を逃がしてやった。北斗七星の一つの星が現れると、帝は大いに喜んで、「あり難い。天帝の心が和み始めたと見える」といった。その後、一晩に一つづつ星が現れて、とうとう七つの星が出そろうようになった。
禹の帝の母は、外を歩いているときに流るる星が昴星を貫くのを見て身重になりやがてその背が剖けて、そこから禹が生まれ出たと云われる。
http://www2.csc.ne.jp/~athron11/sto_star.htm


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参考HP
2006年2月10日 10:56:32 いばらの紀氏
弥生の興亡  2、中国、朝鮮史から見える日本     塚田敬章

http://olive.zero.ad.jp/~zaw10107/4/2_1.htm

 以前にもお奨めしたような?奈良 ゴメンナサイ\(..) 


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呉音と九州
2006年2月11日 8:25:13 管理人
紀氏さんご紹介の塚田氏のHPの中に、江南の呉音と北九州のそれとの比較がなされているのは、興味深いですね。呉音文化圏って、古事記のそれとか、北斗七星のそれとかと、どう対応してくるのか、まとめていただけると助かります。


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呉で日本式銅鐸発掘
2006年2月12日 5:22:56 管理人
そう、昨日、有名地震サイトの東海アマさんのほうに、呉人に関して記載されていました。http://www1.odn.ne.jp/~cam22440/yoti01.htm
アマさんの記載によると、「昨日、中国江南地方で春秋時代、越国遺跡から日本式銅鐸が出土したとニュースで報じられた。筆者は、20年ほど前から、余談や「おまけ」のなかにあるように、弥生人は呉越戦争で敗北し、敗戦国の国民皆殺し(坑刑と呼ばれる)から逃げ出して新天地を求めて移動した呉人の末裔であると主張してきた。」とのことです。紀氏さんにとっても、これは大変な出来事なのではないでしょうか?



バンザイ\(^O^)/漢字の 胤に芽がでました。
2006年2月8日 8:48:23 いばらの紀氏

(^Q^) 
http://www.kodo-tamaki.com/blog/archives/2005/08/post_75.html

九は神聖な数です。  救 キュウ スクウ 柄杓 (北斗七星) おたま 杓子 は 蛙 ミ(壬・巳)カエルの子???
 今晩のNHK 壬(壬生?)申(シン・秦?ハタと困った)

「虫」は、「ムシ」ではありません。
これは、「キ」とよみます。

「ムシ」ではありません、キシです。


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星座
2006年2月8日 23:48:22 管理人
北斗七星と猿田彦、原稿書いてて、その辺伊勢のことあらためて考えています。オリオンの三ツ星は、3つで数えられることはわかりますが、ベテルギウス(赤星)とリゲル(青星)とをあわせて、5つで数えられることは古代にあったでしょうか。というのも、原稿で、三ツ星を住吉三神、荒魂をべテル、リゲルを和魂とする可能性について、それが是か非か、悩んでいます。オリオンなら七つ星になるのではとかも考えてはいるのですが・・・。


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参考?HP
2006年2月9日 22:01:06 いばらの紀氏

オリオン座の三ツ星で、中国では三武又は将軍星と言います。
最近話題になっています「毛利氏の三つ星家紋の起源」は大きく2つあります。
「一品起源」と「オリオン座の三つ星起源」です。
http://www.asahi-net.or.jp/~nr8c-ab/afjpkamon.htm
http://www.otomiya.com/kamon/sizen/hoshi.htm
日射神話
http://www.asahi-net.or.jp/~nr8c-ab/afchnnittsya.htm

http://www4.airnet.ne.jp/mira/seishu/name/a/hokuto_wamei.html

(禹は熊坐・・・熊襲クマソは禹祖?・・・力不足でした(;_・) 


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七星
2006年2月10日 6:16:57 管理人
紀氏さん、情報ありがとうございます。こうご紹介のHPみていると、オリオン=七星、参(三)星の用法が多いようで、五星観念はないようですね。源氏=白旗・リゲル、平氏=赤旗・ベテルギウスというのはちょっとおもしろいのですが、いつごろの観念なのかな・・・。


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いつごろの観念なのかな・・・。 」・・・・解りませんが・・・
2006年2月10日 9:57:28 いばらの紀氏
 「源氏の白旗、平家の赤旗というイメージですが、家紋も
 源氏は、笹竜胆・ササリンドウといって、笹の葉にリンドウが合わされたものだそうです。
 平家は、揚羽蝶紋・アゲハチョウ紋といって昆虫の蝶が家紋とされているそうです。
 源氏が植物、つた系(蔦 藤 葛 葵 ・・・)平家が蝶(常世虫? アゲハ? 柑橘系 橘?)というのは絹シルクが蚕(サン・太陽?蛾 ガ 牙?)・・・禹系と秦系に分けたいのですがカッパーラ(カバラ)の兵法????
「白」太陽?ヤタガラス 男(剣) 精子 ・・・「赤」 月?(反射 鏡 カカ ミ ミ カ 蛇・巳か夏蛙カ(夏)エル(差し金のL?) ・・・ミカエルの妄想)   酒船遺跡は「白」と「赤」の合体のモニメント。
神話は星座から?
ぎょしゃ座のカペラ、おうし座(禹氏)のアルデバラン、オリオン座の右下のリゲル、大三角で使ったおおいぬ座(犬 隼人)のシリウスとこいぬ座のプロキオン、ふたご座のポルックス、そしてカペラをむすぶと完成です。
1番明るい星はカペラ(α Aurigae)である。この星は、神話のヤギ(山羊 YHWH?)、アマルテイア(アマテラス?)に関係している。3つの星、ε、ζ、η星は、「子供」(アマテラス ヒルコ スサノオ?)と呼ばれる。(妄想です。(^^;ゞ )
現在の「ぎょしゃ座」は、ギリシャで「御者」と見るようになった際、バビロニアの「子山羊を抱いた老人」の姿をあてはめたものと考えられています。(・・・子羊ならYHWHなのだが子山羊では・・・デーm0ン)


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神話は星座から?
2006年2月10日 9:59:11 いばらの紀氏
アンドロメダ いっかくじゅう いて いるか インディアン うお うさぎ うしかい うみへび エリダヌス おうし おおいぬ おおかみ おおぐま おとめ おひつじ オリオン がか カシオペア かじき かに かみのけ カメレオン からす かんむり きょしちょう きりん ぎょしゃ くじゃく くじら ケフェウス ケンタウルス けんびきょう こいぬ こうま こぎつね こぐま こじし コップ こと コンパス さいだん さそり さんかく しし じょうぎ たて ちょうこくぐ ちょうこくしつ つる テーブルさん てんびん とかげ とけい とびうお とも はえ はくちょう はちぶんぎ はと ふうちょう ふたご ペガスス へび へびつかい ヘルクレス ペルセウス ほ ぼうえんきょう ほうおう ポンプ みずがめ みずへび みなみじゅうじ みなみのうお みなみのかんむり みなみのさんかく や やぎ やまねこ らしんばん りゅう りゅうこつ りょうけん レチクル ろ ろくぶんぎ わし
http://www.toxsoft.com/stella/html/uma.html
http://www5c.biglobe.ne.jp/~paruwees/Seiza_2.html
アルクトゥルスとは ”熊の番人” の意味で、いつも北斗七星の大熊に
        ついてまわるところからついた名前です。
数年前に、13番目の誕生星座に加えられるとか騒がれた星座。
        たしかに蠍座と射手座の間に少しだけ食い込んでいます。
        嘆いていた方も多いようですが、実は蛇遣座というのは凄い星座なんです。
蛇遣座の正体は、ギリシア神話第一の名医アスクレピオス。
        笛を吹く蛇遣いを連想してはいけません。
        アスクレピオスはケイローンから医術についての教えを受け
        その技術は多くの怪我人や病人を救いました。そしてその熱心さから
        とうとう死人まで蘇らせるようになってしまいました。
        これに驚いたのが、冥神プルトーン。生死の定めを勝手にかえられては
        世の中の秩序が崩れると、プルトーンはゼウスに訴えました。
        この訴えにゼウスはやむなく雷光を投げつけ、アスクレピオスを打ち殺して
        しまいました。そして名医としての才能を惜しみ、蛇遣座として天にあげました。

         蛇は脱皮して再生をはかる為、一時は生死の定めを握ったアスクレピオスを
        蛇遣いに例えたものと思われます。


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星座
2006年2月13日 2:13:54 管理人
壁画古墳で有名な中国の星座ですが、高句麗、中国の星座観念の流入が見えますね。ということは、それ以前の星座観念をどうしてしまったのかというのが気になります。消えてしまったのか、キシさんご指摘のごとく、神話の中にのみ残ったのか・・・。



会報
2006年2月5日 15:21:12 管理人
かわかつさん、下記いろいろご配慮ありがとうございます。次号以降、ぜひよろしくお願いします。どこか今回の出版についての神の意思が、その辺のみなさんの意思の流れの中にあるような気がします。今回は、どこか、数年間の総まとめとのこともあり、管理人の自論が強くでてしまっていますが、最近のみなさんのご意見も追加掲載してみました。それでは、また原稿が完成してきましたら、お知らせいたします。


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会報その後
2006年2月8日 2:39:39 管理人
会報だいたい完成してきました。WEB版とPDF版でアップしています。製本も試作版とかいろいろ作っていますが、勉強になりますね。後日予約フォームを作ります。
http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/kenkyuu.htm



漢字でづサンカ
2006年2月4日 23:43:50 いばらの紀氏
耶(ヤ・カ)馬台国は邪(ジャ・よこしま)馬台国にM&Aされた。
 漢字での古代史を考えました。
以前もお伝えしました様に、古代中国の甲骨文字(象形文字)を秦の始皇帝は疎ましく思いプロカバンダしました。
日本でも、藤原氏(中臣・秦氏)が国字・ひらがな・カタカナなでを作りだし 訓読みでの漢字の意味をプロカバンダして現代に至ると考えます。
「葛藤」葛木VS藤原なのです。かずら も ふじ も 蔦(つた)ユダヤ(12部族)の10対2 と思われます。
なぜ カナーン(ユダヤ)の民は2国に分かれたのでしょうか?
私は祭祀する神官?とその代官(軍人)VS民(職人・農民・漁民・・・・)に分かれたと考えました。
基督(キリスト)は民(職人・農民・漁民・・・・)側に就きました。
祭祀する?神官とその代官(軍人)は商人(富裕層)に就きました。
「ローマは、狼の乳で育った」狼(犬科・隼人?・モンゴル)・・・・ユダヤ10部族系?
キリストが生前に迫害されていたのに死後 キリスト教が国の宗教と成った(?)
インドがカースト制度でのピラミッド社会を形成していたが、ブッダ(釈尊・お釈迦様)が間違いと気づき「仏教」を立ち上げた。
しかし、カニシカ王など西方のプロカバンダにより釈尊の偶像崇拝の禁止の教えは失われヒンズウ教やギリシャ神的神々・仏の偶像がそれらを猜忌・祭る神主や僧侶が権益をうる仕組み・体制が構築された。

 以前より 世界が2極化され陰(月・星信仰・多神教・豊穣神?)陽(太陽・ラー・一神教・YHWH?)
鏡(カガミ・夏神・夏蛾巳)は太陽神では無く 光を反射する「月」では?

耶(ヤ・カ 「耳・ミミ・巳・箕・壬・魅・御」
邪(牙=権利収入を得る者)
古代日本、禹の「耶」(ヤ・カ夏)が 秦(秦氏・中臣・藤原)の「邪」(ジャ・よこしま)にプロカバンダされた。
蛭胡(ヒルコ)はカナーンの10部族?かも・鴨


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プロパガンダ
2006年2月6日 5:52:40 管理人
プロパガンダとはいったい!!ともかくより真実を認識し、広告することが、後々を考えると重要かとふと思います。ところで巨大豪族葛城氏とか葛城王朝っていったいなんですか?考古論文に載っていたのですが、いまいち把握しきれてない現状があります。


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ミとかミミは先住の南方系
2006年2月6日 21:46:48 いばらの紀氏
谷川健一氏は著書『神と青銅の間』の中で、「ミとかミミは先住の南方系の人々につけられた名であり、華中から華南にいた海人族で、大きな耳輪をつける風習を持ち、日本に農耕文化や金属器を伝えた南方系の渡来人ではないか」とされています。


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参考HPからでした。
2006年2月6日 22:05:09 いばらの紀氏
日子坐王伝説
http://kammuri.com/s1/oni/hikoimasu/index.htm
http://kammuri.com/s1/motoise2/manai/index.htm


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耳輪
2006年2月7日 2:54:01 管理人
大きな耳輪をつける風習が南方系というのはおもしろいですね。北方モンゴロイドに比べ、南方モンゴロイドやアイヌ系の人は、耳たぶが大きいはずで、耳輪も大きいのがはめやすいのでは。耳に穴をあけるときの痛さとか、そういうなにか感覚にも相違はないでしょうか。
「ミ」の名前の話、魏志倭人伝に出てくる九州?各国の官職?は、ミがつくのが多かったように記憶しています。ヒミコとか、いうのはどうも典型的な、「ミ」とか「ヒ」とかいう音の代名詞みたいにも感じましたが、どうでしょう・・・。


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タイ女性は
2006年2月7日 4:04:11 かわかつ WEB
大昔から今でも成人のしるしにイヤリングをはめることを許されます。
知ってましたか。


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2006年2月7日 4:51:48 管理人
やはり、タイでもそうですか。日本での耳輪の出土はどうなってるんでしょうね。それと関係するのかどうか知りませんが、紀氏さんご紹介の籠神社奥宮真名井神社、ぜひ近いうち行きたいですね。


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参考HP
2006年2月7日 11:01:02 いばらの紀氏
能舞台と北斗七星−なぜ摺り足で舞うのか

http://www.h6.dion.ne.jp/~asano/henbai.htm

能舞台に古代中国 禹との繋がりが、


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参考HP
2006年2月7日 11:19:34 いばらの紀氏
 ニーダムは「禹跡図」(西暦1100年以前)「華夷図」(西暦1040年以前)の二つ地図を示しながら、ヨーロッパ最初の刊行地図であるルカス・ブランディスの地図(西暦1475年刊行)と比較していう。
 『海岸の輪郭は相当整っており、また水系網を現代の図と比較してみると、図柄のけたはずれの正確さがただちにわかる。この図と同時代のヨーロッパの宗教的宇宙誌の産物とを比較する人は誰でも、中国の地理学がこの時代において西洋より進んでいた度合いに驚かざるをえない』《中国の科学と文化 6巻 地の科学(ニーダム)1959.監修.東畑精一訳.思索社新版1991.59-62.》
こうした高度な地図制作技術を可能にしたのが記里鼓車と指南車の機械技術なのだ。4000年前の機械学
 さてこれがいつ頃から使われ始めたかがここで探求する問題だ。私が到達した結論は実に古いのである。いかにも、われわれはなかなか4000年以上も昔の機械学を想像しにくい。
http://members.jcom.home.ne.jp/proton.news/3_history/3_file/3_2_file/3_2_2.html

http://members.jcom.home.ne.jp/proton.news/index.html


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参考HP
2006年2月7日 11:33:53 いばらの紀氏
伝説の中でよく知られたものに、鯀(こん)と禹(う)の父子の話がある。鯀(こん)は、天子・尭(ぎょう)の命で治水に着手したが、9年で失敗し処刑された。代わりに登用された息子の禹(う)は、洪水と闘うこと13年、難事業をみごとに成し遂げ、天子・舜(しゅん)より天下を譲られ、夏(か)王朝を開いた。鯀(こん)、禹(う)とも、魚の形象をになっていたとする伝承のある古代神であり、魚の神格化した存在ではないかと見られている。出所は「大漢和辞典」を出している大修館書店の本、「漢字百話・魚の部…魚・肴・さかな事典」の中です。また「大漢和辞典」にて「鰥」の語を調べると、【鰥】大魚の名。鯤に同じ。と有ります。2003/08/25up
大きすぎて釣りの対象にはなりませんが、中国ではあまりにも有名な魚だから紹介しました。大昔には日本海と黄河を泳いでいましたが、殷王朝の前の夏王朝の時代には、姿を消しました。いまから4200年以上昔の話です。
http://www.tyoukouitou.com/syoubetu/himaraya.htm
鯀(こん)、禹(う)とも、魚の形象をになっていたとする伝承のある古代神であり、魚の神格化した存在ではないかと見られている。

鯀(こん)、禹(う)とも 魚=キリスト系だったらYHWHと祖は同じ???


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参考HP
2006年2月7日 12:00:04 いばらの紀氏
五行説
(夏の国の聖王、禹(う)がつくったといわれ、禹の治世のときに洛水からはい上ってきた一匹の亀の甲羅(こうら)に書かれた文様(洛書)から五という数を悟り、国を治めるのに五つの基本原理を思いついたといわれています。)
http://www.e-state.co.jp/sub/03info/husui/yougo01.php
。『春秋左氏伝』隠公元年の記述に黄泉の逸話がありますが、ヨミの国のことを漢字で「黄泉」と表記するのも、墓の穴を掘ると黄色い地下水が出たためでしょう。
http://www.pref.nagano.jp/xdoboku/nakaken/story_dragon.htm
英語で蜻蛉(とんぼ)のことをdragonflyといいます。・・銅鐸のトンボも?
朝鮮半島では、4爪以下の「龍」いや「蟒蛇」が急増しました。
測量の歴史年表
http://www.tomei-survey.com/history.htm
・・・・龍と蛇(禹)は別?「蟒蛇」は・・・



う〜む
2006年2月4日 2:05:53 かわかつ WEB
同じ質問をするので、もう少し短くまとめておいて欲しいところです。
どうも宗教家の言葉は、自分自身が当事者になるためか、思い入れもおありになって平明簡潔とはいかないようですね??

なぜ外国人に教えるのかはよくわかりませんが、こんな話をいきなり当事者である西欧人に言ったらクレイジー扱いされるでしょう。^^それほど日本人と西欧人とでは宗教観が違う。これは日本人同士の話です。管理人さんもキリスト者である前に日本人であろうと思うからお聞きできるのですよ。

私のような一言主にもわかりやすく理解できるように一般論にしてもらえないですか。このさい、宗教家としての立場は忘れて、歴史家的一家ゴンが欲しかった。「ひとことで」と書き加えるべきでした。キリスト教批判ではないので、客観的概論でお願いしたいのですが。

キリストの磔刑以前と以後ではかなり違った形になったのではないか?ということをお聞きしたいのです。
上宮一族が皆殺しになった前と後で、聖徳太子の逸話がよりエキセントリックに脚色されてゆくのと、キリストの死は、時代の意味において似てないかというのはどうでしょう。
当時、すでに景教の影響があったとする考えがおありなら、そういう近似部分も当然議論されねばならなくなりませんか?
これは研究者に対する「一般性」への試金石にもなるかも知れませんが。

一人のカリスマの殺害によって、時代が、宗教が、歴史がどのような影響を受けたか・・・ここは重要な気がします。是非、宗教観はぬきでご意見を。

藤原氏がいいとか悪いとかの評価は歴史にはあまり関係なく、事実だけを分析すればいいのでは?そもそも終わってしまった歴史の政治家にいいも悪いもないでしょう。そういう主観的感情はあまり私にはなく、単にそれがどう歴史に影響したかというドラマツルギーには大いに興味がある。
じゃあ蘇我氏は実は善人だったみたいな関祐二の主観的記述部分は実は私は好かないです。少なくとも為政者としての不比等にはそうする必要があったはず。彼を批判してもどうしようもないことです。
その辺が信仰というものに偏りのないしろうとの見方なのですが、いかが? 
偏りという書き方も適切でないですね。「信仰の影響を受けていない」と読み替えて下さい。
もし耳障りなら、ここのレス消してください。この話はここまでにしますので。確かに少しヘビーかも。


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もうひとつ。信仰が宗教になるとき
2006年2月4日 2:27:18 かわかつ WEB
どうも信仰の色彩が薄くなると感じるのは私だけでしょうか。
キリストの死後、そして宗教改革と、キリスト教は二度の大きな変革を過ぎていますよね。
仏教は多くの宗派が分立して、それぞれが違う教義を展開しますが、仏陀への信仰そのものが変わったわけではない。
実は多くの日本人は仏教を葬式の儀式としてしかとらえていないように思います。キリスト者のように生活のすべてがそこから始まっているわけではない。
むしろ修験道のような民間信仰こそが、今の現実のわれわれの生活には密着している。日本人の精神性の根幹と言われる神道ですら、実は婚姻や建築の意識でしかないようにも感じます。
その意味で藤原氏の画策はあまり大衆には受け入れられていなかったのではあるまいか。その後の武士道を見ても、入道はしても戦で人殺しはやるですからね。信仰を変えようとしても民衆は従う振りをしてみせて、実は陰でベロを出している。こういう日本人のたくましさが好きだなあ。
思いませんか?したたかな人種ですよ。これはどこから来るのか、気になりますね。

しかし、信仰を国家宗教へ変えるとき、為政者も相当な気の使い方をしたんでしょうなあ。日本書紀のあの不明確さ、右往左往していますよ。だから未だにいろんな解釈ができる。この点で、不比等さんありがとうと言うべきでしょう、古代史好事家は。


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この間の話ですが
2006年2月4日 2:45:49 かわかつ WEB
それはさておき、この間のメールリストでの「圧力」問題ですが。

あれは管理人さんの心を思うに、「HPはもっともっと多くの人に見て欲しい、しかしややこしい組織の介入は恐ろしい」という意味でしたっけ?
どうも押した暖簾にうっちゃられたような感が強いのですが。なかなかしたたかなところがあるというデモンストレーション?
悪く言うとちょっと優柔不断かな?
本当に押されているの?ホントなら、えらいこってすよ。あれで終わっていいの?ここへ来てる人全体に及びますよ。

それと出版するような書きっぷりでしたが、個人ですか。勝手に他人の原稿を印刷物にしてはダメよ。特に下書きなどは。やるならやると一言言っておかないといけないよ。杞憂ならいいけど。


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なかなか
2006年2月4日 2:49:56 管理人
そうですねー、MSNの辞書の検索で「宗教」、「信仰」と引くと、わかりやすいのが出てきてはいたんで、それでいいかなとおもったんですが・・・。でもちょっとやはり説明不足な部分もあって、キリスト教を例にとりました。今日はある雅楽家とオーケストラが共演するコンサートに行ってきましたが、音楽でもそうですが、日本人の感性と西洋人の感性は、とてもかわかつさん的な視点から捉えなおせるのではないかと感じます。西洋の長々複雑な感性と、日本人の簡潔で直感的な感性との、組み合わせ、翻訳は、たぶんその仲介にあたった中国景教経典の訳者とか、日本の仏教者、渡来人もきっといろいろてこずったことでしょう。
かわかつさんの、上宮一家の殺害から・・・為政者がその殺害をどう利用したか??の視点、日本史的な側面から、クローズアップして、西洋の神学や哲学にひとつの考え方を投げかけれるとしたら、それはそれでおもしろいのではと感じます。ただ、私としては、聖徳太子伝承から上宮一家殺害事件までは、聖書の引用ではないかと考えているのは原稿のとおりです。しかし、その殺害記載に部分的な史実があったとして、殺害の事実と殺害の伝承を双方ひっくるめて、その後の記紀に現れた為政者のそれへの利用??の考え方や筆者の批判感情、民衆の視点など、なかなか日本人独特の信仰や宗教観が現れているように感じ、だんだん複雑化してきますが、その辺のかわかつ体系を英語版とかでも、公表してくれると、貴重な視点となってくるのではと期待です。


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信仰の薄まり
2006年2月4日 2:59:00 管理人
信仰がもっともキリスト教世界で光っていたのは、パウロの時代、初代教会が際立っていたでしょう。使徒行伝などみると、信者でなくとも、かなりおもしろい書物です。なんせ奇跡的名出来事でいっぱいですし、その信仰への熱意、平等社会の実現・・・、映画にでもしたら、現代人の多くはおそらくはかつての左翼運動以上に魅了されるでしょう。そもそもマルクス等は、キリスト教の共同体論から、理論の原型のアイデアをもとにしたといわれているとおりですから、本来のもっとも魅了され光る部分は原始キリスト教共同体にあるわけです。ともかく、本来はその後、神学など教義や組織の体系は進みましたが、一方で形骸化し、組織化し、腐敗して、分派が起こり、とかわかつさんおっしゃるとおり、信仰は薄くなっていって現代にいたるわけですね。


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原稿
2006年2月4日 3:03:58 管理人
おっと、もう印刷中ですが、かわかつさんの原稿OKでなかったんですか??季刊で年4回発行の計画で予定しています。今回は、結局私とかわかつさんと紀氏さんだけですが、4,5人の研究会の常連さんたちの原稿を会報にしていく予定です。まだこの研究会、組織化はもとより、信仰の薄まる時代は早いですから(笑)


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書き加えもなく
2006年2月4日 3:23:56 かわかつ WEB
加筆修正、管理人さんはしたのだろうけど、私のはただの試作品ですよ。
はずしてください。こっちのものと内容がダブルとこまるので。
いつもそうなんだけど、私は賞に応募する形をとっていますから。


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了解です。
2006年2月4日 3:43:14 管理人
実はまだ印刷は試作版しかすってないので、大丈夫です。了解です。かわかつさんの活動の発展をお祈りしてます(^_^)v


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私も 同感です。
2006年2月4日 11:06:02 いばらの紀氏
 オハヨウ御座います。
加筆修正、紀氏の原稿にも必要かと?
誤字脱字・・・文章表現での違和感
内容への疑問
管理人さんのアドバイスを御待ちして下ります。


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了解です。
2006年2月5日 1:22:41 管理人
紀氏さんの原稿のほうも、外させていただきます。たぶん、神の御旨でしょう。やはり会報の発行はあきらめましょう。


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研究報告書
2006年2月5日 2:58:34 管理人
とりあえず、今回の会報はやめにしました。今回は数年間の研究報告書として管理人のほうで、みなさんのご意見をまとめさせていただきました。http://www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/kenkyuu.htm次回以降で会報の件も考えましょう。


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あきらめることはありません
2006年2月5日 14:12:52 かわかつ WEB
なんでも最初はひとり。それはオナーです。
オピニオンの栄誉はたったひとりのものです。
あなただけで充分ではないでしょうか。2号は出品します。

報告のURLにブログリンクしておきます。



参考HP
2006年2月3日 21:14:55 いばらの紀氏
古墳の上に五角形の祭壇が作られたのであった。
http://hiroshima.cool.ne.jp/h_sinobu/kenzan.htm
徳島・気延山麓・八倉比売神社にある皇室の祖の神陵!?
自らの家系は鴨族の末裔であると称して、その名を松平から徳川に改めた。
徳川光圀は江戸に修史局を開き、元禄10年(1697)、突然徳島藩江戸留守居役であった老中土屋相模守を呼びつけ、覚書を手渡し、阿波及び淡路両国にある古代天皇葬場の調査が続けられたのであった(阿波国国史研究会編『道は阿波より始る』に詳しく述べられている)。
 四国、中でも阿波の国には隠された歴史があるらしい。それが又日本歴史の根幹をなすものようである事が分る。
古代ユダヤ王国であった日本が首都置いた四国徳島県
古代ユダヤの人々は四国山上において東祖谷村、西祖谷村等で生活していたように、奈良県南部の同じような地形の所に十津川村を作った。



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参考 猪が伊吹山の神
2006年2月2日 23:22:32 いばらの紀氏
 
「社記には、大碓命は、「景行天皇の52年、猿投山中にて毒蛇のために薨ず。御年42歳、即ち山上劔葬し奉る」とあります。よく「双子は同じ運命をたどる」と言われます。大碓命は猿投山の毒蛇、小碓命は伊吹山の白猪で命を落とします。伊吹山の猪が伊吹山の神だとすると、猿投山の蛇は、猿投山の神なのかもしれませんね。」
伊吹山の猪が伊吹山の神・・・・・


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ヤマトタケル
2006年2月3日 0:07:09 管理人
そう、昨日本屋で読んだ新刊に崎本氏の「ヤマトタケルに秘められた古代史」という本があり、そのヤマトタケルが二人いたとかいう、論だったような気がします。伝承上とされるこの人物について、考古面から実在か否かを追求しており、面白い本でした。h本の詳細はこちら。http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/487751287X/qid=1138892610/sr=1-1/ref=sr_1_0_1/249-6967803-9578729


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まとまらない 紀氏でした。  
2006年2月3日 0:44:26 いばらの紀氏
「ヤマトタケルは江戸以前は「ヤマトタケ」とされていた。」
            「ヤマトタケルに秘められた古代史」より
ヤマトタケ   矢 的 長け(タケ)? 山門の丈?
「タケ」=「武」「部」たけべ・・・冗談?

竹内 武智 ・・・タケチノスクネ
 またまた まとまらない 紀氏でした。  おやすみなさい。


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白い猪
2006年2月3日 21:00:51 かわかつ WEB
が出てくるのは和気清麻呂の左遷の際にもありますな。
ヤマトタケルは確か白い鹿だったような・・・
白い動物は奇瑞を表しますが、奇瑞は同時に不穏なことが怒りそうな気配を忍ばせていそうです。
動物のしろこはそれ自体が珍しい。いいも悪いも、珍獣、奇獣を目にすることは人心を不安にもさせたでしょうね。たとえば今でも、黒猫が横切ると縁起が悪いなどと申しますから。
日本人はこの不吉なヒーローを、ところが大好き。この辺が信仰というものの面白いところでしょう。
裏腹。表裏一体。これまさにかっバーらですな。

ヤマトタケルには成功と裏切りが点滅しています。それはスサノオも源義経も平将門も同じように見えませんか?


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信仰と宗教の違い
2006年2月3日 21:11:30 かわかつ WEB
管理人さん、説明できたら教えていただきたいです。
私は教義があるのが宗教。自然に人の中にあるのが信仰だと思います。

世界に宗教革命後のキリスト教ほど教義が煮詰まっている宗教はないように思えます。非常に論理的なのではないかと。
つまり厳しい教義が必要なのは、自然と信仰を内包した原初的人間ではなく、この世界を政治のある統一世界にしようとする為政者なのではなかったかと見えるのですが。
そういう目で見ると、藤原不比等のやろうとした時代背景が非常に西欧の宗教改革時代に似ていたのではないかと。
キリストが聖者とされた背景と、聖徳太子やヤマトタケルが聖者やヒーロー化されてゆく過程は驚くほど似ていませんか。
西欧人がキリスト教に熱中する理由も、悪魔をいつまでも畏れる理由とはもしや、同・・・・????中を取りもつマリヤ様????


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獅子身中の虫は
2006年2月3日 21:17:32 かわかつ WEB
裏を返せば同時に自分自身の中に巣くう「魔」ではないか。対象を畏れているように見えて、実は自分自身の中の鬼をも畏れているのが時代の主人公かも。


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古代人の感覚
2006年2月3日 21:20:07 タックン
とかく古代の人々は、自然の現象・災害などに畏敬の念を持っていて、何か不思議な自然現象などが起こると、その地に何らかの祭祀的な空間を作り、それが後世やがて発展していったのが、神社などの祭祀的な建築物になっていったようです。
古代人にとっては自然災害などは、大いなる脅威であり現在の人に当てはめてみても、苦しい時の何とかという具合ですから、古代の人にとって見れば現在の何倍もの恐ろしさであったろうと思われます。

自然界にすむ動物なども、不幸をもたらすもの、幸運をもたらすものなどの伝説が生まれて、実際には存在しない動物像なども作り上げられていったと考えられます。
日本武尊の伝説も、かわかつさんが言われているように、これも 白い白鳥 この白という色に、古代人は何か畏敬の念、尊重の意味が込められているのではないか?神社にある白幣なども白ですが・・・・


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信仰と宗教
2006年2月4日 1:10:37 管理人
古代日本での白への観念、どこからどういう起源で来たのでしょうね。かわかつさんのおっしゃるとおり、信仰は個々人のこころの問題ですから、集団を単位とする宗教の概念とは違いますね。キリスト教徒であっても、信仰の度合いは個々人でずいぶん相違があります。聖書にも、弟子のペテロの話などを読むと、湖の上を歩くイエスの後を追って、神の力を信じて湖を歩き出したペテロが、しばらくは湖を歩くことができたが、その後風が吹いてきて、沈むのではないかと疑いはじめた。すると、たちまち沈みはじめてイエスに助けを求める。信仰の薄いものよ、なぜ疑ったのか?という内容のお叱りをうけたわけですが、つまり、信者の中の信者でさえ、神を信じゆだねず、疑うことをすることが多いわけです。これを信仰の強さ、深さの度合いともいえるのですが、キリスト教だけの定義ではないでしょう。キリスト者ではなくとも、キリストを信者以上に強く信じゆだねて生きているケースも多くあります。信仰とは、どの存在を信じ、ゆだねて生きるか、その度合いですね。ご指摘のとおり個々人の問題ですが、しかし神が信じるようにその恵みを信者に与えなければ信仰することもありえない、ということもあります。その辺は説明するのがだんだん複雑になってきて、いわゆる神学の教義が生まれてくるわけです。神学とは、聖書等の信仰の有様を分析し、定義づけして、論理化するという一側面を持っています。ただ、もともと神学があって宗教が成立したわけではなく、後代の神学者の産物です。


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つづき
2006年2月4日 1:10:55 管理人
そこで宗教とはなにかですが、かわかつさんのおっしゃるとおり、集団、つまり共同体で共有する特定の教義をもっており、そのある程度儀式化、制度化した教義にしたがって生きる人々のことをいうのではないかと感じます。そこには、ただ皆神を信じるというだけではなく、信じるように導き教える人が出てくるわけでして、そこに権威が乗っかってくるのでしょう。信仰のあり方を教え、修正したりと、つまり小学校の教師役みたいな人々が出てくるわけですが、善的な宗教の場合は、信仰とともに、その愛のあり方を教えています。神の愛のあり方、隣人、家族への愛のあり方、夫婦での愛のあり方、共同体での・・・つまり神を信じる信仰のあり方とは別に、愛し方について教えていくのが宗教の本質ではないかと感じますが、問題は個人だけでは愛は生じない、あるいは生じても神と個人の一対一の愛のあり方だけしかわからない。そこで共同体を通して愛のあり方を集団で学ぶわけです。ここで、信じるという行動が個人的問題であるのに対し、愛するという行動が集団的になってきて、信仰と宗教とが観念的に分離してくるのではないかと感じます。実際、信じて奇跡を起こすのは、神存在の意図があればある意味短時間でも習得できる人はいるのですが、愛し方を学ぶのは、神の恵みとともに、長い時間、一生かけての修練が必要になるわけで、そこに厳しい教師役も必要となってくる、制度化、権威化も必要となってくるわけですね。ただし、宗教がかならずしも善的であるとはいえないということでして、愛し方でもアガペーからエロスまで、千差万別、表面上善人面でも中身は悪人とか、いろいろかわかつさんのおっしゃるとおり、藤原氏が善人ではなかっただろうとか、怨霊を神存在に祭り上げて信仰させ教義化し制度化した、というストーリーも十分にあるだろうと感じますので、ぜひぜひその辺海外の研究者にもわかるように、わかりやすく説明してあげてくださいね。



衝動買いの本でいっぱい
2006年2月2日 21:24:49 タックン
此処のところ、衝動買いの読みかけの本で、部屋中いっぱいになってきて、少し困っております。
見聞を広めようとして、考古学以外の本や、勿論考古学書の古本屋さんに行っては買いあさってしまいました。
特に前まで欲しかった、角田文衛氏の最近出された、「古代学の展開」これ結構なお値段で高かったんですが、意を決して買って今読んでおります。
氏は戦前にヨーロッパに留学の経験があって、主にヨーロッパ考古学の日本では権威者ですが、日本の考古にもかなり明るく、平安京についての論考も、この本には収められており、かなり資料的な価値がありますが、まだ現在途中半ばで読んでから感想を書きます。
かなり古本屋通いが講じて、少しマニアックな感じになりつつありますが、今後も良い本を探して古本屋通いに精を出してみます。
ところでかわかつさんは知っておられるかと思いますが、鹿児島県から「先史古代の鹿児島」という本が現在編纂中で、去年この資料編が発刊されています。
ところがこの本を問い合わせたところ、一般頒布はなされていないとの事、少々がっかりいたしました。
同じ九州内で、こういう考古を中心に叙述した「原始古代の長崎県」は一般に頒布されていたのに・・・・・
因みにこの本は以前購入して、持っており結構活用しているつもりです。
こういった本、関西で発刊されたら、いち早く頒布しているのに(・・?って思ってしまいます。
やっぱりお国柄が、こっちとはだいぶん違うんですかねぇ〜
一般に、売ってくれ〜って、先日むこうに電話してしまいました。


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新刊
2006年2月3日 0:00:54 管理人
わたしも、昨日は衝動買いでした。考古から視野を広げるたっくんさんと対照的に私は考古学の論文を珍しく買ってみました。日本歴史2005年12月号に、本位田菊士氏が、佐紀盾列古墳群と垂仁天皇陵との題名で論文書いており、例の日本武尊陵や、景行天皇陵など、いろいろ書かれており、今読んでいるところです。私のほうでも、後日報告いたします。いろいろ情報よろしくお願いします。



新羅とローマ
2006年2月2日 10:36:06 管理人
あれからついに「ローマ文化王国ー新羅」由水常雄著を購入して、読んでいますが、新羅の古墳から出土するローマの品々、すごいです。3〜7世紀にいたるまで、新羅が中国と交流しないで、シルクロード経由でローマ・中東と交流していた様子がよくわかりました。もちろんローマ方面の人物の流入もあり、秦人の意味、彼らの政治形態とローマ政治形態、習俗・・・、相当類似点が出てきているようです。秦氏研究のかわかつさん、これ読まないともぐりになりそうです。新羅の天文台遺跡とローマ方面のそれ、新羅の金冠とローマのそれ、ローマングラスはもちろん彼の専門ですが、いろいろ比較がなされています。秦韓、弁韓と馬韓とはぜんぜん習俗も相違し、後者が中国的なのに対し、前者はあまり中国の影響を受けていないことも文献面から証明されています。
最近発掘されている飛鳥池の斉明の水道関連遺跡にもローマ文化的な噴水などの施設を有しており、同時代の新羅庭園の流水機構とかなり共通性が解明されつつあります。今の書店をみているかぎりですが、相当盛んになりつつある渡来人研究が進めば、ローマ文化やキリスト教等の3〜7世紀台の日本への流入は、数年で証明されるように感じます。もちろんそこには新羅系の秦氏のキリスト教的な文化形態もキーになりますし、新羅との海流で関連する北九州から日本海経由での神道祭祀への影響も、まずここ数年で明らかになるでしょう。特に渡来人研究会で、なにもしなくても数年でそうなると思いますが、新羅と日本とローマのかかわり、古代史でどう捉えていくべきか、渡来人研究会でも、よく融和的な最善の解決策を考察していきたいと思います。



証明は難しいかも
2006年1月29日 8:38:49 かわかつ WEB
キリスト教やユダヤ教解釈にはかなりの努力が必要ですね。
ダビデの星について証明?に挑戦してみました。

http://white.ap.teacup.com/soudasui/
お宅様の画像掲示板でも見られます。


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六角形製作
2006年1月29日 15:40:39 管理人
かわかつさんのブログ拝見しました。装飾古墳、芸術的で綺麗ですね。六角形、写真やイラスト図で説明してくれると理解しやすいです。証明、難しいですが、きっと六角形のものを作るには、六ボウ星が必要となるのでは???六角形の古墳とか、建造物とかがあれば、そのままダイレクトに証明につながるかも・・・・。


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Re 六角形の古墳・・・あります。
2006年1月29日 22:10:20 いばらの紀氏

奈良・明日香 マルコ山古墳は六角形 皇子埋葬説強まる
http://www2.odn.ne.jp/kofun/maruko.htm
2004年12月6日
石室 ... 墳丘(ふんきゅう)が六角形であることが確認された"塩野六角古墳
http://www.town.yasutomi.hyogo.jp/outline/sightseeing/kofun/

見た目は地味だが、変形六角形の2重周堀を持つという珍古墳
前方後円墳としては群中で最も新しい7世紀前葉頃の築造の可能性が出て来た。
http://www.asahi-net.or.jp/~fx3j-aid/kofun/saitama/68_gyda/teppo.html

鳥居のある古墳は・「神社古墳」ですか?・・・・茨城の玉里村には鳥居のある古墳は、「お墓」でした、・・・・そこは「羽鳥家」の墓所・・・ハトリ 服部  秦 織部?


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六角墳
2006年1月30日 1:46:45 管理人
紀氏さんご紹介ありがとうございます。中国では皇帝が八角墳、皇子が六角墳という事例があるんですね。そして播磨と埼玉で六角墳が・・・・。多胡にも八角墳ありますよね。埼玉のは7世紀中葉とのこと。天武陵は八角形。中国道教経由とはなりますが、重要ですね。中国は開封のユダヤ人については、先のヨセフさんの本で前漢時代から痕跡があるそうですが・・・。やはり道教の方術関連は、インドの牛信仰はもちろんのこと、中東経由の思想も多いのではないかと感じます。それがめぐりめぐって??


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八角形で思い出し
2006年1月30日 11:05:23 かわかつ WEB
天武朝の時代、天皇の墓はみな八角形だというのは本当でしょうか。
持統天皇は天武陵に合葬されたそうですが、彼女はここにはいりたかったのかな、少し疑問。

この時期は美術史に言う、「白鳳天平時代」の幕開けにあたりますが、それは西欧で言うルネッサンスに似ていませんか。
日本書紀の編纂が始まり、神道の統一が始まっている。

八角形というとどうしても思い出すのが夢殿。


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終末期古墳の墳形
2006年1月30日 20:02:26 タックン
は様々あります。
特に、皇陵と比定されている古墳は、この六角形や八角形の墳墓が多いです。
然し、この墳形を採用している古墳は、皇族・それも天皇にかなり血筋が濃い人の墳墓に採用されていると見ています。
京都山科にある、天智陵なども見た目は上円下方墳ですが、上部の方の部分は、最近の宮内庁の実測によると八角形か?六角形の築造が強まっています。
飛鳥にある、天武・持統陵もこの天智陵とほぼ墳形が同じです。
高松塚などは現在墳形は不明ですが、マルコ山が六角形となるとこの古墳もひょっとして!と考えられるかもしれません。
何時の頃から、六角形や八角形墳を皇陵に採用されだしたか?は私の不勉強であまりまだ判りませんが、私が思うところ推古以後、舒明の頃から採用されだしたか?と考えています。
これには、大陸から伝わってきた、神仙思想・風水の影響下で古墳が築造されだした結果と考えています。
以前の古墳築造では、墳形・内部構造に意が注がれていましたが、宮都などや、寺院などの造営が始まる頃になってくると、宮などの造営に関連して位置決定などを、大陸に習って風水の方法を使って、建設されるようになってきた、墓造りに老いてももそういう思想が浸透して、いち早く最新の手法で墓の位置決定や、墳形などの採用も取り入れていったという事です。
これも蘇我の影響か?


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六角形の三角紋
2006年1月31日 18:36:10 かわかつ WEB
http://8811.teacup.com/toraijin/bbs
貼り付けておきます。


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装飾古墳
2006年1月31日 23:43:00 管理人
かわかつさんご紹介の装飾古墳、ほんとに幾何学的ですね。九州装飾古墳と、畿内天皇墓への流れは・・・。たっくんさんの情報を読んで感じるのですが、欽明ごろにはまだ墳形に道教色はでてなかったんですよね。推古になると出てくる・・・、遣隋使が始まったのもそのころですが、中国文化流入の第2の転機があったのでしょうか。蘇我ですか・・・。


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マイクロソフト
2006年1月31日 23:45:06 管理人
そう、またまたマイクロソフトの検索にうちのHPが引っかからなくなりました。渡来人で上から2番目に数日前までは出ていたんですが・・・。前回はポップ付きのサイトは検索に出てこないようにされたので、みんな困りました。今回はフラッシュでしょうか・・・。それともなにか学問面でマイクロソフトに圧力でもかかったのか??


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確かにMSNでは
2006年2月1日 20:19:06 かわかつ WEB
掲示板しか出ていないですね。Googleなどは皆出てますがねえ・・・しかしここが出ていないのなら、うちも出ないはず。しかしちゃんとうちは出てます。圧力がかかるならもっともっと激しいところはいくらでもありますから、気にしない方がいいと思いますよ。
第一、あなたのサイトのどこに危険思想があるでしょうか?なにか思い当たりますか?私の書いてることの方がよっぽど危ない^^と思うけど。
杞憂ですよ。
最近はブログのブームで、電波が届くのがかなり遅くなっていますね。特に夕方、夜中もかなり時間がかかり出しました。


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やはり
2006年2月1日 23:42:44 管理人
MSNに問い合わせしてみます。うちの研究会への脅し、いろいろあるんですよ、困っています。日本の古代史研究について、その辺はついて回ることですが、アメリカ等自由主義国でのネット上の研究公開のあり方と、それへの政府、宗教団体からの圧力との関連も注目しています。アメリカが自由主義とはいえ、アメリカの企業となると、その辺の考え方はどうなのかな。
ブログ、最近流行のようですね。接続が遅いときもあるようですね。