牡丹燈籠の音楽制作の途中で

湯淺 隆

人形劇団プーク『怪談・牡丹燈籠』パンフレットに寄稿
(2009年8月20〜23日 新宿・紀伊國屋ホールにて上演)


 牡丹燈籠の音楽の制作中、思い出した事がある。記憶では小2以前の話である。自宅近所の小さなタバコ屋の路地裏の軒先に、アホ犬と言われる雑種が飼われていた。アホ犬とは近所の悪ガキどもの俗称で、いくら虐めてもシッポを振って寄ってくる犬なのでそう言われた。悪ガキどもの徒党は、その路地裏を抜けるとき、アホ犬の頭を撫でると称して、ことごとく引っ叩いた。それが祟ったのかどうか、ある日を境にアホ犬は下あごをガタガタ震わすようになって死んでしまった。飼い主は「いつも遊んでくれたのにねえ」などと悪ガキどもに悼むが、どこ吹く風の悪ガキどもは、もぬけのからの犬小屋を尻目に路地裏を闊歩した。
 今となれば、胸の痛む話である。懺悔の気持ちで一杯である。しかし、私はあえてここで、子供とはそういうものかもしれないと言いたい。よくできた子供を描く安易な児童小説の倫理観などは、安っぽい大人の思想で、子供の原質の無邪気には、生と死、善と悪、天国と地獄、等々、相反する価値観が混沌のまま同居している。だから、子供は平気で殺すし、平気でよみがえらせもする。いちめんの花に歓喜し、その足で花を踏み倒すことに打ち興じ、花を摘めば殺めた犬に供えたりもするのだ。
 さて、牡丹燈籠の音楽制作の途中、私は登場する人形がそんな子供の化身に思えてきた。人形は子供の原質の無邪気と同じく、救いようのない心変わりや惨殺なども平気なのだが、使い手の動きが止まり人形が静止すると、無邪気の本質が表出しどこか愛らしい。そこには牡丹燈籠という物語を超えた、人形でしか出来ない表現が見え隠れする。
 ところが一旦使い手が手を離し、人形の魂が抜けると、人形はとたんに放置された子供の死体のように不気味な存在に見え始める。何故か?それは大人が子供を葬ることで大人たり得た原罪意識に由来しまいか?とすれば人形劇とは、葬られた子供をよみがえらす儀式だ。観客は人形によって、安っぽい大人の思想の操り糸を切られ、安易な倫理感を脅かされるのだ。
 牡丹燈籠の音楽はそんな人形(=子供)に翻弄されながら、そして、我が原罪とも向き合いながら作曲された。私にとって、作曲とは広義の「うた」であるが、その「うた」は、私の狭義の体験と深くつながっている。冒頭、個人的な懺悔を書き連ねたことをお許し願いたい。