北の海 

                      海にゐるのは、
                   あれは人魚ではないのです。
                   海にゐるのは、
                   あれは、浪ばかり。

 中原中也の詩の一節で、さらに「浪が北海の空を呪っている」という心象風景
の描写が続く。学生時代にこれを読んだときは、北海の寂寥感がしっくりと
分からなかった。でも、後に起こったある出来事が、私に詩の意味の一端を
理解させることになる。

 1988年、関連病院での医師としての修練を終え、大学院で研究をしていた。
9月に遅い夏休みが取れたので、2歳の長男を連れて妻と北海道へ旅をした。
当時の収入といえば、週に1回の関連病院でのアルバイトのみなので、
旅においては費用を節約するべく努力していた。
そこで常宿となるのは、安い施設がお決まりであった。
でも、それまで泊まったところは、どこもそれなりに快適だった……

 夏の終わりの女満別空港は、観光客の姿もまばらで、曇天の下にひっそりと
静まり返っていた。気温も肌寒く、知床にたどり着いた頃には、冷たい雨も
ぱらついてきた。ウトロ町の海辺に佇む今宵の宿は、道路を挟んで海と対峙
した古いモルタル造りの2階建てであった。駐車場に降り立つと、どこからか
ウミネコの寂しげな鳴き声が聞こえてくる。吹き抜ける風は潮の匂いを含んで
粘りつき、まだ夏だというのにやけに冷やりとしている。そのとき、天啓の
ように、いやーな予感が降ってきた。そういった不吉な考えは、往々にして
当たるものなのだ。

 中に入るとロビーは薄暗く、カウンターの従業員はさらに暗い感じで、
ソファには埃がうっすらと付いていた。通された部屋はかび臭く、カーテンは
薄汚れ、畳は致命的なほどに変色している。どこからか隙間風が吹いてくるので、
押入れを開けてみたら壁に穴があいていた。共同トイレに続く廊下は斜めに
かしいでいて、歩き始めたばかりの息子が転ばないか、ひやひやした。夕食は
漁港近くであるとは信じられないような質素な魚の干し物。大浴場と書かれて
いた所には3人も入ると一杯の浴槽があった。風呂場で会ったおじさんは、
近くの工事現場で働いているので連泊していると言った後、「ここに家族連れが
来るのは珍しいねぇ」などとつぶやいた。

 だが息子は元気だった。かたむいた廊下をおもしろがって走り、浴槽では
プールに入っているようにはしゃぎ、食事はいつもよりも多くたいらげた。
せんべい布団で安らかな寝息をたてている逞しい息子を見ているうちに、
ふと学生時代を思い出した。

 そういえば当時はさらに節約旅行をしていて、よく駅で夜を明かしたもの
だった。奈良駅で寝袋にくるまっていたら、朝食に買っておいたパンを
浮浪者に盗まれたり、仙台駅で寝ていて目が覚めたら、すでに通勤時間帯
になっていて客の視線が冷たかったり、新潟駅では外に追い出されてしまった
ので、駅の軒下で一夜を過ごしたりもした。まあ、そういったホームレス的
状況に比べれば、屋根はあるし、布団はあるし、風呂にも入れたし、ここは
極楽じゃないかと考えられなくもない。

 気を取り直し、部屋の灯りを消して横になると、漆黒の闇が訪れた。
最果ての地では外の灯りさえ無いのである。窓を激しく叩く雨、宿を壊すかの
ような風の咆哮、果てしなく続く海鳴り。ああ、これぞ、中也の世界。
9月でさえこんなに寂しいのに、厳冬期の知床は、いかばかりか────凍てつく
大地をブリザードが吹きすさび、さかまく海には流氷が押し寄せ、絶え間なく
降り積もる雪はあたり一面をホワイトアウトしていく────と想像している
うちに、いつの間にか眠りに落ちていった。
               
 けれども、その後はというと、道東を回って何軒かの宿舎に泊まったが、
どこも大変設備が整っていて、我々はほっと胸をなでおろし、旅をエンジョイした。
 
 そして月日は流れ、2003年。再び北海道旅行を計画し、パンフレットを
眺めている。しかし、当時を思い浮かべようとしても、快適だった宿は、
ぼんやりと霞がかかったみたいに、どうもはっきりとしない。一方、
知床の一夜の情景は、しつこいリフレインのように、今も脳裏に焼きついて
離れないし、あろうことか妙な懐かしさまで覚えてしまう。

  なんでだろう?

 「ふふふふ、ひょっとして、マゾだったりして」
と、妻が言っているのだが……

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