ルート66 2012年

シカゴから オクラホマ・シティー

そしてヒューストンヘ

ルート66は米国の東西を結ぶ幹線として1912年にナショナル・トレイルズ・ハイウエイとして建設された。総長 2,448マイル(3,939km)である。石原隊は過去2回ここに挑戦してきた。2000年10月に62才にしてキングマンからロスアンゼルスを走り、 サンフランシスコまで足を伸ばした。2008 年9月には70才にしてオクラホマ・シティーからキングマンを走った。

そして2012年9月には74才にしてシカゴからオクラホマ・シティーまで走りルート66を完走。つい で に寒いミルウォーキーでハーレーダビッドソンのエンジン製作工場を見学、暑いサン・アントニオでアラモの砦訪問後、ヒユールトンとガルベストンに足を伸ば し、北から南端まで縦に総行程2,900kmを走破した。赤点はルート66上の都市、青点はついでに訪問した都市である。

第3回ルート図

旅 行計画策定はプロジェクト・リーダーの押川さんが全て担当、私は押川さんと交代でサポート車運転を日替わりで担当。バイクだけの参加は徳山さん、安田さ ん、阪間さんの3 名。石原隊長夫妻と斉藤さんが成田まで子育呑龍のお守りをもって見送りにきてくれた。このお守りは霊験あらたかだったのか無事帰国できた。

今回は平地で単調だろうと思い込んでいたのと、本の執筆に没頭したため、事前勉強も1日しただけであった。最近は自動車運転は2週に1回の買い物程 度、バイクに至っては1年 以上乗っていないという状態で出かけたのだ。



成田にて 阪間撮影

1997年10月に米国プロジェクトマネジメントの年次大会やUOP訪問の折り訪問したシカゴ。 今回は時間をかけてつぶさにシカゴ・ダウンの良さを堪能した。バイク走行よりは道案内のサポート車の運転は老眼には難しい。日本のナビの半分の小さなサイ ズのディスプレイを見ながら時速100kmで夕闇せまるセント ルイス の市内高速道路を4台のバイクを引き連れてS字状に走行するなど終わってみてよく無事だったと思う。年齢的にこれが限界と感じた。米国の豊かで広大な国土 を改めて身をもって実感した次第。連邦準備銀行が徹底的な金融緩和をしているためか、前回よりは景気が上向いて明るい雰囲気であった。久しぶりのヒュース トンは住宅地が西に向かって2倍以上に拡大していて驚い た。

ヘルメットに広角ヘッドカメラを装着して撮影したビデオは8Gb、数分刻みで53ショットである。カメラにはRCAオス3端子しかD端子接続ケーブルとし て同梱されていないため、D端子のRCAメス3端子を購入して、はじめてカメラとD端子付きTVを接続出来た。良いものを選んで12ショットをYou tubeにアップロードし、本ページからリンクした。合計45分である。ショット番号をクリックしていただければ、バイク走行体験を共有できると思う。風 の音とヘルメットマウントのガタの騒音が大きいが、無線での連絡がヘルメット経由で録音されていた。雨が降れば水滴で視野が遮られ、お日様がでているとハ レーションが生じてなかなか良いショットはない。ルート66は田舎道だから信号での停止が多い。一旦高速にのれば、ただただ高速で突っ走るだけという画 面。脇を巨大なトレーラーが走る恐ろしさは伝わるかもしれないが。実際に走った当人しか興味はもてないのではないか。記録は.mov形式だ。これを処理な しでYou Tubeにアップロードする。



小さなナビ画面 阪間撮影

持参した無線機は初日にバイクから落とし、PTTスイッチとの接続ケーブルを断線してしまい、聞くだけのことしかできなかった。

キーウェストまで足を伸ばすことを検討したが遠すぎる。ウェストナイル熱流行中のため、合成除虫菊必須。特にMonument Innではパニックになるほどの蚊の大群に襲われた。

第1日 90マイル

UA-882便でオヘア空港着後、ハーツでシボレー・ワゴン車をレンタルし、メンバー5名とその荷物を収容。オヘア空港 のすぐ北側のデ・プレーンはUOP社訪問のため来たことがある。UOP社は石油時代の華、石油精製技術のライセンス企業だが、今ではハニウェル社の子会社 に 成り下がった。 時の流れを感じる。時差調整のため、北上し、ミルウォーキーに向かう。ハーレーダビッドソン博物館で本場のビール、ガソリン・ブランドを賞味。これが旨 い。ミルウォーキーのベストウェス タン泊。(Hotel Serial No.512

第2日 110マイル

ハーレダビッドソン博物館に出向き、Steel Toe Tourに参加。バスでMenomononee Fallsに移動し、パワー・トレン製造工場を見学。



Steel Toe Tour


2009年Vツインモデルの前で

クランクケース、コンロッド、カムシャフト、ギア、ジェネレーターなどここですべて内作している。コンロッド・ベアリング内面 の部分焼き入れ工程、ジェネレーター・コイル巻き、パウダー塗装(焼き付け紛体塗装)が興味深かった。無機物の粉末をシリンダーフィンに吹き付け、それを 釜で焼くと、粉体が溶けて、塗装したい物を被って塗膜を形成する方法である。黒の場合の温度は500℃程度という。ソフテールなどの車体は カンザスシティーで製作している。工場見学後、博物館参観。全ての年度のモデルが勢ぞろいしている。無論1938年モデルもある。

横須賀の米軍 基地見学時に購入したUSS George Washington CVN-73の刺繡をした帽子をかぶっていたところ、通りががりの人から乗組員かと聞かれた。日本ではだれも無関心。

シカゴに取って返してグラント公園地下駐車場に駐車し、ミシガン湖畔を散策後、ルート66の終点であるジャクソン・ブルバードに向かう。実は1937年ま ではジャクソン・ブルバードこそルート66の出発点だったのだ。その北側のアダムストリートはシカゴ中心街の一方通行化にともない、ルート66の出発地点 とされた。両者の間に旧シアー ズタワーがある。下の写真の右手の細いタワーがそれだ。



グラント公園からジャクソン・ブルバードに向かう 阪間撮影

1993年のハリソンフォード主演「逃亡者」や2002年のミュージカル「シカゴ」の舞台と なったループという高架鉄道も健在である。下の出発地点の写真の背景の高架橋がそれである。



アダムストリートのルート66の出発地点で 阪間撮影

かって世界一の高さ(現在はルート66沿いで最高)を誇ったシアーズタワー(現Willis Tower)に登る。ここで夕日に輝きどこまでも西に向かうジャクソン・ブルバードとアダムストリートを見る。明日、ここを出発するのだ。左手にR- 90,94とR-290との立体交差がある。ミルウォーキーからシカゴに戻った時にここから市街地にでたところだ。



シアーズタワーから西方を望む

アダムストリートの有名レストランThe Berghoffで夕食をとる。

押川氏にが頑張ってもらって郊外のバーバンクに向かいここで第2泊。(Hotel Serial No.513


第3日 
153マイル

今日は日曜日である。バーバンクの宿では朝食はとらずジャクソン・ブルバードのLou Michell'sまでワゴン車で移動。Lou Michell's 近くのユニオン駅脇の駐車場に駐車。駐車券を自動販売機で購入し、Lou Michell'sで朝食をとる。店は客でいっぱい。すごい人気だ。



Lou Michell's前で

朝食後駐車場に帰ると駐車した車が忽然と姿を消していた。カギの掛け忘れで盗難にあった のかと愕然。気をとりなおして警察に電話する。そこで待てと言われ待機する間、駐車場の看板を再度よく読むと、駐車券はダッシボード置かないとレッカーす るとある。レッカー会社の電話番号がかいてあるのでそこに電話しようとしたが携帯は車の中だ。阪間さんの携帯を借りて電話すると、そのような自動車はリス トにないという。いよいよこれは警察の御厄介になるのかと覚 悟した。しかし、もしかしたらまだレッカー会社に移動中ということもあるだろうともう一度電話する。と今届いたところだという。これで一安心。レッカー代 金200ドルと引き換えに返してくれるという。駐車券を買っているのだからと交渉したのがたたって、どこにとりに行けばよいか教えてくれない。何度も電話 しなおして別の係りの人に場所を教えてもらう。ようやく来た警察には事情を話し、22ドル支払ってタクシーで郊外の1611 South Iron Streetに移動し、ようやく車を回収できた。



次々とレッカーされる車 徳山撮影

これで1時間のロス。本来はアダムストリートから出発すべきだが、バイクレンタルは郊外のため、そこまで はワゴン車で出発。レンタバイク屋 Eaglerider 9950 Joliet Rd.  Countryside Illinoisでバイク調達。ロードキング2台、ソフテイル2台である。イリノイ州はノーヘル州だ。地元のライダーがキャプテン・アメリカ風バイクで乗 り付けた。



レンタバイク屋にて 安田撮影


押川氏がそのままワゴン車で先導。ルート66走行を開始する。1942年に亡命物理学者のエンリコ・フェルミやレオ・シラードがシカゴ大学のフットボール競技場スタッグ・フィールド(Stagg Field)の観客席下にあったスカッシュ・コートに黒鉛と金属天然ウランを積んだ。この世界初の原子炉CP-1が 臨界に達し、5Wの出力を2分間臨界を保持して制御棒を落とした。原子炉の研究はその後、ルート66沿いのアルゴンヌの森にアルゴンヌ国立研究所が建設さ れ、そこで行われるようになる。 現在は軍事研究はさておき、原発の研究などしておらずネットワーク、リチウム・イオン・電池の研究をしているという。原爆の開発はやはりルート66の先に あるロス・アラモス国立研究所で おこなわれた。1926年にルート66は創設されているからまさにマザー・ロードである。アルゴンヌの森は広く、その森の中を進む。1年ぶりのバイクを乗 りこなすのに夢中でアルゴンヌの森はアットいう間に通りすぎた。

ジョリエットの町でR-66 Welcome Center & gift shopで一休み。この街はポール・ニューマン、ロバート・レッドフォード共演の映画「スティング」の舞台になっている。



R-66 Welcome Center & gift shop

途中捨てられたルート66が併走している。



ジョリエットからポンティアック間 阪間撮影

ポンティアック泊。(Hotel Serial No.514)近くのOld Log Cabin Restaurantで夕食。夫婦で経営していてローコスト。奥様が参加して盛 り上がった。



Old Log Cabin Restaurantで 阪間撮影

第4日 221マイル

今日は私がワゴン車で先導する番だ。スプリングフィールドまで高速道路を使わないルートを選ぶとどこまでも東に向かって 進む。ど田舎で周りはトウモロコシ畑でなにもない。停車してルート全体を見るとなんとポンティアックか ら真東に10マイル走ってから南下するとわかり戻ることにする。

ポンティアック で迷う

ポンティアックの町で給油し、R55にはいる。そのまま南下すると結構沢山の風車が左手に見える。ブルーミングトンを過 ぎたShirleyでメープルシロップ製造販売の農園Funks Groveに 立ち寄るが午後しか店は開いていない。

Funks Grove

McleanのDixie Travek Plazaで小休止。Mcleanの街並みは小さな町の典型であるとの触れ込みであったがどうということはない。

スプリングフィールドは立派な議事堂を持つ。オー スチンなどでも同様のドーム型議事堂が散見される。

ス プリング フィールド



リンカーン・ホーム

スプリングフィールドの南の外れになるCozy Dog Drive-inで昼食の予定であったが、休日でお休み。近くの中華店で昼食。スプリング フィールド中心部に戻り、リンカーン・ホームを訪問。弁護士となって成功していた時代の街並みが連邦政府により維持されていた。ここでルート66のネクタ イを買う。

スプリングフィールドからルート55を一路南下。セントルイス東北部でミシシッピ川を渡るChain of Rocks Bridgeに行くべくルート270に入る。ミシシッピ川西岸に駐車し、Chain of Rocks Bridgeを徒歩往復。この橋は中ごろで22度折れ曲がっている。なぜ曲がっているか合理的な説明はないが。すぐ下流にある自然の堰(これがChain of Rocksの由来)が折れ曲がっているのでそれに沿って造られたということか。ミシシッピ川はここで浅瀬になって舟の航行が不可能のため東側に運河を掘 り、Chain of Rocksロックが作られている。

Chain of Rocks Bridge

ゲートウェイアーチを見たかったが時間もなくなったので宿に最短時間で移動することにした。まだ30マイル以上残ってい るのだ。夕闇迫る中、セントルイス南西の郊外にある宿に向かうべくナビに目的地の宿の番地を入力し、最短時間を指定してセントルイス外環 道ルート270を西に向かった。ところがナビは途中でこのルート270を捨ててルート170で南に誘導する。そして今度はルート64を東に向かい、一般道 S. Kingshighway Blvd.にでて南下、今度はI-44で西に向かい、S. Lindbergh Blvd.(R-61, 67)に降りるというS字コースでセントルイス市内を引き回した。ようやくKirkwoodのホテルに着いたときはほとんど奇跡のように感じたものであ る。


セントルイスのS字コース(黄 色)

ここで一 泊。(Hotel Serial No.515

セントルイス・ブルースを作曲したのはW.C. ハンディーだ。収入がなくミシシッピ河にかかる1874年完成のEads Bridgeの下に野宿していたとき、助けてくれた娼婦の言葉にヒントを得たという。この曲は第二次大戦中、当局の禁止にも関わらず、ドイツ、ソ連、日本 で楽しまれた。硫黄島からもレコードが発見されW.C. ハンディーに贈呈されたそうである。ソ連の場合は当局の目を盗むためX線フィルムにダイヤモンド針で溝を刻んだレコードがアングラマーケットで流通したと いう。

夜食は付近のテキサス・レストランでとる。

第5日 164マイル

今日はバイク騎乗の番だ。ヘルメットにビデオカメラを装着して出発。セントルイスのS. Lindbergh Blvd.をルート100(旧ルート66)に向かって北上。下のショット番号をクリックすると走行記録ビデオが観れます。1957年のジェームス・スチュ アート主演映画「翼よ!あれが巴里の灯だ」に描かれたようにリンドバーグが大西洋横断飛行した愛機にスピリット・オフ・セントルイスと命名したこ とが思い起こせる。

Shot-3 S. Lindbergh Blvd. Si. Louis 2:41min.

セントルイス西側の旧ルート66は今はルート100となっている。左折してルート100を西に向かうと丘の稜線に沿って 走ることになる。セントルイスから西に延びる丘陵は北を東に流れるミズリー川とその南側のミシシッピ川支流によって造られた浸食谷に囲まれている。

Shot-9 R-100 west ward  2:41min.

走行中雨となる。レストランの駐車場に入り、そこでビデオカメラを外し、カッパを着る。

カッパを着る

カメラを取り込んでしまったのでビデオは無いが、ミズーリ特有の山の中の曲がりくねった道を下る最高に気持ちのよいコースであった。しばらく走ると雨は上がる。I-44を陸 橋で渡り、Gray SummitにあるTravelodge Six Flags前の広場でカッパを脱ぐ。ここで自転車で移動する老サイクリストが自転車の方がバイクより燃費がいいと主張する。


サイクリスト

Gray SummitからVilla Ridgeへ向かう道は気持ちがよい丘の道が続く。

Shot-14 Gray Summit/Villa Ridge 5:21min.

左手にI-44を 見ながらR-66を併走。Exit247で間違う。ミズーリー州は前カンブリア期の石灰岩地帯だ。路傍の褐色の岩がそれ。

Shot-15 Villa Ridge 7:03min.

以後ミズーリー州スタントンま でI-44。ここには無法のガンマン、ジェッシー・ジェイムズが 隠れたメラメックの大鐘乳洞があるというがパス。

St James(Exit195)から再びI-44に入り、時間稼ぎ。路傍にバーストタイヤの残渣多数。

Shot-19 St James 4:35min.

Exit169でR-66に戻り、Hooker Cut経由Elbow Inn Bar & BBQに向かう。Hooker Cutとはルート66当時もっとも深く掘削した場所だそうである。お日様が出てレンズがハレーションを起こす。

Shot-22 Hooker cut/Elbow Inn Bar & BBQ 3:34min.

この界隈はマークトゥエイン・ナショナル・フォレストに指定されている。Mark Twain National Forestは1938に国立公園として制定され、農務省によって管理されている。公園の名はセントルイスの上流ミシシッピ川沿いの町ハンニバル に育ち米国文学のパイオニアとなったマークトェインを記念して命名された。自然豊かなところだ。 そもそもR66以南のミズーリー州から北部アーカンサスおよびカンサス州の南東の隅はThe Ozarkと呼ばれるアパラチア山脈とロッキー山脈の間に横たわる高原地帯で人はほとんど住んでいない。Ozarkの語源はフランス語のaux Arksだそうで、このあたりに多い石灰岩を雨水が穿って自然にできたアーチが見られることから派生したと言われる。

The Elbow Inn Bar & BBQに立ち寄る。ここは天井からブラが何千とぶら下がっている有名な店だ。店を訪れた女性が置いていったものだ。外の壁にはハーレイ・パーキング・オン リーというプレートが貼ってある。違反車はクラッシュされるとある。

Elbow Inn Bar & BBQにて



バーのお姉さんとおしゃべり 押川撮影

Devils Elbow(悪魔の肘)はElbow Inn Bar & BBQのすぐ先にある。



Devils Elbow



Devils Elbow


Big Piny Riverの「悪魔の肘」に1923年に架けられた橋は除籍。川の水はきれいだった。「悪魔の肘」とは川がペアピン状にまがっていて、ここに沢山の流木が 溜まって困ったからという。

Shot-24 Devils Elbow 1:14min.

「悪魔の肘」を過ぎるとTeardrop Rd.に入る。左側は Big Piny Riverが形成した渓谷を見下ろせる。この谷の南側は35,000人の兵士を養うFort Leonard Woodという米陸軍基地だ。Fort Leonard Woodは広大なマークトゥエイン・ナショナル・フォレストの中にある。

I-44を横切ってWaynesvilleに出るところを間違えて手前のState HwyZに入っている。

Shot-25 Teardrop Rd./State HwyZ 3:04min.

タルサの手前のレバノンにつく。マンガーモス・モーテル泊。(Hotel Serial No.516)マンガーモスの名前の由来は創業者夫婦の名字をつないだものだとい う。


マンガーモス・モーテル 安田撮影

第6日 197マイル

今日は私がレバノンから先導の番だが予習不足。ルート66を探して走れそうもないということで押川氏に先導を頼み、今日 もバイクであ る。天気は快晴、気温は低い。走行中You tube向けに数分のビデオを撮影する目的でヘルメットにビデオカメラ装着。しかしカメラのレンズの縦横セット忘れのために画面は横倒し。 Phillipsburg(Exit118)でR66がI-44を渡り、I-44の南側を西に向かうとき、ハーレー自体が画面に入り、太陽を背に走るとヘ ルメットの上に装着したカメラの影も映っている。

Shot-29 Phillipsburg 4:23min.

このあとRoute 66はMarshfieldを通過し、そこはローラーコースターのような道路のはずだが記憶がない。ConwayあたりでI44に入ったのかもしれない。 ヴィデオも10ショット撮影したが皆横倒しの映像だ。Springfieldで給油したとき、レンズの縦横セットを直した。下の写真には SpringfieldではR66がR744として表示されているのが見える。またヘルメットにビデオカメラが装着されているのがわかる。

Springfield 市内R744で ヘルメットにビデオカメラ装着走行 阪間撮影



Springfield 市内R744で 信号待ち 阪間撮影


Springfieldでは快晴のため、西南に向かうときレンズがハレーション をおこし、よいショットは撮影できなかった。

Shot-40 Springfield 2:00min.

スプリングフィールドからはしばらくI-44で時間を稼ぐ。Exit-18でI-44を降り、R-71を北上して Carthageに向かう。北向きのためレンズハレーションが発生しなかったため採用。

Shot-44 R-71/Carthage 3:36min.

給油のため、Carthage市内をさまよう。先導車以降、右折専用信号を無視している。

Shot-45 Fuelling in Carthage 6:31min.

西に向かいJoplinからカンザス州のGalenaの町に入る。1970年に閉鎖されたという。かっての石炭、銅、銀 の炭鉱町である。景色が緑から褐色になる。露天掘りではなく坑道式だったようだ。荒涼とした空地が見えた。めぼしい産業もないので、ルート66で街おこし をしているようだ。4 women on the route 66という1934年代のサービスステーションが再生されてい る。

Galenaにて

Galenaをでて次のBaxter SpringsではMarsh Rainbow Arch Bridgeを渡る。Marshは設計者の名前とか。

Marsh Rainbow Arch Bridge

ヴィニータに着く。これでオザークと言われる山岳地帯を出たことになる。のこりはオクラホマの平原だ。ヴィニータの South 7th Streetのホリデイ・イン泊。(Hotel Serial No.517)夕食はイタリアン・レストランでとる。


Vinitaの 街 押川撮影

第7日 192マイル

今日は私がワゴン車による先導役である。GPSは役にたたないので入力せず。EZ66 Guideを見るとホテルを出て1回左折すれば真っ直ぐと理解して出発。ところが1回左折して真っ直ぐ走行するとWilson Streetとの交差点でUS60 & OK66は左折の表示が出ている。おかしいと地図を見るために停車すると押川氏は左折し、皆ついて行ってしまう。実は押川氏が正しかったのだ が、その時点では真っ行くべきと思っているので皆を説得して町中を引き回してやはり私はまちがっていることが判明。あとでEZ66 Gideをみると、Vinitaにはもっと詳しい地図があって、これにはSouth 7th Streetが描いてある。これだと2回左折しなければならないわけだ。事前不勉強のたたりであった。

道は次第に西に曲がっている。Chelseaに入る とルート66と平行している鉄道に貨物列車がとおりかかっているのに遭遇。VerdigrisではMcClellan-Kerr Bridgeを渡る。



鉄道


McClellan-Kerr Bridge

Catoosaでは青いクジラを見る。ここからI-44でタルサをバイパス。Stroudで はRock Cafeで昼食をとる。Rock Cafeはルート66敷設工事で切り出した石灰石で建てられた。英国人の30人規模のハーレー大部隊がやってきた。ここでルート66の帽子(中国製)を買 う。

Blue Whale


Rock Cafe

ChandlerではMcJerry's Route 66 Galleryに立ち寄る。このガラリーのオーナーのJerry Mc Clanahanは画家であり、EZ66 Guideの著者である。

McJerry's Route 66 Gallery

ここで押川氏はEZ66 Guideの表紙を飾る絵を購入。マッククラナハンは独身だというが同じ敷地内に3つの家を所有し、芝を刈るのが趣味だということだった。

Jerry Mc Clanahanを囲んで

Arcadiaでは1898 Round Barnに立ち寄る。ほとんど廃屋になっていたのを大修理して観光スポットにしたようだ。

1898 Round Barnにて

ナビにホテルの住所を入力し、I-35からI-40に乗り換えて前回西にむかって出発したオクラ ホマ・シティーのサドルバック・ホテルまで走ってルート66完走となった。オクラ ホマ・シティー泊。(Hotel Serial No.518)夜は前回も訪問したキャトルメンズ・ステーキハウスに出かけフィレミニョンを楽しんだ。大変な人気の店で、予約は受 け付けず、先着順であるから1時間バーでビールを飲みながら待った。

サドルバック・ホテルのカラオケ・バーなるものに立ち寄るとアメリカ版カリオケで盛り上がっていた。ここでテキサス から来たらしい後家さんグループと意気投合してジルバを楽しんだ。日本はおかしな国でこのようなバーは風俗営業法違反で摘発されるのではないか?

カラオケバー  阪間撮影

ジルバ 押川撮 影


ア ディオス

第8日 210マイル

全員ホテルの前で記念撮影。

全 員集合

私がワゴン車で先導してダラスに向かう。朝いちばんでまたナビの指示が狂って、というかその解釈に判断が狂い、無駄な走 りを繰り返す。どうも起き抜けは頭のウォームアップに時間がかかる。

ようやくダラスに向かうR35で南下開始。前回はここをダラスからオクラホマシティーに向かったのだ。ムーアという場所 を通過するが、ここは2013/5/21に空前の規模の竜巻が西から東に向かって通過したところでPlaza Towers Elementary Schoolが完全に破壊され、大勢の児童がなくなった。

見おぼえのある街道を更に南下する。ナビに従ってダラスに入ったが、ここでワゴン車のレンタル契約書をよく読んでいな かったためのチョンボをする。米国でも財政難のためトールゲートが増えている。小さなタグをフロントガラスに張っていけば、トールゲートを通過するときカ メラが登録番号を認識してカードから引き落とす仕組みである。レンタカーにはこのタグを表示したり、しなかったりできる仕組みがある。ところがレンタルバ イクにはこのタグが用意されていないので、人間の居るゲートで一旦停止しなければならないわけだ。ところがバイク4台引き連れて通過してしまった。ゲート のカメラが番号を撮影しているため、いずれ 罰金がカードから引き落とされるだろう。通常料金は1.5ドル程度だが無断通過は15ドル程度らしい。

ダラスのイーグル・ライダーでバイク返却。

イーグル・ライ ダーにて

アーバイン泊。(Hotel Serial No.519

第9日 277マイル

押川運転のワゴン車でサン・アントニオに向かう。途中ウェイコ(Waco)、オースチン付 近を通過。周辺は農地だが渇水のためか、全て褐色である。オースチンは テキサス州の州都で立派な議会ドームがある。サンアントニオはア ラモ砦で有名な観光地である。ダウンタウンを流れる運河の周りには散策路が整備され有名ホテルとレストランが軒を連ねている。ここでボートツァーに参加。空軍の幼年学校の卒業式があったとか。大勢の卒業生と その母親たちが街にあふれていた。ここらへんは日本と変わらない風景だ。ジョン・ウェイン主演・監督映画「アラもの砦」を3回観たという徳山さんが主人公 のデイビー・クロケット大佐がメキシコ軍の馬を逃がすために泳いで渡った川がこの運河ではないかとしきりにつぶやく。

サンアントニオの ボートツァー

夜は川沿いのメキシコ料理店Casa Rioでテーブル脇で生演奏をしてもらいながらタコ料理とテキーラを楽しむ。



メキシコ料理店で 阪間撮影

その後、American Noizy Barを求め、メキシカンレストランで 教えてもらった”Coyote Ugly"という全米と東ヨーロッパに店を展開している店に出かけた。ロックの音楽にのってバーのテーブル上でホットパンツのお姉さん方のダンスを楽し む。熱い日でペットボトルの水と近くの酒店で購入したアルコール類をもっていたため、持ち込みと疑われたお酒類をカウンターで強制預かりになった。これは 帰る時に返してもらった。



コヨーテ・アグリー 坂間撮影


コヨーテ・アグリー 安田撮影

サンアントニオ泊。(Hotel Serial No.520

第10日 200マイル

朝一番でテキサスがメキシコから独立したきっかけとなるアラモの砦見物。

アラモの砦

アラモはスペインの布教所として1718年にサン・アン トニオ・デ・ベハル(後のテキサス州サンアントニオ)に建設された。19世紀初頭にスペイン軍の騎兵隊が駐屯し、その要塞を「アラモ」と呼んだ。メキシコ からの独立を画策していたアングロサクソン系テキサス住民は、サンアントニオ市を占領し独立の契機となる。当時はまだ教会の上部は完成しておらず、単なる 壁であった。全員玉砕したわけだが、女子供は生き残って、玉砕を語り伝える。徳山氏はデイビー・クロケット大佐がかぶっていたアライグマの縞模様のしっぽ のついたクロケット帽という帽子を買う。映画は観たことはないが、生真面目なトラビス大佐役は美形のローレンス・ハーヴェイが演じて軍人役がはまっている というし、ボウイ役のリチャード・ウィドマークはまさに西部劇役者として適役という。


クロケット帽

すばらしい警句をのこしてくれた71才のアンブロース・ビアスは 若き頃従軍した南北戦争の古戦場を歩き回ったあとこのサンアントニオに遊び、メキシコ独立戦争取材のために国境をこえたところで消息が途絶えた。

押川運転のワゴン車でヒュース トンに移動。ヒューストンに向かって疾走するハーレーに単騎騎乗する男一人。この体躯とハーレーデザインはマッチしている。米国では単独行が多い。


ヒューストンに 向かって疾走するハーレー

ヒューストンは過去20年間に西に向かって住宅地が成長し、ループの外側にベルトと呼ばれる環状線が建設されていた。す でにこのベルトの外に西に向かって巨大住宅地が開発され、売れているようだ。製造工場などいうものは見当たらないからこれすべて世界の石油ビジネスに関連 するビジネスマンンの住宅地ということになるのだろう。夜は千代田化工を引退後、日本のバルブメーカーの米国子会社の社長をされているO氏夫妻と近くの 中華屋で旧交を温める。

ヒューストン泊。(Hotel Serial No.521

第11日 

押川運転のワゴン車でNASAに向かう。ビジネス で訪問したとき、カミングズ氏に短時間案内してもらったことがあるが、今回は数時間かけて全てを見学した、やはりシャトルよりその前のアポロの時代のもの のほうが迫力がある。




アポロのブースターエンジン

引き続きガルベストン湾の出口の砂州上にあるリゾート地ガルベストン観光をする。ここでメキシコ湾を望む。ハーレー・ダビッドソンの正しい乗り方をしてい るカップルが居たが、その年齢差も正しいと感じた。



タンデム・ライド 安田撮影

ガルベストン湾の最奥地La Porteに向かう。途中、いくつかのリファイナリーの脇を通るが、前と変わったところがある。それはコンバインドサイクルの自家発電機をいずれも3基 もっていることであった。

San Jacinto Monumentの近くにある戦艦テキサスを参観。日本は横須賀に三笠が保管されているが水には浮いていない。

San Jacinto Monumentはアラモの戦いやゴリアドの虐殺で兵員が減少していたテキサス独立軍の最高司令官サミュエル・ヒューストンが追撃するメキシコ軍の大統領 サンタ・アナが一兵卒に化けてサン・ジャシントに隠れていることを知り、奇襲でサンタ・アナ大統領をとらえた場所である。サンタ・アナは自らの命と引き換 えにテキサス暫定政府に支配権を譲渡し、軍隊をリオ・グランデ川以南へ引き上げることを承諾。テキサス共和国は正式にメキシコから独立した記念すべき場所 という。



戦 艦テキサス


San Jacinto Monument

Monument InnはSan Jacinto Monumentを過ぎて更に進んだ岬の突端にある。近くに住む元UCC社員だったセラノ氏と落ち合って海産料理を一緒に楽しむ。



モニュメント・インで

ヒューストン泊。

第12日 

ガレリアでウインドウ・ショッピング。かっては1本のアーケードだったのは十文字になり。活気があった。前回の2008年に109円であっ たドルが今回は80円でなにもかも安く感じる。ここ で中国製のカメラ搭載無線操縦同軸反転ローターヘリを購入。これを飛ばしてビデオとスティール写真を撮影するのが目的。ただ操縦はかなり練習しないと墜 落して壊れてしまう。リチウム・イオン電池が動力源でマイクロSDカードに映像を記録する。ガレリアは空調が効き過ぎているため、頻尿に悩む隊員も出現。



カメラ搭載無線操縦同軸反転ローターヘリ

ワゴン車レンタルバック。O氏宅訪問。ついで千代田ヒューストンオフィス表敬訪問。昔はここは米国品の調達拠点であったが、今では米国から買うものはなく なり、規模を縮小してメジャーオイル相手の営業拠点となっている。ここでオバマ大統領と記念撮影。



オバマ大統領と

Taste of Texasで6オンスのセンターカット・フィレミニョンを楽しむ。35$である。14オンスは55ドルであるがわれわれの腹に収まるのは6オンスで十 分。事前に生肉の塊を選び、そこに金属のタグをつけて焼いてもらうと半分の大きさになる。サイド・オーダーにホウレンソウンのソテーを選んだがこれがまた 絶品であった。とても美味で大満足。アンガス・ビーフのサーロインステーキは脂身が多く、大きいばかりで残すことになる。



Taste of Texasにて

ヒューストン泊。

第13日 

タクシーで空港に向かう。道路は通勤車で大渋滞。地下鉄なしにここまで巨大都市化したアメリカ型都市も限界が見えてきたと感ずる。石油がな くなったらとたんにすめたものではなくなる。電気自動車が走り回るというのもタイヤの損失が大きく無理だろう。やはりロンドン、パリ、東京型の鉄路の都市 が有利となるのではと愚考する。

2週間の旅行中、グーグル・アンドロイド経由で日経を読んでいていて(通信料1.8万円)世の中の動きを追って いたつもりだが、ヒューストン国際空港に着いたとき、書店にあったEconomist誌の表紙をみて衝撃をうけ、これを買い求めて夢中で読んだ。表紙に尖 閣列島が写っていてその上に"Could China and Japan really go to war over these"とキャプションがあり、手前のカメが"Sadly, Yes"とつぶやいたためである。

ヒューストン発UA-007便で帰国。

第14日 

アリューシャンと北海道東方沖にある低気圧にもまれて昼食をとりそこなった。成田でスシを摂って散会。

後日談

米国旅行中ににわかに緊迫化した日中関係とフェルミのシカゴ・パイルー1についてNHKのディレクターをしていた友人から昔彼が編集したNHK特集の DVDを送ってきた。これを見て現在の尖閣問題は根 が深いとさとった次第である。多くの企業が中国の安い賃金を期待して工場を持ち、中国市場に期待を膨らませていたが、今では撤退しようとあがいている。な ぜそうなったのか、堀居氏は考察をよせた。

引退後、哲学者国分功一郎の 指摘の通り、退屈と気晴らしが入り混じった日常を生きていた。たまたま、原発事故は、ものを考え始めさせ、成果として本を1冊書いた。これを国 分功一郎は「動 物になること」と呼ぶ。今回のバイク旅も再び「動 物になること」を強いられた。

ルート66完走までの主要な事件は10件あった。その全貌は下記の通りである。

1. キングマン・ハーレー盗難事件
2. キ ングマン50マイル逆走事件
3. モ ントレー集団迷子事件
4. ア マリロ・パンク事件
5. フ ラグスタッフ交通違反事件
6. シ カゴ・レンタカー移動事件
7. ポ ンティアック、レバノン市中引き回し事件
8. ダラス有料ゲート集団突破事件
9. ヒューストン頻尿事件
10.ヒュー ストン・パスポート紛失事件

は 当該報告書を参照されたし。

ホテルの代金はすべてカードで引き落とされたのをみると円換算で3,400円から7,000円代が多い。日本こくない旅行よりも安く上がっている。彼らも コストダウンの努力はしていていまだにブラウン管式TVもあった。

September 5, 2012

Rev. October 29, 2018


トップページへ