わんだふる スイスアルプス (1)

はじめに

 8月5日(土)から12日(土)の8日間、スイスアルプスの旅をしてきました。行く前からいろいろな思いを巡らし、また帰ってきてからもアルプスでのすばらしい記憶を蘇えらせています。この文章は、そんな私のスイスアルプスの旅に関連する「あれこれ話し」を文章にまとめようと試みたものです。今後、章立てに従って日記風に述べていきますが、一部創作もありますのでご了承ください。よろしかったら、最後までお付き合い願います。
 なお、途中で写真を挿入したり、文章の一部を書き換えたりすることがあるかと思いますが、ご了承ください。

                                                        2000年8月13日(日)

  1.私にとってのスイスアルプス
  2.膨れ上がるスイスアルプ
  3.いよいよ出発 : 8月5日(土
  4.あこがれのスイス(チューリッヒ)到着 : 8月5日(土)
  5.氷河特急に乗ってツェルマットへ : 8月6日(日 
  6.ヴァリスの山々 : 8月7日(月) 
  7.エッシネン湖経由でグリンデルワルトへ : 8月8日(火)     
  8.ベルナーオーバーランドの山々(1) : 8月9日(水)       
  9.ベルナーオーバーランドの山々(2) : 8月10日(木)   
 10.さよならスイスアルプス : 8月11日(金)  
 11.我に帰って : 8月12日(土)  
                                                                                                                                                                                     
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1.私にとってのスイスアルプス

 スイスという国を知ったのはいつのことだろう。田舎育ちの私にとって、中学時代はアメリカでさえ遠い国であり、ましてやスイスなどはほとんど気にもとめなかった国であった。高校時代になって、世界史の中で、’永世中立国’、ジュネーブ会議’、’赤十字’や’国際連盟’などを習いながらスイスを意識し始めたに違いない。また、地理学でも、アルプスの造山活動や褶曲山脈を習ったように思う。
 登山に関していえば、大学時代までは日本の高山にも登ったことはなかった。友人がワンダーフォーゲル部で山歩きをしていても、山のことを話すことはなく、山にはまったく興味がなかった。
 私が本格的に登山を経験したのは、友人に連れられて行った穂高連峰が初めてである。70年の大学闘争に疲れを感じている頃、友人が「夏休みに穂高へ行かないか」と誘ってくれた。私にとっては’穂高’という名前を聞くのも初めてであり、したがってどこにある山で、どんな山なのかもまったく知らなかった。登山用具も持っていなかったが、時間だけはたっぷりとあったので、「私にも行けるところか」と確認したところ、「大丈夫」との返事が返ってきた。それで、今振り返れば無謀にも思われるのであるが、「連れていってくれ」ということになったので。
左図
上高地より
岳沢と奥穂高岳を望
 今では記憶も薄くなってきたが、早朝上高地に入り、20Kg近いキスリングを担いで岳沢ヒュッテまで登り、ベースキャンプを設営した。翌日は、天狗のコルへ直登し、ジャンダルム、ロバの耳の難所を通り、奥穂高岳、前穂高岳を踏破し、岳沢へ戻った。その翌日は、再び天狗のコルへ直登後、前日とは反対の方向に向かい、天狗の頭を通って西穂高岳を登り、西穂山荘から上高地へ下り、岳沢まで登って帰った。ベースキャンプに着いたのは夜の8時か9時頃であったように記憶している。

 当時は若かったこともあり、初日の岳沢ヒュッテまでの登りは辛かったが、後は天気に恵まれ、ナップサックの軽装備で登ったこともあって、快適な登山であった。そして、日本アルプスの自然の美しさやスケールの大きさを知り、登山の楽しさを知ることになった。それからは、社会人になってからも、山の美しさに魅せられて、北アルプスをはじめ多くの山歩きを経験した。結婚してからも家内と各地の山々を登った。子供が生まれてからは、家族で近郊の山歩きを楽しんだり、時々は高山登ったりしていた。
 しかし、70年代の頃の我々の世代は貧しく、新婚旅行にハワイへ行くのも珍しいくらいで、ましてやスイスアルプスの山々を登るなどは、一部の人の世界に過ぎなかった時代である。でも、いつの頃からであろうか、家族と日本の山々を歩き回る中で、’いつかはスイスへ行って、アルプスの山々を歩きたいねー’と話すようになった。でもいつになったら実現できるのかはまったくわからなかった。


2.膨れ上がるスイスアルプス

 結婚して、子供が生まれ、少し大きくなる頃から、家族と海外旅行を始めるようになった。最初は、グアム島やシンガポールと近場が中心であったが、だんだんとアメリカやオーストラリアへと足を延ばし始めた。そして、子供が大学へ行くようになって、初めて家内と二人で’イタリア・ギリシャの旅’へ出かけた。このとき、アメリカと違った’ヨーロッパの魅力’に執りつかれるてしまったようであり、’スイスアルプス’を歩いてみたいとの思いが募ってきた。
 今度はスイスへ行こうと決めたのが今年の初め頃である。60も過ぎたらスイスの山々を歩くことも難しくなるかもしれない、あるいはいつかリストラにあって、失業の身にならないとも限らないなどといった切羽詰った気持ちもあって、今年こそ実行しなければもう行けなくなってしまうかもしれないと考えた。もちろん家内も大賛成である。
 早速旅行会社のパンフレットを集めて研究を始めたが、仕事に追われ、長期休暇がいつ取れるのかもわからず、ずるずると決定が延びてしまった。ようやく決まったのが7月の始め頃であった。行き先はもちろんスイスアルプスの山々が中心で、都市巡りや買物ツアーはまったく興味がなかった。その中で、マッターホルンのツェルマットとアイガー、ユングフラウのグリンデルワルドを巡るツアーに決めた。
 これまでは、’アルプスの少女’のお話しにあるような、’緑の牧場とお花畑、雪に覆われたアルプス’といったスイスのイメージは持っていたが、スイスアルプスの山の名前はマッターホルンやアイガー、モンブランぐらいしか知らなかった。写真は見たことはあったのだろうが、白い雪と岩肌の4000m以上の高い山といった印象くらいしか持っていなかった。ましてやスイスのどの辺に位置し、どうやって行くのかといったことはまったく知らなかった。行き先のイメージが沸かないのでは困ると思い、早速パンフレットを集めたり本を買って、スイスアルプスの情報収集に努めた。読んだ本は、’アルプス・花と氷河の散歩道:小野有五’、’スイスアルプス・ハイキング案内:小川清美’それに’スウィス日記:辻村伊助’である。
 パンフレットを見たり、本を読んでいるうちに、次第に私なりのスイスアルプスのイメージが沸いてくるようになり、きっと日本であったらこんな所ではないだろうかなどと思いを巡らせるようになってきた。たとえば、
 ツェルマット(Zermatt)は町なのか村といったほうがよいのだろうか?越後湯沢あるいは水上のイメージなのだろうか?
 3000mの山頂にあるホテル?に泊まるとあるが、槍の肩の小屋や奥穂高山荘とはイメージが合わないようだが?また、山頂のホテルからは、モンテローザ(Monterosa)やマッターホルン(Matterhorn)、それに大氷河が見えるというが、日本にはそもそも氷河そのものが存在しないので比較のしようがない。涸沢や槍あるいは白馬の大雪渓をイメージすればよいのだろうか?
 次に行くグリンデルワルド(Grindeiward)は緑の牧草の多いベルナー・オーバーランド(Berner Oberland)の山々に囲まれた村というが、日本なら安曇野(白馬)村とか木曾の駒ヶ根あたりのイメージなのだろうか?それとも、志賀高原や霧が峰・美ヶ原の方が合うのだろうか?
 アイガー(Eiger)、メンヒ(Monch)、ユングフラウ(Yungfrau)の山々は、槍が岳・穂高岳連峰が対応するとは思うが、スケールが違うので比較もできないかもしれない。
 アイガーの下をくぐって、3500mのユングフラウヨッホ(Yungfraujoch)まで行く登山鉄道などは想像もできないではないか。箱根登山鉄道などはおもちゃにしか思えなくなってしまう。上高地から前穂高の下を通って涸沢の小屋まで電車を通すようなものであろう。とても日本では考えられない代物であろう。
 地理的な位置(緯度、標高)や気候などの自然環境の違い、あるいはそこに生活する人々の経済活動の違いなどある中で、単純に町や山々を比較することは学問的にはまったく意味を持つわけではないが、イメージを上げるためには、自分が具体的に知っている事物と比較するしか方法がない。これからの「日記」も、スイスアルプスの中で見た町や山々は日本のどんなところと似ているのか、あるいはどこが違うのだろうかといったことを書いていきたいと思う。


3.いよいよ出発 : 8月5日(土)

 出発前日(4日)は、いつもの残業を早めに切り上げ、夜の8時前には家に帰り、最後の荷物の確認を行った。大きなスーツケースは、2日前に宅配便で成田空港まで発送してあるので、当日持っていくものは中型のリュックサックと手荷物を入れるバッグのみである。海外旅行は何度か行っているので少しは慣れてきてはいるが、今回は山歩きが中心であり、3000mの山頂ホテルに泊まり、3500mの山へ上がる(登山電車で)ので、いつもとはやや勝手が違っている。登山靴とリュックサック、それに防寒のためのセーター、ヤッケ、手袋などが必要である。(旅行会社が「レストランで必要になるのでフォーマルな服装も用意するように」と言うので、ジャケットなども持っていったが、使う機会はまったくなかった。無責任である)。
 前日はビールを飲んで早めに寝たためか、出発当日の朝は3時前には目が覚めてしまった。蒸し暑いのと、仕事や会社のこと、これからのスイスアルプスのことなどがゴチャゴチャと頭の中を駆け巡るために、それからは眠ることができなかった。やはり、夢が実現するために興奮していたのだろう。
 5時の私鉄の始発電車に乗り、JRの成田エクスプレスに乗り換え、集合時間の1時間前には成田空港第2ターミナルに着いた。成田空港は前回のイタリア・ギリシア旅行以来3年振りとなる。成田空港は、いつも海外への出発便を待つ人々で華やいだ雰囲気に満ちていおり、私自身も心が踊るような気持ちになってしまう。しかし、私は成田へ来ると、いつも70年代の’成田空港反対闘争’の記憶が蘇えってくる。「どうして私はここから飛行機に乗って海外へ行くのか?」、「私にとってその当時の気持ちは何だったのだろうか?」といったことを考えてしまうのである。でも、いつものとおり、「今ここでどうこう考えても始まらないではないか」と都合よく自分自身に言い聞かせ、何事もなかったように大勢の人々の中へ入ってしまった。
 旅行会社のカウンターで受付を済まし、宅配便で送ったスーツケースを確認した。今回のツアー参加者は、20代から60代までの男性と女性の19名であり、夫婦が多い。日本から女性の添乗員Kさんが同行する。(私は日本から添乗員が付き添う海外ツアーは始めてである)。失礼かもしれないが、日本から若い女性が、私が20数年も勉強してもうまく話すことができない英語を流暢に使って、19名の同行者を地球の反対側のスイスまで案内するということを考えると、私の時代とは隔世の感があること実感させられてしまう。私の団塊の世代も、そろそろ引退の時代に入ってきており、もう会社でも若い人とは競争にもならないのだろうなどと、成田で考えさせられてしまった。
 まあそんなことはどうでもよい。これから1週間、スイスアルプスの山歩きを思いっきり楽しもう。混雑する税関を通って、10時10分発のLufthansa711便に乗り、スイスへ旅立った。ヤッタぜー!!


4.あこがれのスイス(チューリッヒ)到着 : 8月5日(土)

 フランクフルト(Frankfurt)、ドュッセルドルフ((Dusseldorf)経由でチューリッヒ(Zurich)に着いたのは、5日の夜7時ころであった。夜の7時といっても、ヨーロッパ(Europe)は夏はサマータイムのため、まだ明るい。成田を出発してからおよそ16時間の長旅となる。すぐにバスに乗って、およそ10分くらいで市の中心街にあるセントラル・プラザ・ホテル(Central Plaza H.)に到着した。街は小雨がパラつき、少し外に出てみたがとても肌寒かった。街の中心街の治安はそんなに悪くはないように思えた。
 疲れもあるし、明日も早いので、明日の準備をし、早めにベッドに入った。いよいよ明日は氷河特急に乗ってツェルマットに向かうのだ。ぐっすりと寝よう。天気が晴れることを祈って、「Good Night」! 


5.氷河特急に乗ってツェルマットへ : 8月6日(日)

 朝、眼を覚まし、ホテルの窓から外を見ると、雨は降ってはいなかったが、どんよりとした曇り空であった。
 出発まで時間があるので、チューリッヒ(Zurich)の朝の街を散歩した。日曜の朝のためか、駅前を除いては人通りは少なかった。街並みは古く、しっとりとした雰囲気を漂わせている。サイクリングが盛んなようで、チューリッヒ湖の周りでは、サイクリングレースが行われていた。それにしても、日本人が多いのに驚いてしまった。散歩している人の2,3割は日本人であったように思った.


 いよいよ、ツェルマット(Zermatt)へ向けての列車の旅が始まる。チューリッヒからクール(Chur)へ南下し、そこで氷河特急(Glachier Express)に乗り換え、アンデルマット(Andermatt)からブリーク(Brig)ヘ南西に進み、そこから再度南下し、ツエルマットに至る。今日は1日列車の旅である。10時10分、列車は、日本のような合図もなく、ゆっくりとチューリッヒ駅を出発した。最初はチューリッヒ湖に沿って進むが、閑静な住宅街が湖岸に沿って続いており、童話にあるように、緑の丘にお菓子の家が立ち並んでいるように見える。「ああ、スイスだなー」と思わずつぶやきたくなってしまうほどの美しい景色である。ちょっと日本ではこのような風景は見当たらないだろう。
 ところが、バーゼル湖にさしかかる頃から雨が降り始め、だんだんと雨足が強くなってきた。遠くは霞み、’バーレン・ゼーの断崖絶壁’とか、スイスの山並みはまったく望めなくなってしまった。もう後は、明日から晴れることを祈るばかりであった。

 11時40分にクールに到着した。ここで赤い氷河特急に乗り換える。氷河特急は、日本の新幹線特急のような、最新技術で固められた’鉄の塊り’といったイメージはまったくなく、おとぎの国の列車のような感じがする。窓はたいへん広く、上のコーナー部分までガラスになっており、高いスイスアルプスの山々をたっぷりと見れるようになっている。氷河特急は12時10分にクールを静かに、ゆったりと出発した。しかし、その後も雨はやみそうもなく、パンフレットにあるように、’車窓から氷や雪を頂くスイスアルプスの鋭鋒、ライン河の激流、のどかな牧草地お楽しみいただきます’といったことは諦めざるを得なかった。ランチは車内の食堂で食べたが、なかなかおいしかった。満足、満足!


   パンフレットから
 とはいえ、クールからアンデルマットまでは、変化に富んだ景色が見られた。真っ白なしぶきを上げた滝が、右からも左からも流れ落ちてくるような渓谷があるかと思えば、比較的ゆったりとした広い渓谷(バレー)があるといった感じである。オーバーアルプ(Oberalp)は、氷河特急が通る最高地点で、標高2033mである。アンデルマットは、越後湯沢や苗場のように、狭い斜面にホテルがたくさん立っており、山の上の方まで草原が広がり、リフトが何本も伸びている。ただ日本と様子が違うのは、どうも日本のように森林が多くなく、牧草と岩肌むき出しの山々との組み合わせからなっているからのようである。
 天候の悪さをうらめしく思い、また明日の天気の回復を祈りながら、列車に揺られて、アンデルマットを過ぎ、長さが1500mあるフルカ(Furka)トンネルを抜けると、突然太陽の日が差し始め、徐々に雲が取れ、青空が広がり始めた。それとともに、今まで諦めていたスイスの牧歌的な風景が眼前に広がり始めたのである。列車の中では、皆拍手をし、歓声を上げてしまった。谷の間からは、真っ白な山々もちらりと見えるようになった。真夏にも雪をいだくアルプスに感激してしまった。
 ブリーク(Brig)からは、いよいよツェルマットへの登りとなる。ツェルマットの標高は1604mあり、ブリーク都の標高差は1000mである。今までの広々とした他にとは違い、狭い、急峻なV字谷左岸にへばりつくように、ゆっくりと上っていく。対岸には道路が通っており、バスや乗用車が行き交っているが、交通量は日本に比べて少ないようだ。渓谷は深く切れこんでおり、水は乳白色で、日本のような透明な水ではない。日本なら、このような谷あいはよくガケ崩れがあるが、スイスではないのかなと考えてしまった。
 終点に近づくにつれて、谷もやや広くなり、雪に覆われた山々が左に、右にと見えてきた。列車から見るこの景観は、さすがに日本では見当たらないようだ。ただただ、感嘆するばかりである。わんだふる!!スイスアルプス!!

 17時43分、ツェルマット到着。駅といっても日本の路面電車のプラットホームが2,3本あり、その上に屋根があるといった感じの駅である。改札口もなく、そのまま駅前に出ると、ここも’スイスアルプス’の町だった。駅前のホテルや土産物店の窓からは、これでもかといわんばかりにゼラニウムやペチュニアの花がたくさん飾られている。駅前からはマッターホルン(Matterhorn)は見えないが、360度山々に囲まれている。電気自動車以外は禁止されており、観光客用の馬車が数台ある。日本で言えば、最近の白馬の国道沿いあたりのイメージであろうか?でも比較にはならないだろう。ともかく、わくわくさせられてしまった。


 ホテルは、駅から歩いて10分くらいのところである。ホテルヘ向かう途中、駅の方を振り返ると、雲にほとんど覆われてはいたが、マッターホルンが姿をちらりと現してくれた。また、皆の歓声が上がった。「あれが夢にまで見たマッターホルン!」。絶句・・・。添乗員さんに、’明日、ヘリコプターでマッターホルン観光をしたい’という希望を出している。明日が楽しみである。
 夜は、街中を散歩に出かけてみた。夕方にはほとんどの店が閉ってしまうが、8時、9時ころでもかなり人が出ていた。ここでも日本人が多いのにはびっくりした。明日の天気が晴れることを期待して、早めにベッドに入った。


                                               
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