平和よ永遠に・北炭平和炭鉱と若鍋炭鉱






平和炭鉱のズリ山



北炭平和炭鉱の起源は明治39年に開鉱した若鍋炭鉱に遡ります。明治32年に北海道庁の地理調査班が発見、持田辰之助が鉱業権を獲得し、中野四郎を経て谷七太郎が谷新夕張炭山の第二鉱として明治39年に開削されました。その後石狩石炭が事業を継承し、明治40年に琴平坑(西一番坑・西二番坑・西二番斜坑)と八坂坑(東二番坑・東二番斜坑)、大正3年に平安坑(南坑又は三坑)が開坑しました。しかしながら大正3年に西一番坑及び西二番斜坑にて423人の方が亡くなる大災害が発生し、大正5年に住吉坑(西新坑)が開坑するも経営は悪化、石狩石炭は最終的に大正9年に北炭に合併しました。その後もガス爆発の死傷事故が相次ぎ、ガスの処理の問題が解決されず、昭和5年に一度閉山に至りました。

北炭平和炭鉱は旧若鍋炭鉱の鉱区に昭和12年に開鉱しました。戦後昭和23年に平和第二炭鉱(第二斜坑)が開鉱、昭和29年に平和炭鉱、平和第二炭鉱を一鉱、二鉱と改称、昭和32年に一区、二区とさらに改称されます。一区は昭和39年に終掘するも、二区は昭和39年に北部第二立坑、昭和44年に第二立坑が完成しています。その頃の昭和41年に一度生産量が106万tと一度100万tを越えています。昭和43年には坑内火災で31人の方が亡くなる事故が発生、昭和50年に閉山に至りました。現在、北炭平和炭鉱の選炭工場の跡地には整然と整備された運動公園が広がりズリ山と坑口がわずかに炭鉱があったことを今に伝えます。「平和よ永遠に」は平和炭鉱労働組合が閉山時に出版した解散記念誌の名前です。



志幌加別川を渡る橋の横にはいつの時代のものか、橋台が残っていました。



橋の先には坑口がふたつ。左側が人道竪入。右側が一区水平坑口。



人道竪入の坑口は半分埋もれながらもなかなか立派です。



一区人道斜坑は北炭のマークの付いた立派な坑口でした。その隣の一区材料斜坑の坑口は小さなもの。



一区ベルト斜坑の坑口前には水溜りがあり、坑口反対側には一区水平ベルトの入口がありました。原炭はここから搬出され、ベルトコンベアが一区水平ベルトのトンネルを通り、未選ビンまで続いていました。



一区水平ベルトのトンネルを抜けるとここに到達。ここから原炭は円筒型の未選ビン2基に一時貯蔵され、トロッコで川を渡り、選炭場へ運ばれました。未選ビンは平成9、10年に解体されました。



さらに山奥に入っていくと二区添卸があり、そのすぐ上には二区本卸の坑口がありました。



坑口の上には扇風機も残っていました。



人道竪入、一区水平坑口前の広場からはズリ山を上っていくブル道が続いていました。



ズリ山は削られて大分低くなりましたが頂上からの風景は絶景です。自動車教習所が模型のように見えました。



第一立坑の脇にある石勝線(旧夕張線)はかつては複線だったことを物語るトンネルが残っています。



第一立坑は厚いコンクリートで密閉されていました。また放散筒に繋がっているのか、設備が若干残っていました。



かつて若鍋炭鉱の平安坑の跡地にはシックナーなどの構造物が残ります。



若鍋沢を遡っていくと5部の西側に小さな池がありました。この東側にはかつて小学校もありました。



さらに進むと社員社宅のあった場所ではビール瓶、味の素の瓶などが土の中に埋もれていました。味の素の瓶は明治〜大正時代のものです。



コンクリートで密閉された第二立坑とその奥には土で埋もれた第三立坑がありました。また脇には屋根が潰れた小さな建物もありました。」



若鍋炭鉱の選炭場付近には配管が奥から続いていました。



若鍋炭鉱琴平坑のあった場所には土から突き出た放散筒とコンクリートでできた二連の石炭搬出施設がありました。放散筒のあった場所に坑口があり、搬出された石炭がこの搬出施設から選炭場まで送られたのでしょうか。


参考文献 昭和52年 平和よ永遠に 平和炭鉱労働組合
平成19年 地図中心 財団法人日本地図センター



北海道旅情報巻頭  3-1.炭鉱町を旅する
平和よ永遠に・北炭平和炭鉱と若鍋炭鉱