とりとめのないこと1


(マリオネットサークル会報 Vol.8 に掲載/96年)


印税のこと

 毎年この季節になるとやらねばならない面倒な仕事がある。確定申告の事である。もともと大して税金を払っているわけではないが、今回の住専のようなことがあると更に払う気持ちが失せてしまい、作業が遅れがちになる。しかし、この面倒な作業は、昨年一年間の自分の仕事ぶりとその成果を経済活動として具体的に振り返る良い機会でもある。
 昨年の我々の仕事上の進歩は、何と言ってもCDを出した事である。いわゆる流通に乗ることのメリットは非常に大きく、既にそこから新たな仕事が生じたり、TVなどでマリオネットの曲がBGMとして流れる機会も増えたり、幾つかの変化が生じつつある。但し、収入が伸びたかというとそうでもなく、申告に関していえば、収入に著作権使用料の項目が増えたことがなんとなく嬉しいくらいの事である。自分が何処かへ出向いて演奏する時間を費やすことなくCDが勝手に売れて、勝手にお金が入ってくるのだから、売上枚数が伸びれば収入の上限はないわけである。但し、現実的問題として我々のCDが何十万枚も売れることは今のところ絶対にありえないことなので、印税で生活するなどまだまだ夢に過ぎない。理屈としては簡単なことで、もっと収入を増やそうと思えば、もつと売れるものを作ればいいのである。こんな事を書くと商売人のようでいやだという人が必ずいるのだが、我々も生活してゆく必要があるわけで、「お金の事を考えなくてよい状態になるために、お金の事を考えなければならない」というパラドキシカルな問題を抱えつつ、日々慎ましく暮しているのである。

散髪のこと

 さて、話は全く変るが、私には行きつけの散髪屋がある。オフィス・マリオネットの3人は皆ここに通っている。それは上新庄の「ニュースカイ」という店だ。もともと湯淺が知っていた店で、私が87年にドイツから帰ってきて間もなく紹介してもらって以来、すっかり常連客になってしまった。ずっと以前は行きつけの店もなく、散髪に行くことはむしろ気の重いことであった。そして散髪してもらうと、いわゆる散髪したての髪型になって落ちつかなかった。
 ところで私は過去に、モヒカン刈りみたいにしたこともあるし、丸坊主にしたこともあるが、美容師のコンクールでモデルを務めたこともある。ドイツ留学中のことである。あちらの散髪屋はカットした後、頭を洗ってくれない。しかも、多くの場合ていねいに振り払ってくれないで細かい切り屑を一杯残したままセットしてしまうのである。 しかし、あるとき私が飛び込んだクラウス・リップハウスの店は比較的ていねいだった。カットの感じも気にいったのでここに通った。何度目かに、そこの主人が私の髪を切りながら言うに、自分の娘が今度、美容師のコンクールに出るのでモデルになってくれないかということである。大体に於いて、東洋人の方が髪質が柔らかくなめらかだそうだが、特に私の髪は非常に扱いやすいらしい。私は好奇心もあり(娘に対してではない)、またその何カ月間は散髪代がタダになるというので引き受けることにした。娘さんはシモーネという名前の20才くらいの美容師見習いで、美人ではないが可愛らしい娘だった。ときどきドライヤーの扱いが下手く、熱かったりしたが、何度か練習に付き合った。本番のコンクールでは彼女は見事、地区優勝した。軽くパーマをか けたり、ヘアーマニキュアをしたりしてまあまあ面白かったが、時間が少々惜しいので一度やればもう充分である。
 帰国後は、先述の通りずっと上新庄に通っているが、上手く、気持ちよくやってくれるのですっかり気に入り、散髪に行くことはもはや気の重いことではなくなった。

創作のこと

 先日、この散髪屋へ行ったとき見た雑誌の中で「人生とは必ず途中で終わるものなのだ」という言葉を見つけた。それがなんとなく印象に残りあれこれ考えている内に何の脈絡もなく先程の話を書いてしまったが、実は書こうと思っていたのは次の話である。
 この「人生とは必ず途中で終わるものだ」という言葉の主の意図は定かでないが、私には淋しいような勇気づけられるような複雑な言葉に思える。今という瞬間が永遠に続くという幻想を抱えている人も、何かを成し遂げた人も、多くを成し遂げ尚多くを成し遂げたい人も皆、途中で終わりが来るのである。人生とは何か?などときわめて大真面目に考えていた時期もあったが、もともと単一の答が出せる問題ではないだろう。ただ、例えば「一つの目標が達成されると次の目標が見えてくるということの限りない連続が人生である」ということもできよう。しからばやはり途中で終わらざるを得ないのである。
 昨年感銘を受けたことがある。私の存じ上げる陶芸家の木村盛和先生は、私が懇意にしている佐々木禅氏の師匠であり、油滴、鉄釉というジャンルの第一人者である。昨秋のこと、この木村先生の作品展の案内状が送られてきた。それを見て私は驚いたのである。先生は3年前に自らの古稀を記念して、沢山の大壷を並べた大層立派な個展を開かれたのがまだ記憶に新しいところなのだが、その案内状に載っていた写真を見ると作風が随分変化しているのである。それがまた魅力的な作品なのである。わくわくして早速足を運んでみると、全く期待に違わず素晴らしい作品が並んでいた。前回の作品展に比して全く遜色無いばかりか、新鮮で精彩に溢れている。私は感嘆した。既に名実ともに大家として多くの作品を生み出してきた先生が70才を節目に個展を開いた。そして、それから3年の内に更なる新境地を築いているのである。とどまるところを知らないこのエネルギーはいったい何処から来るのだろう。若いうちはともかく、そのような年齢になった人間がなお進歩し続けていることに私は深い感銘を受けた。この人はたとえ後何十年を生きたとしても創作し続け、決してやり尽くしたということはな いだろう。まさに創作者の鏡を見る思いであった。「人生は必ず途中で終わるものなのだ」という言葉を見て、ふとこの木村先生のことを思い出したのである。ぜひお元気で、ずっと創作を続けていただきたく存じ上げる。