速報! ポルトガル漫遊記


(マリオネットサークル会報 Vol.8 に掲載/96年)


 今回のポルトガル行きは私の場合急遽決定したもので、ろくな準備もせず、まるで東京あたりへ行くような気持ちで出掛けた気軽な旅であった。しかし、私にとっては約10年ぶりのヨーロッパ訪問の旅でもあり、楽しみに胸が膨らんだ。(尤もポルトガルはヨーロッパではないという人もいるのだが…)私の渡航も急であったが、更に間際になってもう一人同行者が増えることになった。我々マリオネットのロゴをデザインしていただいた永見氏である。今年5月と10月にオフィス・マリオネットが行なうコンサート『ネオ・マンドリニズム宣言』のチラシのデザインを依頼していたのだが、お宅に伺い旅行の話をするうちに、まさに軽いノリで同行することになったのだ。

 そうして我々一行は、3月13日に関西空港を飛び立ち、珍道中が始まったのである。 経由地フランクフルトへの到着が遅れたため、乗り継ぎ時間が非常に短く少々慌てたが、最終的には殆ど予定通り、現地時間13日深夜12時頃、リスボン空港に到着した。我々は言葉も不自由だし、ここは一応ラテンの国なので悪い奴も多い筈だと思い、警戒心が強まる。しかしロビーに出ると京都外大のロドリゲス先生が迎えに来てくれていて、一同安心する。先生がタクシーの運転手に場所を告げて我々を乗せてくれたが、予約していたホテルに着くと、ジム・クロウチの様な運転手は正規の2倍の運賃を要求した。相場を把握していないし、日本の感覚でいうと決して高くないので別に文句もなく払ったが、翌日これを聞いたロドリゲス先生は後々まで気に病んでいた。この国では勘定には気をつけた方がよさそうだ。 リスボン市内、ファドハウスの集まるバイロ・アルト地区の一画、サンタ・カタリナにある小さなホテルは湯淺がかつて滞在していたところで、彼にとっては懐かしの場所である。ここが我々の宿となったわけだが、湯淺も当分ここを足場にして落ちつく場所を探すということである。

 翌14日は、昼間はロドリゲス先生と食事をした。先生は日本人以上に神経が細やかで優しいナイスミドルである。永らく日本在住で、我々のコンサートもたまに聴きに来てくれる。今回は外大の学生たちのポルトガルツアーの引率の為リスボンに来られており、その時間を割いて我々を落ちついた素敵なレストランに招待して下さった。小皿に盛られたオリーブにチーズ、パン、そしてワインに至るまで全ておいしい。そういう手の込んでいない基本的なものがおいしいということは、非常に健全で幸せなことであると思う。料理が出てくるまでに既に満足してしまうわけだが、肝心な料理もなかなか質実な感じでおいしかった。ただ、調理法も単純で華のない料理である。これは後々、幾つものレストランで重ねて感じることであるが、魚にせよ肉にせよ、ただ塩味をつけて焼いただけ、煮ただけ、揚げただけの料理が多くややもすると日本の誰かが家で簡単に調理したものと同じなのである。何をもって「ポルトガル料理」とするかの根拠が希薄な印象を受ける。鱈のグラタンの様な多少手の込んだものもあるのだが、残念ながらことごとく見栄えがしない。ポルトガルの伝統料理の本を眺めても、彩りの 美しい、見ただけで食べてみたくなる料理が一つもないのである。日本でポルトガル料理がない理由は薄々気付いていたが、今回の旅行で充分納得できた。しかし2時間近くかけてゆったりとした昼食を取ると、ワインの酔いも手伝い、幸せな気分になった。

 その晩、やはりリスボンに滞在中の新井英一氏の居所を突き止め、訪ねてみることにした。新井さんは在日韓国人2世のブルースシンガーで、映画「エイジアン・ブルー」に出演されたことが縁で仲良くさせていただいている。昨年は「清河への道48番」がレコード大賞のアルバム大賞に輝き、一躍有名人になってしまった。その新井さんが湯淺のポルトガルギターに触発され、多忙の中から抜け出しファドを聴きに来た一人旅の最中であった。宿泊先は事前に伺っていたのだが、途中で移動された際伝言がうまく伝わらず、我々は苦労の末、宿泊先を見つけ出すことができたのだった。フロントに伝言だけでも置いておこうと立ち寄ったところ意外にも在室だったので、一緒に町へ出た。新井さんは昔、ニューヨークで皿洗いをしながら歌手を目指し、現在の地位に辿りついた人だ。「俺はのら犬みたいな生き方してきたからね」とサラリと言う。そんなせいかどうか、非常に鼻の利く人の様だ。「良ければ私の知っている店に行きましょう」と言って先になって歩いて行く。我々より何日か前にリスボン入りしているとはいえ、もう既にいくつかの店を探しあて馴染みになっているのである。新井さんは珍 しい程きっぱりと一本筋の通った男っぽい人で、飲みながら会話していると人生哲学の様なものが力強く伝わってくる。しかも自然体なので、その熱さ、力強さが素直に受け入れられるのである。真に頭の下がる思いである。 新井さんとは帰国前夜にもう一度お会いし、ファドハウスとバーでセッションするなど、濃い時間を過ごすことができた。「自分の一番大切な人達が納得するような音楽をやればいいんだよ」という新井さんの言葉が、私に深く刻み込まれた。

 翌日15日は再びロドリゲス先生と昼前に待ち合わせる。この日は先生の引率する京都外大の学生約20名のグループに交ぜていただき、大陸再西端のロカ岬まで足をのばした。その夜リスボンに戻り、皆でファドを聴きに行ったのだが、我々は一度ホテルに戻り約束の時間にファドハウスへ赴くと、ロドリゲス先生が居ない。学生たちに聞くと、先生は曲がり角で通行人と正面衝突して額を4針縫う怪我をされたらしい。暫くして遅れて来られたが、バンソウコウも痛々しく、少々お疲れが見られた。先生と学生たちにとっては、リスボン最後の夜のアクシデントであった。

 ファドハウスは今回の旅行では4軒を回るにとどまった。しかし、ファドの奥深さやそれぞれの店の持ち味の違いを感じることが出来、レベルの高いエンターテイメントや素晴らしい演奏を目のあたりにすることも出来た。しかし、残念ながら全てのファドハウスが良質のファドを提供しているわけではない。ファドハウスは運命的に、国際観光都市に於ける観光産業の一環として、典型的なリスボンの夜を演出し提供する役割を負っている。そこでは、ファディスタ達はその芸術性を問われることもなく、観光客相手に十年一日の如く唄い、演奏し続ければ良いのである。そしてその単調な仕事に疲れ、擦り切れて底の浅い芸人になり下がって行く…。最初に訪れたファドハウスで、私はそんなことを考えざるを得なかった。そこは大きな店で、団体の観光客が何組も入れるようなところだったが、シーズンオフにも関わらず結構客の入りは良かった。但し、演奏が始まっても静かにならない客が多く、ファディスタも気合いが入るわけがない。プレイヤーとリスナーの最も不幸な出会いがそこにあった。後になって実際に体験することだが、しばしば言われるように、ファドハウスは遅い時間に訪れる方が 良い。騒々しい団体客が帰った後の静かな時間、ファディスタ達はようやく活気を取り戻すのである。

 さて、3月17日は何の日かご存知だろうか。何と「ポルトガルギターの日」なのだそうだ。この日、湯淺の師・アントニオ・シャイーニョ氏の紹介でポルトガルギター協会の集まりに招かれた。シャイーニョ氏自身は演奏旅行中らしく我々だけ行けということで、どんな会合か見当もつかないまま楽器をひとそろい抱えて会場であるリスボン市内のあるレストランに向った。通訳として、先述のロドリゲス先生の娘さんのユキちゃんについてきてもらった。20才過ぎの実に愛らしいお嬢さんである。先生の奥さんが日本人なので、日ポ両国で育ったユキちゃんは完璧なバイリンガルであり、我々の強い味方となってくれた。会場である大きなレストランは百人以上の人々で一杯であった。年配の方が多く、皆、身なりが良い。ユキちゃんの通訳で会長さんの話を聞くところによると、この会はポルトガルギターの振興・発展を目的として、プロだけでなくアマチュアの演奏家やそれを支援する人々が集まって、月1回、会合を持っているらしい。早くもそのような関係者の前で演奏する機会に恵まれ嬉しい反面、マリオネットの音楽が果してポルトガルの人々に受け入れてもらえるかどうか心配も募る。特に湯 淺は、多くのポルトガルギター関係者を前に珍しく緊張していたようである。「南蛮渡来」「海」「航海王子T・U」の4曲を演奏する。少し堅い演奏になったが、皆、立ち上がって拍手してくれた。 今回の滞在は短いものであったが、ファドの奥深さを肌で感じ、本場リスボンのポルトガルギター界で名を売ることが世界へ拡がる可能性を持つことを充分実感することが出来た。6月に再び彼地を訪れ演奏できることを、非常に楽しみにしている。