マンドリンの穴から何が見えるか?


(マリオネットサークル会報 Vol.1〜2 掲載/94年)

 去年の南蛮渡来を思い起こされると思うが、今年は、何とマンドリンが日本に初めて渡来してから百年目にあたるらしい。別に、オフィス・マリオネットは記念行事を取り行なうための団体ではないが、そういうことに便乗するにやぶさかではない。 従って、私・吉田剛士は、この記念すべき年をひとつの節目と捉え、9月に自作のマンドリン曲を中心としたコンサートを行ない、自らの音楽と、マンドリンに対する思いを、現段階で一区切りとしてまとめてみたいと思っている。勿論、湯淺、海井との共同開発事業としてである。サークル誌発刊にあたり、9月のコンサートの伏線としてマンドリンに関わる事を書いてみた。

マンドリンは世界を救えるか?

 この様な阿呆な設問を許していただきたい。何故こんな事を思いついたかというと、往年のマリア・シヴィッターロのCDを聴いて、「この人はマンドリンで世界が征服できると信じているんじゃないか」と思った事に端を発する。
 知らない人の為に書くが、マリア・シヴィッターロはイタリアの女性マンドリニストで、1970年頃まで演奏活動をしていた、クラシックマンドリン界最後のスタープレイヤーの一人である。一昨年、東芝EMIからCDで復刻盤が出たのでよくよく聴いてみたのであるが、すごく力強くてスケールが大きい。スピーカーから流れる音に身を委ねると、時空を越えてシヴィッターロの脳まで辿りつき、そしてそこが宇宙と直接繋がっているのではないか、という感じである。ちょっと大げさかもしれないが、確かにそういう印象を受け、続いて「世界征服」という単語が浮んできた。―マンドリン一本を抱えて、勝利を確信しつつ世界に立ち向かう―なかなか素敵なイメージではないか(幼稚な感じもするが)。そして、ならば「マンドリンで世界を救ってみせる!」と豪語する輩が出現しても、すこしも不思議ではない―。
 以上が冒頭の愚かな設問の経緯である。しかし、もし私利私欲を否定するならば、マンドリン弾きとして、現実に最終的な目標としてこれ以上のものは設定し得ないであろう。「でも、一体どうやって?」と尋ねられれば、今のところさりげなく目をそらすしかないのが大変遺憾であるが…。
 さて、現実に戻ろう。先程私は、シヴィッターロを「クラシックマンドリン界最後のスタープレイヤーの一人」と表現した。それは、ナポリのC・ムニエル(1859〜1911)やR・カラーチェ(1863〜1934)らによって完成された近代マンドリン音楽のスタイルの同時代性がそこで終焉する事を意味する。要するに、シヴィッターロ以降、そのスタイルは徐々に古びてきている訳だが、それに取って変る決定打がないまま、クラシックマンドリン界は今日に至っているといってよい。それは逆に、そのスタイルの完成度の高さを証明し得るのだが、何分時代の流れには抗えない。
 一方、いわゆる現代音楽の体質は、マンドリンの可能性を推し進めるに適当とは言い難く、さりとて伝統の上に安住する事も出来ない私は、荒波渦巻く商業音楽の大海へ乗り出して行かねばならないのである。さもなくば、アマチュアイズムの中に殆ど埋没しかかっているマンドリンの為に「世界はマンドリンを救えるか?」などという、さらに阿呆な問題提起を余儀なくされるだろう。

クラシック、ブルーグラス、そして…

 さて、皆さんはブルーグラスとは何かご存知だろうか?
 今年の1月15日に“ポルトガルの珍楽器”ということで湯淺と共に「タモリの音楽は世界だ」に出演させて頂いたが、同じ番組でその前回に紹介されていたのがブルーグラスなので、ご覧になられた方は多少話が早いかもしれない。
 ブルーグラスは1940年代にビル・モンローがケンタッキー州で確立した音楽スタイルで、一般にはカントリーに近い位置に認識されているが、アイルランド系の伝承音楽にブルースの要素が加わった音楽で、アコースティックな楽器編成を特徴とするひとつの独立したジャンルである。ブルーグラスでは、バンジョー、フィドル等の楽器と共にマンドリンが主役級の役割を果たす。但し、これはフラットマンドリンといって文字通りボディが平たい(flatな)マンドリンで、主にアメリカで発展した楽器である。形状の他は普通のマンドリンと決定的な違いはないが、概して野太く大きな音がするので、より力強い表現に適している。商業音楽の世界ではマンドリンの主流を占める。実際、ブルーグラスマンドリンのスタイルはその後のポップミュージックシーンでのマンドリンの在り方に決定的な影響を与えており、現代のマンドリンを語る際、決して避けて通れない重要な分野である。しかし時代が下るにつれ、ブルーグラス畑の人々の中にも、技術面や音楽面で革新的なことを求める動きは盛んになり、数々のトッププレイヤー達によって多くの事が成し遂げられてきた。音楽面での進歩も勿論重要 なのだが、むしろ私が興味深く思うのは、ここでマンドリンのテクニックの歴史性が見られることである。最も端的な例として、1950年頃にJ・マクレイノルズが編み出したとされているスプリットストリングという特殊技法と全く同様のものが既に18世紀の教則本に示されているという事実が挙げられる。要するに、あるアーティストが意識的にせよ無意識的にせよ、過去に確立したテクニックを取り入れて新しいスタイルを創ろうとしているわけである。他の多くの事例を考え合わせると、位相は異なるにせよ、同じマンドリンという楽器が歴史的に見てひとつの連綿たる流れの中に存在しているのを強く感じるのである。(余談になるが、クラシックマンドリン界とブルーグラスマンドリン界という2つの世界でのこの様な技術面での相互関係がかつて論じられた例を私は知らない。それでは私が論じてみようということで、近々とあるマイナーな雑誌に寄稿することになっている) とにかくマンドリンということにこだわる限り、クラシックもブルーグラスもないではないかというのが私の立場である。(因みに、現在マンドリンが活躍する主だった音楽ジャンルはショーロを数に入れなければこの 2つしかない)しかしながら、一般にクラシックマンドリン界とブルーグラスマンドリン界は面白いほど交流が無く、ともすればブルーグラスの人はクラシックマンドリンをトレモロだけの退屈な世界だと思いこみ、クラシックの人はブルーグラスを視野に入れずにマンドリンの未来について語ろうとしてきた。そのような断絶は恐らく音楽レベルでの非共通性によるものであろうが、単なる無知と閉鎖性によるところも大きいのではないかと思われる。マンドリンに関わる人々がこの断絶を乗り越え、限られた知識と音楽性の枠から飛び出してはじめてマンドリンの明日を語り合う土壌が出来るのではないだろうか。そして、私がそれを促す事は出来ないだろうか…。

 さて、今回の記事も勿論9月のコンサートの伏線なのだが、前述の私の立場はそのチラシの中に2つの形で表わした。そのひとつが「18世紀から現代までのあらゆるジャンルの音楽をみわたし独自の感性で切りひらく新世界」というフレーズである。自分でいっておきながらお尻がうすら寒くなるような立派な文句だ。さあどうしようと七転八倒の日々である。