昭和を駆け抜けた中外鉱業上国鉱業所


中外鉱山は北海道の鉱山の中でも地味な部類に入る鉱山です。鉱山の起源は太平洋戦争直前の昭和14年と比較的新しく主にマンガンを産出していました。マンガン鉱としては日本で最も大きな鉱山でもあったのです。太平洋戦争時には戦時体制の中大幅な増産がされました。そしてその歴史は戦後に至っても続いていったのです。

中外鉱山のあった場所は早川と呼ばれる地区で最盛期には1,500人を越えるほどの大鉱山集落になりました。鉱山を中心に多くの鉱山住宅や小中学校などが狭い谷にひしめくように立っていたのでしょう。しかしながら昭和の後半に至ると円高のため徐々に鉱山は縮小され、ついには昭和61年に44年の歴史を閉じたのです。

今、石崎からこの中外鉱山に向かう間にはほとんど人家はありません。しかしながらこの谷には砂利を採掘している場所がありわずかながらの人の気配を感じることはできます。そしてそんな砂利採掘場所を通り過ぎた先に鉱山はあるのです。

鉱山はそのほとんどの存在が原野に帰ってしまっていますが鉱山機能のひとつであった焙焼炉がズリに埋もれながらもその原型を留めていました。その様は砂に埋もれたクレヨンであるかのごとき奇観だったのです。そして鉱山住宅もわずかながら立っていました。打ち付けられたベニヤ板はまだそんなに時間の経過を感じさせるものではなかったので数年前までは鉱山の管理の関係でまだ使っていたものかもしれません。鉱山の奥までは行かなかったので今も事務所が置いてある可能性もあります。

また鉱山住宅が立ち並んでいたであろう場所の脇には若葉小中学校がほとんど放置され荒れ果てた状態でその姿をさらしていました。校舎、体育館ともぼろぼろでとても見るに耐えない状況で解体の検討もされているようでが、かつてこの地で生まれ育った人が再び故郷を見ようと戻ってきたとき、何も残っていないのがいいのでしょうか、それとも荒れ果てた学校でも残っているのがいいのでしょうか。


金華駅前通り

北海道旅情報巻頭  3-1.炭鉱町を旅する
昭和を駆け抜けた中外鉱業上国鉱業所