第9章 1971年

オキソ合成ガス製造用コールドボックス

試運転

 

わが社はトプソ社のスチーム・リフォーミング・プロセスを日本中の石油精製工場に納めた。石油を水素化分解して硫黄分を除去するために水素が必要だからである。東北大応用化学科の2年先輩の風森さんが、このプロセス設計の中心としてプロセス設計部で忙しく働いていた。後崎君もその一員であった。T燃料工業 (現東燃ゼネラル石油)はエクソンの日本子会社であるが、ここにも当然納入されていた。T燃料工業はこのスチーム・リフォーミングで生成する水素に含まれる副産物である一酸化炭素を濃縮して水素/一酸化炭素のモル比が1の混合ガスを製造してオキソ合成反応の原料ガスとしたいと風森さんに相談した。 原料ガスは隣接する日本合成アルコールにパイプライン供給されたと思う。風森さんは各種の方法を比較して、深冷分離法が良いであろうという判断をくだした。深冷分離なら、常畠さんと私が親しくしているらしいエアプロダクツ社に作ってもらえるかもしれないとコンタクトをたのんできた。こうしてこのプロジェクトは始まったのである。

 

石油改質ガスから一酸化炭素を液化分離

スチーム・リフォーミング・プロセスから出てくる石油改質ガスは水素が主成分とはいえ 、一酸化炭素、炭酸ガス、メタン、水分などを含んでいる。このガスをまずモレキュラーシーブという酸化アルミナ製の吸着剤を充填した層を通して完全に水分と炭酸ガスを除去する。次にコールドボックスに収めたアルミ製の熱交換器で冷却してまずメタンを内部熱交換型蒸留器(デプレグメター)で分離し、次に一酸化炭素を深冷して液化する。この一酸化炭素の液体と残る水素をブレンドしてモル比1の混合ガスを作るという原理である。冷媒は窒素ガスである。一酸化炭素を液化するためには窒素ガスの液化温度より9oF低い温度が必要である。この極低温はまずクロード/サイクルで液化した液体窒素を減圧状態でジュールトムソン膨張させて発生させるものであった。クロードサイクルとは冷やした窒素ガスをターボエキスパンダーで膨張させて冷たい窒素ガスを発生させる方法である。クロードサイクルと逆ランキン・サイクルのカスケード 法ともいえるものである。ターボエキスパンダーは直径数インチの遠心式ターボエキスパンダーで負荷は空気圧縮ブロワーであった。ブロワーはブレーキ役で動力回収はしていない。

どのような流れ図であったかは忘却の彼方であるが、道理から再構成したものが下図である。

クロードサイクルと逆ランキン・サイクルのカスケード法

 

深冷法

窒素ガス圧縮機は小容積流、高ヘッドのため、スクリュウー・コンプレッサーが採用された。流体が空気なら酸化作用で多少メタルタッチしてもその部分が酸化して錆びとなって自然になじむのだが窒素ガスでは工作精度が低く、少しでもメタルタッチがあるとローターの焼きつきが発生するということも経験した。

ここでもエチレンコンプレッサーで経験したリサイクル弁のサイズ不足が判明した。ガスをいれたまま仮工事したいという顧客の要請を受け、安全弁元弁を閉じ、この安全弁側にリサイクル弁をホットタップ工法で切り込んだ。そして再スタートするのを工事を指揮した副所長とならんで中央制御室で みていた。するとコンプレッサーの吐出圧力が上昇を続けて暴走をはじめた。なぜ?と考えるうちにこの安全弁元弁を工事後開けてないことに気がついた。副所長の顔をみて

「アレだ!」

と叫んだ。彼もすぐ気がついたらしい、脱兎のごとく現場にかけつけ、その元弁を開けてことなきを得た。まさに命がけの英雄的行為である。お互いにホット胸をなでおろしたものである。現場あわせの妙な配管形状になっていたので顧客も我々もその過誤に気がつかず運転をはじめてしまったのである。インドネシア のボンタンでプルタミナのオペレーターが安全弁元弁を開け忘れて熱交換器を破裂させる話は後日聞くことになる。

 

コールドボックス

コールドボックス内にはろう付したアルミ製のマトリックス熱交換と気液分離容器と配管が詰まっている。その他の空間はロックウールで充填してあるが、このウールの間隙は窒素ガスで満たしておく。しかし一番低い温度はこの窒素ガスも液化してしまう極低温である。そこでインナー・コールドボックスをコールドボックス内部に作り、極低温部はこの中に収納した。ここにもロックウールを充填するが、気相は水素ガスを満たしておく。しかし水素ガスは純粋なものは高価であるので内部にある最も水素濃度の高いガスで代替した。この粗製水素ガスには微量の一酸化炭素が残っていて依然 として致死濃度以上である。このガスが微量ではあるがコールドボックスの微細な隙間やバルブ・ステム貫通部のゴムシールの隙間からもれでるので運転員の評判はよくなかった。

コールドボックスの運転停止後、定期点検でコールドボックスを開けるときなど、中の機器、配管に溜まった液を抜き出すためのロウポイント・ドレン弁はまとめて箱の外に並べて、 全てドレンヒーターにおくるヘッダーに溶接付けされていた。スタートアップ時、まだ配管内に残っていた、溶接残渣らしきものが弁体に噛み込み、内部リークがとまらなくなった。6個ある弁のうちどの弁がもれているかは流体音では反響して分からない。下流側のヘッダーに手を触れると暖かい部分があるので顧客エンジニアはそのホットスポットに一番近い弁がもれているのだろうという。その理由は水素はジュールトムソン膨張すると温度があがるためという。熱力学線図でチェックしても温度があがるインバージョン・ポイントを 越しているとは思えない。わたしはその当時新聞で読んだ、フィルシ・チューブの原理をつかった冷房着衣のことを思い出し、この現象ではないかと推理した。細い管にタンジェンシャルに流体が高速で流れ込むと遠心力で外部が高温に内部が低温になるのだ。 私は外部の高温ガスが管壁を暖めていると考えた。グローブ弁の内部構造により編流してガスがヘッダーにタンジェンシャルにながれこんでいるのだ。そう であれば漏れている弁は別の弁ということになる。賭けをしてまず私の予想した弁を開けてみてずばり当てたので、ご機嫌であった。

この弁はすべて溶接されているので、コールドボックスを窒素置換し、交換のため配管を切断したがコールドボックスのどこかに残っていたガスが流れ出て火災になった。幸い消火器で簡単に消し止められたが、当時新入社員だった高畠 現社長にはかなり刺激的な事件だったようだ。

試運転も佳境に入る頃、液化一酸化炭素液弁のグランドリークがリークしはじめた。100%濃度の透明な一酸化炭素液が水道の蛇口からもれるようにボタボタとしたたりおちるのである。冷たいので少し白煙を上げるところが違うだけである。これを発見したとき、折角立ち上げたのに停止して冷え切ったコールドボックスを再度あたためなければならないのかとうんざりした。しかし顧客はプラントを止めないで、グランド部を手で増し締めするという。そのための道具としてスキューバダイバーが使う空気ボンベとマスクを持ってきた。 わが社の工事のベテランの近川さんも駆けつけ、空気ボンベがいいか、計装用空気をマスクに送り込む生命維持装置がいいか協議した。どちらが採用されたか記憶にないが、近川さんがマスクして、火花の出ない真鍮のモンキースパナ1本もって猿梯子をのぼり、ものの数分でこの漏れを止めてしまったのには驚いた。この現場で2人目の英雄的行為である。

私はそこまでの勇気はなかった。後に、神戸地震後のLPGタンク配管のフランジの漏れを、単身でスパナで止め、数万人の避難を未然に防止した 川島さんや海野さんなど、計算されたリスクをとったすばらしい英雄的な人を多数思い出す。

1965年に水素/肥料ガスグループの桃平さん、後崎さん、風森さん、私の高校の同期生の鳥畠さんが一緒に国内のアンモニアプラントのスタートアップに参加しているとき、ボヤがあって、 鳥畠さんが一人、消火器をもって駆け上がって消火したという。 私は彼の行動を計算されたリスクを瞬時に判断して行動した英雄的な人だと認めるが、違う見解をもつ人もいるということを最近知った。その人は後に社長になる桃平さん である。彼はそのとき、

「消火するより逃げるのが本筋だ」

と言ったという。私はこの言葉は管理者としての責任逃れの利己的な考えだと思う。状況判断は簡単ではないが、 間違いなく死ぬとわかれば私も逃げる。しかし成功する確率があると感ずれば 、私は火にでも飛び込む衝動を持っていることを誇りに思う。この利他的本能はリチャード・ドーキンスが言うように個体が滅びても集団として種が残ればよいという”利己的な遺伝子”が持っている冷徹な戦略の一つなのだ。桃平さんの考えるようにやみくもに逃げるというマニュアル化は思考停止を得意とする官僚機構のすることだろう。逃げた結果、かえって状況が悪化し、大勢の人の命を危険にさらすこと もあるのだ。だからこそ消火器が置いてあるのだろう。私は上司にも誰にも相談せず、一瞬の判断で危険にも飛び込み、自分も死なず、誰も殺さずに、プラントの安全を守ったことを誇りに思っている。たとえばダス島でのLNGタンクからのガスもれの原因究明と対処法やT石油の天然ガスプラントスタートアップ総合指揮などなどである。

 

デフレグメーター

メタンはデフレグメータという名の縦型のマトリックス熱交換器の一種の充填物のなかでガス上向き流れと下向きメタン液流れで蒸留が行われるという野心的な設計であった。これを設計した若いエンジニアは水ー空気系のモックアップテストまでしたと後で述懐していた。

メタンを巧く液化除去できないと極低温で固化してしまうので、心配してスタートアップのダイナミックモデルを善山君に作成してもらって、計算と実機運転が平行して進行するようなこともした。

試運転にはエアプロダクト社からハミルトンという指導員と若い設計者がきた。さすが世界中のLNG液化器のスタートを指導してきている人だ。我々ははじめ部分部分、たとえばメタン分離部分だけを動かし、そして次の段階的と順次スタートしようとした。メタンが極低温部分に流れ込むのを防止するためである。それまでは、ブローダウンラインにバイパスしようとした。しかしそうするとコールドボックス内の温度がめちゃめちゃになってうまくゆかない。彼は全体にガスをながしながら全体を少しずつひやしていったらどうかと穏やかにほのめかすだけである。だまされたと思ってかれの言うとおりにするとうまくいった。やはり経験に差があると深く反省したものである。

 

その後

このコールドボックスはその使命を終えて今は撤去されたとのことである。私が直接かかわったガス・エネルギー関連施設はガス田が枯渇したところ以外ほぼ全て稼動中である。しかし化学品関連のプラントは塩素化プラントのように、経済的寿命は短いと感ずる。 下の写真は水素製造装置でこの左下の土地に設置されていた。

 
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January 17, 2005

Rev. August 27, 2009

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