一連の「歌モノ」の一考

湯淺 隆


歌を仕掛けることに批判があった。批評自体は、ある意味「天の声」であるから、あえて反論はしなかった。だが、その意見に従うかどうかは、私の自由であるから、意のままに行動した。その根拠はただ、ポルトガルギターは歌(ファド)の伴奏とともに発展してきたという、いわば原則に立ち返っただけにすぎない。折りしもその頃は、ファドの新しい世代が我が国でも芽を吹き始め、私は何らかの「役」を自覚せざるを得ない時期だった。結果、私の意のままの行動は、私の立場でしか出来ない役割でいくつかのイベントなどを立ち上げ、状況に対しささやかに貢献し得たと自負している。

しかし、やはり「天の声」に対する「おとしまえ」をどうつけるかは、長らく気がかりで、それを払拭するには批評そのものを乗り越え、設問自体の無意味を浮き彫りにする程の「結果」を具体的に出すことが求められた。そのとき初めて「真(まこと)」が何であったかが、まさしく天によって明らかにされると思った。

以下の「結果」は私編故、異論もあろう。だが、歴史とはある視点からの言及が公(おおやけ)になることに他ならず、社会的脈絡においてその現実性が実証可能であるならば、「ある視点」は「真」と言うにはばからない。以後書かれたものをどう読み込まれるかは、意のままにご判断下さればと思うが、結論から言うと、私は前述同様、状況に対しささやかに貢献し得たと自負している。

「歌を仕掛けること」つまり、広義の「ファドを仕掛けること」は、ある意味、長らく私に求められていた要求だった。私は85年からポルトガルギターを弾いているが、始めの約10年は月田秀子のファドとともにあり、その頃に出会ったリスナーの方々からは、再三にわたり歌手との共演を強く求められていた。従って10年振りの「歌を仕掛けること」の表明は、ほどなく広がりを見せ、まずは「柳貞子」先生のCD「meu fado」の制作となった。実に先生からのオファーは、約10年前にさかのぼる。この10年間は、いわばマリオネットの10年間であり、私がポルトガルギター自体の可能性を模索した10年であった。その10年で身につけた体力(奏法、技法etc。そして、比喩的に言えば「余裕」つまり「キャリア」)がなければ、この仕事は請けられなかった。(ちなみに、このCDの制作過程は、毎日放送のTVドキュメンタリーとして放送された)

「歌を仕掛けること」の伏線には、「歌(オリジナル作品)を作る」こともあった。以前より、歌詞がつくことを前提にインスト作品を作ることは心がけていたが、それが公になることは稀だった。しかし、批判を受けながらも「歌を仕掛けること」の日常は、「歌」表現にまつわる意識を日々活性化し、「ヱグゾチカ・ドラマチカ」では具体的な「歌」楽曲として「唐街雨情/作詞・作曲」と「舞い落ちてきた天使/作詞」(作曲/吉田剛士)を制作するに至った。

幸いなことに「唐街雨情」は「グラシェラ・スサーナ」の新アルバムに採用され、今年10月からはNHK「ラジオ深夜便」の「深夜便のうた」として、3ヶ月間毎夜全国に放送される。それを機にシングルカットもあると聞く。実に嬉しい状況である。

「舞い落ちてきた天使」は、千里YWCA女性合唱団が12月13日に初演する。古くより地域に根ざした地道な活動を続けてこられ、私どもともよいお付き合いをさせて頂いている。誠に光栄に思う次第である。

手前味噌だが「唐街雨情」は、日本人のポルトガルギター奏者が作る楽曲としては最も進化した形であると自惚れてしている。私は決して原理主義者ではないが、日本人である限り、純潔のファディスタ、ポルトガルギター弾きにはなりえないと思う。日本人がどうあがいても、ファド自体はポルトガル人のもので日本人のものではない。しかし、逆に言うならば、私は紛うことなき日本人で、どうあがいてもその出自を他に求められない。つまり、ぶれの無い立脚地は、そこにしかない。「唐街雨情」はそんな立場から、ファドに送る猛烈なラブコールなのだ。意のままにファドを愛する自由は、誰にでも許されているのだから。

ところで、何とも嫌らしい言い方になるが、自身の真体も含めて、日本人がファドにかかわる場合、その「モノめずらしい」立場を自己存在表明の手段に使うB級の輩が結構いる。私自身、当初はB級であったので、その気持ちは痛いほどわかるし、きっかけは何であろうが、ファドにかかわるすべての人を私は大切に感じている。逆に言えば、そんな眼差しの批評を乗り越え、具体的な「結果」を出したとき、設問自体の無意味を浮き彫りにすることが可能なのだ。何かを本当に愛するとは、その根源的な欲と業を直視した上で、愛する対象との間に責任ある命(社会的財産)を産み育てること。せめて、B級であれ誠意ある下心を、明るく笑いあえるくらいの度量がほしい。どれほどファドに関われども、我々は(日本人は)保守本流にはなりえない。件の「命」も亜流である。しかして、その命の尊さは、断固「平等」である。故に、状況に対しぶれの無い態度が望まれる。希望はそこにある。

誰が言ったか定かではないが「情報は発信した場所に逆に集まる」と。意のままに行動した「歌を仕掛けること」の表明は、その後、次々に「歌モノ」制作のオファーを取り付けた。「スサーナ」の次は「渡辺真知子」さん。デビュー30周年のアルバムにファド風(ポルトガルギター)バージョンで「かもめが翔んだ日」と「白夜」をと。とくに「かもめ〜」は、誰もが知る曲だけにアレンジが問題となった。色々と考えたあげく、3拍子に。大胆不敵な提案だったが、録音してみるとさほど不自然ではなかった。やはり、楽曲の力が強いのだろう。今年2月には、ライブもご一緒させて頂き実に勉強になった。渡辺さんは、業界的に言うならば、ソニーミュージックエンターメントの創成期の貢献者であり、日本歌謡曲界の功労者でもある。また「ものづくり」の直感も持ち合わせた、やはり、成るべくしてなった才能の持ち主である。良いご縁の仕事であった。

次はかねてより親交のある「羽根田ユキコ」さんと「香川有美」さんから、晩春の頃、時を同じくしてレコーディングに参加して欲しいとの連絡。

「羽根田」さんは、誰でもない彼女だけの声を持つ秀逸なる人材である。確固たる世界観を感じさせる表現に、根強いファンも多い。ちなみに血統(失礼…。)も、折り紙つきで古くは本郷・菊富士ホテル、現在は「銀座せきてい」「ベリー亀吉(銀座せきてい・白金台店)」などのオーナーでもある。笑い話だが、初めてライブをご一緒したとき、その素性を存じ上げず、本番前の食事をインチキ臭い和食の店に誘ってしまった(再び、失礼…。)今回のレコーディング曲は「難船」「暗いはしけ」というアマリア定番の名曲を、アマリア風のアレンジではなくヨロシクと。なかなか難題だったが、「暗いはしけ」は結構成功したのではないかと思う。伴奏のギターは、スパニッシュ・コネクションの伊藤氏。匂いの立ち上がる音色が心地よい。他のメンバーも、アコーデオンの「coba」など豪華である。プロデューサーは、大手レコード会社の方。「夏川りみ」なども彼の手によるもの。単に売れることを目指すのではなく、良いものを作ることも「制作」の使命と。例えば「夏川りみ」の場合は、初めは5000枚のプレスがまったく動かなかったとか。それが、数年で150万枚に。「誠意ある下心」ではあったろうが、良いと信じ、意のままに動いたことが勝因であったと。今回のCDも「我々でしか作りえないものにこだわりましょう」と。秋にはポルトガルのコピーではない「羽根田ファド」のCDが出来る。是非お聴き頂きたい。

「香川有美」さんとは、かれこれ20年近いお付き合いだ。初めての公の仕事は、関西テレビ制作の現代推理サスペンスで、女優「原田美枝子」演ずるところのファディスタの歌唱指導(香川さん)とバックの演奏(私)であった。僥倖(?)なことに、私も演奏シーンにも借り出され、ナザレの漁師風(?)の格好で役者デビュー(???)を果たした。その後は折に触れライブなどでお付き合いをさせていただいているが、とくに打ち上げなど、新宿界隈でのお酒の付き合いは飲むほどに仲間が増え、私も多くの人脈を紹介頂いた。ファディスタとはファド・シンガーのことではあるが、ファディスタ的な生き方というのがあるとするのなら、香川さんが最もふさわしいのではなかろうか。

さて、今回のレコーディング楽曲は「赤い橋」と「桜ララバイ/東京カーボ・ヴェルデ」。「赤〜」は、かつて浅川マキがある時代の「声」として歌った。コード進行などは、アマリアの新しいファドに通じるところもあり、通俗的に「ファド」的な雰囲気の王道にあると言ってよい。伴奏は2台のポルトガルギターを坦々とからませ、常套的な合いの手ではなく、むしろ「音色」「音響」としてのポルトガルギターの魅力に挑戦した。間奏のポルトガルギター・ソロでは、視点を歌中から大幅にずらし、映画の場面転換のインサートカットのような効果を狙い自由に弾いた。この辺の「制作」のノウハウは「歌モノ」を手がける頻度が増すにつれ熟成されてきた発想と手法で、後述するように「石川さゆり」さんの大作を短期間で仕上げることで、意識化されて来たと言ってよい。

「桜〜」は、私の作詞・作曲。広い意味での反戦歌である。これは、現在制作の最中である。リズム主体のバッキングになりそうだが、各楽器の揺らぎに哀歓を出せないかと悪戦苦闘中である。取りあえず歌詞を掲載する。


「桜ララバイ/東京カーボ・ヴェルデ」
 
作詞・作曲/湯淺 


1)

恋した男が死んだ 想い出だけ帰った
愛した女は泣いた 想い出に抱かれて

散るサダメの花 サダメこそあはれ
花に抱かれ冷たく咲く、ララバイ

はらはら闇に舞う 夜露に花も濡れ
からだひとつ こころさまよう

サクラ サクラ 花びら揺れて
サクラ サクラ 咲いて哀しい


2)

愛した男は言った あきらめなきゃ負けない
信じた女は泣いた 裏切りのサダメを

散るサダメの花 サダメこそあはれ
花に抱かれ冷たく咲く、ララバイ

ゆらゆら闇に舞う 夜風に花流れ
からだひとつ こころさまよう

サクラ サクラ 花びら揺れて
サクラ サクラ 咲いて寂しい


香川さんは、ファドを日本語で歌う。(ちなみに、今回の羽根田さんのアルバムもそうだ)大いに結構だと思う。(歌詞の意味を容易に理解できる)また、ファドをポルトガル語でしか歌わない歌手もいる。それもまた、大いに結構なことだと思う。(然り、ファドはポルトガルのものだし、原語で歌うにこしたことはない)あるいは、ファドは言葉に関係なく心だから、形は関係ないという人もいる。(確かに心無い歌はつまらないだろう)「形」で言えば、ファドは「カスティッソ」のみで、「暗いはしけ」や「難船」はファドではないという見方もある。(現地「カスティッソ」の形式美や奥深さに触れると理解できる)どれも一理あり、どの意見もそれなりに正しいと思う。要は、そのそれぞれの正しさにどう「おとしまえ」をつけるかだ。例えば、もしファドはポルトガル語でなければ「ファド」ではないと言うのなら、まずはその批判もポルトガル語で意見されるのが公平な態度だと思う。ファドという主語にたいして、「○○である」という述語で言い切るのなら、その主体も「○○」という概念で、明確に割り切れなくてはならないのではないか。

さて、そろそろ「歌を仕掛けること」の現時点での最終地点である。

去年「ALGO」というCDを制作した。このCDは原則として大阪日本ポルトガル協会の為に制作されたものである。従って、ポルトガルギター弾きの私が、その時点で成しえることを主軸に企画制作をした。詳しい説明はHPの「ALGO」制作日記にあるので割愛するが、やはり「歌モノ」は外せない要素で、「新井英一」さんと「マキ凛花」さんに協力してもらった。結果、「ALGO」の装丁をして頂いた、ポルトガルに精通なさっている「綿貫宏介」先生(若かりし日のアマリアとは、よく食事などをご一緒したらしい)からは、新井さんの濁声に「まさしく、酒場のファドの声。ブラボー!」と、また多くの若いファドを余り知らない層からは、凛花さんの優しい声に「ファドって、キレイな音楽」という評価を頂いた。これも、私の立場でしか出来ない役割として、状況に対しささやかに貢献し得たと自負している。

「ALGO」で新井さんに歌ってもらった原題「BONS TEMPS」(邦題「天(そら)に続く回廊」)は、訳詩を「阿木燿子」さんに頼んだ。そのご縁もあってか、オフィス・ドラゴン(阿木さんと宇崎竜童さんの事務所)より、実に興味深い仕事の問い合わせ来た。「石川さゆり」さんの新曲のレコーディングへの参加依頼だ。コンセプトは「ファド」全面的にポルトガルギターを弾いて欲しいとのことだ。この依頼が来たとき、私のなかで一連の「歌を仕掛けること」の流れが、ひとつ大きく収斂したような気がした。まさしくそれは「天」からの声のようだった。確かな予感を秘めた意のままの行動が、少しずつ公的な関係性を張りめぐらし、「真(まこと)」を結晶化させたようだった。あのとき、もし「天の声」を卑屈に受け取り、感情的な論争に身を汚していたら、自身の手負いに傷つき「歌モノ」から眼を背け、今回のご縁には結びつかなかったであろう。どの業種であれ、その組織が何をアピールしようとしているかは、地道に「結果」を積み重ねて発信し、関係性を成熟させてゆかなければ、具体的な「成果」には結びつかない。また、それが「積み重ねる」意義の無いことなら、まず「積み重ならず」故に「公(おおやけ)」にもならない。真に良い仕事に巡り会えたことで、私の選択は間違っていなかったと確信した瞬間だった。

日本で最も安定した活動(例えば新歌舞伎座の一ヶ月興行など)をしている歌手の一人である「石川さゆり」さんの歌うファド「石畳」(作詞・阿木燿子/作曲・宇崎竜童)は、恐らく状況に対し少なからず影響を与えるに違いない。曲は13分余りの大曲である。編成も、いわゆるバンドと十数名の弦楽アンサンブル、マンドリュート、ギター、もちろん私のポルトガルギターは、ほぼ全面に。アレンジは、我々のパート以外は「中島みゆき」さんのバックなどで、ピアノやアルトサックスを担当されている中村哲さん。実に凝ったアレンジで、途中から拍子が変わっていったり、複雑なコード使いや、よく考えられた和音進行など、13分の長さを感じさせない作りである。特筆(!)は間奏。2分間は完全に我々だけのコーナーがあるのだ。基本的には宇崎さんのメロディーの変奏だが、ほとんど独立した楽曲といっても差しつかえない。

先に「制作」のノウハウのことを書いたが、「歌モノ」とは、つまり「伴奏の作りこみ」への言及で、まさしくポルトガルギターはファドにおいて、その「作りこみ」を経験することで奏法が熟成されてきた。そして熟成の結果、いくつかの特徴的な伴奏パターンが差別化される過程で「形式」が意識化され、それとほぼ同義的にポルトガルギターの「技法」が確立された。ファドの伴奏は平たく言えば、それら幾つかの「技法」を自在にかけ合わせ、奏者独自の表現にしてゆくのである。

ここで問題となるのは、私の「技法」は日本で熟成されたということ。しかも作りこむ「伴奏」は日本人が歌うものばかりだ。このぶれようの無い主体で、ファドをどう演奏表現で割り切るか…。

石川さんのレコーディングの現場に、阿木さんと宇崎さんがお見えになった際、阿木さんに「この曲、ちゃんとファドになっているかしら?」と聞かれた。私は答えに窮した。そのとき私の念頭に浮かんだ「ファド」とは、大雑把に言えばポルトガルのCASA DO FADOで聴く、あの空間の響きそのもので、ポルトガルの街並や気候風土も含めての「ファド」だった。その「ファド」を前提に「石畳」を聴くと、やはり違うのだ。その躊躇のためか、一瞬、間が空き「ファドはこんなにコードをたくさん使いませんしね」などと言うと、宇崎さんは苦笑い。まあ、これは宇崎さんの作曲能力への賛辞でもあり、それはそれで伝わったと思うのだが、しばしは、しどろもどろの応答…。「石畳」は、やはり「宇崎節」だ。宇崎さん曰く「始めの方はファドとして書いていったんだけど、だんだん作り込んでいった」らしい。それは、つまり宇崎さんがファドを自分なりに割り切ろうとしたことに他ならない。結果、曲としては渾身の出来ばえ。宇崎さんの曲は奥深い。ファドをこう割り切るのかと感心する。ぶれの無い「宇崎節」はみごと力技でファドを割り切ったと思う。

「歌を仕掛けること」の歴史を書き連ねてきた意義は、ここに来てふたつある。ひとつは『批評そのものを乗り越え、設問自体の無意味を浮き彫りにする程の「結果」を具体的に出すこと』だった。これは、一連の流れが連鎖的に成果を出せたことで周知のこととなり得たと思う。もうひとつは、「歌を仕掛けること」の過程で浮き彫りにされてきた「私はファドを、ぶれのないポルトガルギターで割り切れるか」どうかという設問。しかし、それには前例の回答がない。寄るべき模範は、いわゆる「ファド」そのものの地平にはない。だが今回、嬉しいことに一連の「制作」を集中的に行うなかで、いくつかの私なりの「形式」が出来てきた。「形式」の会得は「制作」の迅速化で、その熟達は名手の「技法」への道である。それらが「完成」すれば、名実ともに「割り切った」ことになる。これは、さらなる希望への足がかりだ。

「天の声」はまさしく「天の声」であったのかもしれない。次の我々のCDでは、そのノウハウを存分にご披露出来ると思う。今しばらく熟成の期間を頂きたく思う次第である。

ところで現在、私どもがマンドリン合奏を仕掛けていることに批判がある。批評自体は、ある意味「天の声」であるから、あえて反論はしない。だが、その意見に従うかどうかは、私どもの自由であるから、意のままに行動しようと思う。その根拠はただ、マンドリンは合奏とともに発展してきたという、いわば原則に立ち返っただけにすぎない。折りしも昨今は、マリオネットの曲が我が国でも定着し始め、私どもは何らかの「役」を自覚せざるを得ない状況である。結果、私どもの意のままの行動は、私どもの立場でしか出来ない役割でマリオネット・マンドリンオーケストラを立ち上げ、状況に対しささやかに貢献し得たと自負している。

しかし、やはり「天の声」に対する「おとしまえ」をどうつけるかは気がかりで、それを払拭するには批評そのものを乗り越え、設問自体の無意味を浮き彫りにする程の「結果」を具体的に出すことが求められよう。そのとき初めて「真(まこと)」が何であるかが、まさしく天によって明らかにされると思う。