台湾一周旅行

台湾にはビジネスで1977年に台北を1993年には高雄(カオシュン)を訪問している。しかしいずれも、オフタイ ムに短 期間観光しただけである。萩和会の行事としてJTB企画の2012年5月の台湾一周旅行を決行というのでこれに参加。

かねてより鹿野忠雄の博物学的紀行文である「 山と雲と蕃人と 」を読んでいた。 兇蕃ラホアレ族が跳梁する南玉山の初登頂を新高駐在所の長銃身の拳銃携帯の警官真瀬垣氏、猟銃を持つ蕃人 人夫マキリタケシタホアンとともに < 新高山(玉山)経由の日帰りで初登頂したのだ。真瀬垣氏は信州の産、マキリタケシタホアンにはラホアレ族の血が流れている。鹿野氏本人は兼光の鎧通し1本という血沸 き肉躍る冒険談である。 一周の途中、玉山を遠望できるのでは?とこの大著を背負って出発した。


第1日 5月21日

朝、7:30頃、鎌倉高校前駅に向かっていると、高校生の一団が歓声を上げて空を見上げている。そうだ、今日は今世紀最後の金環食だと気がつき、 曇天の空を見上げると、雲に隠れているが、何やらそれらしき感じである。雨で暗いのではなく、蝕のためであったと気がつく。ただほんの一瞬しか見れない。 下の写真は山本氏がカメラ店から購入したものだという。まー!こんな感じであった。

CI017で成田発。機体は古いボーイング747であった。 TVサービスもないので持ってきた鹿野忠雄の 博物学的紀行文をめくる。桃園空港にむけ、高度を下げると海岸線に沿って数十基の風車が一列に並んでいるのが見える。 風力では台湾は先進国と感ずる。

出迎えた陽達旅行社の ガイドは劉さんという女性で客家出身だという。北京語はたった四声で単純だが、広東語や客家語は六から九声でもっと複雑だという。

17世紀頃に福建人が台湾に移民する以前から居住していた先住民は東海岸のアミ族、北部のタイヤル族と南部のパイワン族、中央山脈高地のブヌン族など 14部族で言語もすべて異 なる。マレー系に特有の出草という首狩りの風習があったが今では見られない。これをしないと男は一人前になれないとされ、女は 刺青をした。刺青をした最後の女性もこの世を去った。狩りでムササビの雄をとらえればそのふぐりを生で食したという。

バスで台中市プラザインターナショナルホテル着。(Hotel Serial No.508)高層ホテルで家具は黒檀製。ホテル周りの漢口路三段と大雅路を散策 して就寝。


第2日 5月22日

台中市観光

<法覚寺>
日本統治時代の1928年創立。台湾・中国では寺といっても必ずしも仏教寺院ではない。巨大な布袋さんの黄金の像と日本人の墓がある。

<日月湖(にちげつこ)
日月湖は自然湖で台中市の東南約40kmの中央山脈の中にある。台湾のほぼ中央部に位置する周囲約25km、水深約30mの湖であり、台湾有数の景勝地と いわれている。1999年9月21日未明に発生した台湾中部大地震の震源地とされている。台湾の太平洋側でフィリピン・プレートが沈み込んでいるため、台 湾は日本と同じ地震国であり、火山も多い。台湾を東西に分断する中央山脈(最高峰が宝山)もこのプレートの圧力で褶曲してできたものだ。常に東から附加体 が つくため東岸には4,000m級の中央山脈と並行する1,000m級の海岸山脈が走る。 台中から中央山脈に抱かれる日月湖に向かう山道で迫りくる妙義山のような険しい山並みをみた。当然、これは玉山の前山で御本尊は前山に隠れて見えない。前 山の奥の高山を見るためには平野にでて遠望しなければならないが、台湾では雲のために365日、見えないという。

ビンロウジが沢山植えられている。噛む嗜好品として需要があるそうで膨大な量である。ビンロウジと石灰   を混ぜて噛み、赤くなった唾液を吐きだす。運転手が愛用するという。かって中東の島でプラントの運転準備中にインド人の作業員から進められて噛んでみたこ とがある。しかし 吐き気が してやめた。タバコのように依存性があり、やめられなくなるという。台湾中これを売る店が沢山ある。ミニスカートの魅力的なギャルがネオン管で縁どられた 大きなガラ ス窓の中に座わリ、ビンロウジを売っている。トラック運転手が顧客という。ギャルが売上を伸ばすのだという。しかし台北市中心部や学校周辺では規制が行わ れているためそのような店は見当たらない。

路傍に墓地がある。沖縄の墓と同じ形式で緩やかな斜面を利用して女性の下腹を模した様式である。沖縄とは近いので沖縄が台湾の影響をうけたのか中国から渡 来した形式なのか興味ある。

<文武廟>
廟は日月湖畔に1938年に建立され、1975年に再建された中国宮殿式の廟宇で、廟としては台湾で最大級のものといわれている。廟は前殿、中殿、後殿の 三殿様式に なっており、前殿は文廟で文の神である孔子が、中殿は武廟で武の神である岳飛や関羽が祀られている。文武廟では武人よりも文人のほうが格が上として崇めら れている。これは儒教の考えで、「文系官僚と文系マネジメントが日本を滅ぼす」に記したように日本にも悪い影響を与えている。

建物は大理石製だ。1999年9月21日未明に発生した台湾中部大地震では蒋介石の別荘は倒壊した。しかし文武廟の後殿は倒壊しなかったという。



文武廟

文武廟は大変立派である。そしてこれが寄付金によって維持されているのが驚きである。寄付者の名前が彫り込まれている。ここらへんは昔の日本と同じ。かつ て、中 国大陸において、収穫物は天より人が預かっているものであり、その預かり物を個人の意思で濫りに使うのは王でさえも許されないとの天道思想があっ た。キリスト教圏では各種のチャリティーが行われ、社会福祉の一翼を担うようになっている。ただ欧米諸国の中でも、アメリカ合衆国やイギリスな どでは自助の精神が強く、政府に頼らず民間での寄付が盛行したが、北欧諸国などでは政府が福祉を担うという社会意識が比較的強く、民間の寄付は英米ほど盛 んとはならなかった。日本も北欧のように福祉は政府という意識が高い。台湾では宗教法人への寄付控除が税制上認められているのか興味あるところ。

<北回帰線>
ここで小休止。ここから真東に玉 山はあるのだがガイドの劉さんによれば中央山脈は常時雲の中で姿を現さないそうだ。

<鳥山頭水庫(うさんとうダム)
建設を立案・監督した八 田与一に因んで八田ダムの名でも知られる。1920年に着工し1930年に完成した、嘉南大圳の重要な水利工事の一つであり、台湾初期の ダムの一つである。計画は日本人技術者の八田与一により策定され、嘉南平原の農業灌漑を主目的として建設された。フーバー・ダムが完成するまでは世界最大 のダムであった。

八田与一は石川県河北郡花園村(現在は金沢市今町)の15町歩の豪農・八田四郎兵衛の五男として生まれた。第四高等学校を経て、1910年に 東京帝国大学工学部土木科を卒業後、台湾総督府内務局土木課の技手として就職した。台湾では初代民政長官であった後藤新平以来、マラリヤなどの伝染病予防 対策が重点的に採られ、八田も当初は衛生事業に従事し、嘉義市・台南市・高雄市などの各都市の上下水道の整備を担当した。その後、発電・灌漑事業の部門に 移り、本ダムの企画から建設すべてを担当した。烏山嶺トンネル工事で、石油が噴出し、その石油ガスに灯油のランタンの火が引火・爆発して日本人、台湾人あ わせて50余名の死者が出た。これにもめげず当時世界最大のダムがを完成させたのです。太平洋戦争中の1942年5月、陸軍の命令によって3人の部下と共 に大洋丸に乗船した與一は、フィリピンの棉作灌漑調査のため広島 県宇品港で乗船、出港したが、その途中、大洋丸が五島列島付近でアメリカ海軍の潜水艦に撃沈され、八田自身も死亡した。沒後贈正四位勲三等。日本敗戦後の 1945年9月1日、外代樹も夫の後を追うようにして烏山頭ダムの放水口に投身自殺した。

萩和会メンバーの大先輩に同じ石川県出身の1919年東京帝国大学工学部応用化学科卒業の八田四郎次先生がいる。郷里も名前を非常ににているので何か関係 があるのかもしれないと調べたところ山本氏が八田四郎次の二男の誠二氏と近所であることから又従兄弟であることを確認できた。

八田与一程ではないが新渡 戸稲造も台湾に足跡を残している。台湾でサトウキビ栽培をして精糖業をおこすとことを立案したのは新渡戸稲造である。ハワイから台湾に適したキビ の苗を輸入している。しかし戦後は国際競争に敗れて、台湾にサトウキビ栽培は残らなかった。

台湾の人々に今でも愛されている人は八田与一である。日本統治時代の人で、死んでも尚、台湾の多くの人々に愛されている日本人は台湾総督府初代総督樺山資 紀ではない。彼は恨まれることはあっても愛されることはない。事実、 彼の墓は第二次大戦後、掘り返され、墓石は民家の壁になっているとのこと、その骨は日本に帰ることができなかった。


台南市観光

<赤嵌楼(せきかんろう)
原名は「プロヴィンティア」(Provintia)と称し、1653年にオランダ人と漢人の衝突事件である郭懐一事件」の後に築城され た。鄭成功がオランダ人を駆逐した後、東都承天府と改められ、台湾全島の最高行政機関となった。赤嵌楼の脇に満文を含む石碑がある。満洲文字の直接の起源 はモンゴル文字に由来する。文字の起源を辿ると、満洲文字〜蒙古文字〜ウイグル文字〜ソグド文字〜シリア文字〜北セム系アラム文字と溯つて行く。 西セム文字の系統とされている。

鄭成功は日本の平戸で父鄭芝龍と日本人の母田川松の間に生まれた。幼名を福松(ふくまつ)と言い、幼い頃は平戸で過ごす が、7歳のときに父の故郷福建につ れてこられる。鄭芝竜の一族はこの辺りのアモイなどの島を根拠に密貿易を行っており、政府軍や商売敵との抗争のために私兵を擁して武力を持っていた。倭 寇。鄭芝龍が平戸を去る時、平戸藩士に託した銅製の印鑑「糸印」が今も平戸に残る。

<延平郡王祠(えんぺいぐんおうし)
台湾を占領していたオランダ人を駆逐した鄭成功の功績を賛え、鄭が死去した1662年に彼を慕う人々によって創建され、開山王廟と名づけられた。日本統治 下に入った後の1896年、開山王廟は鄭成功を祭神とする神社となって開山神社(かいざんじんじゃ)と改称され、翌 1897年には県社に列格した。日本式の拝殿は作られたが、中国風の祠はそのまま残され、本殿とされた。第二次世界大戦終戦後、中華民国政府によって社殿 が全て 取り壊され、中国北方式建築を模した鉄筋コンクリート製の廟に建て替えられた。



赤嵌楼


高雄市観光

<澄清湖(ちょうせいこ)
高雄市鳥松区に位置する人造湖。蒋介石が故郷を思って作らせた。湖畔には九曲橋があり、ここで記念撮影。背後の建物は高級ホテルの圓山大飯店(グランドホ テル)。



九曲橋にて

<蓮池潭(れんちたん)
蓮池湛の龍虎塔の龍の口から入って虎の口から出た。龍虎塔は7層。



龍虎塔

<六合二路>
夕刻歩行者天国にして開業される路上の夜店を散策。早速ライチーを買って散策しながら食す。ここで売られる発酵豆腐の油揚げは強いにおいを出すが、味はよ い。

Best Hotel泊(Hotel Serial No.509)


第3日 5月23日

高雄市観光

<寿山公園>
寿山は高雄市の西南部に位置し、南北に走るサンゴ礁の上にできた丘陵地で忠烈祠から高雄港を見下ろすことができる。

<中央山脈>
高雄市60Km南下した楓港からようやく中央山脈横断のため谷間に入る。谷を上りつめ、峠を越えて下れば太平洋が見えた。此処からは蛮族の地だ。大東市ま で北上。山が海 に迫って平地はない。

台東市観光

<緑島、蘭嶼(らんゆ)島>
台東市は少し平地があり、ここから北にむかって中央山脈と海岸山脈にはさまれた平地と狭い海岸の平地がわかれる。 台東市は1,933年の夏、蘭嶼島の渡ろうとしたサファリルックの鹿野忠雄とアミ族の青年 トタイ・ブテンが出会ったところだ。

<三仙台>
沖合いには3つの大岩礁がある。八仙人が海を渡るとき、呂洞賓、何仙姑、李鉄拐の三仙人が岩の上で休んだという伝説がある。元は火山岩からなる、一つの岬 であった。海水の浸食を受けるうち、陸から分かれてしまい離島となった。この海岸の小石は宝石を含むので持ち出しは禁じられている。

ここでアミ族の歌謡CDを買う。



三仙台にてアミ族と  藤間氏撮影

<八仙洞>
長浜の北10kmにある12個の洞窟群で、5,000年前の新石器時代に 石器人が住んでいたといわれている。最大の洞窟「仙女洞」 は高さ25m、幅15m、深さ20mもあり、形が女性のワレメにそっくり。入口から降り注ぐ清水を飲むと子宝に恵まれるといわれている。



八仙洞

<北回帰線票塔>
ここで小休止。玉山のある西をみても、1,000mはある迫りくる海岸山脈にさえぎられてなにも見えない。路傍に墓地が見えるがここはすべてキリスト教式 だ。

<阿 美文化村>
民族舞踊を鑑賞。



アミ族のとのダンス 富永氏撮影

Maqrshal Hotel泊
(Hotel Serial No.510)


第4日 5月24日

<太魯閣渓谷(タロコ渓谷)>
大理石の岩盤を侵食して形成された大渓谷。奇岩怪石の渓谷。台湾原住民タロコ族の言葉で「連なる山の峰」を指すとも、高名な頭目の名に由来するともいう。



タロコ渓谷

<九曲洞>
太魯閣渓谷でもっとも素晴らしい景観が見られる場所。

<セメント工場と大理石工場>
この付近は全山大理石であり、 太魯閣渓谷入り口脇の石灰石を使ったセメント工場がある。シャフトキルンを使っている。採取した大理石をカットし、磨き上げ、彫刻して商品に仕上げる工場 を見学。翠玉白菜のコピー商品を販売している。

<秘密空軍基地>
花蓮市の裏山の石灰岩に洞窟を掘り、4つの地中格納庫への入り口が見える。Aを中心に置き、拡大して確認してください。そして山裾にそって2,500m程 の滑走路が1本ある。これは秘密空軍基地だと いう。すぐそばの新しくできた花蓮機場とも道 路や河川をまたぐ立 体ランウェイでつながっている。

 
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<台北駅>
花蓮市から台北駅までの鉄路は狭軌であった。日本が持ち込んだ規格だろう。満鉄が広軌であったのは日露戦争後、ロシア帝国から譲渡された鉄道施設が広軌 だったからだろう。途中、中央山脈から太平洋にそそぐ河川が長さが短いのに幅が広いことに気が付く。降雨量が圧倒的に多いのだろう。

台北駅到着。台北市と高雄市は新幹線が結ばれたことを契機に巨大な駅舎が完成。工業都市として発展していた高雄地区が工場の海外移転及び脱工業化にともな い産業が空洞化した。高 雄都市圏の人口を吸収する可能性も指摘されている。

台北市観光

<忠烈祠の衛兵交代>
陸、空、海軍から選ばれた衛兵が交代。青い制服の兵士は空軍、白い制服の兵士は海軍、グリーンの兵士は陸軍。我々が着いた時は陸軍であった。任務に就いた ら最後、1 時間は微動もできないという。そのときのビデオを紹介する。兵士が持っている銃は実弾が込めてあるという。この衛兵は職業軍人としての教育を受けている学 生だという。ただ長年続いてきた徴兵制はいよいよ廃止だという。



忠烈祠の衛兵交代


<故宮博物館>
中華民国政府が台湾へと撤退する際に故宮博物院から精選して運び出された美術品が主に展示されており、その数が合計60万8985件冊にも及ぶことから世 界四大博物館のひとつに数えられている。博物院では3カ月に1回の割合で展示品の入れ替えがあるが、膨大な所蔵量のために、全ての所蔵品を見るためには8 年余りもかかると言われている。



故宮博物館

<翠玉白菜>
天然の翡翠と玉の混ざり具合を巧みに利用した繊細な彫刻で、翠玉巧彫の最高傑作と言われています。白菜の上にとまっている虫2匹は、多産を象徴するキリギ リスとイナゴ。この作品は、紫禁城内の永和殿に安置されていたもの。そこは光緒帝の妃であった瑾妃の寝宮であった。

<清晩期彫象牙透花人物套球>
農民の親子が長時間かけて彫ったという多層の球。かってこれを見てその根気に感嘆したものだ。

<西周晩期 毛公鼎>
獣に似せた3本足に楕円形のカメ型という西周晩期の青銅器。2800年以上も前のもので、漢字の源流がよくわかる。北京がのどから 手が出るほどほしがっている。

<台北101展望台>
高さ509.2mで、地上101階、地下5階からなる超高層ビル。27階から90階にかけて、逆台形をした8階分を一節として、8つの「節」が縦に連なる 特異な外形が特徴。超高層建造物は制振においては、地震などより風圧による振動の方が遥かに考慮すべき問題となる。特に暴風対策には非常に力をいれた設計 になっている。87階 - 92階の中央部の吹き抜け空間には、風による振動を緩和する目的だけのために、巨大なチューンド・マス・ダンパーが設置されている。マス・ダンパー全 体の重量は660トン、最大一枚あたり直径5.5メートル、厚さ12.5センチメートルの輪切りの鋼板 を、41層を重ね溶接して球状にし、92階から長さ42メートル、4本の太さ直径9センチメートルのケーブル 計16本で吊っている。そしてこのマスダンパーの効果で、理論上は風力による振動を最大40%抑制できるという。



制振器

2002年3月31日に台湾島北部でM7.1の 大地震が発生。この揺れで、当時建築中だったこのビルの頂点の56階(250m)に設置されていた作業用タワークレーンが、地上に落下し死者5名の ほか、車が下敷きになるなどの被害が出た。2004年12月31日完工。91階展望デッキから夜景。

City Hotel Taipei泊(Hotel Serial No.511)


第5日 5月25日

<基隆港(きーるん)
基隆港は、17世紀に既に外国人の足跡があった。スペイン人が台湾の一部を占領していた頃、基隆港の調査が進められ、部分的に建設も行われた。日本統治時 代になると、基隆港の大規模な建設が開始される。1941年に太平洋戦争が始まると、基隆港は物資輸送や海軍基地として当時の台湾において重要な地位に占 めるようになった。このため、大戦末期には攻撃の矢面に立ち、米軍の爆撃の主要目標となった。港湾埠頭施設と停泊していた船舶は全て深刻な被害を受け、港 湾区域は廃墟となった。現在、台湾第2位の取扱量を誇る港湾である。

<中正公園>
中正公園は基隆港東側の山丘にある。観音像がある最上部からは基隆港を見渡すことができる。日本統治時代には台湾八景に選ばれた場所。「中正」とは蒋介石 の本名。

<九份(きゅうふん)
九份は台湾の一寒村に過ぎなかったが、19世紀末に金の採掘が開始されたことに伴い徐々に町が発展し、日本統治時代の1895年、台湾の統 治者となった日本政府はただちに金鉱採掘禁止令をしき、翌1896年には新しく鉱業管理規則を発布した。 それと同時に基隆山山頂を境として一帯が東西に分けられ、東の金瓜石は田中長兵衛の田中組に、西の瑞芳は藤田財閥の創始者である藤田伝三郎の藤田組にそれ ぞれ採掘権が与えられ た。藤田伝三郎は日本鉱業創始者の久原房之助の叔父である。かねてから海外の鉱山の経営に手をのばしていた久原房之助の日本鉱業 (久原鉱業)は1933年金瓜石鉱山の全てを買収し、敗戦までにほぼ掘り尽くした。九份の街並みは日本統治時代の面影を色濃くとどめており、当時の酒家な どの建物が多数残されている。しかし第二次世界大戦後に金の採掘量が減り、1971年に金鉱が閉山されてから町は急速に衰退し、一時人々から忘れ去 られた存在となっていた。金瓜石鉱山90年の総生産量は粗礦量約2,500万t、純金120t、純銀250t、銅25万tに上るものと推定される。

1989年、それまでタブー視されてきた二・二八事件を正面から取り上げ、台湾で空前のヒットとなった映画「悲情城市(A City of Sadness)」のロケ地となったことで九份は再び脚光を浴びるようになる。映画を通じノスタルジックな風景に魅せられた若者を中心に多数の人々が九份 を訪れ、また他のメディアにも取り上げられるなど、台湾では90年代初頭に九份ブームが起こった。日本では、九份が2001年に公開された映画「千と千尋 の神隠し」の湯婆婆の屋敷のモデルになった。映画製作前、宮崎駿は台湾の九份と阿妹茶酒館を訪れてスケッチをしていたという。この他に長野県下伊 那郡天龍村に伝 わる「天 龍村の霜月神楽」や長野県飯田市の遠山郷に伝わる「遠山の霜月祭」などを参考にしているという。阿 妹茶酒館でお茶する。帰ってからTVで映画の再放送を再び観たが阿妹茶酒館のイメージがそのままというわけでなく、全体の雰囲気を参考にしたという感じで あった



阿妹茶酒館にて

ついでに同期の倉見さんから日立製作所の創業者の小平浪平は、自家発電所の建設の為、請われて久原鉱業に入社した。工作課長の時、経営を安定させる為に は、さらに大規模な発電所を建設し、その余剰電力を化学工業の分野に回し、事業の多角化を推進すべきと久原に進言して、それを久原は受け入れて、分離独立 した。これが日立製作所の発足の経緯だという。現在の日本の産業構造はこのころに形成されたものであることがわかる。田中組から後の新日鉄、藤田組から関 西電力、藤田観光、慶応、早稲田大学、久原房之助から日本鉱業と日立製作所と現在の姿からは想像もつかない。全ては環境に適応するマネジメントの力量であ ることが分かる。

<円山ホテル>
日本統治時代、剣潭山という山の上に建てられた台湾神宮の跡地を利用して、1952年に宋美齢により創立された。国家レベル、国際レベルのホテルで数知れ ない著名人が宿泊し、政府が国家元首を招待する場としても、名を馳せている。1977年に一度訪問。

<淡水>
紅毛城はセント・ドミニカ城、アントニー要塞と称され、台湾台北県淡水鎮に残る古跡。1628年、当時台湾北部を拠点としていた スペイン人により建設され、スペイン勢力撤退後はオランダ人により1644年に再建された。1867年以降はイギリス政府に租借され、当時のイギリス領事 館が業務を開始し、それは1980年に中華民国政府に所有権が移管されるまで続いた。紅毛城は台湾に現存する最古の建築である。



紅毛城

紅毛城の後は淡水の岸辺を散策。

<士林夜市(しりんよいち、シーリンイエシー)
元々このエリアは基隆河を介して艋舺や大稻埕へ士林近辺の農産物を輸送する交易の場として栄えていた。最初は媽祖を祀った「慈諴宮」の門前の広場に夜市が 立っていたが、1909年に士林市場が作られると従来の夜市のエリアに加え、市場周辺も夜市が展開するようになった。台北の人々は外食の習慣があるのか、 若い家族がバイクに乗ってやってきて、活気がある。

この雑踏をみていると、シャープに出資した鴻海精密工業(Foxconn)のように製造工場は中国に持ち、iPhoneの委託 製造をし、台湾は頭脳だけで、経済は維持できると確認できる。ただルネサスエレクトロニクスと提携した台湾積体電路製造(TSMC)は新竹市に工場をもつ という。

City Hotel Taipei泊(Hotel Serial No.511)


第6日 5月26日

<地下鉄>
トークンを20元で購入し、板南線で台北駅へ

<新光三越駅前店>
台湾の 新光グループと日本の三越との提携により、1991年に設立された巨大デパートである。

<二二八和平公園>
日本統治時代に作られた台北新公園を前身とする。日本が敗北して台湾が中華民国に接収された1945年の二年後の1947年2月28日に勃発した二・二八 事件の中心地の一つとなった。中華民国による台湾統治に反抗して蜂起した台湾住民が園内の台湾ラジオ放送局を占拠し、台湾全土に向 けて台北での蜂起を告げたのだった。その後の虐殺を目撃した人から直接その模様を聞いたことが思い出される。

<総統府>
日本統治時代の1919年に完成した建物で、台湾総督府として利用されていた。第二次世界大戦末期のアメリカ軍による空襲によって内部が全焼し中にいた職 員の多くが死傷、建物も大きく破損した。世界大戦終結後に台湾へ進駐した中華民国政府が接収し、修復を行い1948年に旧態に戻った。



総統府前にて

総統府の右の台湾銀行と左の司法院は日本統治下で作られたもののようだ。総統府は憲兵隊が守っている。ナンバープレートをつけていないハマーが2台、広場 の片隅 にある。



憲兵隊のハマー

<中山南路>
東門をロータリーとし、台湾大学付属医院前通りである中山南路は敦化北路とともに2列の街路樹をもつ3本道路で、日本統治下で建設されたと藤間さんはい う。

<東門>
清の時代に台北を治めるため、台北府がおかれた台北府城の東門で景福門と呼ばれた。

<東門国民小学校>
同期の藤間さんが学んだ小学校。当時のままの建物をそのまま使用。立派な建物だ。

<中正記念堂>
日本統治時代の山砲隊、歩兵第一連隊の軍用地跡地に建設された蒋介石の顕彰施設。中国の伝統的な宮殿陵墓式が採用されている。「中正」とは蒋介石の本名。

<台湾師範大学>
日本統治時代には帝国大学へ進学する学生が学ぶ旧制台北高等学校が1922年創立されており、東大理学部に学んだ鹿野忠雄がここで学んで いる。鹿野忠雄は このころから中央山脈に足を運んでいる。後に第8-9代総統の李登輝らも学んだ。 当時の建物が健在。 藤間の家の前にあったため、幼少のころここのグランドで遊んだという。



旧制台北高等学校

再び地下鉄でホテルに帰り、バスで空港に向かう。帰りの機中CI106でメリル・ストリープ主演の映画「マーガレット・サッチャー鉄の女の涙」を見る。1970年初頭の炭鉱ストライキでボロボロになった英国病の英国とサッチャー後の2011-12年の英国をつぶさに観察した者にとっては彼女の貢献がいかに大きかったかを再確認する映画で あった。

"If you want something said, ask a man. If you want something done, ask a woman."


台湾の原発

台湾の原発は23%の電力を賄い、島の北端と南端に合計3ケ所の原子力発電所に6基の原子炉がある。

第1原発:風光明眉な北部海岸石門区、金山発電所、GE BWR x 2、Ebasco 78、79年運開。
第2原発:石門から15キロ南の美しい海岸、萬里区の国聖(くおしょん)発電所、GE BWR x 2、Bechtel 81、83年運開
第3原発:島の最南端の恒春郷風光明眉な海岸恒春区南湾、馬鞍山(まあんしゃん)発電所、PWR x 2、Bechtel/PECL  84、85年運開
第4原発:貢寮区(こんりゃおーく)、塩寮(えんりゃお)発電所、GE(Toshiba, Hitachi) ABWR x 2 S&W未完

第1原発から第3原発の運転では被ばく死者を含む放射能汚染事故多数発生。北部の金 山、石門の4基 は人口150万人の台北市から30キロしか離れていないし、台湾は 地震多発地帯だ。第4原発は東海岸から台北に抜ける鉄道が近くを通過している。もしここが事故れば東海岸との交通は途絶することになる。

第4原発はコストアップと安全上の危惧で何度も工事中断した。またGE(日本製)のABWRとはいえ、建設は2000年に破産したS&W社であっ たことも遅れの原因。

中国本土では台湾に近い広東省、福建省を中心に原子力発電所建設が進められてきた。福島原発の事故を機に、台湾の原子 炉6基に加え、中国本土の原発の問題 もクローズアップされている。原発はテロと戦争に脆弱。

台湾島の南の沖合の小島、蘭嶼(らんゆ)島には核廃棄物貯蔵場が作られずさんな管理でもし津波がこの島を襲えば廃棄物は黒 潮にのって日本沿岸を襲う。

原発事故以降、ドイツ、ベルギー、スイス、台湾などは脱原発の方針を決めたと2012/6に報道されている。特に台湾の6基のBWRは全て台北の30km 以内にあり事故が発生したらどうしようもなくなるから妥当な方針だろう。



ゴルゴ13

山本さんから「さいとう・たかお」の「ゴルゴ13」シリーズの1984年作「2万5千年の荒野」に原発メルトダウンに関する作品があると教わった。 ロサンゼルスの北方80キロにあるヤーマス原子力発電所で逃がし弁が作動せず、あわや爆発というときに一人の技術者の命をかけた支援のおかげでゴルゴ13 が対戦車銃で逃がし弁を撃ち抜き、ベントに成功というシナリオ。帰国後、お借りして読んだ。福島事故を予見したように描かれたといってよい出来で、脱帽。 実際には圧力容器の逃し弁は格納容器内にあって銃撃できないのだが、一般読者向けに単純化して原子炉建屋に入って銃撃するというプロットになっている。 フィクションだから当然犠牲者もでるわけ。さいとう・たかおは脚本と作画は別人でチームで作業するそうで。この「2万5千年の荒野」の脚本はきむらはじめ 氏だとのこと。漫画家が米国などの報告書を読んでストーリーを描いたのに、マンガを読まないお堅い東電が知らなかった。そしてなにも備えていなかったとは どういうことか?というのは率直な読後感。



表紙

さて現実はフィクションより複雑。マンガでは運開直前に鋼材が逃し弁に当たって損傷させた可能性があるのに、経営陣が大統領訪問に間に合うように見切り発 車するというプロット。福島では寝ている子を起こすと津波を想定することを経営陣が拒否したため、非常用電源装置のバッテリーとAC電源のスイッチギアの 水没ではじまる。逃し弁に作動空気 を送り込むソレノイド弁が直流電源喪失で作動せず、逃がし弁を開けられなかったため水を注入できないという事態に陥る。

停電後2時間で燃料棒は露出し、メルトダウンが始ま る。するとメルトダウンの熱で中性子計測の ためのsource range monitor/ intermediate range monitorのドライチュイーブおよびTIPのドライチューブが貫通する炉心温度が727Cに上がった時点で破損し、そこから水蒸気と水素が 格納容器にもれて圧がさがり、結果として消防ポンプから海水を注入できまで下がった。ただそのときにはメルトしたコアも溶けた制御棒貫通部から格納容器下 部に落ちて高熱を発していた。結局 格納容器の温度と圧があがり、サプレッションチャンバーのウエットガスベント弁もAO弁であるにもかかわらずDC電源喪失で開けらればい事態になった。ハ ンドルで開けようとしたが、放射線が強く、サプレッションチャンバーのキャットウォークを半周したところで引き返さざるを得ず、ハンドル操作もできなかっ た。次善の策として洗浄されていない放射能を多量に含むガスをドライベント弁(MO弁)をあけて放出しようとしたが、AC電源喪失で開けられず、決死隊が 原子力建屋に入ってドライベント用MO弁をハンドルで開けて放出したというのが実態。



実装されている逃し弁

最大の問題はBWRの格納容器は上部に燃料交換のための大口径の蓋があり、メルトダウンの熱 でゴム系のガスケットが漏れて膨大な放射能と水素が漏れ、燃料交換デッキは爆発で吹き飛んだ。したがって安全対策のためにこれからBWRにベントスクラッ バーをつけても意味がない。



BWRとPWRの格納容器構造比較

この点PWRは格納容器内でポーラ・クレーンで燃料を抜きだし、水プールで横倒しにして隣接する燃料建屋に開口面積の小さな水中コンベヤー経由水 中搬送する構造のため、対流や放射で加熱される上 部フランジはなく、漏れを生じにくい。詳しくは軽水炉事故ダイナミックシミュレータをご覧ください。

したがってPWRにはベン ト・フィルターないしスクラッバーをつけておけば仮にメルトダウンしても漏れる恐れは低くなる。格納容器ベント弁も放射能汚染の恐れがすくないため手動操 作しやすい。実際フランスの古いPWRは砂充填のフィルターを付けてい る。スリーマイル島でもメルト ダウンしたが、下部に制御棒貫通部がないため、メルトスルーせず、格納容器は健全性を保ちセシウムの漏れはゼロであった。結果として著者が目下整理してい る未公表のべき分布図もこれを示している。そういう意味でBWRは根本的に 欠陥商品であることがあきらかになったと思う。したがって日本のPWRはフィルターを付 けて寿命いっぱい運転してメルトダウン事故を起こしても大きな放出事故にはいたらないが、 BWRはベントフィルターをつけても封じ込めはできないということになる。論理的にはすべて廃炉にし、今後もGE型のBWRは採用しないのが正しい判断で あると私は思う。

さていままでの運転で溜まってしまった放射性廃棄物は住民のいる土地には捨てられない。結局国際的には嫌われるが、無人島ということになるのだろう。たと えば南鳥島。ここは太平洋プレートにのる火山の上に発達したサンゴ礁で1.600km小笠原諸島に向かって移動すればトレンチに沈み込み、海底の泥に埋も れてしまう。プレートの年間移動速度が2cmとすれば8,000万年後にそうなる。そのころ人類が滅んでい るのだろうか。

June 2, 2012

Rev. August 24, 2015


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