マンドリン合奏を考える


(マリオネットサークル会報 Vol.7 に掲載/95年)


 この秋は久々に他のマンドリン合奏団のコンサートを聴く機会が幾つかあり、合奏の世界に関して改めて興味深く感じる事が出来た。
 「マンドリン合奏」という言葉はいかにも真面目で古臭く、好きになれないのだが、他に適当な言い方が見つからないので仕方がない。さて、マンドリン合奏には幾つかの形態がある。一般に20〜30名以上の大人数をマンドリンオーケストラ、10数名以下の小さなグループはアンサンブルと呼び分けられる。その他、各パート1名ずつで4パートあればカルテット、3パートでトリオ、2パートでデュオとなるが、一般に合奏といえばオーケストラかアンサンブルを指す。オーケストラに関して言えば、マンドリンという楽器そのものの魅力というよりも全体のサウンドが問題であり、合奏自体の楽しみ、例えばダイナミックレンジの広さや、多声部が絡み合う重厚な表現の魅力が優先されてくる。弾いている人達も合奏自体が楽しくてやっているので、マンドリンはその場に参加するための道具に過ぎなくなっている感がある。従って極端な場合、打楽器や管楽器を多用した編成になり、マンドリンは埋もれてしまう。
 ところで、色々な楽器があるが、それぞれの楽器の音色が何によって特徴づけられているかご存知だろうか。音程の高低を別にすれば、楽器の音色は主にその音の立ち上がり方と立ち消え方によって特徴づけられるのである。要するに頭と尻尾が重要なのである。テープレコーダーに楽器の音を録音して頭と尻尾を切り落として聴くと、マンドリンもピアノもフルートもヴァイオリンも見事に見分けがつかなくなる。
 ところでマンドリンにはトレモロという奏法がある。同一音を細かく反復する事によって持続音の効果を出すお馴染みのテクニックであるが、比喩的に言えば音の空白の塗り絵の様なもので、長い音符(白玉)を色鉛筆で塗り潰すイメージもある。この場合、塗り潰し方の筆致の様なものが問題であり、そこで各奏者の個性から各楽器の特質までが浮き彫りにされるのである。
 これが大人数の合奏になった場合を考えてみよう。30人のオーケストラだと1パート6人位になる訳だが、要するにひとつの空白を6人がかりで塗り潰す訳である。個人のバラつきも作用して、その空白はくまなく完全に塗り潰されてしまう。もはや筆致は見えない。ここでトレモロの魅力の大部分が犠牲になっている気が私にはするのである。
 また、先程の話に戻るが、音の立ち上がりが(マンドリンの様な撥弦楽器の場合)はっきりしたポイントを持っているので、余程うまく合わせない限りバラバラとずれてしまう。それが大人数になると幾つかのポイントが集まって大きなポイントになるので、音の特徴が曖昧になるのである。
 先程から何も良い事を書いていないようだが、確かにマンドリン自体の魅力を考えるならば合奏(特に大合奏)にメリットは少ないと私は考えている。しかし、音楽そのものや合奏自体の楽しみはかけがえのないものであるから、決して否定している訳ではない。また、アマチュアの場合、個人の力量が充分でなくても、1人では出来ないレベルの音楽に、演奏する側として参加できるという大きなメリットがある。但し聴く側の立場ではない。聴く側に喜びや感動を与えるには、合奏といえども各個人の力量が問われざるを得ない。下手な人が何十人寄り集まっても下手なオーケストラが出来上がるだけなのである。
 その点、少人数のアンサンブルでは更に要求が厳しくなる。各パート1〜2名という編成は、各奏者の感覚としてはソロに近い。単独で聴かせられる力を各自が持たなければ、良いアンサンブルは望めない。何も技巧的な曲や複雑な曲を弾かなくてもよいから、それなりのレベルに曲を弾きこなしていれば、他人に感動を与える事も可能だと思うのだが…。
 私の生徒も含めて、マンドリン合奏に関わっている人々は殆どアマチュアである。アマチュアでありながら志高く、完成度の高い演奏を目指し、実現し、それを活動として続ける事は、一般の人々にとって大変であるに違いない。例えば、自分の仕事ではなくても熱心に布教活動を続ける人々にも似た情熱を持って、自らのライフワークとして取り組まなければ、良い結果を得る事は難しいだろう。