5年目の「Marionette」の「Marionette」探し


(マリオネットサークル会報 Vol.10 に掲載/96年)


 かつて神戸のあるイベンターに「君達はグループ名でずいぶん損をしている」と批評されたことがある。日頃ハードなモダン・ジャズなどを手がけている彼にとって、インストの男性デュオグループの名が「Marionette」というのは、いささか軟弱に感じられたのかもしれない。が、そのとき同席していた幾人かの女性達には、彼の発言はすこぶる不評だった。ちなみに彼女達の言い分は、おおむね「愛らしく親しみがあって良いではないか」というものであった。双方の意見はそれぞれの位置から見るに然りではあるが、さて正直なところ私自身は、それらの見方に反論したり同調したりできる程、明確な自画像を描けてはいない。

 そもそも「Marionette」というのは、私が19歳のとき、相棒の吉田剛士と共作した曲の名前である。そして、その曲があるTVドキュメンタリーに使用されたことで、自然に「Marionette」という単語が私達の会話で頻繁に交わされる様になり、結果、それがグループ名へ移行したのである。無論、その決定までには、演奏者、スタッフ間である種の了解を確認しあいながら進んでいったのではあるが、もとより明確なコンセプトがあってのことではない。つまり、決定の主な根拠は「Marionette」というネーミング以上にすぐれたものが提示され得なかったという、いささか消極的な理由による。

 ところで、この曲の作曲過程も前述の事情に準ずる説明が可能である。まず、明確なコンセプトがあったのではない。また、“共作”=“ある種の了解の確認”があったということ。そして、演奏上の技巧と音楽の語法が実にベーシックなところに限定され、10代の器楽奏者が自然に抱く華やかなテクニック指向がほとんどなく、逆に音楽の内容までもが、それまでの蓄積から無意識=オートマチックに弾けるテクニックで作られているということ(それは、いわば音楽家の技芸向上という鉄則への消極性でもある)。簡単に言うと、この曲は何かを意図して意識的に作られたものではなかった。曲は気づいたときには生まれてしまっており、世界としてそこにあったのである。そして、その曲は私達に「私を生んだのはあなたなんですよ。なんとかして下さい」と柔らかな身を小さく揺り動かしていたのである。私はそのどこか暗いところで原色に近い物体がうごめいている様なさまを、倉庫の中で忘れられた操り人形が独りダンスをするほんの束の間の喜びになぞらえた。果たして件の曲は「Marionette」と命名。そして、その名は私にとって自身であって自身でない、また、外側であって内側であるよう な場所をマーキングする際の呪文になった。

 さて、最近のことだが、東京のあるプロデューサーに「Marionetteは操っているんですか、操られているんですか?」と聞かれた。いささかスノッブな質問で閉口もするが、以上のような事情にそぐわせるとこじつけでも答を出したくなる。いつか、また別の角度からの見方を教えて頂ければ嬉しく思うのだが…。