小日向、大塚、茗荷谷、小石川界隈
2014/9/24 化学工学会経営システム研究会に出席のため茗荷谷の化学工学学会事務所に出かけた折に小日向台下の神田上水ルートを下流から遡った。遡りながら小日向台に登る坂道を巡ってみようというものである。
無論、かっての神田上水の開渠は埋め立てられているが、等高線にそって蛇行する道が今でもそのままの形で残っている。この水道道は小日向台の直下につけられているため、ここから北側に分かれる道は全て坂道となっている。
地下鉄丸の内線の後楽園駅下車。目の前に東京ドームと小石川後楽園の北側の土塀が見える。地下鉄はここでは道路より上を走っている。西に歩き、高台にある
牛天神(北野神社)に登る。頼朝が東国経営のとき台地下の老松に舟をつなぎ浪風が静まるのをまったという言い伝えがある。

牛天神
牛天神の階段をくだると神田上水から春日通りに登る安藤坂がある。漱石の「それから」で大助が通る。ここでは丸の内線は地下を通る。

安藤坂
神田上水を上流に遡ると神田上水から春日通りに登る金剛寺坂が見えてくる。漱石の「それから」で三千代の家に向かう代助が通る。丸の内線の上を跨線橋で渡る。

金剛寺坂
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金剛寺坂から丸の内線
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神田上水を更に上流に遡ると徳川慶喜公屋敷跡の看板がある。手持ち地図では財務省管轄だが、現在は払い下げられたのだろう。国際仏教学大学
院大学のキャンパスになっている。その手前の神田上水から春日通りに登る坂が
今井坂(新坂)だ。丸の内線の上を跨線橋で渡る。

今井坂
小日向交差点を過ぎると称名寺がある。この手前の坂が荒木坂である。小日向1 神田上水から称名寺脇を小日向台に登る。

荒木坂
称名寺に並んで本法寺、日輪寺、善仁寺がある。本法寺は夏目金之助の菩提寺である。
善仁寺を過ぎてしばらくゆくと
薬缶坂(夜寒坂)があるが登らなかった。

薬缶坂(夜寒坂)
坂の西側は生西寺、東側(崖上)は小日向公園である。江戸時代、坂の東側は松平出羽守の広い下屋敷であったが、維新後上地され国の
所有となった。現在の筑波大学付属盲学校一帯に
あたる。また、西側には広い矢場があった。当時は大名屋敷と矢場に挟まれた淋しい所であったと思われる。
小日向1 第五中(旧黒田小学校)脇から服部坂に登る。入口左手の黒田小学校跡に新福祉センターが建設中であった。

服部坂
坂の上には江戸時代
、服部権太夫の屋敷があり、それで服部坂と呼ばれた。明治明治 2年(1869)に小日向神社が服部氏屋敷跡に移された。

小日向神社
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服部坂を登り、左に道を分け群馬銀行小日向ハイツと登ると福勝寺の間の狭い道を登ってゆくと巨木が立っている敷地の一角に新渡戸稲造旧宅跡の標識があった。新渡戸はここに昭和8年まで住み、ニトベ・ハウスと呼ばれていたとい
う。大きな庭には現在は廃墟になったアパートが放置されている。服
部坂からの東方の眺望は開けていてすがすがしい。

新渡戸稲造旧宅跡
服部権太夫の屋敷を一周して服部坂を下り、水道道に戻る。小日向神社の前から東に下る横町坂(よこちょうざか)は見つからなかった。
黒田小学校跡地という看板を見つける。明治11年に旧福岡藩主黒田長知が小学校建設費用を寄贈したため黒田小学校となりその後文京五中になった。永井荷風、黒沢明らが卒業生である。現在はこれも廃校となって新福祉センターが建設中であった。
黒田小学校跡を過ぎて大日坂を小日向台に登る。坂の右手にある小さなお堂は、大日様をまつっていて、中勘助の「銀の匙」にでてくるばあやとそこでお弁当を
食べたという大日様とか。明治がいよいよ終焉にさしかかった夏、野尻湖の湖畔で、27歳の男が一気に少年時代の記憶にもとづいて、ただひたすら幼少年期
の日々を綴った。これを読んだ漱石が絶賛したという。

大日坂
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大日如来
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小日向台のピークを越え新渡戸稲造が学監をしていた拓殖大に向かう。建物だけは東大本郷校舎を模して品が無い。
貞静学園高等部のまえに大塚という地名の由来を書いた看板有り。ここにかって大きな
塚があったため、大塚と名付けられたという。発掘調査で5-6世紀の竪穴住居跡がでたので塚はどうやら古墳であったらしい。
ようやく茗荷谷の地下鉄駅ビルに到着。かっての駅前の狭い路地とそこにあったラーメン屋は姿を消し、高層ビルに代わっていた。やむを得ず近くの王将で
チャーハン・ギョウザの昼食をとる。さて会が始まるまでまだ1時間ある。そこで春日通りの北斜面の坂道を探しを続行することにした。
筑波大東端を小石川の谷に向かって下る坂は湯立坂である。

湯立坂
竹早公園東端を小石川の谷に向かって下る坂は団平坂という。

団平坂
小石川5から植物園前にくだる立派な並木道は播磨坂という。

播磨坂
播磨坂の東側に平行する坂は吹上坂という。
播磨坂と吹上坂に挟まれた小石川パークタワー内にあるパブリックスペースに極楽水跡がある。田山花袋の「布団」 にでてくる極楽水だ。ここは、了誉聖冏上人(りょうよしょうけいしょうにん)が、応永22年(1415)伝通院の元ともなった庵を結んだ所で、後に吉水山宗慶寺の境内となった。現在の宗慶寺は、すぐ下にある。井戸水っは枯れている。伝通院は漱石の「それから」の三千代、
「こころ」の学生時代の先生が近くに住む。

極楽水跡
吹上坂を真っ直ぐ登り、春日通りを横断して真っ直ぐ下ると庚申坂である。春日通りから丸ノ内線下に下る階段坂で車は入れない。階段は丸ノ内線のガード下に連なる。春日通りをはさんで吹上坂とは対称の位置にある。

庚申坂
ガードをくぐって真っ直ぐ登る坂道は
切支丹坂(キリシタン坂)である。
切支丹坂は田山花袋の「布団」の舞台になったと聞い
た。坂学会によると切支丹坂は、庚申坂を西に下り、東京メトロ丸ノ内線のガードをくぐった先、文京区小日向1丁目14と24の間をまっすぐ西へ上る坂。突
き当りを右折すればキ
リシタン屋敷の泣き石がある。この泣き石の意味は不明だったが、友人のTに遠藤周作の「沈黙」
の主人公のモデルとなったシチリア・パレルモの人ジュゼッ
ペ・キアラ(岡本三右衛門)が1643年捕らえられ筑後守井上政重に取り調べされたのちキリシタン屋敷に幽閉されたとき、この屋敷の下働き・八衛門少年
(19歳)が切支丹信者と判明、試し斬りさ れた時のものだという。井上は幕臣から石
高一万石の大名(領地・下総高岡藩)に取り立てられ、小石川小日向の下屋敷を切支丹屋敷に全面改築した。住むところが亡くなったので、あらたに亀戸(現錦糸町)に敷地を賜った。
2016/4/4
キリシタン屋敷から人骨が3体出土した。DNA鑑定したところDNA鑑定でイタリア人の特徴と一致。記録と照合しジョヴァンニ・シドッティのものだと特定されたという。同時に出土した他の二人は屋敷でシ
ドッティの監視役で世話係であった長助・はるという老夫婦のようだ。ジョヴァンニ・シドッティは1709年捕らえられ、時の幕政の実力者で儒学者であった新井白石から直接、尋問
を受けた。白石はシドッティの人格と学識に感銘を受け、敬意を持って接した。シドッティも白石の学識を理解して信頼し、二人は多くの学問的対話を行った。
特にシドッティは白石に対し、従来の日本人が持っていた「宣教師が西洋諸国の日本侵略の尖兵である」という認識が誤りであるということを説明し、白石もそ
れを理解し、本国送還を幕府に進言するも受け入れられず、シドッティは茗荷谷(現:文京区小日向)にあった切支丹屋敷へ幽閉された。

キリシタン屋敷跡
「布団」のイントロで「小石川の 切支丹坂 ( きりしたんざか ) から 極楽水 ( ごくらくすい )
に出る道のだらだら 坂を下りようとして 渠 ( かれ )
は考えた。「これで自分と彼女との関係は一段落を告げ
た。三十六にもなって、子供も三人あって、あんなことを考えたかと思うと、馬鹿々々しく・・・」とある。
小説の最後は「時雄は机の抽斗ひきだしを明けてみた。古い油の染みたリボンがその中に捨ててあった。時雄はそれを取って匂においを嗅かいだ。暫しばらくし
て立上って襖を明けてみた。大きな柳行李が三箇細引で送るばかりに絡からげてあって、その向うに、芳子が常に用いていた蒲団ふとん――萌黄唐草もえぎから
くさの敷蒲団と、線の厚く入った同じ模様の夜着とが重ねられてあった。時雄はそれを引出した。女のなつかしい油の匂いと汗のにおいとが言いも知らず時雄の
胸をときめかした。夜着の襟えりの天鵞絨びろうどの際立きわだって汚れているのに顔を押附けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅かいだ。性慾と悲哀
と絶望とが忽たちまち時雄の胸を襲った。時雄はその蒲団を敷き、夜着をかけ、冷めたい汚れた天鵞絨の襟に顔を埋めて泣いた。薄暗い一室、戸外には風が吹暴ふきあれていた」で終わっている。
小説の主人公の自宅は牛込矢来町とある。ここを選んだのは作家の田山花袋が住んでいたためか?
キリシタン屋敷からまっすぐ北上して突き当りを右折して下る坂は
蛙坂(復坂)と呼ばれる。キリシタン屋敷を守る武士たちの組屋敷である七問屋敷から清水谷に下
る坂である。ここはひどい湿地帯で池に蛙が沢山いた。
丸ノ内線ガード下をくぐるって。釈迦坂を登り、徳雲寺脇から春日通りに戻る。徳雲寺に釈迦の石造があったのでそう呼ばれた。
このガードに下る坂は他にも2つあって茗荷坂は深光寺から茗荷谷に下る坂。茗荷が栽培されていたからそう呼ばれる。藤坂ひゃ春日通り石川5から下る坂である。庚申坂に平行して北側にある。
September 29, 2014
Rev. April 4, 2016