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第6章 1967-68年その後のモデルとなる日本初のLNG輸入基地基本設計 |
受け入れ基地の建設と運転はTガスが担当することになり、アラスカの液化基地を設計建設する米国のベクテル社が設計のコンサルタントに選ばれた。日本でLPGの輸入基地の実績が沢山ある我々はTガス本社の設計部門に出向してこれを裏から助けることを要請されたのである。
1966年の暮れ、Tガスの燃料課長、施設担当課長、M商事燃料担当者の橋詰さん、常畠プロジェクトマネジャー、不肖私が羽田飛行場から飛び立ち、アラスカのガス田地帯とLNGプラント建設予定地を視察した。なにせ始めての海外旅行である。この旅行の見聞記はアンカレッジ・サンフランシスコ・ラスベガスに譲る。
丁度このころ、いよいよ身を固めることを決心し、常畠氏に仲人を頼むと、八田副社長に頼むのが筋だろうという。八田副社長は私の大学時代の指導教官であっ た前田教授の先生である。 戦前、米国のMITに留学し当時勃興してきたプロセス工業の設計技術を集大成した化学工学という工学を初めて日本にもたらした八田、内田、亀井という三羽 烏のうちの一人である。八田教授は東北大学を停年退任したあと、創業社長が優秀な学生に入社してもらうために副社長に招聘していたのである。八田先生に頼 むと快く引き受けてくれたが、社長を主賓に選ぶことが条件だという。秘書経由で申し込むと快諾してくれた。学士会館の会場主賓を迎えると社長に
「前田教授はどこにいる」
と聞かれた。そういう配慮をしていなかった自分の至らなさを恥ずかしく思った。今では授業を持っている先生を呼ばなくてよかったと思っている。
そもそもこの結婚を積極的に支持してくれたのは義母で、従姉妹の養女が創業社長と親しく、一緒にコタツに入って話したことがあり、あの人の会社の社員ならと思ってくれたのだ。感謝しなければならないだろう。
1967年、常畠プロジェクトマネジャー、太畠・貧川両メカニカルエンジニと不肖私がプロセス設計担当者として日本橋にあったTガスの5階の一室に乗り込み、約1年間、設計作業を手伝った。
英国ではテームズ川沿岸の敷地に穴を掘り下げドーム型の屋根を載せてこの穴に直接LNGを注ぎ込むという先鋭的な設計を採用したが、地面の凍上問題など山 積していたので冷凍LPGタンクの設計思想を受け継ぎ、平底二重殻タンクを採用することは顧客がすでに決めていた。ただより安全を確保するために杭の上に コンクリートスラブを打設したテーブル状基礎の上に建造することとした。無論インナータンクの材質はLNGのマイナス162度でも脆性破壊の心配のない 9%ニッケル鋼を使用するものである。
ベクテル社から派遣された一人の中年のエンジニアのI氏が簡単な計算をしてレコメンデーションを顧客に提出するのだが、 こちらの出すレコメンデーションはLPG輸入基地設計の豊富な経験にたった設計であるため、優れていると顧客は感じたらしい。 クレームレターをサンフランシスコに送ったそうである。向こうの上司は本人に確かめるため電話をかけてきたそうである。不幸にもそのとき、I 氏は箱根に女をつれていって豪遊していたそうで。即刻、本国帰国命令がでてしまった。かわりにもっと高齢のパーカー氏が送りこまれてきたが、 もうあまり期待しないで文句も言わないことになった。どだいベクテル社はLNGの受け入れ基地など設計したことはないのだ。米国にはその当時輸出基地は設 計中であっても輸入基地はなかったのだ。
鹿島建設の元副社長の梅田健次郎氏が訳したロバート・イングラム著の”ベクテル・ストーリー”を紐解くと、根岸の日本初のLNG基地の写真が誇らしげに掲載されている。設計には殆ど貢献していないのに、こうした写真を掲げているのは彼らがいかに未来の巨大マーケットとしてLNG関連施設建設を重要視していたかが分かる。
英国の施設ではタンクから気化してくるガスは常温まで加熱してから圧縮昇圧していたが、低温材質を使うシリンダーとテフロンライナーを装着したピストンを 使う無潤滑往復動圧縮機を使えば、省エネとなるという冷凍LPG基地ではもう充分実績のある方式を推薦し、採用された。ただLNGの場合、運転状態により タンク気相部と配管での温度上昇が大きいため 、省エネルギー運転を確実にするために積極的にLNG噴霧による吸入ガス冷却をすることとした。
こう決まるとLNG噴霧ノズルの設計のためにLNGタンク内熱計算を詳細にする必要に迫られた。保冷厚さがありすぎるか ら天井から壁面や液面への熱輻射を計算してみるとバカにならないことがわかって、がぜん計算が煩雑になった。まだコンピュータが使えない時代だから1年分 の計算書の厚さが8センチに もなった。常畠さんがこの設計計算書をコピーして東京ガスに残せというものだから、何冊か残してきた。後日、これは東京ガスのエンジニアにとってバイブル のように扱われたと聞いた。
杭基礎の上に鎮座するLNGタンクから液を抜き出すポンプは米国のJ・C・カーター社製の縦型ポンプの採用がきまっていた。このポンプはモーターの冷却もLNG直接で行う方式のため、メカニカルシールが省略できてガス漏れが皆無という長所がある 。しかし軸受け、スラストベアリングの潤滑も全てLNGである。ポンプとモーターの内部構造を見るとモーターのコイルの発熱、軸受の発熱を拾った冷却用LNGがサクションポットにもどり 、ここで気化する構造である。このガスはベント抜き配管でタンク頂上部に導かなければならない。この配管は気液二相流とな る。経験から慎重に配管サイズや勾配をきめて、ガスポケットが出来ないようにする必要があるのだ。神経質過ぎるくらいポンプ内部の発熱チェックをおこなった。この過程でスラストベアリングの負荷を軽減させるバランスドラムの設計のチョンボも見つかるという副産物もあった。
配管サイズはファニングの式で流体の圧力損失を計算し、これが駆動力以内に納まることを持ってよしとする。ファニングの式で使う摩擦係数はレイノズル数と 壁面の粗さの関数となっていてLNGに使われるステンレス配管はその内面がスムーズなため、摩擦係数は鋼管よリ若干小さくなる。私は化学プラント設計グ ループの育ちである。 プラントが小規模のため配管サイズはおおざっばにきめていた。鋼管だろうがガラスライニング管だろうが、先輩の古寺さんが作成したファニング式をノモグラ フにしたA4のリコピー紙一枚で全てのLPG基地の荷役パイプであろうと、ベントパイプであろうとその直径を決めてきた。この発電用の巨大なLNG基地の配管のサイズも鼻歌交じ りできめてしまった。そこは東京ガスさん、心配になってサードパーティーにファニング式を厳密に適用する膨大な計算書を作成させてチェックした。 チェックをおおせつかった国東氏がやってきて、ダブルチェックした結果、1本のサイズも変える必要がなかったと教えてくれた。あらためて古寺さんを見直し たものである。今もこのボロボロになったノモグラフはどこかに大切に保管してあるはずである。今時は無論電子計算機が厳密に計算してくれるのでエンジニア は常に壁面の荒さを入力してやらねばならない。かえって面倒で気の毒だと思う。
LPGと同じくLNGタンクの弱点はその壁面を貫通するポンプサクションノズルである。ここへの熱応力を減ずるため、配管設計を担当した太畠嶺介は杭基礎 の上に配管をまたぐ門型の鉄架構をタンク付近に置き、スプリングサポートで吊ってしまった。法律で必要とされる防油堤も杭基礎の上に設置されているので、 仮に神戸並みの直下型地震に見舞われ、地盤が流動化で失われてもタンクと配管と防油堤は空中楼閣のように海の上に残るであろう。
設計もほぼ完了した夏の昼休み、赤坂の本社に帰任する直前、旧白木屋のそばにあったTガス本社の屋上にのぼってみた。視野も霞み、5分とたたないうちに息苦しくなって早々に退散した。そのくらい大気汚染は深刻だったということだ。
試運転への立会いの要請はなかった。すべて計算通り順調で問題はなかった。マルストン・エクセルシア社のオープンラック型気化器は住友精密が技術導入して設計と製作を担当したものである。
気化器には2種類あって、一つは都市ガス高圧ガスパイプライン向けの高圧気化器、もう1つは火力発電向きの低圧気化器である。当時はまだボイラー燃料としてつかっていたのである。
聞くところによるとこの低圧気化器の性能が出ず、改造したとのこと。 英国の実績はパイプラインへガスを送り込む高圧気化器である。高圧力下ではLNGが臨界圧力以上であり、臨界点近くでは 相分離をせず、熱伝達係数も非常によくなるのだ。低圧では相分離するため、上向き蒸発では低速時に気泡は早めに浮き上がり、液が残されて気液スリップが生じ、蒸留効果により煮詰まり、沸点上昇する。また熱伝道度も下がるのでなお厄介である。 無論伝熱管内部にもフィンがあるのだが、温度差が小さくなっては性能がでない。幸いにも6枚パラレルにあったオープンラックパネルを2パラレルx4パラレル組シリーズになるように配管替えして内部流速を上げただけで、解決したそうである。
この基地は37年後の今でも現役である。2004年9月17日、久しぶりに海側から接近してみて確認した。 その後も2006年8月21日に海上から写真撮影した。
2006/8/21撮影の根岸LNG基地
LNG導入前は日本の都市ガス会社は石炭乾留ガスを使っていたのだが、LNGに切り替えることにより、同じ配管網で多量のエネルギーが供給できるようにな るという大きなメリットがあった。それに一酸化炭素という有毒ガスをなくすることによりより安全になった。それでも当時はLNG供給源はアラスカしかな かったため、もし何かの原因で唯一の供給源が立たれれば、東京都民は生活に支障をきたすと考えたT社はナフサを水蒸気改質して、メタネータにかけてメタン ガスを製造するプラントを根岸のLNG基地脇に建設し、いつでもスタートできるようにしていた。LNGの供給源も多くなった今では多分スクラップにされた のだろう。
私のもう一つのベイビーである冷熱発電プラントもここにある。オリジナルの地上タンクはそのまま使われている。その後、増設されたタンクは全て地中に埋め込まれているため、そこに巨大なタンクがあることを知る人も少ない。
グーグルマップにリンクして航空写真を紹介しよう。私が担当した初期のタンクは地上式だったが、その後の増設は地中式タンクとなった陰がないのが地中式で
ある。冷熱発電プラントも写真枠に収まっている。地中タンク近傍の岸壁が凍結圧で海側に弓なりにせり出したことがあった。下の航空写真をではその地中タン
クは撤去されて芝生になっている。在職時はM社製のタンクのメンブレンが漏れて修理したと聞いていたが、完全には修理できなかったのだろうか。
このプラントが完成して10数年経過した1981年ころ、日本でLNG国際会議が開かれた。その立食パーティーで赤ら顔 の米国人老紳士とたまたま目が合い互いに自己紹介した。彼はジョン・ホーンというアラスカLNGプラントの工場長でこちらは受け入れ基地の基本設計者だ。 「おたがい海の反対側でがんばったね」というと、「ウーンじつはアラスカからLNGを輸入することを 決断した東京電力の平岩外四社長とこないだ話したら第二次大戦中のニューブリテン島でお互いにそれと知らずに数百メートルの距離で迫撃砲を撃ち合っていた ということがわかったよ。お互いに生きて帰れてよかったね。といったところだ」という。
このとき日本軍と戦う前線基地でマッカーサーの近くに居た従軍兵士だった米国人から聞いた話を思い出した。マッカーサー将校団の従卒だったときのことである。至近距離で日本軍の砲弾が炸裂し た。思わず地面に伏せた。もうもうと立ち登る砂煙が薄れている中でおそるおそる見上げるとマッカーサー一人が悠然と立っていたそうである。 他の将校も地面に伏せていたそうである。炸裂する砂煙が上がっても体に衝撃をうけていなければもう危機は去ったのである。なにも地面に伏せる必要はなかったのだと恥ずかしく思ったという。
このような逸話を聞いたこともあって平岩外四という人には好感をもち、氏が好きだというレイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説「プレイバック」1958年の最後でフィリップ・マーロウが女と交わす会話を新聞で読み書きとめるなどしていた。
2007年6月にうけとった学士会の小冊子先学訪問07は学士会評議会議長の平岩外四編であった。もしやジョン・ホーン氏とのいきさつにふれているかなと 手にとってみると最後にキチットふれられていた。平岩氏はその頃下士官の軍曹として従軍していたという。経団連会長を辞めてからは、日本工業倶楽部の理事 長をされている。 「日本工業倶楽部の会員には 元下士官が多い」 という。将校として育った人は実業界では成功しないのかもしれない。ただ「下士官の会」を作ろうと思った時にはほとんどの人が鬼籍に入られたという。ジョ ン・ホーン氏とは友人となり、交際しているという。彼はまだ健在で近々185回目の訪日を果たすことになっているという。
January 1, 2005
Rev. April 19, 2017