第8章 1970年

ポドビルニアク・サイクルを適用する

LNGプラント

応札業務

 

日本がはじめて輸入したアラスカのフィリップス石油のLNGはメタン、エチレン、プロパンという3種類の沸点の異なる純粋冷媒を閉回路でまわす逆ランキン・サイクルを3階建てにする3元カスケード 法で天然ガスを冷却液化したものである。これは面倒ということで米メジャーオイルのエクソン社はリビアに建設したLNGプラントに混合冷媒を使うポドビルニアク・サイクルを世界ではじめて採用した。

このサイクルは窒素を含む炭化水素混合物からなる多成分冷媒を使う逆ランキン・サイクルである。3元カスケード法は3種の異なる圧縮機を必要とし、そのサイズが温度が高いほど大きくなる。またそれぞれの圧縮機には数個のサイドロードガスを処理するために配管も熱交換器も複雑になる。一方、ポーランドのポドビルニアク氏が大昔に特許出願してその有効期限もきれたポドビルニアク ・サイクルは多成分流体を使うので常温からLNGの温度までの広い温度領域を単一の流体がカバーすることができる。ゆえに本質的には1基の巨大な熱交換器と1基の巨大な圧縮機で構成できる。実際には多段インペラーを収納する複数の大小のケーシングが必要になる。

多成分流体は気液混相のまま、熱交換器を気体と液体を互いにスリップすることなく同じ速度で流さねばならず、その巨大な熱交換器の設計と製作はヘリウムの液化熱交換器を設計・製作した経験ノーハウを持つ米国最大の酸素メーカーのエアプロダクツ・アンド・ケミカル社(APCI)が担当していた。

このポドビルニアク・サイクルはLNG液化器ではスムーズな冷却曲線のため、エクセルぎーロスが少ないという長所があるが、ヒートシンクとなる冷却水との熱交換で大きなエクセル ギーロスが生じる。このロスを減らすためにポドビルニアク・サイクルとプロパンサイクルの2元カスケード法をこのエアプロダクツ社のチャック・ニュートンという男が考案し て特許を取得した。欧州系メジャーオイルのロイヤル・ダッチ・シェルが日本向けのLNGをブルネイで生産する計画にこれを採用することにきめた。ポドビルニアク・サイクルだけの商用一号機はエクソン社がリビアの天然ガスを液化してスペインとイタリアにLNGとして輸送するプロジェクトですでに採用されて実証済みであった。本LNGプロジェクトはM商事も出資して製品はT電力等に売り込むことになった。

プロパン予冷混合冷媒LNG液化法

1969年ころだったろうか、わが社はアラスカのLNGプラントを手がけた米国の大手エンジニアリング企業ベクテル社と組み、この建設工事に応札した。競争相手はUOP社の建設部門を担当していたプロコン社と日本のN社の合弁であった。我々はオーナーと資本系列が同じため と技術的実績のため本命とされていた。しかし競争相手のN社連合がどうせ当て馬だろうとまじめに積算をせず、大きな見積もり落としをしたためか、2/3の応札価格を提出してしまった。 親会社のM商事は本命に落札できなくては困ると大幅値下げを要求した。 わが社社長とベクテル・ジュニアがハワイ会談したが、理不尽な値下げ要求はのめないという結論だった。こうしてN社が受注することにある。しかし敵ながらあっぱれ、大赤字にかかわらず途中でなげだしもせず、工事を完成させた。完成したプラントも動き、ロイヤル・ダッチ・シェルとM商事は1年で2兆円という大きな利益を得たと当時新聞にでたものである。 しかしプロコンはこの赤字のためか会社を解散してしまった。LNGを担当した人材はケロッグ社に移籍し、石油精製担当はUOPに移籍したという。N社に対する顧客の信用は増し、増設工事でケロッグ社と組み、赤字も帳消しという事態になった。

その後、N社はケロッグ社と組み、ロイヤル・ダッチ・シェル社のLNGプロジェクトはすべてN社ーケロッグ社組が独占する時代が続いた。これは表向きは競争入札だが実態は随意契約というものだった。わが社が過当競争の結果欠損を出して親会社のM商事に救済されてからはようやくロイヤル・ダッチ・シェル社のLNGプラントもオマーンに続き、サハリンと継続して受注できるようになった。

私がこのブルネイ・プロジェクト担当になったとき、フト、冷却して液化するより水と反応させてメタノールにしたほうがよいのではないかと気がつき、急遽メタノールを専門としていた当時の未戸部長の所に赴き、超概算をしてみたことがある。LNGの方が安いといわかり以後LNGに突っ込んでゆくことになった。その後、メタノールよりジメチル・エーテルが良いとかフィッシャートロピッシ合成がいいとか聞こえてきたが、私は炭化水素燃料枯渇後はハーバーボッシュ合成が良いと思っている。この辺のところは「グローバル・ヒーティングの黙示録」 に詳しく書いた。

January 4, 2005

Rev. December 23, 2010

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