犬脱走 パート2
 パート1からしばらくして、午前中の診療を終えて、愛犬との
いつもの散歩の途中で、近くの小さな神社の境内に警察官と
近所の人が集まっているのを目撃。
神社は生垣に囲まれており、高さは腰くらいまでなのだが、
何が起きているのか遠くからではよく分からなかった。
とりあえず近づいてみたところ、生垣越しに警官から「ドッグフードを
持っていませんか?」と声をかけられた。
話を聞いてみると、犬がうろついていると警察に通報があって
駆けつけたのだが、犬は神社の境内に逃げ込んでしまったとのこと。
生垣の奥に犬が隠れていて捕まえたいのだが、うっかり手を出すと
咬まれる恐れもあるので、餌をおとりにして誘い出したいらしい。

 あいにくドッグフードは持ち合わせていなかったので、
どうしたものかと神社の外側から生垣に近寄ってみると、
すかさず我が家の犬がその中に前足を突っ込んでツンツンし始めた。
よく見ると生垣の間から犬のお尻がはみ出していて、
そこをお触りしているのだ。
頭隠して尻隠さずとはまさにこのことで、犬種は分からないが
どうやら小型犬のよう。
しかし我が家の犬がセクハラ風のちょっかいを出しているにも係わらず、
生垣の中で犬はピクリとも動かない。
緊張のあまり硬直状態のようで、天の岩戸にこもった天照大御神
(またしても例えが古いですが)ではないが、まったくそこから
出てくる気配もない。
 このまま成り行きを見守りたかったが、午後の往診の時間が
迫ってきたため、後ろ髪を引かれる思いでその場を離れ、
クリニックへ戻らざるを得なかった。

帰る途中でふと『名犬ラッシー 家路』という昔の映画を思い出した。
ヨークシャーに住む少年が、貧しさから飼っていたラッシーという
コリー犬を手放さなければならなくなった。
お金持ちに売られたラッシーは、スコットランドへと連れていかれた。
しかしラッシーはそこを脱走して少年の住む家を目指し、
何百キロもの道のりを辿る。
嵐に合い、羊を襲ったと誤解されて銃を向けられ、猟犬から逃れ、
山を越え、川を渡り、強盗と戦い、野犬保護業者に追いかけられ、
痛めた足を引きずりながらも、やっとのことでラッシーは帰ってきた。
途中で何度も危機に陥ったが、隠居の老夫婦に助けてもらったり、
芸犬を連れた行商人と道中を共にしたりして、なんとか旅を
続けることができたのだ。


 ひょっとしてあの犬も、遠くから飼い主のもとへ帰る途中なのでは
ないだろうか。
ドヴォルザーク『新世界より』の家路のメロディーが、頭の中で
ずっと鳴り続けている。
そこで往診を済ませた後、もう一度神社に行ってみたのだが、
すでにそこには犬や警察官の姿はなかった。
もしも警察に引き取られてしまったら、旅を続けることはできず、
主人の元へも帰れなくなってしまうだろう。
それどころか保健所に送られ、処分されてしまうかもしれない・・・

 でも結局、後日その場に居合わせていた近所の人に尋ねたところ、
ほどなくして犬を探している人が現れて、無事に保護されたそうだ。
なんでも知り合いから頼まれて数日間だけ犬を預かったのだが、
ちょっと油断したすきに開いていたドアから脱走してしまい、
慌てて行方を追っていたらしい。
何はともあれ無事に飼い主に返されたということで、
ほっと胸をなでおろした。
しかしラッシーとは違って、ずいぶんと短い冒険の旅だったのね。

 ちなみにCNNによると、2020年に米カンザス州で
行方不明になっていたクレオというラブラドール犬が、
ミズーリ州にある飼い主の転居前の自宅に戻ったとのこと。
飼い主が転居前に住んでいた家と、現在の自宅とは
90キロ以上も離れていて、クレオがどうやって以前の家に
たどり着いたのかは分かっていない。
犬にも伝書鳩みたいに優れた帰巣本能があるのだろうか。

 ラッシーの映画は1943年に制作されたもので、エリザベス・テイラーが
お金持ちの娘役で出演している。
彼女はこの時わずか11歳、笑顔がチャーミングでとにかく愛らしい。
また日本で1996年に制作されたアニメ版もあり、同じようにラッシーが
長い道のりを経て、少年のもとへ帰る物語が描かれている。

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