シリアル番号 | 759 |
書名 |
郡上・白川街道 堺・紀州街道ほか |
著者 |
司馬遼太郎 |
出版社 |
朝日新聞社 |
ジャンル |
紀行文 |
発行日 |
1978/11/20第1刷 2005/2/25第27刷 |
購入日 |
2006/4/12 |
評価 |
良 |
街道をゆくシリーズ4
能登半島・若狭湾の旅の予習として買う。ここに収録された郡上・白川街道を北上するルートはかって1997年8月、バイクでタンデムして白川郷から御母衣湖、蛭ヶ野高原、郡上八幡 と南下したルートの逆コースである。このとき郡上八幡城はパスした。
ほとんど高度差のない蛭ヶ野高原は奇妙に感じたが、司馬燎太郎氏はちゃんと観察して記述している。かなりの観察眼の人だと思う。
今昔物語巻二十六にでてくる白川谷の猿丸という在所で発生した事件を紹介している。旅の僧がで道に迷い 途方に暮れていると笠をかぶり物を背負った男がやってきて滝のしぶきのなかに踊りこんで消えてしまった。僧は勇気を出して滝に飛び込むと滝の中に道があり、向こうに人里がある。村の有力者が自分の家にまねき、娘をさしだした。僧は還俗し、娘を娶って毎日上手いものを食べてふとった。しかし娘は理由は明かさないが太るほど哀しそうな目をする。やがて僧は山ノ神の生贄にされるのだが、山ノ神はじつは年老いた猿で、僧はこれを退治して以後娘と幸せに暮したという話がでてくる 。この猿丸は2004年5月11日に石原隊ツーリングで通過している。五箇山もそのとき通過した。荘川沿いの村々は真宗の独立王国であったという。
加賀藩が百姓御定書で五箇山の長押(なげし)を禁じたので取り外した跡があるとか、米を産しなかったので焰硝(えんしょう)の製造をさせたということだ。明治になってチリ硝石が輸入されるようになって焰硝製造は衰退した。
富山は1994年8月黒部・立山を縦断した後、黒部渓谷に入るために訪れたのと2000年の1月にビジネスの挨拶に訪問しただけでよく知らない。 富山市の西にある標高145mの呉羽丘陵の東は呉東といい、西側は呉西という。呉東は関東文化圏、呉西は関西文化圏に属するという。
北国街道とその脇街道は北前船(きたまえぶね)全盛の頃、琵琶湖北端の海津港と敦賀湾を結ぶ西近江路とその愛発(あらち)の関に関して想像をたくましくする。敦賀の気比の松原は海を松原越にながめることができて美しく、古の渤海国との交流に思いをはせる。
奈良朝末期から平安初期にかけて渤海国の使節が朝貢貿易のためにしばしば敦賀湾にやってきて気比の松原の浜に到着したという。