富岡の伊藤博文仮寓
2013年5月10日、第56回北ラス会の折、北高と
川端中学の同期の野本の実家は横浜の富岡にあり伊藤博文が明治憲法の構想を練った仮寓と聞く。東京湾の富岡の東にかってあった遠浅の海は高度成長期に埋め立てられて工場用地となった。そこに三
菱重工横浜造船所は移転し、現在のみなとみらいがその跡地に造成された。ロカ号にのって海側から
三菱重工をみていた時は富岡の今はどうなっているのか全く考えてもみなかった。明治期にお抱え外人たちのリゾート地となった昔の風光明媚な海岸がどうなってしまったか興味を持って5月26日、散歩が
てら、出かけた。
新杉田から京急に乗り、一駅の京急富岡駅下車、旧海岸方面に歩く。国道16号を横浜方面に富岡高校入口まで1ブロック歩き、そこから2軒目が野本邸であ
る。国道側にも裏口があるが、旧海岸に向かう下り坂の道に立派な門がある。表札はないが他にはそれらしいうっそうとした樹木に取り囲まれた旧家らしい屋敷
は見当たらないのでこれだろうと断定した。
門
野本が伊藤博文揮豪の扁額、井上馨筆の漢詩掛軸を中学・高校の同期生に見せてやろうというので10月13日に再度でかけた。参加者は白田、土屋、寺沢、西
沢、青木である。門から入ると玄関までのアプローチは登り坂で屋敷全体が海岸台地にあることが分かる。
アプローチ
明治14-5年頃から富岡には、政界の要人が、訪れるようになり、不平等条約の改訂問題や、自由民権運動、又は、憲法作成作業の諸問題など山
積した要件の検討会議などが、都心を避けて行われた。その為に、参与伊藤博文が借用したのが、野本の五代前の野本作左衛門の離れであった。博文の同僚の井
上
馨は南隣に隣接した一族の野本重郎左衛門の土地を借りて別荘を建てた。井上邸は今はない。博文が別荘として借りた茅葺の家は15年前に建て替えて野本の叔
母が住んでいたが。子がなかったため、亡くなったとき、600坪の家屋敷は野本の息子さんが後を継ぐことになった。
参議博文の扁額には
祥光(しょうこう)太清(たいせい)に
燭(とも)る
とある。
参議博文の扁額
憲法発布五十周記念式典のあった昭和13年2月11日の東京朝日新聞神奈川版に「憲法ゆかりの神奈川 警戒厳重の夏島に伊藤公、星と語る」という記事が保
管されていた。まさに我々同期生の生まれた年である。
折角の豪邸を別荘にしておくにはおしいとオーナーのお許しを得て冨岡会という勉強会を開くことになった。
敷地内には竹林があり、池があり、沢山の石灯籠がある。3/11の地震では石灯籠の一つが倒れたという。ちょうどミョウガが沢山とれてお土産にいただい
た。奥様はこの遺産の維持管理で四苦八苦しているという。
竹林
敷地内に湧水があり、水道は必要ないという。
湧水のある井戸の前で 白田撮影
海に向かって1段下がったところに「下の浜公園」がある。ここから振り返ると野本邸の全貌が見える。広大な敷地で古木がうっそうと茂る。
下の浜公園側からみた野本邸
写真帳をみせてもらうと茅葺の野本邸の前は波打ち際であったことが分かる。博文はポンポン船に
乗ってきた。そして馬を飼っていて散歩は馬ででかけたという。野本一族の重郎左衛門の所有地250坪を借りうけて建てた井上馨の別荘は下の写真の左隅に写っている。
野本邸の前は入江になっていたことが下の写真からわかる。
「下の浜公園」は当時は海の中だったわけだ。野本邸からみる海の景観は富岡八幡宮の山は額縁
となってよかったと察せられる。
野本邸から更に海に向かって歩くと、海の一部が住宅地に囲まれて池となって保存されている。
背景にある小山は富岡八幡宮の山で
ある。
保存されている
旧海岸
ついでに建久年間に源頼朝が勧請した富岡八幡宮も参拝。2017/3/18に再訪したとき鶴
岡八幡宮の鬼門につくられたという説明を知った。鬼門思想は中国から伝来した考え方であることに間違いはないが、日本の鬼門思想は中国から伝わった思想と
は大きく違った思想になっている。なぜなら風水に鬼門思想はなく、日本独自の陰陽道の中で出来上がった日本独特の思想であると考えるべきであるという。
応長年間の大津波で、隣村長浜千軒部
落が全滅してしまった時、富岡は八幡宮の山に護られて無事であった事から、御神威のあらたかさを称えて『波除八幡』とも呼ばれる様になり、海運関係の商人
や漁師等を通じて広く江戸にまで信仰を集めた。直系分社が深川にある。
寄付名簿に
野本一族の名前が見える。
富岡八幡宮 2017/3/18西沢氏撮影
この富岡八幡宮の下にこすもす幼稚園がある。昭和の始め、此の一角には睡蓮池があった。冬に
は一面に厚い氷が張りつめて、子供達の氷滑りの良い遊び場となっていた。昭和十年代になって、地主の佐藤繁次郎が、草屋根の大きな別荘を建てた。其処を田
舎家と呼んだが、太平洋戦争が激しくなると、御用達先の、海軍軍令部の人達の接待用に使われていた。敗戦で、アメリカの第八軍が進駐して、この田舎家も彼
等の接待用に使われた。間もなく、新しい憲法の制定が論じられ、金森徳次郎がその長に就き、草案起草の時に此の田舎家
に籠もって、草案を仕上げたと言われている。富岡は奇しくも昭和憲法にも関係をもったということになる。
三菱重工に向かって金沢シーサイドラインの並木中央駅まであるき、ここからシーサイドラインで金沢八景にでた。いつも海側からみていた大型風車は風もなく
止まっている。
埋立地を住宅地と工業用地を分ける金沢緑地は
土盛りしてあり、緑地の木々は成長していた。日曜日のため、海の公園には潮干狩でいっぱいだった。伊藤博文が富岡の仮寓の後、自分の別荘を建てた夏島の手
前の浜も潮干狩りで大勢の人が見えた。夏島の周辺は海軍が埋め立てて、飛行場にしたが、戦後はニッサンと住重の工場となっている。夏島の麓には明治憲法起草地の記念碑があるだけである。夏島には弥生前期
〜後期(約400年)までの古墳時代の遺跡「鉈切り遺跡」がある。土師器や須恵器と共に滑石製模造品、土製玉類、手捏土器など祭祀関係の遺物や、土錘、釣鈞などの漁労関連の遺物が知られる。
右手前の野島の麓には伊藤博文記念館がある。2002年2月3日(日)、
鷹取山と金沢八景の散策のとき野島の頂上に登ったことがある。結構急坂だったと記憶している。
遠くに夏島と右手前に野島
平潟湾には琵琶神社があった。
平潟湾の琵琶島神社
新逗子からは横須賀線で鎌倉に移動し、本屋で小笠原氏推薦の「おどろきの中国」を
買って帰
宅。一気に読む。
近郷散策
May 26, 2013
Rev. March 18, 2017