読書録

シリアル番号 1184

書名

南京事件

著者

笠原十九司(とくし)

出版社

岩波書店

ジャンル

歴史

発行日

1997/11/20第1刷

購入日

2014/04/03

評価



鎌倉図書館蔵

最近、習金平がドイツの国会で旧日本軍が南京で30万人の虐殺をおこなったと演説したと報道された。昔から30万人という数字は良く聞くが、中国式白髪三 千丈だろうくらいにしか思っていなかった。も少し勉強が必要と借りてきた。昔家永三郎の教科書「新日本史」は文部省によって書き直しを命じられたが最高裁 判所で家永氏が勝っている。

これを読み始めると30万人という数字の正当性は兎も角、南京軍事法廷において谷寿夫元中将に死刑を宣告した判決書に事 実認定結果として書かれているという。この他、磯谷廉介元中将も死刑。百十人斬り競争をした向井敏明小隊長、野田毅副官、三百人斬りの田中軍吉元大尉が死 刑となった。読んでいるうちに同じ著者の『「百人斬り競争」と南京事件 史実の解明から歴史対話へ』を2008年に購入していることに気が付い た。

東京裁判では南京事件をとめなかったという不作為で松井石根が死刑宣告された。平和に対する罪で広田弘毅と武藤章も南京事件に関し有罪とされた。

2009年に伯母が亡くなった時、伯父が戦死したとき海軍の部下からもらったお悔みの手紙を 従兄弟からもらったことを思い出した。この本では南京爆撃は長崎の大村基地からの九六式陸上攻撃機による渡洋爆撃で始まり、上海を攻略後は上海公大飛行場 を基地とする爆撃の2つが書いてある。伯父は戦闘機乗りだったのでこの上海からの爆撃に戦闘機で出撃したと推察できる。

陸軍参謀本部作戦部長の石原莞爾少将は自分がはじめた満州をかためるために中国本土に戦線を拡大するのには反対であったが、部下の作戦課長の武藤章大佐は 拡大派となり対立し ていた。当時は下克上ははやっていたのである。石原莞爾は関東軍参謀のとき、中央の意向に反して独断で柳条湖事件を引き起こし満州事変を主導し、成功し た。勝てば官軍、途端に行賞を受け、中央の要職についたので部下が下克上を真似したわけである。今村均は「因果は回る水車のようだ」と回顧録に書いてい る。

石原莞爾や板垣征四郎の出世物語が下克上の野心を中堅幕僚に伝染して拡大していった。下克上した武藤章は結局死刑となった。海軍は陸軍と対抗して南進したがっており、勝手に南京爆撃を初めてい たのである。海軍航空本部の大西瀧治郎大佐は空襲回数36回、飛行機の延機数600機、投下爆弾300トンと自慢している。その後神風特別攻撃隊を創設し た大西瀧治郎は終戦時に割腹自決している。

松井石根上海派遣軍司令官は陸士の第9期生で同期から五名が陸軍大将になっていたのに松井石根だけが一番昇進が遅れていた。こういう劣等生に南京を任せた陸軍首脳の責任は重い。

近衛文麿は対中国の戦争目的を「支那膺懲(ようちょう)」または「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」というどうでも解釈できる曖昧なものにして国民をそそのかした責任がある。「暴戻(ぼうれい)支那(しな)ヲ膺懲 (ようちょう)ス」というわけである。

拡大派の田中新一課長ですら予高年次招集兵からなる上海派遣軍の軍規は乱れ、兵站(
ロジスティック)も乱れて、補給がない兵は住民からの略奪をはじめていたことを把握していた。また司令官の松井石根は南京を占領して国民政府軍に代わる傀 儡政権を樹立する野心を持っていることを知り、それは不可能と知って休養を与えようと考えていた矢先に第十軍から南京進撃を命令したとの報が届くのであ る。

武藤章は第10軍の第6師団の戦功を持ち上げ第16師団をけなして両者に南京の一番乗りを競わせた。こうして第16師団は南京虐殺の主役になるのである。上海から南京まで300km。この間「糧食を敵に求む」方針であった。自然婦女凌辱がおこるが上官は見て見ぬふり。

松井石根らは南京さえ落とせばなんとかなると考えたが中国政府は重慶遷都を布告し実質的には漢口に首都機能を移転して、南京はもぬけの殻であった。

なぜ略奪が生じたかと言えば、糧食は現地調達が方針だったからで、現地調達とは略奪せよということになる。そうしているうちに、指揮官が軍規を守らせるこ とをしないと婦女にたいする凌辱が自然発生するのだ。最終的に防衛軍15万人のうち4万人が南京を脱出し、2万人が戦闘中に死亡。1万人が逃亡。8万人が 捕虜・投降・敗残兵として虐殺された。民間人も含めれば20万人が犠牲になっていると言っても良い。

ここらへんは外務省の大使を務めた大鷹正氏が戦後間もなくスエーデン大使館員だったころ、同じ陸軍士官学校出の、三笠の宮から直接「日本軍が南京で行った糧食 の現地調達の方針は大きな間違いだっ た」という旧軍批判を直接聞いたことと一致する。

朝日新聞記者の本多勝一が現地で被害者から直接聞き取ったことも収録されている。

ところがWikiには松井石根は蒋介石が信頼していた宋子文を通じて、独自の和平交渉を進めようとしていたため軍中央から中国寄りと見られ、更迭され、2月21日に上海を離れて帰国し、予備役となった。ジョセフ・キーナン検事は、『なんという馬鹿げた判決か!松井の罪は部 下の罪だ。終身刑がふさわしいではないか』と判決を批判している。ここでいう部下には、皇族の朝香宮鳩彦王が含まれており、昭和天皇と皇族を免訴にするために、松 井が身代わりになったという指摘が、田原総一朗はじめ一部に存在する。「興亜観音を守る会」会報『興亜観音第15号』(2002年4月18日号)に田中正 明が書いたところによれば、1966年9月に、田中ら5人が岸信介の名代として台湾を訪問した際、蒋介石が「南京には大虐殺などありはしない。何応欽将軍 も軍事報告の中で、ちゃんとそのことを記録している筈です。私も当時、大虐殺などという報告を耳にしたことはない。松井閣下は冤罪で処刑されたのです」と 涙ながらに語ったという体験談が記されている。しかし、仮に松井石根の命令がなくとも飢えた兵たちが略奪と凌辱をした事実は消えない。

蒋介石部下であった何応欽についても飯島先生から聞いた。

このように過去を清算しないままでは中国と和解することは1世紀かかるのではないかと思う?日本はドイツとは全く異なる道を選んでしまった。もう後戻りできない。

Rev. November 17, 2015


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